お姫さまと老鬼

 虹の外壁に包まれたラカナータの城を目指したお姫さまのお話は、色んな形をとって辺境の村々で語り継がれることになりました。

 今わたくしの手もとにあるのは、数あるお姫さまの冒険の中でも語られることのなかった〝最後の旅〟を記したとされる手記。かすれた文字に淡く滲んだ小さな挿絵の施された、たった数枚の破れかけた記録。それは、忘れられた空家の壁に掛けっぱなしの、色褪せた、だけど懐かしいかおりのする絵葉書のようです。

 かつてお姫さまに従った百七の部下には、騎士や狩人、詩人や哲学者の他に、動植物から鉱物までがいたと言います。ラカナータへ通じる最果ての海へお姫さまが船出したところで多くの言い伝えや物語は幕を閉じます。

 〝最後の旅〟は、この船旅で、最後まで残った七つの命を失ったことを示す冒頭詩から、物語の続きを始めます――

 

 

 ……そうして、六つの小さな灯かりの消えた後。

 お姫さまはその壊れたボートで漂流し、全ての色が溶けてしまう海に迷いこむことになりました。老いぼれ猫カフトーの知恵と案内でこの渦巻く海をなんとか抜け出しましたが、その時つめたい砂漠の泉で見つけたラカナータへの鍵を海へ落としてしまいます。そして実はこの場所が、最も虹の濃くなる場所、すなわちラカナータへの入口だったのです。

 小さなボートは、そのまま海流に乗って流されてゆきました。永遠に続くと思われた色のない海の漂流がおわり、モネラ貝の散在する砂浜へ打ち上げられた時、ついぞラカナータへの入国は叶わぬものとなったのでした。

 モネラ海岸、そこは旅をおえた全ての生きものたちが砂になって還りつくところと言われていました。

 かつて名軍師として百の戦いを勝利に導いたカフトーは、この失敗を悔やんでひとり海へ潜り、魚となって今でも失くした鍵を海底に探していると、あるいは見つけた鍵を飲みこんで浮き上がれないまま彷徨っていると、海を漂泊するぷらんくとんは唄います。

 こうしてお姫さまは、七つめの灯かりもなくしました。

 そしてたったひとり、彼方に薄く光を放ちながらそびえるラカナータの城塔に背を向けて辿り着いたのが、老鬼オワランの楼閣だったのです。

 

 お姫さまは最初、モネラ海岸を流れてきたゆりかごを眺めながら浜辺を歩きました。日傘、キャンドルライト、飾り立てられた馬車、パレードの楽器……次々と流れてくる河口をのぼって、華やかなドレスや旗の投げ捨てられた塹壕をこえて、お姫さまは、時の果てを支配するという老鬼の青い城を巡る階段をあがっていきました。

 城の周りはたくさんの宝飾物やきらめく宝石が、しかし打ち捨てられた屑のように積もっています。

 もちろん、お姫さまは気づいていました。その残骸はみな、お姫さまが失ってきたものたちであったことを。

 最後に、見え始めたかすむ尖塔の頂から、お姫さまが旅立ちの朝に捨て去った王冠が投げられ、もう遠くなった地上へ消えて見えなくなりました。城壁を巡る階段をのぼりきった時、霧がかっていた視界が晴れて世界が見渡せました。小さくなった地上には、それまでの冒険で経てきた幾つもの街や森が見えるのでしたが、景色は色あせ、全ての音はやんでしまったように思われました。世界はあまりに小さく見えました。だけど故郷の城だけは、かすむ山脈の影にとうとう見ることは叶いませんでした。

 

 お姫さまは、尖塔部分の付け根にある丸い入口から足を踏み入れたのでした。もう外の光を振り返らない決意を持って。

 オワランの城の外壁は、まるみがかって、青白くほのかに光って、触れると温かささえ感じましたが、内部は薄暗く、壁や柱は骨のように色がはがれていました。寒い世界でした。がらんとして、生きものの気配のない場所でした。

