ひこうき雲

篠塚飛樹

第1話 墓参

「立派なお墓ね。」

 鼻が詰まり気味の声でそう言った義母の横顔を見る。

 ふっくらと膨らんだ頬とその口調が、50代前半という年齢を感じさせない。若い頃は美人というよりは、童顔。色気があるというよりは可愛い。といった類の女性だったんだろうな。とふと思ってしまう。

 墓石を見上げるその横顔には、初めて会った時に自分を見つめたのと同じような柔らかい笑みが浮かんでいた。

「いやいや、普通ですよ。普通。大きくもないし、石もいちばん安いやつですから。」

 そう、普通の墓だ。うっかりすると、どこにあったか迷ってしまうくらい多くの墓石がところ狭しと広がる景色に埋もれてしまう。新参者のため区画が隅の方だから何とか分かる程度だ。

 そう、普通の墓なんです。一部を除けば。

 心の中で繰り返す。あまりみないで欲しい。

「お母さん、そんなにジロジロ見たら失礼よ。」

 俺の心の中を察したのか、妻がたしなめる。母親と似た一重瞼の隅を少しつり上げている。母親よりはほっそりとした顔立ちだが、同じく童顔、カワイイという部類の妻は、年を取っても義母のように若く見えるんだろうな。とぼんやり考えてしまう。

 何でも遠慮なくモノを言い、思った通りに行動してあまり周りに気を配らない母に、時々修正を加えられるくらいには出来た女性である妻に、人の進化を実感してしまう自分に吹き出しそうになる。

 それにしても、

 娘の嫁ぎ先の墓参りをしたい。と言い出した義母の真意が分からない。結婚前に亡くなった父のことを義母が知る訳もないし、墓参りをする義理もない。娘である妻が言うには、マイペースで気を遣わずに何でも思ったことを口に出してしまう子供のようなところのある母にしては、珍しく義理堅い。とのことだった。

 いやいや、普通に見ても義理堅いという領域を越えているのではないか、と思う。同期の中では早い時期に結婚したので、周りに既婚者は少ないが、やはり彼らも「義理堅いお義母さんだね。」といったことを異口同音に答える。もちろん、自分の祖母も相手方のお墓をわざわざ参ったことなどない。

〈どうしても行きたい。〉

ときかない義母に妻が聞かされたのは、

〈大事な義理の息子を育ててくれたお父さんに花を手向けて感謝したい。〉

という殺し文句だった。さすがにここまで言われては断るのも失礼だ。

  片親を亡くすというのは、そういうことなのかな。

 近い年齢の女性に花を手向けられて親父も照れるてるだろうな。

 生真面目で神経質な父。男だらけのエンジニア畑を歩んできた父

〈お父さんはモテ期が無かったからな。〉

と、はにかむ笑顔が懐かしい。

  父に語り掛けるように仰いだ空は、青く高い。梅雨明けの爽快な日差しは夏が近いことを告げるように熱い。その高みの深い青に一条の飛行機雲が白い筋を曳いてアクセントを付けている。軍用機としては珍しく低騒音も目指したその飛行機は、旅客機とは違った独特の軽やかな音で大気を微かに震わせていく。

 激しいコスト低減の結果、安全を優先する旅客機でさえジェットエンジンの信頼性が上がったことを理由にエンジン2つの双発機が主流だが、この飛行機は違う。搭載するジェットエンジンは4つだ。撃たれても飛べること、すなわち生存性を重視した哨戒機P-1は、4つのジェットエンジンを搭載しながらも、ターボプロップエンジンでプロペラを回して飛ぶ先代の哨戒機P-3Cよりも低騒音だ。旅客機でもないのに低騒音を性能の内に入れてしまうあたりが、自衛隊の肩身の狭さを感じさせる。

 いつもの聞き慣れたエンジン音の主を米粒ほどにしか見えない飛行機雲の先端に見る。長距離航法訓練だな、 今日は誰のフライトだろう。

 親父も飛行機が好きだったっけな、もっともコレの一世代前のP-3Cがお気に入りだったが、俺がパイロットになったのを自分のことのように喜び、少年のようにはしゃいでいた親父。


「お母さん?」

  妻の不安そうな声に我に返ると、墓石の左側面をじっと見つめる義母の姿があった。

  あちゃ~、やっぱ見られちゃったか。

  すぐにおどけてフォローの言葉を発しようとした唇が固まった。

  そこに書かれた文字を慈しむように墓石をなぞるしなやかな指先が、つま先立ちなのに微動だにしない義母のバランスをとっていた。時間が止まっていないのを主張するかのように、黒地に淡い花柄を浮かべた品のいいワンピースの透けた裾が風でひらめいている。そういえば、今日の義母は、いつもよりもお洒落だ。墓参りだから派手ではないが、普段は化粧も殆どしない。今更ながらに気付いた余所よそ行き仕様でじっと墓石を見つめている義母。

  俺の場所からそこに書かれた文字は見えないが、何が書いてあるかは分かっている。

  ウチの墓の普通じゃないところ。

 そこには、親父が残した言葉が刻まれている。

 家族を優先し、自己主張などしなかった親父が家族に向けた最初で最後の我儘わがままは、親父が愛用していた手帳の亡くなる数日前のページに書いてあった。遺書と言うには大袈裟な紙に踊る弱々しい文字は、大雑把な父の字の愛嬌を残しながらも、悲壮だった。

 この言葉を子孫に伝えたい。墓を建てたら墓石に刻んで欲しい。

 そこに続く言葉は、当たり前すぎて、墓石に刻むほどでもないと思った。墓を建てるとしたら、長男である俺の名前で建てるんだ。なぜこんなありふれた言葉をわざわざ刻むのか、未来永劫子孫の笑い物になりはしないか。出来れば避けたい。

 だが、父と話し合うことは出来なかった。

 このページを最後に手帳の文字は途絶えたのだった。

 俺はその意図を聞くこともできずに父の我儘を形にした。

 なあ、親父、なんでこんな言葉をわざわざ残そうと思ったんだ?

 墓石に問いかけた俺の目が我に返った義母の目と合った。

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