Rooftop Stage

 屋上と言う場所は実に魅力的だ。

 コンクリートで造られ、窓がなければ一切の光が入らない、硬く冷たい閉塞感を体現したかの様な校舎で唯一、名前を聞いただけでも晴れ晴れとした気分に為れそうな、開放感に満ち溢れた場所でもある。

 同じ『外』でありながらも、グラウンドとは全く違う空気、普段の生活では味わえない視界の広さと高さ。

 虐め、愛の告白、秘め事、乱闘、自殺騒ぎ等、数々の乳臭さ漂う青春悲喜劇が繰り広げられる、某国立歌劇場に勝るとも劣らない最高の舞台でもあった。

 だがそれも、テレビや漫画の中に過ぎない。

 実際の屋上は四六時中施錠された侭で出られなく為っていたり、過剰と言っても過言ではない高さのフェンスが張り巡らされていたりして、運良く出られたとしても、それは授業と言う名目で教員の監視付き。

 よからぬ事を考えず、思い付きもしない大凡大半の学生を失望させるには、十二分な処置が施されていた。

 だから余計に、その憧れの場所へと足を踏み入れるのを拒む様に固く口を閉ざした扉の鍵が壊れていると知った時、有島ありしま雅人まさとの心は、正に天にも昇る心地であった。

 偶然、本当に偶然だった。ほんの少しの期待と願望を込めた軽い気持ちで、雅人はその扉に手を掛けた。

 胸を貫いた衝撃、熱く込み上げる高揚、心臓は激しく胸を打ち、眩暈を伴う興奮で震える手を薄っすらと埃が積もるドアノブに添えて、この幸福が衝撃で醒めない様にと、ゆっくりと扉を押し開ける。

 徐々に覗く未開の地。扉の隙間から差す外界の光の強さに微かに目を細める様は、恍惚にも似ていた。

 光に慣れた目に飛び込んでくるコンクリートの白さと空の青。埃っぽい澱んだ空気が一変酸素の多く含まれた外気に変わり、一歩踏み出した其処は建造物の範囲内でありながら『外』。

 この時この瞬間から、目前に広がった屋上は、確かに雅人だけのモノだった。


 ――だからドアの前が物置に為ってたのか……。


 憶測ではあるが、雅人は今、学校側の怠慢により此処に立っていられるのだろう。

 大方、扉の鍵が壊れているのを知りつつも修理を依頼するのが面倒で放置。かと言って生徒に勝手に屋上に出入りされては厄介な上に後々問題に為る。ならば使わなくなった机や椅子で塞いで出られない様にして仕舞えば良い。

 教員達の目論見は、ドアノブにうっすらと埃が積もっていた事実からして大凡成功と言えるだろう。

 だがしかし、この一点に於いては失念していた、若しくは侮っていたに違いない。

 何せこの扉は外開き、バリケードの如く詰まれた障害物さえ如何にかすれば容易に屋上へと出られて仕舞うのだ。

 実際に彼は山と詰まれた机や椅子の隙間を潜り抜けてきた。

(大人って意外と適当だよなぁ……)

 鳥も飛ばない晴れ渡る晴天のもと、髪を攫い肌を撫でる湿気の含まれていない風がとても気持ちが良かった。

 初めて来る場所、初めて見る景色、コンクリートの目地に蒸した苔や雑草すら雅人を喜ばせ、心を疼かせる要素の一つでしかなかった。


 実に小気味良い、清々しささえ感じる日和であった。


          ◆


「そんな嫌そうな顔しないでよ。自分だけの場所がそうでなくなって終ったのは、有島君だけじゃないんだから」


 扉を開け存在に気が付いて目が合い、お互いに吃驚して一瞬の沈黙の後、雅人にとっては忌々しい先客――吉川よしかわ貴史たかしは少し眉根を寄せて困った顔で微笑んでいた。

 雪の日の朝、庭に積もっているであろう真っ新な雪にいの一番に足跡を残そうと玄関を飛び出たは良いが、目の前から道路へと続く新聞配達員のバイクのタイヤ痕と足跡を見た時の落胆に酷く良く似た気分だった。

 今の雅人の表情を言葉にするとしたら、正しく苦虫を噛み潰した顔だろう。

「……来るのは先生だけ?」

 何故此処に、と問い掛けるのは全くの愚問である。先生、つまり吉川は鍵を直さない施設管理怠慢の一端を担う教員であり、当然知っていても可笑しくはないし、こっそり出入りしていたとしても、屋上の魅力から考えれば当然と言えば当然である。

