貌朧(ぼうろう)の明け
「ごめん、君誰だっけ?」
ばちん、と頬を打つ音が往来に響いた。道行く人の中には驚きや興味本意で足を止めた者もいたが、皆ソレが痴話喧嘩の類いであると分かった途端に犬も食わぬと足早にその場を通り過ぎて行った。
「あなたが、そんな不誠実な人だとは思いませんでした。このお話はなかったことにさせていただきます!」
打たれた頬に手を添えて尻餅をつく洋装の男――
なにがなんだかわからないといった様子で座り込んでいた公春は、足早にその場を去る女性の背中を呆然と見つめていた。女性に付き従っていた侍女も公春を軽蔑の眼差しで一睨みしてから女性を追うように小走りで去って行った。
「大丈夫か? 公春」
「あぁ綿貫君か。うん、平気だよ。少し痛いけど、それくらいかな」
公春の傍らに男が並び立った。幼馴染で親友の、
待ち合わせ場所に着き、公春を探していた丁度その時にこの騒ぎに気付いて、たった今公春を見つけたところだった。
「今の先週お前が見合いした榊原家のお嬢様だろ? 何かしたのか?」
公春は嗣朗に手を差し出されて立ち上がる。
女性が去った方を見ながら嗣朗が言うと、服についた土埃を払っていた公春がその手を止め、きょとんとした表情で嗣朗を見返す。
「え、本当?」
その表情がとぼけているわけではなく本気で言っているのだと分かると、嗣朗は呆れを通り越しどこか達観したようにため息を付いた。
「お前……またかよ」
「はは、またやってしまったみたいだね……」
公春は困ったように笑っていたが、心の中では何とも思っていない事すら公春自身判っていないのだろうなと、嗣朗は去って行ったお嬢様に心底同情した。
◆
公春がそれに気がついたのは物心がつき始めて少し経った頃のことだ。父と母が使用人達のことを個々に捉え認識していることに、幼いながらも酷く驚いたのだ。
公春は生まれつき人の顔がよく認識できていなかった。
父と母、いつも一緒にいてくれるじいやの顔は分かるのに、使用人や来客の顔がまるで分からなかったのだ。
目があって、鼻も口もあるのに、合わそうとすればするだけ焦点がずれて行くような不明瞭な容貌。それが揃いの服を着ていた場合が使用人なのだと思っていた。
しかしそうではないのだと、おかしいのが自分の方なのだと認識したのと同時に、公春は無意識下で顔が分かっていないことを周囲に悟られないような振る舞いをするようになった。
今まではそれで上手くいっていた、幼馴染の嗣朗には早々に気付かれたが、それを除けば何の不都合もなかった。これからもこのまま上手くいくはずだった。
それなのに、思わぬ障害が公春の前途に暗く影を落としていた。
――結婚。
それは家柄や利害によって結ばれてきた最も強固で歪な関係だ。今のご時世、世の中には恋愛結婚なる当人同士でのみの感情を優先した婚姻もあると聞いているが、元華族である公春には関係のない世界の話であった。
公春ももうとっくに結婚をしていなければならない年齢だ。親友の嗣朗は既に結婚して子供を儲けていると言うのに、公春のお見合いは失敗続きだった。
どうせ家同士の結婚なのだからと諦観していたため、公春の方から断ったことは一度もない。今まで通りにしているはずなのに、なぜかいつも相手の方から断ってくるのだ。
顔が分からないという症状が、結婚適齢期の女性に対して特に酷く現れることが影響しているのかもしれなかった。
前の前のお見合いの時は今度こそ成功させようと意気込み、とにかく誉めろとの助言を嗣朗他友人達から貰った。しかしいざ実行しようとすると顔立ちが分からない以上誉められるところは限られており、やっと出てきた台詞がこれだった。
「色とりどりで綺麗ですね。西洋画家の友人のパレットに似ています」
その場で即破談となり、これには両親も頭を抱えていた。
流石にこのままでいいわけがないと、公春自身危機感のようなものを感じていなかったわけではない。
少し前に、病院に勤める友人に「外国の医学書に人の顔が認識できない病気があるが自分はそれではないのか」と尋ねたことがあった。
しかし友人は、心底呆れ果てたような軽蔑の眼差しを公春に向け、皮肉げに口の端で笑って言った。
「お前のそれは頭の病でも目の病でもない。お前が同じ顔に見えると言う奴等は皆、お前が興味のない人間達だからだ」
「どうしても医者にかかりたいのなら精神科へ行け」とも言われた。
あぁ、だからか。と妙に納得したものだ。
あの時、診察室の窓硝子に映っていたのは、朝、自分が選んだ背広を着ている顔の分からない男の姿だった。そしてその顔は、今まで会ってきた誰よりも、どの女性達よりも、はっきりしていなかった。
「そうか、僕は自分にも興味がないのか」
己自身にも興味がないなんて、何て寂しい人間なんだろうとは思ったが、それ以上の感情が出てくることはなかった。
◆
嗣朗は時々、公春のことを冷たい人間だと言っていた。
容姿端麗で勉強もできる上に運動神経も良く、元華族であるにもかかわらずそれを鼻に掛けることもなく、誰にでも優しく、誰にでも平等に接する公春は誰にでも好かれる存在だった。学生時代、公春は常に人に囲まれていた。
