ファンタジー

コユンとヴォールク

「あぁ、街が見たいなぁ」


 老い、しわがれて、夜に滲むような声だった。


 王都の表面的な華やかさとは隔離された貧民窟に建つ、元は豪商の屋敷だった荒廃した大きな建築物の一室で、男が一人ベッドに横たわっていた。

 この屋敷の元の主人が使っていたのだろう。男が横たわるベッドは、かつての重厚感のある豪華さを想像するに難くない程度には装飾が残っていた。

 男の名はヴォールク。王都の貧民窟を根城にしている盗賊の頭だ。

 今でこそ盛りを過ぎた老木のような印象を抱くが、彫りの深い顔や痩せ衰えていても大柄で骨格がしっかりした体つきは、男盛りの頃はさぞ大暴れしていたに違いないと思わせるには十分だった。


 ヴォールクの傍には、俯いて肘掛け椅子に座る一人の青年がいた。

 青年が座る椅子も張られた革が劣化しぼろぼろになってはいるが、作りそのものは丁寧で高級感があり、ヴォールクが横になっているベッドと同様に元々この屋敷にあったものだろう。

 青年はコユンと呼ばれていた。父と母に与えられた本当の名前は別にあるが、それを進んで誰かに言うことはなかったし、かれても教えはしなかっただろう。

 少し長めの髪が顔を隠していることもあり、サイドテーブルに置かれた小さな魔石ランプの弱々しい光ではその表情はあまり窺えなかったが、コユンは下唇を噛んで色々なものがないまぜになった複雑な表情をしていた。

 そして恐らく、その複雑な表情の中で一際色濃く現れていたのは怒りだ。


「なぁコユン、ちょっと連れてってくれよ」


 膝の上で皮膚が白くなるほど強く拳を握り、微かに震えた右手を左手が咄嗟に抑え込む。

 衝動を、きつく爪を立てて痛みで散らして誤魔化した。

 肺の中の空気を絞り出すように静かに深く息を吐く。その息は暗い熱を孕み、黒く濁っているような気がした。


 コユンはおもむろに椅子から立つと部屋から出て行き、少しすると戻ってきた。

 ベッドから起き上がって端に腰掛けていたヴォールクは、その腕に掛けられた縄に少し驚いたように一瞬目を見開いたが、目を眇めるとニヤッと人の悪い笑みを浮かべた。


「おいおい何だよその縄。それでおれの首でも絞めようってのか?」

「――そうだな。それも良いかもしれない」


 茶化したように言うヴォールクをコユンは何の色も温度もない瞳で見る。

 歩きながら縄の束を解いて、人一人引っ掛けるのに丁度良い長さの所を両手に持つ。余った縄が床に音を立てて落ち、引き摺られた。

 ベッドに座るヴォールクの前に立ち見下ろすと、ゆっくりと腕を上げた。

 顔、頭、後頭部と過ぎ、頸裏で腕が止まる。ちらりとヴォールクを見やれば、先程の人を小馬鹿にしたようなニヤけた顔とは打って変わって、凪いだように静かな表情で目を瞑っていた。

 ちっ、と内心で舌打ちをしてコユンは縄を握り直すとヴォールクの背中に縄を回しかける。


「何だよ、おんぶ紐かよ。マジで一瞬くびられるのかと思っちまったじゃねぇか」


 コユンは一瞬不快そうに眉をひそめたが、特に何かを言うこともなく背中に乗ったヴォールクを固定する作業を続けた。


 途中、縄が足に食い込んで痛いだの縛りがきついだの文句を言われ、今度こそ本当に頭と胴体の間に縄を掛けてやろうかと思ったが踏み止まり、ようやくヴォールクを背負い終えた時にはひと仕事した気分になった。