「知る限りでは僕と有島君だけだよ」

 知る限りでは、との言い方に少し引っ掛かったが、先程の忌々しさも今では屋上の魅力に攪拌され希薄に為りつつあった。そしてこの先客が吉川であった事に、雅人は少なからず安堵していた。

「最近授業に出ないと思ったら、此処にいたんだね」

 怒るでもなく叱るでもなく些細な疑問が解けた様な口振り、吉川は正に今時の教師らしい教師だった。

 只普通に教壇に立ち、只普通に生徒と会話し、只普通に作業的に教師と言う業務を全うしているだけ。

 身形に矢鱈目を光らせる煩い学年主任や絵に描いた様な熱血体育教師、人生を熱く語り未来に希望を抱くやる気満々な新任教師に比べたら、吉川の方が何倍も親しみ易いからだ。

 何事も適度に適当にこなす、生徒にとっては都合の良い、所謂『優しい先生』だった。


 開閉しない方の扉に寄り掛かり何をするでもなく腰を下ろしている吉川に倣い、腰を下ろして背中を扉に預ける。

 紅葉も枯れ葉に変わる時期とは言え、今日は特別暖かい上に風もない。近年騒がれ続けている地球温暖化の影響も少なからずあるのかも知れない。

 日差しを避ける事が出来ない屋上は、冬服であるブレザーを着ている雅人にとってじんわりと汗ばむ陽気だった。

「暑いねぇ……」

 吉川の独り言なのか雅人に話し掛けているのか、何方とも言える微妙な雰囲気で、応えるか如何かを迷いながら横目で雅人は吉川を見やった。

 何処か遠くを眺めている様な、何処か遠くに耳を澄ましている様な、別の場所に意識があるのだと見ただけで直ぐに分かった。

 一般的なグレーのスーツ、第一ボタン迄きっちりと留めたワイシャツに形良く締めた細身のネクタイ。日の光を受け焦げ茶色に透けた髪、色白でやや線の細い顔に普段の柔和さが加わり、一部の女生徒に人気があるとかないとか、真相は定かではない。

(昼休み迄時間潰そうかと思ってたんだけどなぁ……。てか教師って普通注意とかするんじゃないの?)

「注意して欲しいの?」

 丸で心を読み取ったかの様な吉川の言葉に雅人は酷く驚いた。

 吉川はこれでも教員の端くれなのだ。若しかしたら教員には生徒の心を盗み読む様な特別なスキルが習得できる機関があるのだろうか。若しくは自分では認識しない内に声に出していたのかと、声に出していないと頭の隅で判っていても、吃驚して焦っている為、雅人の思考は支離滅裂だ。

「ん、気まずそうな顔してたから」

「……さとり?」

 更に心を読んだかの様な発言に、本気半分冗談半分で、山奥にいるらしい妖怪の名前を口にしてみる。「お前今、××と思っただろう」と言って旅人を驚かす、何とも嫌な妖怪だ。

「そうだったら楽しいだろうねぇ……。だけど長く生きていると、相手の顔で大体判るようになるんだよ。自然とね」

 自然とね、の下りの感情の篭っていない言い方は時間に疲弊した大人の顔をしていて、苦笑いを浮かべた吉川は、楽しそうだとは、ちっとも思っていない様だった。

 その表情と声音に、何か胸の奥底でチリと疼く表しようも無い嫌な感じ、聞いてはいけない事を聞いてしまった様な心持になり、急いで自然な流れを装って話を逸らす。

「長く生きていると、って先生三十路だろ? それって長いのか?」

「はは、長いなんてもんじゃないよ。長過ぎて学生の頃の記憶なんて、殆ど忘れて仕舞ったよ」

「……只の健忘症だろ」

「有島君は手厳しいねぇ」

 アメリカ人の様に肩を竦め手を挙げるジェスチャー。その仕草が大袈裟と言うか態とがましい気がするのはきっと間違いではないはずだ。


 大人は非常に面倒な生き物。少なくとも雅人はそう認識していた。

 したくない事もしなければならず。逃げる事も叶わないのだ。例え逃げが叶ったとしても、それは社会不適合者の烙印を押され、疎外され、忌むべき存在へ成り下がって仕舞う。

 この男にも、多分色々とあるのではないだろうか。一見飄々とした心象に関わらず、心の中で悲鳴を上げた事だってあるに違いない。

「サボタージュは癖になるから、僕が言えた事じゃないけれど、教室にいるのが苦痛に為る前に、此処に来るのは控えた方が良いと思うよ」


 忠告、警告、経験者からの、助言……?


