本 文 を 読 ん で そ の 怪 を 求 め よ 。
夜 洲 多 夏
第1話 赤
その怪が解けずにいる。
「植原ちょっと」
昨日、大切な考え事をしていた僕に、珍しく担任が声をかけてきた。
こいつ、ろくな教師じゃない。
自分は、この春から学年主任を任されているのだと言っていた。
何だか、ドヤ顔。
本人としては出世にでも成功したか、特別な権力を手に入れたかのつもりなのだろう。
ただし先生、残念です。
水を差すようだけれど、それ、単なる厄介払いですから。
他のクラスの教師が、揃ってやりたがっていなくて、たまたま落ちてきただけのポストらしいですから。
おまけに先生、あなたは教師としてのベーシックで、致命的な欠陥に気付いていますか?
まぁ、人間が小さいのは仕方のない事だとしても、あの文字はない。黒板に書く文字が、まるで蟻が必死にπの計算でもした後みたいに小さくて汚い。
僕には直接関係ないけれど、あれじゃ目が悪いやつとか席が後ろの方のやつには、まず判読不能です。
「お前、大丈夫か?」
大丈夫かって、そもそもそれどういう意味なんだろう。
若者言葉を教師が無理に使うと、耳に痛々しいだけ。曖昧だし中途半端だし、実に変な日本語の使い方だ。
だいたい、こいつ。
英語しか教えられないくせに、チミモウリョウの類に見える他のクラスの担任なんか、どうやってまとめる気なんだよ。
お前こそ、大丈夫か?
「相談にのるぞ。何でも言ってみろ。誰かにいじめられたりしていないか?」
ほら来た。
禁句だよそれ。
しかもいきなりの上から目線。こいつには、デリカシーだとか人の心の機微なんてものは、かけらも存在しない。
人間としても、欠陥品だね。
「別に何も、ありません」
僕は言った。
お前にはな。
お前らみたいな大人に、相談したり打ち明けるような事は何もありません。
責任回避と自己防衛で、ぎりぎりになって生きている。そんなお前らに、今さら話す事なんて何もない。
それに世界が違うもの。
違う世界。
酷い世界に僕は生きている。
「ふうぅぅぅぅぅぅぅぅぅ」
無理数が頭の奥の奥から湧き出て来ている、みたいな。
そんな、毎朝恒例のため息。
やれやれ。
もう、こんな時間だ。
あの酷い世界へ、今朝もまた同じように降下して行く。
まるで、どこかの国のパラシュート部隊。
いつものように鞄を開けた。
今日の授業で使う、教科書やノート類を取り出す。
降下用装備の最終的な点検を始めた。
窓の外には、太陽が暢気に昇りはじめている。繊細さも知性も感じられない、ありきたりの光だった。
そう言えば、あの光りには目に映っているものとは違う色が隠れているのだと、話すやつがいた。
いつもぼうっとしているくせに、そんな時にだけ妙に目を輝かせて話すやつだった。
確かに太陽光線を含めた可視光線は、プリズムを使うと赤から始まって、七つの色に分光される。
でも、そんな事は小学生だって知っている。目を輝かせるほどの価値なんて当然ない。
僕は幼い頃から、勉強が得意だった。
学年でトップになる事は多かったし、あの学校だって進学率で選んだ。
卒業生の進路傾向は、ほぼ国・公立だけ。馬鹿な私大に行く人間もいない。都内では一、二を争う高校のはずだ。
僕は植原ウメハル。
高校一年生。
例えば、数学の問題を読んで解が求められなかった事なんか、今まで一度もない。
でも、その怪現象。
その怪が解けずにいる。
一体何なのだろう。
まず一つ目は、かなり小さい。だからひょっとしたら、ある人にとってそれは、気にもとめない物かも知れない。
僕だって、場所によってはたぶんそうだ。
でも休み時間と放課後に必ず開く、一番大切にしている大学ノートに突如、点としてそれは現れた。
お気に入りの計算式やよく考えている事、そしてそれらを書いて整理する時に使う、どの教科のノートでもない一冊。
その最終頁の真ん中だった。
三日前にポツンと小さな点が現れたと思ったら、今やその頁いっぱいに点だらけ。よく見ると、何かの染みみたいにも見える。
もしこれが、何か胞子の付着や薬品による化学変化だとしても、最終頁だけに限って発生したりするものなのだろうか。
僕はまずこれを、点の怪と呼ぶ事にした。
二つ目は、機種変したばかりの携帯デバイスのボディ表面。何か線みたいな、傷とは違うもの。
やはりこれも、染みなのだろうか。
ただ、買った時には無かったそれが、少しずつではあるけれど伸びてきている気がする。
これは線の怪と呼ぶ。
三つ目が、ちょっと大きい。
僕の部屋の、押し入れの引き戸だ。
元々白かったそこは、サイズこそ違うけれど前述の二つの怪と同じく染みみたいなものによって、黒い虚ろな面になった。
そう、これは面の怪。
これらの怪は、三日前に突然やって来た。
そして、僕の絶え間なく繰り返される日常の、ちょっとした変化で、ちょっとした高揚感で、ちょっとした気分転換になった。
絶え間なく繰り返される毎日。
絶え間なく繰り返される、酷い世界。
僕は、確認を終えた教科書やノート、資料集、ワークブック等を鞄に戻す。
そこには、めちゃくちゃ趣味の悪い落書きがあった。
サインチョウと呼ばれる、クラスみんなからのエンタメ行為。きちんと、罵詈雑言死ねの詳細なコメント付きだ。
まぁそれでも僕らは、その行為をいじめとはカテゴリーしないけれど。
だって〈いじめ〉。
ほら、文字で見ても、格好悪いでしょ?
何か子供っぽい音だし、だいたい〈みじめ〉とそんなに違いはない。
だから僕ら受け手側は、いじめられているだなんて表現は絶対にしないし、それを人に打ち明けたりもしない。
酷い世界に僕は生きている。
そこでは確かに無数のグレネード・ランチャーが飛び交い、凶悪なガトリング・ガンが硝煙を撒き散らしていた。
遡れば、遥か昔。
あの幼稚園の砂場での出会いから、きっとそれは始まっていた。
僕は玄関を飛び出す。
赤いデバイスにじわりと広がった、あの線みたいな染みに目をやった。
「よう、それいいな。ちょっとかせよ」
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