それでも嗣朗は、誰にでも好かれる公春を冷たい人間だと言った。
知っていたのだ。公春を慕い、信頼や尊敬を寄せた者ほど早く公春から離れて行くことを。
彼らは知ってしまうのだ。公春の近くにいたからこそ、公春が自分達のことなど認識していないことを――。
◆
こうして、解決策がないまま現在に至っていた。
嗣朗と別れて家に帰ると、着物姿の婦人が玄関で公春を待ち構えるようにして立っていた。
「お帰りなさい、公春さん」
「は、母上……」
「お話があります」
公春は母親の冷たい声音と眼差しに思わず肩を竦ませた。
見合いの席での大惨事以降、公春の母親の中で公春の株は下がったままだ。手がかからず、我儘も言わず、煩わされることもなく、何でもそつなくこなしてきた自慢の息子の露見した欠点が我慢ならないようであった。
怒るでも悲しむでもない無表情がその恐ろしさに拍車をかけていた。
申し訳なさと肩身の狭さに肩を落としながら、すごすごと母親の後に付いて居間に向かう。
そこで母親から渡されたのは、臙脂色のスエードが表紙に貼られた二つ折りの写真台紙だった。それが何なのか、幾度も見たことがある公春には中を見ずとも分かっていた。
母親はその静かな口調の奥に失望と怒りを隠しながら諭すように言った。
「公春さん。貴方が司家の人間でないのなら、独身貴族でも高等遊民でも女嫌いの男好きでも、どうとでも好きになさればよろしい」
「あの、母上。僕はですね、特別男が好きというわけでも、女性が嫌いだというわけでもないのですが……」
「そうでしたね。嗣朗さんとよく吉原へ行っているようですしね」
「……」
「しかし貴方は司家の人間です。家というものは妻の助けがあって初めて守り継ぐことが出来るのです」
「……重々、承知致しております」
「貴方の最後の見合いが決まりました。
「……はい」
「間違っても、あの時のような恥をかかせないで下さいね」
「……はい、母上」
あの時のような、を強調され、公春は項垂れるしかなかった。
司家と吉高神家はかなり古くから交流があり、何代か前にも吉高神家から妻を娶った当主がいた。対等なようでいて実は司家の方が力が強く立場が上というのは、暗黙の了解の内に両家に根付いていた。
お見合いなどとは形だけのもの。時代に合わせて当人同士の意見も尊重しようという建前で行われるに過ぎず、たとえ公春と叶恵が嫌だと言っても夫婦にならざるを得ないのだ。
簡単に言えば叶恵は、公春が人を人とも思わない鬼畜でも、一目見るのもおぞましい醜男でも、絶対に妻になってくれる女性だった。
◆
公春と叶恵のお見合いは、桜も満開を迎えた春の暖かい日に執り行われた。
庭の大きな桜の木が自慢だという料亭の一室に公春はいた。一番眺めがいい部屋らしく、一流の職人によって手入れされているのであろう庭の、自慢だと言う桜の木がよく見えた。
手前の瓢箪型の池にはコイが数匹ゆったりと泳ぎ、ただ食事に来たのであったならば、あまりののどかさに身も心も緩めてしまっていたに違いない。
しかしこれからのことを考えると、公春は胃の中に重しを入れられたような気分だった。
ちらりと横目で見た付添人である母親の横顔は、冷たいままであった。
何気なく、今はまだ空席になっている斜め向かいの叶恵が座るのであろう席に目をやり、そしてふと、あることに気がついた。
公春は叶恵に会ったことがなかったのだ。
吉高神家の長女の
司家と吉高神家の付き合いを考えれば不思議なことだ。故意か偶然か、こんなこともあるものなのだなと、そんなことを考えているうちに時間になり、吉高神家の付添人と叶恵が部屋に入ってきた。
「司公春です。よろしくお願いします」
「吉高神叶恵です。よろしくお願いします」
顔を上げ、目が合った瞬間、公春の体の中を桜吹雪が吹き抜けた。
顔がはっきりと分かるのだ。
六尺近い身長の公春とは反対に叶恵は女性の中でも小柄なようで、容姿は良く言えば素朴で可愛らしく、悪く言えば地味。だがそんな言葉では言い表せられない魅力を公春は叶恵に感じていた。
初対面の人物の顔がはっきりと認識できたのは生まれて初めての体験だった。
腰を下ろし、進行役の仲人がなにやら話している間も、斜め向かいに座る叶恵を見て公春は惚けていた。ありきたりな表現かもしれないが、正に色褪せていた世界が鮮やかになった瞬間だった。
もしかして自分はこの人に出会うために見合いを失敗してきたのではないだろうか? そんな妄想じみた考えが公春の頭をよぎる。
控えめな愛想笑いにすら公春の心臓は脈を早め、湯飲み茶碗を持つ小さい手を握りたくてたまらなくなった。
司公春という、とっくに二十歳を過ぎた青年の、これが生まれて初めての恋であった。
◆
「君! 聞いてくれないか!!」
その日、自宅でくつろいでいた嗣朗は、興奮冷めやらぬといった様子の公春に襲撃され、延々と深夜まで叶恵の話を聞かされることとなった。
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