 暫くの沈黙の後、よっこいせと年寄り臭い掛け声で立ち上がった吉川は雅人にそう言い、顔を見合わせる事もなく屋上を後にした。

 頭に残る言葉。瞳に残る残像としての後ろ姿。ひらりと風を孕んだジャケットの裾の灰色さえ呪いか何かの様に網膜に焼き付く。何かの小説に登場した眩暈坂は屹度こんな様子なのだろうと、雅人は頭の隅でぼんやりと思った。


 じりじりと季節外れに太陽は見栄を張る様に光を放ち、地を焼く。

 晴天ですらも何処か覇気なく澱み、幽かな月は肩身狭げに雅人を見下ろしていた。


          ◆


 ある日突然に、その扉は堅く口を閉ざした。

 日常と化した屋上でのサボタージュを貪る為に、いつもの様に階段を上り、いつもの様に積み上げられた机や椅子を潜り抜け、いつもの様にドアノブを捻り、いつもの様に開く筈だった扉は、いつもとは違い金属音と共に動きを止めた。

「!」

 何かの間違いだと思った。古いドアノブが偶々、渋さで引っ掛かっているのだと思いたかった。

 もう一度、今度は閂のスライドを確かめる様にゆっくりとドアノブを捻る。

「っ……何で……!」

 雅人の想いに反して、閂が動く事はなかった。

 昨日迄は確信的に、いつ迄もこの扉を自由に出入り出来るのだと思っていた。この扉は直される事なく、この侭ずっと、此処にこの様にあるのだと思っていた。

 悲しみとも怒りとも言い表せない感情がじわりじわりと、体の真ん中から脳天へと爪先へと広がっていく。熱病に浮かされた頭を必死に回転させる様に、雅人は扉が開かなくなる理由を施錠以外で考えを巡らす。

 しかし、思い浮かぶのは鍵が掛けられたと言う悲観的な現実ばかりであった。

 何故今なのだろう、何故今日なのだろう。何故、自分がこの学校を去る日迄、放って置いてくれなかったのだろう。

 目頭に熱が集まり、鼻の奥がつんと痛む。無意識にドアノブを握る手に力が入り、力任せに揺さぶり捻った。撓みはするが開く気配のない鉄製の扉が酷く憎らしいものに思えた。

 心中に渦巻くドロリとした黒い粘性の感情。

 そして雷鳴が轟く様に刺し込む、聞き慣れた、良く響く透き通った声。

「有島君」

 振り向けば、積み上げられた机や椅子の隙間から吉川が階段の踊り場に姿を現し、階段を上っているのが見える。

「生徒がね、出入りしているのを、他の教員が見て仕舞ったんだよ。……如何やら、鍵が壊れているのを知っていたのは有島君だけじゃなかったみたいだね」

 巧く鉢合わなかった各々の時間。偶然鉢合わせた雅人と吉川の時間。

 秘密の屋上。誰もが、自分だけが鍵が壊れているのを知っていると思い込み、一時の優越感と開放感と、スリルに浸っていたのだろう。

 コツコツ、と硬いゴム製の靴底が塩化ビニールで被われたコンクリートの階段を上る音が、段々と大きく近付いてくる。

「……俺、嫌なんだ」

 雅人は駄々をこねる様にガチャガチャと乱暴にドアノブを回していた。

 頑として引っ込もうとしない閂が発する金属音が乱暴さをより際立たせ、異様さを演出していた。

「何が嫌なのか、何で嫌なのか、分からないのに、嫌で嫌で堪らないんだ……!」

 屋上にいると力が抜けていく気がした。強ばる心が、詰めた息が、自然と和らいでいくのが分かった。息抜きと称しては頻繁に訪れる様に為っていた。

 ちょくちょく出会す、只の優男だと思っていた吉川との他愛無い会話も意外と楽しいと感じた。否、寧ろ同級生と話すより楽しかった。

 平生の鬱陶しさを忘れられる場所で、心の支えとか、安らぎの場等と言う誇張したものではなかったが、確かに、雅人にとっては大切な場所だったのだ。

「有島君。僕に出来る事は少ないけれど、僕はね、この学校の先生なんだよ」

 派手な音を立て、机や椅子を退けて近付いて来る吉川に不可思議で微かな恐怖を覚え乍も、それが一体何なのだと、真意が読めず苛立ち紛れに何をするのか見ていれば、スラックスのポケットから赤いプラスチックのタグが付いた銀色の鍵を取り出した。