 ヴォールクの体はコユンが思っていたよりも随分と軽かった。

 コユンはその場で何度か跳躍などをして動きの違いや縄の縛り具合などを確認すると、擦り切れたカーテンで覆われた窓へ向かった。

 カーテンを退かしバルコニーに通じる掃き出し窓を押し開くと、風がコユンの髪を梳き頬を撫でる。


 コユンとヴォールクには嗅ぎ慣れた、夜の匂いだった。


 バルコニーに出ると月明かりがコユンの顔を照らした。

 夜空と同じ色の目や髪。細身ながらも程良く筋肉が付いて引き締まった体。

 仲間内では「盗賊なんかやめて春でもひさんでろ」だの「ジゴロの方が似合ってる」だのと、からかいのネタになるほどの端整な顔立ち。

 粗野粗暴な盗賊達と違って立ち振る舞いにもどこか品があり、一目でコユンを盗賊の若頭だと見破る者はまずいないだろう。


「あーあ、満月かよ。こりゃ仕事にゃ向いてねぇ日だなぁ」


 背中から聞こえたのは、盛大な舌打ち。


「影が濃いのは良いが明るいから夜目になれねぇし、こんな時に限って姿見られて殺さなきゃなんねぇんだぜ? 最悪だ」


 心底面倒臭そうに話すヴォールクの言葉をコユンは苦汁を嘗めさせられたような表情で聞いていたが、すぐに表情を消すとバルコニーの手摺りに足を掛けた。


 藍色の空に星はない。満月が一際大きく、一層輝いている夜だった。

 トッ、と軽い音を立ててコユンはバルコニーの手摺りから跳躍し、夜の街に飛び込んだ。

 屋根の上を跳び回り、夜を駆ける。

 コユンが空中を蹴るたびに、小さな魔方陣が砕けて星屑のように散っていった。


「おおぅ」


 コユンにとっては慣れたことであったが、体を悪くし、現場から退いていたヴォールクにはしばらくぶりの感覚だったようで体が強張っていた。


「おいコユンよぉ、もちっと老体労われやぁ」

「……うるさいな。運んでやってるだけありがたく思え」


 吐き捨てるような口調だったからだろう。その時、ヴォールクの雰囲気が一瞬で変わった。

 首に回されていた腕をぐっと引かれ、喉が締まる。


「っ……」

「何だぁお前、その口の利き方は? 躾けられたいのか?」


 耳元でドスの効いた低い声で凄まれれば、コユンは簡単に盗賊の頭に怯えるただの小さな子供に戻ってしまう。

 表情は固く強張り、纏う空気に怯えが浮かんだ。


「――なぁーんてな。おれが丸くなってて良かったなぁ、コユン。現役だったら蹴り殺されてんぞ」


 霧散する重圧に、詰めていた息を吐き、萎縮していた体から力を抜いた。


 二人は、夜の静寂に沈む街を駆けていた。ヴォールクはコユンに背負われながら、ぽつりぽつりと昔の話を話し始めた。

 そんな馬鹿なと思うような冒険談紛いの話から、聞くに堪えないようなろくでもない話まで、まるでアルバムを眺めるかのように話した。

 ほとんどが一度は聞いたことのある話だったので聞き流していたが、ヴォールクはコユンから返事も相槌もないことを気にすることなく子供に聞かせる寝物語のように話し続けていた。

 そんな時、ふつり、と話が途切れた。コユンもそれに合わせるように何となくだったが足を止めた。


「コユン。時計塔へ行ってくれ」

「時計塔? あんな所に何があるんだ?」

「んあ? なんもねぇぞ?」

「はぁ? 何もないのにあんな高い所へ行くのか? アンタを担いで登らされる俺の身になれよ」

「……ごちゃごちゃうるせぇなぁ。さっさと行けってんだよっ!」


 ゴッ……! と鈍い音がコユンの頭の中に響いた。


「ったぁ! いきなり何するんだよ!?」

「お前がうるせぇからだよ」


 後頭部を押さえて振り返ると、今度は頬に何かが突き刺さる。

 その何かはヴォールクの人差し指で、コユンの肩に掴まっている手から立てられていた。


「この……っ!」

「ほれほれ、さっさと行け。足が止まってんぞ」


 コユンのフラストレーションなどお構いなしに、ヴォールクはぺしぺし頭を叩いて時計塔へと急かす。


「じゃあ、お望み通りにさっさと行ってやるよっ!」


 コユンは意趣返しとばかりに、一際大きい魔方陣を展開させた。

 足元の屋根瓦が割れ、塵が重力に逆らって浮遊し始める。魔方陣の薄紫色の光に照らされたコユンの顔は、悪党といたずら小僧を混ぜたような表情をしていた。


「お、おい。これはちっとやり過ぎじゃねぇのか? 魔力もかなり使うんだろ? さっきみてぇなちっせーやつで十分じゃねぇのか?」

「……舌噛むなよ?」

「おいコユン! 待っ――」


 その瞬間屋根の上から二人の姿が掻き消え、遠くから、夜のしじまに野太い叫び声が響き渡った。


          ◆


 時計塔は王都で一番高い建造物だ。

 木と煉瓦と魔法で建てられた塔は全体に白い石板が貼られ、優美で気品のあるその姿はまるで天空へと伸びゆく一筋の光だと誰かが言っていたが、コユンは空に突き刺さる巨大な骨のようだと思った。

 塔の頂部にある鐘は四方を鐘の音を響かせるための開口部とバルコニーに囲まれ、コユンはそのバルコニーに降り立つと、ヴォールクを背中から下ろして開口部の壁に寄り掛かるように座らせた。


「空中散歩のご感想は?」

「……二度と御免だ」


 げんなりした様子で恨めしそうに睨むヴォールクなど何処吹く風で、コユンはしたり顔を隠そうともせずにくるりと身を反転させると手摺に手を突いて身を乗り出した。

 初めてこんなに高い所へ来たのに恐怖心は不思議と湧かなかった。見渡す限り視界を遮るものは何もなく、肌に触れる風は下界とは違って何の匂いもしなかった。


「王城が見下ろせるなんて凄い景色だな。アンタは前に来たことがあったのか?」


 今まで駆けていた王都を見回せば、月明かりに浮かび上がる城下街とは対照的に王城の周辺は魔石で生み出された光が溢れていたが、その光が邪魔をして方角的には見えるはずだった海を見ることは出来なかった。