 だけどその尖塔のてっぺんには、ただひとり、ここで暮らしてきたしわくちゃの醜い老鬼が眠っていたのでした。

 灯かりもなく、長く狭い螺旋階段をのぼりきる頃には、時間の感覚も空間の感覚も忘れてしまったように思われました。そして辿り着いたお姫さまは、窓も灯もない部屋で彼と対面したのでした。老鬼オワランは、重く垂れ下がったまぶたをようやく持ち上げて言いました。

「ここには音もない。色もない。光もない」

 しわがれた聞き苦しい声をしぼり出すように、老鬼は続けます。

「おまえにこのうちのひとつでも出せるか」

「わたしはもう唄う歌も忘れた。描く景色も思い出せない。わたしは火の家系の姫。それは永遠に続く灯かりにはならないけど、あなたを一瞬で焼いてしまうことはできます――そしてあなたの苦しみを終らせることはできます」

「食べさせておくれ。おまえを。おまえ自身をその火で焼いて。そうすればわしの耳には音が、目には色が戻るだろう。わしは灯かりをともすことができる。

 おまえの旅してきた世界はわしの夢。おまえはわしの夢。戻るがいい。わしの血と肉として。お姫さまであったおまえを忘れるがいい」

 お姫さまの目は久しく忘れていた怒りに燃えていました。その手から最後の火の魔法を放つと、頂の間は一瞬明るくなり、小さな老鬼の姿から、とてつもなく巨大な影が浮かび上がりました。影には口があり、笑っていました。

「ああ、わたしはまた光を使ってしまった! わたしが憧れて、わたしの中にある光だけでは満足できず求めてきた光。あのラカナータの光! その光はまぼろしのものだった。わたしはもう一切の光をあきらめたはずだったのに。わたしはもうこの火の光でわたしを焼いてしまいましょう……」

 そして燃えさかる炎の塊を、大きな影がのみこんだ時、一度全ては無の闇に帰ったように思われました。

 城内に灯かりがともった時、もうお姫さまと老鬼の姿はありませんでした。だけど今は、誰もいない城内に、生きるものの気配が満ちてきていました。そのかわり城の外壁は今、熱と青白い光を失いました。

 もうふたりのいなくなった尖塔が崩れ去り、たたずむ最果ての城の姿、それは大きな卵でした。

 地上に見えていた全ての景色は薄れて消え、球形になった城は、茫漠と広がるモネラの海へと流れ出し、沖へ、沖へ、遠ざかってゆくのでした。球体の中は、静かで優しい楽音に満ちあふれているのでした。



 ――輝かしいお姫さまの冒険譚の、最後の光景に思いを馳せずにはいられなかったひとりの絵描きがこの〝最後の旅〟を書いたのです。絵描きは、お姫さまに従った百七の命のうちのひとりで、おれは最後のボートに乗れなかったのだ、と手記の末尾に走り書きを残しています。絵描きはボートが去った後もそこで、お姫さまらのその後の手がかりを、そこに流れ着く残骸や海のものたちの話の中に求め続けたのです。

 船出するお姫さまはその時もう若くはありませんでした。七つの命――老い猫と蛍とめしいたオウム、ひびわれた魚石とキノコと冬虫夏草――を連れてボートに乗りこんだお姫さまの、少ししわが刻まれた笑顔には、もう帰れないことを悟った悲哀が見えたのだと言います。

 

「もう明るく美しい夜明けの物語はわたしにはいりません。わたしはその光の中でただ静かに消えてゆきたい。ラカナータの虹色の灯かりは、たぶん光に憧れて光を求め、一度手にした光の強さにおそれをいだき、背を向けたものをその裏側へ導く灯かり。まぼろし。わたしを待っているものが醜い鬼でも怪物でも、そこが色も音もない世界でも、わたしはゆきましょう。人々が夢見る物語の、裏側の物語の中へ。その暗い世界で生まれる、安らかで、ひそやかな灯かりを求めて」



(「お姫さまと老鬼」おわり)

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