 それを鍵穴に差し込み捻れば、先程迄どんなに乱暴にしても引っ込まなかった閂が外れ、容易にドアノブが回る。

 キィ、と金属が擦れ合う音。其処には二度と見る筈のなかった光景が広がっていた。

「……少し、肌寒いかな?」

 風に乱れる髪を押さえ、吉川は出会す度にそうしていた様に、開閉しない方の扉の前に腰を下ろす。

 少し距離を空けた隣に乱暴に座り、頭を抱え込む様に膝に顔を埋めると雅人はそれ切り黙り込んだ。


 どれ程の時間を沈黙が支配していたのか、雅人には判らなかった。

 時間と言うモノは迚も不可思議な性質を持っていて、子供と大人でも時間の流れは違うし、状況によっても感じ方は人それぞれ違うからだ。

 雅人にとっては酷く長い間の沈黙だったかも知れないが、吉川には通常の時の流れだったのかも知れない。

 何故、如何してこうなったのか。

 雅人の心を占めているのは先ほどの失態とも言うべき独白である。


 雅人は何も言わない子供だった。昔から。何をしたいのか、何をしたかったのか。何を思い、何を考えているのか、何も言わない子供だった。

 心の奥底に根を張る、物言わぬ恐怖。蜷局を巻き心に根を張る黒い塊。

 そう、怖くて、何も言えなかった。返ってくる言葉が怖かった。此方を向く相手の表情が怖かった。何も理解してはくれないのだと、知ってしまう事が、気付くことが恐かった。

 諦め、嫌い、成長するにつれて、思うことさえしなくなっていった。ぐっと堪え口を噤む。其れが大人になる事なのだとも思った。

 盲目であれ。無関心であれ。何も聴かず、何も識らず。誰も、知り得はしないのだ、と。知らなければナイのと同じ事。ナイ事は感じない事。感じなければ心は凪いだ様に平らでいられるのだ。

 救いを、助けを求めるのも恥だと思った。それを只プライドが高いだけだと言って仕舞えばそれ迄だが、辛さを晒し弱みを見せる事は堪え難い事だった。


「……あんたは、死にたいと思ったことがあるか?」


 けれども踏み出した決死の一歩。

 気紛れと言えば気紛れ、興味といえば興味、期待と言えば期待。今を逃せば二度とは晒さないであろう胸中の深層意識。

 己を理解出来るのか捕まえる事が出来るのか留める事が出来るのか。警戒し、探り、試し、救済を望み望まぬ相反する希求を無視して、雅人は言葉を発した。

 くぐもっていたかもしれない、掠れていたかもしれない、聞き取れていなかったかもしれない。それでも構わなかった。

 どうせ卒業して仕舞えば何の関わりもない赤の他人。喩え自分の望む言葉が得られずとも、卒業迄宥め透かしていれば何の問題も無い。油断。侮り。嘲り。余裕。恐いもの見たさ。

 それでも思い、願うのは、何かからの、救済。

「死にたいとか、消えたいとか、別の世界に行きたいとか、初めからやり直したいとか、思ったことがあるか? いや、別になくったっていい。人其々だし俺はあんたのことを知らないし、あったってなくたって其れは問題じゃない。だけど俺は死にたいと思うことがある。消えることが出来ればどんなにか楽だろうとさえ思った。だけどそんなの、幼稚で下らなくて陳腐でマジョリティーで思春期の厭世的な莫迦気た妄想だって解ってるんだ。人生死ぬ迄の暇潰し? そんなの、昔から気付いてたさ! ……だけど、気が付いても、何も変わらない。何も変わらない、苦しい侭だ。ずっと胸焼けしてるみたいに気持ち悪くて、息苦しくて、堪らない……!!」

 ブレザーの袖を力任せに握り締め、歯を食いしばる。そうしなければ自分の心に負けてしまいそうだった、形振り構わずに泣きじゃくってしまいそうだった。

「……だから、いつも長袖なのかな?」

 その言葉に否応無しに肩が撥ね、熱が引き顔が強張る。

 先日の母親の懇願する泣き顔が脳裏にフラッシュバックし、口を引き結び奥歯をぎちりと鳴らす。

 あの時の母親を思い出すと、嫌悪感で吐き気がするのだ。自分の遺伝子を引き継ぐ子供なのだから大丈夫だと盲目的な信頼と安心感で興味を示さない父。愚かな親と愚劣な子供。

 吉川から顔は見えない筈なのに、堅い顔の侭きつく眉根を寄せ、明らかな拒絶と不快の意を露わにした雅人を感じ取り、慌てた様子も取り繕う様子もなく思った事をその侭に述べる。

