三節 森下公男の健康的生活と侵入者?
歌い疲れて傷むのが喉ではなく、肩だというのが癪に障る。ちかちかと光る文字を追いかけて、目も限界だ。鼻も詰まっていたせいで、塩分過多のサイドオーダーは、殊の外しょっぱく感じた。やめよう、趣味だか分からんような習慣はやめよう。
夕食時を過ぎても人通りの多い、商店街を抜ける。人家の並ぶ小道に入ると、盗難避けの仕掛けでいきなり明かりが点くだの、防犯カメラのレンズが顔認証するだの、最近の設備は、ただの通行人にさえ優しくはない。私の住まいは、そんな通りを抜けて、二車線の大通りを超えたところにある、独居者限定の分譲マンションの一室だ。
公立高校からはじめて、生徒数の減少による人員整理を理由に、転職。運良く私立中学へ非常勤講師の口を得て、塾講師を掛け持ち。正直、このころは異様な忙しさに気が変になりかけ、教職の道を捨てるか悩んで、一般企業も受けたが、それほど世間は甘くない。
非常勤の雇用期間を過ぎるころ、誰だか生徒の強い要望があったとかで、校長に呼ばれて面接のようなものを受けた。しかる後、同系の高校へ専任となり、もういいだろうと、それほど関心もなく貯め続けた貯蓄を頭金に10年ローンを組んだ。小さくとも私の帰り着く城だ。
人目もはばからずエレベーターホールで欠伸をすると、ガタンと音がして、後ろの警備員室の扉が開く。何だろうと、降りてきたエレベータに乗り込みがてら、振り返ると、疲れた目には黒い色にしか見えないプリーツスカートに、長い脚。
二駅先の駅近、閑静な好立地に佇む、全国レベルで名の知れたお嬢様学校の制服の女子生徒、のはずだ。彼女が一人出てきて、そのまま帰っていくともなしに身を翻し、後に続いて現れた警備員に、なにやら興奮した口調で説明をしているようだった。長い髪がばらばらと横に動くのが見えたから相当である。
ドアが閉まったので話の内容は拾えなかったが、どうも穏やかではない。そもそもあんな子供がここに住んでいるはずもなく、見かけた覚えもない上、この遅い時間だ。『妙なものを見たな』と瞼を擦り、また欠伸をこしらえた。制服の子どもを見るのは、仕事場だけで結構だ。
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14階の1415号室。黒い鋼鉄製の扉を開けると、玄関先に鎮座している観葉植物が暗がりから出迎える。引っ越し祝いだとかなんとか言って、母親が送ってきたのは、かなり鬱陶しい大きさの樹木、と呼べる鉢植えだった。白い幹に濃い緑の葉が茂り、そのコントラストは悪くはないと思っている。
スーツに消臭スプレーを万遍なくふりかけ、防虫効果のある木材のハンガーに掛ける。ネクタイを外し、どうするか迷ったが、クリーニングに出す予定の紙袋に投げ入れた。
ワイシャツと下着類は分類かごに入れ、今日は3日分のワイシャツを、ドラム式の洗濯機に入れる。正直、洗い物は好きな方だ。流水音とモーター音が規則的で心地いい。だが、そうそう毎日回すほどの洗濯物は出ないし、不経済なことをする欲求もない。ゆるい回転をはじめた「友人」を見つめ、風呂場に進む。
湯を溜めながら、石鹸を泡立て、念入りに顔と身体を洗う。若い頃よりボリュームの落ちた髪は、まだなんとか黒いが、こしは落ちた。おかげで女もののシャンプーのお世話になっている。はじめは居もしない妻に頼まれたような顔をして薬局で買っていたが、いまはネット通販だ。本当に便利な世の中だ。買い物で受ける恥は、すべからく回避可能になってしまっている。
風呂上がりに頭を拭きつつ、水を一杯飲む。缶ビールをあおる習慣は2年前にやめた。腹周りが気になり、ランニングをするくらいなら、こっちだろうという選択だ。気のせいかそれから身体が軽くなった気もする。肩は万年四十肩で、良くなりはしない。最近は、肘や膝関節まで鳴るようになってきて、そろそろゼラチン剤でも飲もうかと考えている。
夜用の暗い室内灯に切り替えながら、寝室までやってくる。
『愛しています、愛してるんです』
ラジオコンポに電源を入れると、突然、謎の告白を発した。
『ユリエは身を震わせながら、トモヤの枕元に立った。トモヤの顔は青白く、生気のない唇からは、微かに声がこぼれている。ユリエは耳を寄せ、彼の今際の言葉を聞き取ろうとする…』
私は思わずチャンネルをひねる。寝る前に怪奇物なんて趣味の悪い。砂嵐の雑音の間から何の冗談か、季節外れの演歌が流れてくる。変だ。チャンネルの周波数にしか焦点が定まらないはずだが、今日は調子が悪いらしい。いつものように目覚まし代わりのアラーム設定をして、電源を落とす。
日課の腹筋と腕立て、ダンベル体操をし、深呼吸で息を整える。何より健康が一番だ。基本、教員の仕事は、立ち仕事とデスクワークのしんどいところの寄せ集めだ。疲労も蓄積すれば、喋るのだって面倒になる日がある。記憶力が鈍っても忌々しいし、生徒の目があるので、いい加減な態度も命取りだ。
子どもになめられないような振る舞いの基礎は生来のものだとしても、仕事で教える側の人間になってまで、まるで監視されているのはこっちのような気がしている。
「はっ」
首をまわして、気合を入れる。テスト後の気の緩みきったガキどもに、本分を忘れないだけの量の課題を用意してやらねばなるまい。