「コユン」

「んー?」


「お前、ついにおれを殺さなかったなぁ」


 ぴくりと肩を跳ねさせたコユンを見て、くつくつと愉快そうにヴォールクは笑った。


「駄目だなぁ。盗賊がこれくらいで、動揺するもんじゃあない」


 コユンにはヴォールクがどんな顔をしているのか分からなかったが、きっとしわくちゃの顔を更にしわくちゃにして笑っているのだろうと思った。

 コユンは振り返った。痛みを堪えるような、感情の起伏を無理矢理に抑え込もうとして失敗した、今にも泣き出しそうな表情だった。


 ――何て顔していやがんだ、馬鹿が。


 小さくそう呟く声が聞こえた。


「なぁ、どうして、殺さなかった……」


 ヴォールクにじっと見据えられ、息が詰まるような感覚に陥った。何かを言おうとしてもそれはすべて嘘でしかなく、空気が声帯の間を無意味に通り過ぎていった。


 コユンに殺意はあった。ずっとあったのだ。今だって、殺したいと思っている。けれども、顔もろくに思い出せなくなっている両親よりも、この男の顔を思い浮かべる方が多くなっていた。


 父を殺された。母を殺された。家に仕えていた使用人達もすべて殺された。

 気紛れで自分だけが生かされた。コユンだけが殺されなかった。

 孤児になったコユンは父や母の復讐をするために浮浪児としてヴォールクの盗賊団に入ったが、すぐに正体を見破られた。

 しかしヴォールクは、コユンの出自を他のメンバーに言うことはなかった。


 何度も殺そうとしたが、その度に手酷く返り討ちにあった。

 殴る蹴るは軽い方で、骨を折られたこともあったし、血反吐を吐いたこともあった。捩じ伏せられて慰み者になったことも一度や二度じゃない。

 それでも毎回、「お前も懲りねぇなぁ」そう言ってヴォールクは介抱してくれた。


 酒に酔った姿を見るのが嫌だった。酒気の漂う生臭い息が嫌いだった。女の臭いをさせて帰って来るのが、堪らなく嫌だった。


 仕事を覚えて、それが上手く行った時、「よくやった」そう言って乱暴に頭を撫でてくる手は傷とシワの区別が難しくなっていた。

 幼かったコユンには到底辿り着けそうになかった大きな背中は、いつの間にか背負えるほど小さくなっていた。

 少し前までは葡萄酒を飲み干しながら焼いた塊肉を貪り食っていたのに、今では酒は飲まず肉は胸焼けがすると言って嫌い、薄い味付けのスープに少しのパンを浸しながら食べるだけ。

 食が細くなって、体力が落ちて、日に日にコユンの目の前でヴォールクは老いていった。


「っ……ふざけるな! 不潔で、だらしなくて、最低で、人間のクズで、父さまと母さまを、家の皆を殺したのに、なのにっ、何なんだよ! 何でアンタ、そんな、今にも死にそうになってんだよ!」


 コユンはヴォールクに掴みかかり、胸に額を押し付けるように俯いた。


「生きてくれないと、困るんだよ……。アンタは、オレが殺すんだから……!」

「そいつぁ、残念だったなぁ……。逃げるが勝ちだ」


 いつの間にか、ヴォールクが頭を撫でてくれていた。いつもの髪を滅茶苦茶にするような乱暴なものではなく、聞き分けのない子供をあやすような優しい手付きだった。

 目頭が熱くなる。コユンは泣き出す寸前のように唇が震えるのを噛んで誤魔化した。

 どれくらいの時間をそうしていたのか分からないが、ふっとコユンの頭から重さが消えた。


「ヴォールク!?」


 慌てて肩を揺さぶると、ヴォールクはゆっくりと瞬きをして目だけで東の空を見やった。

 太陽が昇り、ヴォールクの顔に朝日が差した。


「もう朝かぁ……。そんじゃあ……帰って、寝るかぁ……」


 眩しそうに、目を細める。

 まるでお休みとでも言うかのように、ゆっくりと目が閉じられた。


「ヴォー、ルク……」


 ヴォールクの肩から手を離すと、支えがなくなった体は簡単に傾いて倒れた。

 痩せ衰えた体、張りのない皮膚、艶のない髪。眠るヴォールクは道端に打ち捨てられた野良犬に似ていた。

 けれども打ち捨てられた野良犬と違って、ヴォールクは良い夢でも見ているんじゃないかと錯覚するくらい安らかな表情をしていた。

 コユンの頬を水滴が掠め、ぽつ、と音を立てて落ちた。


「クソっ、雨に降られるなんて、ついてねぇなぁ……」


 次から次へと落ちてくる滴を服の袖で乱暴に拭う。

 目を潰さんばかりに輝く太陽に顔を向ければ、黄金色の朝日を背景に、白い鳩の群れが飛んでいた。


 ごぉぉぉぉん、ごぉぉぉぉん、と、朝を告げる鐘が鳴った。

 大きな鐘の音が波となってコユンの身体を打ち震わせる。


「――――、――――……」


 その言葉はコユン自身さえ聞くことなく、鐘の音に消され散らされていった。

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