血界の貴公子<ヴァンパイア・ロード>
八斬
第1話試合
「――始めっ!」
騎士たちが鍔の競り合いをする程度には開いた空間。堅牢な石の壁が円を描き、取り囲んでいる。
いわゆる闘技場と呼ばれる場だ。号令と共に舞い上がった土埃がようやく落ち着き始め、観衆たちはそれだけで興奮し、今一度大きな声を上げている。号令の瞬間を静かに待ちわびる静寂と、それ以前の興奮から更に増した喧騒。激しい闘争を行うために開いた中央には、今正に二人の青年が剣を向け合っていた。
土埃から姿を見せた二人の青年たちはその剣先から互いを睨み、牽制し合う。号令の瞬間に地面を抉る程の瞬発力で駆け出し交えた剣の甲高い金属音はまだ耳に残っていた。二人の間にあるあまりの静寂は、歓声ともまた真逆なほど静かだ。観衆たちの号令の瞬間の静寂と興奮にも似ている。
観衆の中で二人の動きをまともに見た者は少なかっただろう。号令の瞬間に地面を抉って蹴り上げた土埃が、視界の邪魔をした、と言うわけではない。それを含めたとしても、純粋に、二人の動きは速すぎた。この一瞬で剣を弾き合わせた瞬間を目で捉えることの出来た者がどれだけ居たことか。むしろその動体視力こそ賞賛するべきだろう。ただその圧巻の初動に奮え上がった鼓動のまま雄叫びを上げることしか出来ていない。
漠然と、号令の瞬間に二人が地面を蹴って動き出したかと思えば、剣を向け合い牽制しあっている、と言う認識がその大半だった。
もっとも、観衆を作り上げる者たちが正式に騎士としての称号を継承する前の訓練兵では、それも仕方がないと言えるだろう。彼等の兵士としての実力はまだ未熟なのである。技の一つ一つが熟練した闘技場の二人とは、大きな技量の差があった。この中から戦果を上げてやがて英雄と呼ばれる者が現れるのか、未だ定かではない。それを夢見て死に物狂いの修練を重ね続け、あるいは、報われず戦場で命を散らしてしまう者がその多くを占めるのだろう。
彼等は皆共通する意思を持っていた。
きっと、前者となるのは今中央で激闘を繰り広げるあの二人なのだろう、と。
嫉妬があり、憧憬があり、もしくは敵愾心もある視線が二人に交わる。鋭利な剣が空を薙ぐ音も、剣が弾かれ合う金属音も、その一つを聞いても既に騎士として高い水準に達していた。その攻防を目で追うだけで、観衆たちにあまりにも大きな実力の差を痛感させる。同じく訓練兵であるはずの闘技場の中央で死闘を繰り広げている二人が、それほどまでに彼等よりも遥かな力量を持っているのも、紛れもない事実であった。
正に芸術に近い剣技が生み出す心地良い音色も、終わりを告げるときが訪れる。
最高潮に達した会場のボルテージに合わせて、中央から響く甲高い金属音は轟音に成り代わった。号令の瞬間と同じく目で追うことすらままならないスピードで、ただただ剣が織成す激しい轟音は観衆の興奮に合わせて鈍い音を奏で続ける。
やがて張り上げられた号令は、その神聖なる戦いの終焉を表した。
「――そこまでっ!」
それが意味するところ、その先の行き着く結果に会場は改めて静寂に包まれる。
一際大きな金属音と共に、会場の視線は一点に集中した。観衆の視線を根こそぎ奪う。
高く跳ね上げられた剣、時が制止したかのように微動だにしない膠着する二人。鳴り響く金属の余韻を耳で味わい、中空に舞う一振りの剣が地面に降るのを待ちわびる。数秒、数瞬、その時間はあまりにも長く感じられた。
やがて鈍い音で地面を数度跳ねた剣と共に、会場の皆が神聖なる美しき試合の終焉を全力で賞賛するのだった。
◆
件の闘技場に隣接して設けられた部屋は、控え室と言うにはどうにも埃っぽい印象が強かった。目に触れる塵も含め、全体的に薄暗い雰囲気は本来灯されるべき照明に灯が入っていない為でもあるのだろう。訓練と言う名目ではあるが、騎士を育成する学園の一般科目では正式な闘技で無い故に管理人の仕事を増やしてまで照明器具に明かりが灯ることは無かった。
