言ノ葉焚キ【短編集】
黒渦ネスト
ティースプーンと夜
「中学生かい、君」
「……」
そらきた。
オトナの余計なお世話。
心の中でだけ思いっきりしかめっ面をして、チサトは玩んでいたティースプーンをカップソーサーに戻した。カチャンという硬い音が、静かなカフェの壁に当たって落ちる。
「こんな時間にこんなところにいて、親御さんが心配するよ」
「……あたし、中学生じゃありませんから」
「いやあ、だからいいって訳でもないだろう? ほら見て、あと何分かで日付が変わる」
視界の隅で、カウンターの中のマスターがクイクイと壁の時計を指している。
「知ってます。ってか、ほっといてください」
我ながら見事なぶっきらぼう。でも、それしか言いようがないし、言いたいこともない。
チサトはテーブルにわざと音を立てて肘をつくと頬を乗せ、斜めになった視界を見つめた。
オレンジ色を帯びた貧弱な明かりのせいで、調度が茶系で統一された喫茶店の中は余計に暗く感じる。
「ああ……ほっといてあげたいのはやまやまなんだけど、そろそろ閉める時間なんだよなぁ」
急に困ったような声を出され、チサトは溜息をついた勢いのままに大きく息を吸い、重たい頭を上げた。目が合ったマスターが、いたずらっぽくニッと歯を見せる。
ちょっと拍子抜けして、チサトはカラカラに乾いたティーカップに目を戻すついでにチラリと古ぼけた掛け時計を確かめる。
もうすぐ終バスの時間だ。
あぁあ。帰ったら寝て、起きて、そしたらまたあのダルい時間がくるんだ。
明日は校門まで行けるかなぁ。
やっぱムリかなぁ。
ま、行ったところでどうせ卒業式の練習とかだろうし、別にいっか。明日行けなかったところで、ここ何ヶ月の欠席がひとつ増えるだけだ。
「また明日来てよ。朝は8時から開いてるから」
「…………」
明日、か。
「あ、でもなぁ、9時まわると近所のおばちゃん連中……ああ失敬、《お姉さま方》とコーヒー通のじいちゃんが来ちゃう……ああいやいや、《いらっしゃる》から、要注意ね」
マスターは喋り続ける。陽気なその声音が、チサトのセミロングの茶髪をかき分けて耳に入ってくる。
ティーポットとミルクピッチャーを棚の最上段に楽々と片付けていく後ろ姿。
今気付いたけど、すごい背高いな……マスター。そういや、ここ数日で何回か来てただけで、マトモに見てなかったな。
チサトの、わずかに開いた唇から、小さな声が滑り出た。
「……あたし、迷惑ですか」
「いやぁ、大事なお客さまだよ。何で?」
間髪入れず返ってくるコトバ。
そういえば親じゃない人と話したのって、いつぶりだろう。いや、話せたのって、いつぶりだろう。
「だいたい何時間も座ってるだけのガキってウザいでしょ、あたし以外誰もいないのに……」
「誰もいなかったら店潰れるって。だからガキでも歓迎するの。そうそう、開店すぐはもっと誰もいないから大歓迎! ミルクティーとかサービスしちゃおう!」
「……キャラメルマキアートがいい」
うわ、すぐナメられたし。
あたしは軽い自虐のつもりで言ったの。オトナが思うほどガキじゃない。そんな子供じみたもので懐柔されちゃたまんない。
チサトは思わず舌打ちした。
「うっ……よし。キャラメルマキアート、追加ショットもつけちゃうから、また明日。さ、もう帰ろう?」
「……ってか、あたし明日来るって言った覚えないですし。これ、今日のミルクティー代350円」
小銭と伝票をレジの脇に放り出し小さなカバンを担ぐと、チサトはカフェの分厚い扉に手をかけた。
肩で体当たりをするように扉を押すと、開いていく隙間から冷たい風が勢いよく吹き込んで来る。
カツカツと足音を立てて近づいたマスターが、チサトの頭のだいぶ上に手を当てて扉を押してくれるのがわかる。
重かった扉が、すっと軽くなる。
ドアチャイムが中途半端にカラン、カン、と鳴った。
外に出たチサトが振り向くと、マスターの笑顔が閉まっていく扉で隠れるところだった。
扉の表には〈CLOSED〉の文字と、営業時間が記された年季の入った木札。
「なんだ……朝って9時からなんじゃん」
桜が咲き始めた夜道を、扉の脇の窓から漏れた光がふわりと覆っている。オレンジ色を帯びた、柔らかな光。
その先に停まっていたバスに駆け寄り、チサトはステップを上がった。子ども料金と告げて料金箱に小銭を放り込み、一瞬驚く運転手を無視し、大股に歩いて一番後ろの席に座る。
あと数日すれば、学校が変わるんだ。行けなくなってしまった小学校から、通うことを想像したこともない中学校へ。
明日……朝8時、か。
カフェを出たらどこへ行こうかな。
キャラメルマキアート、飲んでから決めようか。
バスが走り出す。
チサトは不規則な揺れに身を委ね、目を閉じた。
〈終〉
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