第29話 月夜の戯れに



 獲物を狙う眼球を煌々と輝かせて夜鳥が泣いて飛び去った。静まり返った森に生い茂る木々に反響し鳥の羽ばたきに、大樹の根本に腰を下ろした青年は自らの肩を抱いてビクリと跳ねた。

 長く頼りにしてきた剣も、眼前にかざした手のひらも見えない暗がりではなんの役にも立たない。猛禽類に狙われた小動物が如く、ただじっと息を殺して朝を待つしかなかった。

 青年――ユーマは久しい死の恐怖を感じていた。大海に呑まれた小舟のように運に身を任せるしかない今、必死に生にしがみつこうとする。紺よりも黒に近いユーマの服が夜の闇に紛れて姿を見えにくくしてくれていることが唯一の安堵の種だった。

「どうする……どう、切り抜ける……!?」

 ユーマは愛剣を杖のように地面に突き刺し唸った。

 もしここで襲われてしまったら夜目の効くあちらが有利だ。剣を適当に振り回そうとしたところでここは森の中、幹にあたってまともに戦えやしない。

 せめて相手の位置がわかれば……。

 ユーマは自分の魔力のなさを恨んだ。せめて魔法の一つでも使うことができれば、それがどんなものであれ、手札が増え現状を打開する糸筋になるやもしれない。

 何はともあれここに滞在し続けるのは得策ではない。活路を見出すのは行動が前提だ。ユーマがそう己を奮い立たせて立ち上がった瞬間、目の前の茂みが怪しくざわめいた。

「――見つけた」

「……ぐっ!」

 ユーマは脇目も振らず茂みから遠ざかるように走り出していた。顔は見えずとも耳が聞こえなくなったわけではない。はっきりと聞こえたそれは確かにあいつの声だった。

 走れども走れども、ユーマの背につきまとう殺気は消える気配を見せない。むしろ段々と距離が近づいてきているのではないか、という恐怖が膝を震わせた。

「逃げても無駄だよ。絶対有利だもんこんな場所」

「うるせぇ!」

 さぞ楽しそうに語る追手の声に対して叫び返したユーマは森に程よい広さを見つけて振り返って剣を構えた。

 しかし周囲は先程と打って変わって無音。いつしか風も止み、ざわつく木々の音すら失われている。

 広けた地形、そして残された唯一の感覚――聴覚が最も発揮できる今、ユーマにとってこれほどの好機はなかった。

「どっからでも来い! エミリア!」

 吠えた直後、ユーマの眼前に飛翔するナイフが3本迫った。剣を持った腕が反応するまでもなく上半身を折り曲げ直撃を避ける。頬をかすめて行ったナイフは確かな殺意を持って暗闇に溶けて消えて行った。

 耳をすますまでもない、ユーマはほのかに香る追手――エミリアの殺気をしっかりと感じ取って月夜を見上げた。

 輝く月を背に、影となったエミリアが手に持った鋭利な刃をユーマに向け落ちてくる。刃が反射した月光が尾を引いたと思えば、ユーマは半歩後退しその手に握った剣を振り上げた。

 エミリアのナイフが深々と地に突き立てられる。と同時に右袈裟で振り下ろされるユーマの剣。だが首元に突きつけてチェックメイト――とはいかない。エミリアの方がが圧倒的に速かった。

 否、速さの問題ではない。もとよりその算段。そうなることを予期していたかのように、エミリアは早々に地に直立したナイフを手放し、腰のナイフを抜き出しざまに距離を詰めて刺突を繰り出した。

「ちぃっ!」

 振り下ろす剣はその重量ゆえおいそれと軌道を変えられない。とはいえ、胸元まで迫られたのであれば既に剣の間合いでもない。ユーマは半ば強引に手首をひねり、自らの胸を撫でるように剣を振るった。

 今まさに心臓を突き破らんとしていたナイフは銀色に閃いて野原へ弾き飛んでいく。構えなおして一足一刀。対等の立場で仕切り直し――などとうまい話はなかった。

 エミリアはそれすら行動段階の途中。もとよりそれで決着とは考えてはいない。刺突はユーマに不利な姿勢を生み出すためのブラフに過ぎなかった。

 エミリアはナイフが弾き飛ばされる寸前、柄から指を離し、地に突き刺さったナイフを引き抜いて続けざまユーマの心の臓目掛けて投擲したのだ。

 飛翔する銀閃。距離は1mもない。加えてユーマはまだ無茶な姿勢から立ち直ることなくまともに剣も振るえない。それに立ち会った人間がいたのならば誰もがユーマの敗北を信じずにはいられなかっただろう。そう、回避は不可能……だが、


