三.月の魚をつかまえる

「春の宵は、月の海を魚の群れが渡っていくんだ。そんなの一匹くらいとったって、ばれやしない。ばれやしない……」

 

 砂場に、黄色の小さなバケツが転がっていました。水のみ場で、それ一杯に水を張りました。

 

「こんなので?」

「ふふふ。まあ見てなって」

 

 女の子は踊るようにして、すべり台の階段をのぼっていきます。

 

「あなたも、おいでよ?」

 

 すべり台は、工場の男三人分くらいの背たけはありました。

 てっぺんからは、そろそろ明かりの消え始めた工場も、夕餉の明かりにゆれる家々も見わたせます。そのてっぺんの、まん中あたりに黄色いバケツを置いて、女の子は真剣なまなざしで夜空をみすえました。

 

「今に来る……」

 

 見あげると、ときどき、黒い雲が星を見え隠ししながら夜空を流れていきます。

 

「あたしが月にもどるためなのだもの。月の海の神さまだって、きっと見逃してくれるわ。一匹くらいとったって、ばれやしない。ばれやしない……」

 

 女の子はひとりごとのようにつぶやきます。

 

 やがて、流れの早い雲の数が増えてきました。その流れの後ろに、どんよりとした重い感じのする雲の一団がやってきています。

 月はまだ雲に隠れることなく、明るく周囲を照らしています。

 

 五分……? 十五分くらい経ったでしょうか?

 バケツには、もちろん水がゆれているだけで、何も……

 男の子がふと、雲が迫っている月のあたりを見たとき、月影に、細い黒い影がさっとかさなりました。一瞬。そして、また……

 

「群れが、来た。それ今だ――」

「あっ――?」

 

 男の子は、最初、女の子がバケツの水をぶっちゃけたように見えました。

 

 ちゃぽん、と一回だけ水しぶきがたって、見るともうバケツのなかの水に、ちゃんと魚はいたのです。

 一瞬のことでした。

 水がいきおいよくバケツから飛び出したと思ったのは、月から光が降り注いだのでした。

 

 今、光は、バケツのなかに静かにおさまって、水はほとんど金色のように輝いています。

 

「ふふ」

「本当だ。月の魚が、とれた」

「あたしのこと、うそ言ってると思ってた?」

 

 男の子は、本当に心底からの驚きと、よくわからない喜びに似た感情でいっぱいでした。

 女の子は、とても嬉しそうでした。

 月が、今遅れてやってきた大きな雲にすっぽりと隠れました。

 

 魚は、見たところ、背びれもあり、尾びれも胸びれもちゃんとあり、えらで呼吸もしているし、川にいるふつうの魚みたいでした。ただ、こんなにどす黒くて、深みのある色の魚は、たしかに見たことがないのでした。その深い黒のせいか、目はどこについているのか、わかりません。

 

 これが月の魚……か。もっときれいかと思った。

 

「どうしたの。よし、いこう」

「どこへ? もう、月へ帰るの? そうだぼく、何も手伝えなかった……」

「これからだよ。月の魚が大きくなったら、その尾っぽにぶら下がって、月へ帰れるの。このバケツじゃ駄目」

「ぼくは、バケツを探してくればいいのか」

「これから育てなきゃね、月の魚」

「……ふたりで?」

「うん。ふたりでね」

 

 男の子はすこしうつむいてから、ふと顔を上げて言いました。

 

「月……。ぼくも、連れてってくれる?」

「あはは。いいよ。ね。このバケツ、おいとくとこある?」

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