四節 教師と他校の学生と 森下公男の場合①


あれから数えて、まだ1週間と過ぎていないことに、恐ろしさを感じる。


今いる自校の来賓室には、トロフィーや盾の入った大型のガラスケースに、ゆったりとしすぎるビニル製の黒いソファーのほかは、これといった特筆すべきものは存在しない。どの教室にもある、備え付けの丸い電波時計を見上げ、壁伝いに左方下のカレンダーには、デカデカとした山の写真。差しずめ晩秋の日暮といったところだろう、赤い雪山だ。


私をこんなことに巻き込んだ、あの”イカれた”女子学生がやってきたのが、金曜日の朝だった。思い出しても頭痛がする。それからこの事件の関係者、そして関連イベントとごたごたに、自由と時間の一切を奪われ、消え去った週末を悔いる暇もなく、今日は水曜日である。


事件の起きた二日目には、まだ私にも、怒る気力があった。


だから、すべては被害を受けた私次第の親告罪とはいえ、軽犯罪に手を染めた彼女の両親に対して、当然の憤りと、然るべき今後の対応如何について、長々と電話越しに弁舌を垂れることもした。


もちろん、お嬢様学校に娘を通わせるような父母だから、彼らの逆襲も考慮に入れてのことだ。そもそも分は、私の方にあると確信していた。事件の朝、私の信書を勝手に開封した正体不明の女子学生は、最後に見たこともないような黄色の封筒を取り上げ、中に書いてあることを読み上げるよう、私に要求した。



「これ、なんて書いてあるの?」


まるで詰問するような低い声の調子は、脅しのようにも聞こえた。


「君ね、まさか分っていない訳ではないだろうが、自分が」


そう言いつつ私は、中身を開封され、捨て置かれた郵便物の中に、自宅の予備のカギを探す。どこだ?


「もしかしてこれ、探してます?」


女学生は立ち上がり、まるで見下すような表情で、スカートのポケットから私の家のカギを取り出す。


「ちょ」


手を伸ばしかけて、理性を呼び戻す。いけない。こういう子ども相手に、どういう態度が望ましいかなんて、馬鹿でもわかる。


「わかった。とりあえずは、君の言い分を聴こう。言っておくが私は教師だ。君がどこの学校に通っているかも、名前も、確認するし、親御さんとも話をさせてもらう。いいね」


彼女は、まるで人を射殺すようなきつい顰め面をしつつも、うなずく。そして、鍵と交換だといわんばかりの態度で、ずいとまた黄色い封筒を差し出す。


彼女の目的が何であるのか。それがこの封筒だけなら、きっとこれきりのことの筈だと言い聞かせる。だが、その封筒には切手もなく、当然、消印もない。ただ歪な文字で、『森下公男様 親展』と書かれていた。


私はピンときた。もしかしてこの子は、自分で書いた手紙を私の郵便箱に投げ込んだはいいが、読んでもらえるか心配で、直接確認する、という暴挙に出たのではないか。中身はラブレター、まさか、そんなことはあるまい。


私は一人で自分の思い付きに苦笑しつつ、中から一枚、白いカードを引き出した。裏返すと、そこにはこう書かれてあった。



『近日、ご出発の件につき、説明に伺います。なお、貴方に拒否権はありませんのでご容赦を。なお、現在お住いのご住所確認のため、手紙をお送りしております。転居等、住処を他へ移される場合は、こちらへfaxにて、ご連絡ください。Fax no.03-xxx-xxxx』


私はぽかんとして、文面をもう一度、指でなぞる。


手書きの表に対して、中身は旧式のタイプで打たれたような、凹凸と風合いのあるところから、フィクションとはいえ、犯罪予告だとか、そういう趣向に沿ったもののように思えた。


これをこんな女子学生が?と思いつつ、私は目の前に立つ、16、7の子どもを見つめる。


彼女は私の手元のカードを固視し、唇を切りそうな力で、噛み込んでいる。俯き加減でいるのを見ると、まぁ、きれいな顔立ちをしている。そう、子どもにしては大人びた顔立ちをしている。私は、頭を抱えて、彼女に言った。


「君ね、こういう悪ふざけをしていい年齢ではないね。学生証を出しなさい。親御さんに連絡する」


「だからなんて…」


彼女はさっと顔を上げ、白いカードを指さし、読め、というジェスチャーをしてくる。わたしは呆れて言い返す。


「えぇ、読みましたよ。当然、理解はできません。ここにfax no.まで書いてあるけど、これはご自宅のナンバーか、それとも出鱈目かな? まぁいいがね」


「ファックス…?」


彼女はそう言って、私の手元からカードをひったくると、くるくると裏表を逆にしたり、太陽にすかしたり、目を細めたりして、何かを確認している。なんだ?