 ――


「イグニション!」

 ユーマは高らかに鍵詩を謳い上げた。

 剣は柄に嵌め込まれた宝石から魔力を溢れさせ赤黒いオーラを帯び始める。瞬き一つする間に、魔力に包まれた剣はユーマの膂力を無視して、自ら推進力を生み出し加速した。

 ユーマの体は剣の加速に促されるまま振り回されるように右足を軸に回転する。腰を落とし重心を低く体を安定させると、剣はナイフがユーマの体を切り裂くより早く、大きく円を描いて迫る空中の刃を叩き落とした。

「はぁ……」

 剣を振り抜いたユーマは、エミリアの殺気が失われるのを感じ、静かにため息をつく。剣を覆った魔力はいつの間にか空中に霧散し、ユーマの握ったそれは見慣れた姿を冷えた夜の空気に晒していた。

「死ぬかと思った」

 剣を納めながらユーマは冷静に戦いの感想を述べあげた。

「ず、ずるいよ! それ使わないって決めたじゃん!」

「しょうがないだろ。危うく死ぬとこだぞ」

 エミリアは頬を膨らませてユーマに詰め寄った。

「いいんだよ。ユーマを殺せるならそれで」

「や、ひどくないかその言い分」

「先生からの最後の試験だもん」

「……ずっと半人前でいてくれ」

「すぐそういうこと言う!」

「ん?」

 言い合いの最中、森の暗がりから近づいてきた灯りに目を向けると、ユーマの胸ほどの大きさの少女――マオが手の平に光を宿して現れた。

「よくもまあこんな森の奥まで入ったものだ。剣の魔力を追って来たが、随分歩かされたぞ」

 マオはその容姿に似合わず丁寧かつ尊大な物言いで二人に割って入る。

「しょうがないだろ。こいつホントに殺す気だったんだぞ?」

「いい所だったのにユーマ、魔法使うんだもん!」

「それだけお主がユーマを追い詰めたということだろう。誇ればいい」

 妙に説得力のあるマオの言葉の前に、エミリアは腑に落ちないような表情でふてくされたように押し黙った。

 ユーマの持つ剣は、少々変わった特質を持っていた。仕手の魔力に反応し剣自らが爆発的推進力を生み出すのだ。それは剣に直接魔力を注力した魔法剣の類とはまた異なる。ある種、剣にかけられた呪いに近かった。

 そしてそれはユーマが実姉アリサから譲り受けた形見でもある。勇者として強大な魔力の素質を持っていたアリサによって打たれたそれは、鍛え上げられる際にアリサの魔力に当てられその力を付呪された。こうして勇者アリサと共に旅し戦った剣として、『勇者の剣』の名を冠するに相応しいものだった。

 しかし、世に知られる勇者の剣は、代々語り継がれるただ一振り――『血を追うものブラッドチェイサー』のみだった。魔王を倒し勇者となったアリサを常に支え続けた剣として、その剣はアリサをよく知る人々の間でまことしやかに語られることになった。その剣の名を『魔を断つもの』と言った。

「剣とアリサの事実を知って、なにか変わったか?」

「…………」

 魅入られるように自らの剣を見つめるユーマの横顔に、マオは語りかけた。

 実姉アリサが勇者として語られている事実、そして『魔を断つものデモンシーバー』が勇者の剣である事実。つい数日前まで全て知らなかった自分を恥じるかのように剣を見つめ黙するユーマの瞳には燃えるような強い意志が宿っていた。

 知らなかった。俺だけ、知らなかった。

 何もそれが悪い事だとは思わない。旅に出て行方不明になったことも、アリサがたった今自分の隣に立つマオを封印した勇者だったということも。どうでも良いのだ。


 ――この剣は姉貴からの挑戦状だ。


 『魔を断つものデモンシーバー』はユーマの暮らしていた小屋に突如送り届けられた。手紙も差出人の名もなく手元に届いたアリサの愛剣を手に、ユーマはそんなことを思った。

 『私の元まで追いついてみせろ』と、そうアリサにからかわれているような、そんな気分になったものだ。そしてこうして、いつまでも踏ん切りのつかなかった自分の背中を突き飛ばして、旅をしている。