若干むせ返りそうになるのを勤めて気にせずに、先ほど試合を終えたばかりの二人の青年は言葉を交わしていた。
「良い試合だった、ハイネ」
言いながら差し出される手は、有終の美を称えて握手を求めているものに他ならない。表情に綻びを貼り付けながら、掌は握り返してくる手を求めたまま手持ち無沙汰にしていた。
「……ふん、下らないなあ」
蔑んだ目で一瞥を下し、やがて明らかな悪意に表情を歪ませる。勝者と敗者の間に生じる屈辱が、青年――ハイネのプライドを刺激していた。敗者として応じる握手はハイネにとって最も愚かしい行為であり、虫唾の走る思いを抱えさせる。
尚も不愉快に向けられた掌を、ハイネは行き場を見つけたような怒りで払いのけた。
勝者としてハイネの上に君臨しながら、淡々としたその形式上の誠意はあまりにもハイネを侮辱的に映し出している。
正真正銘の誠意だとしても、強者と弱者の関係は明確に見えていた。
「付け上がるなよ、クレア。今は私を弱者だと笑うがいい。だが私は、まだ貴様如きに負けてやったつもりはないぞ」
忌々しげに睨むハイネの視線は、涼しげな――クレアの瞳を捉える。勝者としての余裕、だろうか。第三者がこの控え室に居るとすれば、対照的な二人の態度を甲乙付けるのも容易いだろう。目に見える怒りがそのまま屈辱を現しているハイネと、余裕にも見えるクレアの表情。
ともすれば勝者敗者の関係は自ずと見える。
つい数十分ほど前の試合、あの歓声の中で最後に剣を握っているのは自分のはずだったと、ハイネは悔しさを滲ませた。観衆に圧倒的強さを見せつけ、敗北の泥を塗られるのはクレアであるはずだったと、確かに自負している。正反対に落ち着いてしまった結果に誇りを踏みにじられ、ハイネは憤慨と憎悪を隠せない。
それはハイネ自身への後悔でもあり、なによりもクレアに対する嫉妬だった。
十年に一人、百年に一人の天才として、他の追随も許さない力を授かりこの世に生を受けた。剣のみではなくあらゆる才能を授かり、そして貴族の子として与えられた地位もハイネの人生を幸福に導いている。無論、才能に見合うだけの教育も受け、努力もしてきた。年若にして得た名声は数えられないほどあり、明確に騎士とするまでもなくその力は本物だった。
クレアはハイネの人生とは極端なほどに、言い換えるとすれば、ハイネの人生が馬鹿らしいほどに貧困に喘ぐ幼少期を過ごした。辺境の田舎村に生れ落ち、両親が農作業に明け暮れる日々の中、クレアはただひたすら剣を振り続けたという。幼少ながら剣の才能のみが立派に成長していき、村の用心棒になる。やがて用心棒として実力者の噂が立ち始めた頃、多くの騎士を求める王都はクレアを迎え入れた。
彼ら二人を形容する言葉があるとすれば、天才と、それだけで事足りる。
貴族としてあらゆる努力を怠らなかったハイネと、一介の村人として自由に剣を振るったクレア。
何の因果か、百年に一人の才能を持つ者が同じ時代に二人生れ落ちた。
世の理とは理不尽なことに、僅かながら才能に優劣を持たせた。
「……ああ。俺だって負けられない」
弾かれたクレアの手は悠然と虚空を掴む。
そこには決して悔しさの類は見えなかった。あるとすれば、自信と決意だろう。力強く握られる拳には決意が見えた。対照的な二人が交える視線は、対照的な意味が込められている。
良き宿敵として、クレアはハイネを見据えた。
憎き怨敵として、ハイネはクレアを見据える。
初めて会った、剣で対等に渡り合える存在。
渡り合った故に、忌むべき存在。
ハイネは余裕を含むクレアの視線に憎悪を感じ、ここで掴みかかっても惨めだと、踵を返す。
歪な緊張感が漂う控え室に、舌打ちの音は響いた。
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