森下公男という男

現実と乖離した世界を、スリルのうちに楽しむなんていう中途半端な緩さは、この話には無いからだ。


なによりエス・エフは設定が多すぎる。設定を読者が飲み込んだ頃には、話が終わっているというのは最悪だ。忍耐の無い読者を疲れさせすぎる。


それに小説を書く人口が増加した現在、設定という設定は古くなった。何を言っても耳にタコである。だったら、こうしよう。

 

その答えとして私はこの小説を書いた。


経済が世の大地となり、人々は法を憎む。国家は愛国心を強要し、人々は学ぶ意思を欠いてもっぱら遊んでいる。


希望を持つべき子どもたちは、大人と同じようにニヒリストを気取り、大人顔負けの知恵で生きようとする。


大人たちは専ら甘えられる場所に、そして制度に

国民全員で、最後に我慢をするのは誰だと、大掛かりな椅子取りゲームに夢中なのだ。


「自分は幸せでも他人が幸せでなければ、自分が幸せになってはいけないのでは?」と思うような人は、まだいるだろうか。


個人主義の悪辣な解釈が人口に膾炙して、自分以外の人間=他人が多すぎる?


だから、そのすべてに平等な関心を払うのは自殺行為だとでも?


かといって良心的なエゴイストでもなく、自分の身さえゼロ価値だから、他人の価値なんてマイナス?


「自分なんか消えてもいいのでは?」という問いかけに、自分自身で「―その通り」と応えるのか?


生きている間に、自分と同じような人が他にいると分かったら、自己の存在意義はその人間に仮託して、いっそ破滅を選ぶか。


これぞ「公共心」。結局私たちは、社会の中での確たる位置を欲しているだけなのだ。


価値多元主義、通訳不可能な価値について。


例えば、ある二つの選択肢の良しあしを決められなくとも、同じ価値だとも言えないとき、片方を選べば、もう片方は実行できないとしたら?


私たちは選択肢を多く与えられても、この命の短さと、社会的、経済的制約のせいで魅力的な選択肢を捨てるばっかりだ。捨てるくらいなら貰わない方が幸せだったかもしれない。


楽観的な人は言うだろう、

『我々は浮薄な存在で流木のように、社会という大海を彷徨っているだけだ』と。


悲観的な人は言うだろう、

『我々は牢獄につながれた冤罪人だ』と。


あぁ、自分はどういう人間で、いったい何をすればよいのだろう。何ができるというのだろう。誰か教えてくれればなあ。


でもその意見をきくかどうかは、まず聞いてから決めよう。


と、いった世の中が、この小説の背景である。科学的手法に血肉を与えても人間を生み出すことは出来ないのだよと、空からの声が聞こえた―。


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