 変わったことなど、何もない。何を知ったところで、やるべきことは変わらないのだから。

「いいや、変わらないさ」

 頬についた一筋の切り傷を拭ってユーマは静かに返した。

「それで? 移動の用意は出来たのか?」

「あぁ、魔導車も修復が終わって、私の魔力も回復した。いつでも行けるぞ」

「そりゃケッコー」

 ユーマは体についた草木や土をはたきながら魔導車へ先導するマオの背について歩き出した。

「おそらく今日の昼過ぎには到着することだろう。何事もなければ、だが……」

「目的地は……なんていったっけ?」

「シルヴィアだよ、ユーマ。水の都シルヴィア」

「水の都というくらいだ。さぞ美しい街並みなんだろう」

 話している内に三人は森を抜け街道に出る。街道とはいえ、森に挟まれたその道にめぼしい灯りはない。暗闇の中、ユーマの前にはマオの手のひらで灯る魔法の光のほかに、青白い魔力光を帯びる四輪駆動車のシルエットが映しだされた。

「……あ、おかえりなさい」

「おつかれキルナ。体は大丈夫か?」

「……はい。ありがとうございます」

 魔導車に乗り込むと、運転席から水色の長い髪をした少女が頭をのぞかせた。気弱そうな語感で話すキルナはどこか生気のない瞳が特徴的だ。見た目の年齢に反して体も細く貧弱な印象を受ける。しかしそれはキルナにとって当たり前のことでありなんら異常ではなかった。

 キルナという少女は人間ではなかった。さらに言えば、生き物ですら無い。

 その正体は魔力の具現。魔王たるマオの強大すぎる魔力が人の形を成し、人格を持ってしまったものだった。

 マルス点を出て以来、マオはキルナがあくまで自身の力の一部なのだというのをいいことに、いいように使っていた。キルナ自身、それを苦とも思っていないことが唯一の救いであった。

「あーあ、今日もユーマを殺れなかったぁ」

「まだまだ負けねぇよ。もう寝ろ」

「うん、おやすみ」

 エミリアは物分かりよく返事して後部の荷台で横になって目をつぶる。自らの身体を理解しいかなる時でも最高のパフォーマンスを発揮できるようユーマの意図を理解し行動するエミリアは日頃の行動以上に大人な頭脳を持っているのだと感心する。

「お前はまだ寝ないのか?」

 あとから隣に乗り込んで座ったマオが問うた。

 手の平の光はいつの間にか消え、直視できるようになったマオの瞳とハッキリ目が合う。大きく輝いた瞳は何処までも深い海底を思わせる。自分の胸ほどもない小さな体に反して、マオには有無を言わせない威圧感に近い、されど包容力のある温かみがあった。

「寝るさ。その前に、今日とお別れしなくちゃな。姉貴が言ってた。『今日の自分は今日しかいない。1日をしっかりと生きるんだ。今日の自分にお別れを。明日の自分にお迎えを』ってな」

「アリサの言いそうなことだ」

 得意気に実姉の言葉を引用するユーマを見て、マオは笑った。

 勇者アリサは完璧な人間だった。武に長け、地に長け、人格もよく誰からも愛された。魔王の力によって世界が暗黒に包まれた魔の時代。アリサは旅をしながら仲間を増やし街を救う。愛を受け愛を振りまいた挙句、アリサは魔王とまで友になった。

 そしてアリサは世界のため魔王を封印し、行方をくらませたのだった。

「姉貴、今頃どこでなにしてるんだろうな」

「いつか会えるさ。私もアリサにもう一度会いたいと思っている」

 マオの言葉に頷いてユーマは揺れる魔導車の窓から覗く満点の星空を見上げた。

 目に映る幾百の輝きを前に、自らの小ささをどことなく感じ剣を抱き寄せる。まるで夜一人寂しくて寝付けない子供のように。アリサとの唯一のつながりである『魔を断つものデモンシーバー』に彼女の感触を求めるかのように。

「寝るわ。なにかあったら起こしてくれ」

「わかっている」

 マオの柔らかい声色を鼓膜に感じ、ユーマは静かに瞳を閉じた。

 記憶に古い最愛の人の温もりが、全身を包み込むような感じがしてユーマは意識をゆっくりと暗闇に落としていった。

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