ベッドに横たわり、目をつぶるとまだカラオケの余韻でメロディーが頭の中を回る。それでも意識は少しずつ遠のいていく。まるで眠りの奥底から、誰かに名前を呼ばれているような気がして、ひどく甘ったるい睡魔の中に落ちていった。
久しぶりに見た夢の中で、私はなぜか月面に立ち、地球を見ていた。よくニュースで目にするような、あの青い地球である。
自分の姿は、上も下もパジャマのまま、裸足に当たる地面が、ひどく柔らかく擦れるのがくすぐったいような気がして、三半規管がふわふわとしている。たしかに立っているのに、立っていないような、まるで浮かんでいるような感じだった。
“――さん”
高い声で呼ばれたような気がして、笑顔で振り返る。なぜそこに知り合いなど居るだろうか。しかし私は、間違いなく"ひどく親しい誰か"を求めて振り返ったのだ。
彼女の顔は、大きすぎる太陽光の中に白んで消えて見えたが、ひどく満たされた気分だった。いったい誰なのだろうか。誰であるはずもないのに。
一日の始まりは、いつもラジオが鳴りだす数分前の覚醒の中に紛れている。窓から雀の声が聞こえ、眩しすぎない日光が、無地のカーテンの隙間から布団の端を照らしている。まるで夢の中の方が明るかった為に、部屋の中に落ちた自然な暗がりにすっかり安堵してしまった。
『ピンポーン』
ゆっくりと吐いていた息が思わず止まる。自分の頭と耳を疑った。隣の家でもなく、空耳でもなく、自分の家のインターフォンが鳴っている。来客?まさか。いったい何時だと思っている? ラジオを振り返る。朝の6時前だ。いたずら目的以外にいったい何だというのか。
『ピン、ポーン』
それでも、今度はやや長めにおされたインターフォンが、間違いなくそこに意思を持った人間がいることを知らせている。私は逡巡した。
個人住まいのマンションではあるが、管理組合もあるし、通いの管理人も見回り程度はする。そういうあたりだろうか。もしくは、水道だとか、ガスだとか、そういうライフラインの故障で私の家の問題を見つけたい、階下の住人だろうか。
そこまで思い至って、残念なことに階下の住人を知らないことに気付く。知らないということは、そう、ひどく嫌な状況だ。信用も何もあったもんじゃない。
私はのっそりとベッドから立ち上がり、自室のドアを開けて、玄関口を見やる。ドアの左隣に設置された郵便受けには、すでに分厚い新聞の束。いつもならこれを抜いて、リビングにまっすぐ向かうのに、今日は怖くてそれが出来ない。憂鬱な気分で居間の引き戸を開け、インターフォンに出る。
「はい、何でしょう」
起き抜けの掠れ声だ。縺れた舌と喉のせいで言葉が絡む。眉間を揉みながら、そこに映った玄関先の来訪者に、焦点を当てる。黒い髪、そして小さな頭。
カメラがかなり上方に取り付けてあり、映像はいつも見下ろす感じになる。画面をこすっても映像が鮮明になるわけでもないのだが、思わず今回もそれをする。
「もしもし?」
いらだち紛れに訊きなおすと、画像の人物がぱっと、カメラに向かって顔を上げた。突然の変化に、心臓がどきりと不整脈を打つ。そして、そこにいるのがどうやら若い女らしいこと、いや、首元の赤い、どうやらリボンを見るに、制服の若い女だと分かると、みるみる肝が冷えた。『悪夢だ』と思ったが、『これは現実だ」と何とか気を取り直す。
「ゴホッ、すみませんが、何の御用で」
すっかり目が覚め、代わりに襲ってきた吐き気を抑えて、もう一度尋ねた。
それはガチャガチャという、耳に障る音が異常事態を知らせ、ついでにインターフォンを握る私が走らせた視線の先、郵便受けから新聞他、郵便物が吸い込まれるように消えたことで確実であった。
慌てた私が玄関に辿りつくや否や、最後に白い手が、同じく白く光るスリットからぬっと現れ、かの指がステンレス製の箱の内側を、まるで撫でる様に動くのを見たことで、否定しようのない非常事態となっていた。
「おい!おいおいおいっ!」
オートロックの扉が、こんなにも重いものだと感じた日は、他に無かっただろう。裸足で飛び出た私の前には、あろうことか地べたの廊下に這いつくばり、私の郵便物の中身を検めている、女子、学生が一人いたのだった。
「君ね!いったい何を考えて人の…」
途端に私は、現実認識に引き戻される。もし、ここに何も知らない赤の他人が現れたら、この状況をどう把握するだろうか。
一気にふき出た汗を、拭う余裕もない。扉は静かに、まるで厳かな着地を重んじる様に閉まった。
彼女は、いや、たったいま、私の郵便物を抜き去ったかどで”要相談”の子どもは、耳に長い髪をかき上げ、何の騒ぎか、といった様子で、私の新しい新聞をめくる。そして、『黙っていろ』と言わんばかりの強烈な一瞥を私にくれると、至極当然のことをしているとばかりに、私宛の郵便物を一つずつ、丁寧に開封していくのだった。
その手元を見れば、どこから持ち込んだ物やら、上等なペーパーナイフを握っている。怒りよりも、ここに居るのは恐怖を感じるべき対象なのかもしれない。私は硬直したまま、彼女の作業を、ただただ、見守るしかなかった。
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