あの夏の金魚

「なんの骨だろう、これらは……」

 

 もっとも、最初は骨だか何かのゴミ屑だか、わかりかねたのだが。

 

 大学の研究室で、余った植物の苗をもらってきた。早速庭に植えようと思い、コンクリート塀の下の一角を掘り返したのだった。

 

「なんの骨だろう、……」

 

 ぼろぼろにこぼれた櫛の先のように細く小さい。どれも黄ばんで、土にまみれ、しかし生きものの小骨であることは確かで、たくさん、たくさん土の中から出てくる。

 ぼくはコンクリート塀の前にしゃがみこんで、ひとつまみしたそのかけらを眺める。こすってみると、相当古いようで、すぐにはらはら崩れ去ってしまう。

 

 また指でひとかけらつまんで、つぶやく。

 

 ナンノ ホネ ダロウ 、 ……

 

 骨は、何も語ろうとしない。

 そしてぼくはそいつを、もとの穴の中へ放り捨ててしまう。

 

 ――と。ぼくの脳みそでちゃぷぅん、と音を立てて、波紋が広がる……

 

 ざわめきが、雑踏が、楽の音が聞こえる。

 

 波紋は、広がっていく。

 

 灯かりが浮かび、ちょうちんが見え、たくさんの屋台が立ち並ぶ。甘い、りんご飴の香りがする。

 

 波紋が、また広がる。

 

 浴衣姿の子どもたちが、駆けていく。プラスチックのお面が無言でそのあとを見つめて、小さな風車が、カタカタタカタタ……と揺れている。

 

 波紋が遠ざかっていく。

 

 その下で、何か赤とか白とか淡い綺麗なものがふるわっ、て動いた。

 

 ぼくは、金魚掬いをしているのだった。

 そう……小学校最後の夏休みで、今日は夏祭りの日だ。

 夜店を回って遊んでいる友達をよそにぼくは今、じぃっと、金魚たちが舞う大きな平べったい水槽を覗きこんでいる。

 

 風鈴がチリリン、って鳴る。

 

 顔を上げて見ると、屋台のおじいさんはうちわを肩にあてたまま、動かない。眠っているように見える。

 ぼくは、きっともう何時間も、ここにこうしてしゃがみこんで、水面と向き合っているのだ。紙の張った掬い網を握りしめ。

 もう一方の手の、白い陶器のお椀(底に紅い花の絵が描いてある)には、はれやかな琉金、立派な三つ尾の和金、おしゃれな模様の朱文金だって、いる。出目金も――ぶちのやつ、三色、片目の取れたのも――いる。

 

 でもぼくが今、……いやずっと最初から、もう何千年も前から狙っているのは、そういった名前のある金魚じゃない。理科が得意なぼくにも、わからない。金魚とは違うフナや他の淡水魚――タナゴやらモツゴやら――が混じっているのでもない。

 こいつが、とびきり大きいわけでも、とびきり綺麗なわけでもない。けれど、ぼくはどうしてもこいつを捕まえたい。

 とびきりすばしこいわけでも、浮かんでこないわけでもない。なのにどうしても、捕まえられない。

 不思議に色が淡くて、玉のように絡まっている金魚の群れの中に、すぐ見失ってしまう。そしてまたいつの間にか、ひとりになってはじっこの方を泳いでいる……

 ぼくはこの、溶けて、なくなってしまいそうな色に魅かれて、水の中に吸いこまれそうになる。

 

 ぼくもいつしか金魚になって(ぼくは真っ黒い出目金だ)、あいつを追いかける、必死になりヒレで水をかきわけ、群れるやつらを押しわけて、一気に、あいつの尾びれにかじりつくんだ。……

 

 そしてぼくは、薄く張った紙の上に、いっぴきの金魚を捕まえている。

 息切れしたぼくの呼吸が空気を揺らし、頬には冷たい汗がひとつ、伝っていった。

 

 風鈴がチリリン、って、鳴る。

 

 おじいさん……まだ、屋台のおじいさんは眠っている。

 おじいさん……死んでいるの?

 ちゃぷぅん、と、音がして、見ると、ぼくのあいつは薄い紙を破って再び水の中へ落ちてしまう。

 

 あ。

 

 ぼくが思わず手を伸ばすと、あいつの淡い色はとうとう水に溶けて、肌もウロコも水に溶けて、みるまに骨になってしまう。

 手元のお椀の中でも、金魚たちの骨が、コッコトト、コトト……鳴いている。

 水槽に泳ぐすべての金魚も、骨になって、水の底に沈んでしまう。

 あんなに色とりどりだった金魚たちは、もう皆同じ真っ白い骨に変わってしまった。

 踊る金魚とたわむれていた水も、今はよどんで動かない。

 祭りの音も聞こえない。

 しんとして、風車は動かないし、行き交う子らや手を引く大人たちの姿ももうない。お面だけが相変わらず無言のまま宙を眺めている。

 

 祭りは終わったのだろうか。遊んでいた子どもは、金魚たちは、どこへ去ってしまったのだろう。

 

 気づくと、色のない闇に、最後の波紋が消えていくところだった。

 

 

 幾つもの夏が過ぎて今、ぼくの庭の片隅で、陽光を浴び、背の高い植物が枝葉を広げている。その先では、まぶしい黄色の花々が咲き乱れている。

 

 ぼくは手をかざし今、立ち上がってみる。ぼくの背丈より高く、家を囲うコンクリートの塀よりもっと高く、この木は伸びている。

 

 あの夏の金魚たちは、今もきっと、この根の下に、遊んでいるのだろう。あれから何十回もの夏が過ぎた今も、ぼくがこれから死んでいなくなっても、ずっと空に咲く花の夢を見ながら。

 

 

「あの夏の金魚」おわり

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