「とりあえず返しなさい。証拠品だから」


私がそう言うと、彼女は腹立たしそうにカードと、家のカギを私の掌に押し付け、くるりと方向転換をする。私は、「ほら来た」と思い、彼女の肩を後ろから掴んで引き留める。もちろん、非常事態だからだ。


「学生証を」


「ふん!」


激しく肩をふられたが、そのまま走り去るのではなく、素直に地味な革財布を取り出し、学生証を私に預けたところを見ると、まだ、頭はまともかもしれない。


「風波ミカ ○○学園女子大学付属高等学校」



私の制服の読みは当たりだった。


時間が時間なのと、一気に問題解決のめどがたった疲れで、私はおいやるようにさっさとその女子学生に身分証を返して家に帰すと、自宅のカギを開けて、裸足の足を洗いつつ、朝のシャワーを浴びた。


学校名と名前、そして顔写真から、その日の昼を回るころには彼女の住所と保護者の連絡先を得ていた。




「おやおや…」


事は教頭への相談から始まった。


「風波さんね。そうね、他校の女子生徒…ですか。困りましたね」


明らかに、対象が女子生徒であるから、というだけではない顔をした教頭は、デスクトップ越しに、私の顔を何度か見上げ、なんとも気弱な笑みを浮かべる。


「実害はない…それでいいんじゃないですかね」


要は私に黙っていろ、と言う指示だった。私もバカではない。もし教員としての私の立場が危うくなるような相手なら、学校判断に依るしかない。実害はない?まさか、十分迷惑ではあった。気味が悪いのは、結局、あの女子生徒が何をしようとしたのか、理由がわからないからだ。興奮して追い返したはいいが、動機を聞き出さなかったことを、一番後悔している。


「教頭がそう仰るなら」


私の言葉に、教頭はあからさまにホッとした顔をし、私はこれで一つ貸しができたのだと納得した、はずだった。


土曜日。


午前の授業を終え、私は強張った背中をさすりながら、廊下を歩いていた。昨日妙なことに振り回されたせいか、苛立たしいことに昨晩の眠りが浅かった。


「森下君、いいかね」


背後から突然、張りのある、異様に明るい声が背中を突いた。私はハッとし、気を取り直して振り返る。


「校長、お疲れ様です」


ちなみに校長は、私と歳があまり変わらない。だが、専門が英語で、海外暮らしが長いとか、よくある外部からの引き抜き人材だ。

いまでこそ多少地味にはなったが、それでも派手なネクタイと、黒々と染め直された髪のかきあげ加減は、校長というより外国車の販売員、やり手の営業マンという外見を気にもせず続けている。


「いやぁ、なんか事件があったんだって? それも自宅で? 生徒さんの親御さんから連絡があってね。ちょっと謝罪したいからって、電話を…ね。今から大丈夫かな?」


「は?」


ぱんぱんと、私の肩を叩きながら、なんだこのボディタッチはと、私は引いた。これまでまともに校長と話したことはないが、このムカつく軽さだけは、どうにかならないものかと、そのギラついた頬の照りを眺めた。


「あれ?人違いかな…森下君?だよね。えっと、あれ…僕まちがってる?」


「いいえ、森下は私ですが」


人の顔もまともに覚えていない校長を前に、私はしらばっくれる理由を失った。


「だよねー!良かった。それなら、さぁさぁ僕の部屋へ」


これから、ささやかな昼食をとろうとしている教員を、強引に自室に通すと、校長はいそいそと据え置きの電話で、どこかへ電話を掛ける。


「あー、お世話になっております。私立△△高校の校長の…えぇ、そうです。その件で森下をえー、はい、本人が来ておりますので、少々お待ちください」


話しながらも、しきりにネクタイピンをいじっているところから、緊張が見える。私からすれば、既に”終わった話”。誰が追及したいと言った?教頭か?そこまで私に貸しを作るのが嫌か?


冗談じゃない。謝罪と称して何を言われるか、わかったもんじゃない。


電話を保留にして、校長がふーっと、長く息を吐く。そして私の顔を見ると、ぱっと満面の笑みを浮かべた。


「いいかね、せっかくのお休みを、君に電話するためだけに、ご自宅にいらっしゃるそうだ。どうか失礼のないように頼むよ。君は知らないかもしれないが、風波さんは、教育関係のその…偉い方だから」


最後の言葉は余計だった。私の腹の虫を完全に叩き起こした。


「もしもし、わたくしが森下ですが」


それからあとは、詳しく説明するまでもない。

校長のテンション同様、まったく悪びれた様子の無い父親は、電話口で、自身もそうとう娘に手を焼いていること、それが今回、私という「他人」に及んだことについて、まったく「思いもよらず」、困惑していること、等々。権力を握っているお方は、よくもこんな場面で、滔々と好きなことをしゃべるものだと呆れた私が、その調子をぶち壊す勢いで、何を言ったか。


横で聞いていた校長は青ざめ、なんとかして受話器を私から取り上げようとしたし、応援とばかりに教頭までやってきて、身振り手振りで近くの椅子を指し、とりあえず座るよう、促したりもした。私は当然、そのどれもを無視した。


「いいえ、結構ですので。失礼致します」


言いたいことをすべて言いつくし、受話器をガチャンと置くと、私は校長に向かってこう言い放った。


「私に直接会って、話がしたいそうです。水曜日が宜しいようで、校長も同席されますかと、尋ねておいででした」


「そ、そう。あの…それで風波さんは?」


私は、舌打ちをぐっとこらえて、言葉を紡いだ。


「まさか、被害を受けたのは私の方ですよ。あちらは好きで謝罪に来られるんです」


嘘ではない。ただ、こんなに食い下がられるのは、親子そろって、まるでストーカーじみていると、我が身の不運を呪うしかない。嫌な予感しかなかった。


そして水曜日。風波が、私に会いにやって来る。



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