アリサのキセキ

志々島

魔王

第1章 マルステン

第1話 プロローグ

 “かつて、勇者がいた。

 それは、空は黒く争いは絶えず、幻世からの喚ばれ人共が蔓延る暗黒の時代の出来事。

 とてつもない魔力を持っていた魔王は、世界の平和を脅かす存在として危険視されていた。

 幾多の人が、魔王を倒すために己を磨き、冒険の道へ足を踏み出す。富と名誉を求める者、自らの強さを証明したがる者、世界の為を思って戦う者──。その理由は様々あった。

 勇者も、打倒魔王を念頭に旅立った数多の人間の中の一人だった。のどかな村を出発し、名もない旅人ながら努力を重ね、その心に打たれた人間がまた一人、また一人と協力者となっていく。そして勇者は、数多くの試練を乗り越え、魔王の元へとたどり着いた。

 しかし、勇者一行の予想をはるかに上回る力を保持していた魔王は、幾度と無く命を絶とうが何度でも立ち上がった。後世のため、魔王をこのまま放置することは危険だと考えた一行は、勇者の剣の力をもって魔王をその場に封じ込めたのだった。

 それから5年。

 魔王の根城は、大陸の平和と秩序を守る『王都騎士団』の本部として活動を始めている。

 こうして我々人類は、暗黒の時代と呼ばれた魔王の支配から新たな平和を獲得したのだった。

 しかし今もまだ、その勇者の素性、そしてその協力者達の詳細は明らかになっていない”



 日が昇るのもまだ早い明朝。

 王都アルテインの最重要不可侵領域にその侵入者は突如現れた。

 侵入者は今にも折れそうな木の枝の上に器用に立ち、風に吹かれるまま身にまとった衣服を揺らしながら、その手に持った本に視線を落としている。まるで泥棒か何かのように。

「…………」

 ふぅ、と息を吐いて、その侵入者は手に持った本を閉じる。

 哀愁を漂わせた表情で、黒い瞳だけを眼下に向けた。視線の先はすでに一般の人間の入場をよしとしない空間だ。選ばれた人間、そして有能な衛兵の中でも選りすぐりの者にしか侵入を許されない。そんな日常とは全く無縁の緊張感にあふれた空間を、さも汚すかのように、穢すかのように、いともたやすくその空間に侵入していた。

 これがまた、侵入者の心を不自然に踊らせている要因だった。

 だが、何よりも彼をより強く突き動かしている原因、それは──愛執だ。

 愛ゆえに、愛がために。

「さて……」

 口角を上げて薄く笑い、侵入者は一歩足を踏み出した。当然のこと、木の枝の上から先はただ虚空が広がるのみ。計っていたかのごとく、さも当然であるかのように、真っ直ぐに引力に逆らうことなく落下していく。

 そして侵入者は、水滴が落ちるより静かに地へと接する。羽織った黒い織物が風にはためき、目の前に立つ衛兵の視界をちらつく。警備の衛兵がその存在に気付くよりも速く、侵入者はゆっくりと口を開いた。

「おやすみなさい。『────、──、──────』」

 そっと、囁きかけるような声。

 誰に話しかけるわけでもなく、ただ発するだけの声。


 ──魔法。


 それは昔、とある魔術研究者の元で生み出された言葉の類だった。幾つかの言葉を規則正しく並べることにより、効果を発する。それと同時に発見されたのが、人間の体内に必然的に存在する、生命力の源とも言える存在『ウィーツェルコア』。魔法とは、このコアのエネルギーを外界へ干渉する『力』の具現として行使する方法を言った。

 魔法という新たな人間の進化を見出した人類は、魔法のさらなる使い勝手を求め、詠唱単語を極限──たった三語にまで減らすことに成功したのだった。

 つまり、魔法とは、三つの言葉を連ねただけの簡易な言葉を指す。そしてそれがたった今唱えられた。

「は?」

「なんだ……?」

 衛兵らはたまらず疑問詞を口にする。

 無理もない。それもそうだ。

 あぁ、なんてかわいそうなのだろう。侵入者は自らの唱えた魔法の餌食となる彼らへむけ、慈愛の言葉を胸中で紡いでいた。

 彼らの目の前の──美しい王都エルドローグの夜景が、瞬く間に星の光すら見えない暗黒へと塗り替えられていた。

 同時に、彼らを包み込んだのは奇妙な浮遊感。指の先から臓の中まで、一緒くたに宙に浮かべられたような感覚だ。だが、その不思議な感覚が虚実なのか現実なのかどうかすら確かめる術を彼らは持っていなかった。

 侵入者はそれを理解した上で、手の平を顔に当て、わざとらしく嘆き悲しんでみせた。

「あー、なんてかわいそうー。これから死んでしまうというのにー、その事実すらも理解できないなんてー」

 妙なくらいに間延びした語尾で、感情のこもっているようなこもっていないような、どっちつかずの言葉を紡ぐ。

 衛兵たちが自らの足が大地を踏みしめていること確認しようと下を見れば、そこに地面はなく、暗黒が広がっているのみ。どこまで広がっているのかわからない、いまにも吸い込まれそうな闇を前に、彼らが出来ることは何一つない。

 その感覚はまるで、高所からの落下に近かった。

 侵入者の側から見れば、その全貌は巨大な球体。夜よりも深い暗黒の球体が、施設の一角を包み込んでいた。当然、その球体は術者である侵入者の支配下にある。

 侵入者はゆっくりと指をスナップさせた。

 瞬く間に球体は収縮して跡形もなくなる。

 音も、光も無く、暗黒が現れ消え失せた。ただそれだけのはずだった。

「さて、行きましょうか」

 やり遂げた表情で侵入者は歩き出す。

 魔法による施設の破壊は見られない。しかし、奇妙なことにあの黒球に囚われたありとあらゆる生物たちは、その消滅と共にまとめて残らず消え去っていた。

 何も残らない。死という感覚も、呻き声すらあげられずに何が起こったのかさえ理解し得ないのだからしょうがない。

 そんな中を、侵入者は訝しげもなく堂々と歩く。ここは私の領分だと言わんばかりに。

 王都の、大陸の最重要不可侵領域を。

 それは異常。そして、王都歴史上最悪の事態であることは明確だった。

 やがて侵入者は目当ての場所へとたどり着く。

 仰々しく飾られた玉座。そこには、色衰えない輝きを放つ剣が一つ。

「今、貴方を解放します」

 侵入者はその剣に触れない。目的はそれではないからだ。謎めいた言葉を放ち、嬉々とした表情で、そっと剣の置かれた台座を撫でる。行動の真意は知り得ない。問おうにも誰もいない。それ以上に、侵入者の放つ威圧に満ちた気配は、生き物を寄せ付けない凄みがあった。

 侵入者の撫でた台座から、淡い光が漏れる。闇より黒い、邪悪な気配。

 光は、侵入者の掲げた手のひらに集まり、ゆっくりと吸い込まれるように消えた。

 誰にも邪魔されることなく、侵入者は目的を遂げる。

 風に溶けるように、侵入者はどこかへと姿を消した。

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