「あ、別に怒ったり責めてる訳じゃないよ? そう言うのって若い女の子に多いって聞いていたから、珍しいと思ってね」

 思わず鼻で笑いそうになってしまった。この様な、吉川の言う『そう言うの』は行為としては然程珍しいものではない。寧ろ思春期の通過儀礼だ。だのに大人は忌々しく騒ぎ立て大袈裟に事を荒立てる。そんな風に育てて仕舞ったと自身を責め、子に謝罪し、丸で壊れ物を扱うかの様に怯えた態度でいつまでも接するのだ。謝罪を確認行為とし、子の否定に安堵し、肯定と責苦に自らの負い目をナルシシズムに変換する。

「普段から結構見下しがちで生意気な事言ってるけど、有島君って意外とナイーブなんだね」

「なっ……!」

 くっ、とつい出てしまったと言わんばかりのシリアスをぶち壊すくつくつ笑いに腹が立ち睨み付ける。

「あ、ごめんごめん! いや、ね。純粋だから傷つき易くて辛くなっちゃうのかなぁって」

 へらりと照れ臭そうにも見える笑みを浮かべる吉川にぎくりと苦い胸元のシャツを握る。

 今までの大人とは全く違う反応。テンプレートの様な相手の様子を鬱陶しいと思ってはいたが、思いもよらぬ反応を返され何故か戸惑う。それに底知れぬ違和感とほんの少しの恐怖を感じつつも雅人はそれを悟られない様に表情を崩すまいと努める。

「僕の友達にも居たよ。君みたいなの。『何にも気が付かずに時間を消費するよりも、何かに気付いて思い悩む方が生きている心地がする』って言って、いっつも人を小馬鹿にして、世間を批判して見下して、結局最後は独りきり。口ばかり達者で何もしない怠け者だったから、誰も彼女の傍に残らなかった」

 全てを見下している様であり何か悟りきっている様な何処までも冷く突き放す横顔。

 背筋が震え、つい咎められているのではないかと錯覚してしまう。吉川にそんなつもりがないと解りきっている所為で、微かでもそう思ってしまった自分に罪悪感すら浮上し、これでは丸で被害妄想だと顔を再度膝に埋め伏せ自己嫌悪に陥る。

 そんな雅人の様子を気にも止めるでもなく吉川は続けた。

「僕に言わせれば、愚かなのは世界じゃなくて彼女の方だった。彼女が何か言う度にいつも思ってた。其れが何? だから何なの? 君は何が言いたいの? ……結局、人間は何時の日にか死ぬって事で、今更、意味だの意義だの小難しい詰まらない事を言ったって、只、死ぬ。それだけなんじゃないかって。……まぁ僕はそんな彼女に何かしてやろうとか、助けになりたいとか思う程博愛主義じゃないからね。何もしなかった。そしたら彼女、僕に何て言ったと思う? 『お前は酷い奴だ』だって。冗談じゃないよね。最後に残ったのが僕で一番付き合いが長かったのが僕だったからそう言ったんだろうけど、何も言わなくても何でも解ってくれると思ったら、大間違いだよ」

 膝と髪の隙間から覗き見た線の細い横顔はやはり冷たく、残酷性すら孕んでいる。

「でも先生は解ってたんだろ、その人の事」

 これは雅人のそうであって欲しいと言う希望から出た言葉だった。

「解ってたよ。でも、……だからこそ、僕は言葉でちゃんと言って欲しかった。苦しいなら『苦しい』って、辛いなら『辛い』って、助けて欲しいなら『助けて』って、促されるんじゃなくて、自発的に、彼女に一歩踏み出して欲しかった。――伸ばしてくれないと、その手を掴めない人間だっているんだよ」

 強引に引き寄せるなんて僕の趣味じゃないしねーと、冗談ぽく続けた吉川の、何処となく浮世離れした雰囲気の根源が解った気がした。

 彼女を思い出しているのだろう。顔を上げたことで広くなり鮮明になった視界に映る吉川の横顔は、過去と厭きれと幽かな怒りを浮かべていた。

 そして『過去』には、悔しさと悲哀が含まれていることを雅人は知らない。

「何で俺にその話をしたの?」

 ふつりと湧いた疑問。

「んー……君、この侭だと彼女と同じになりそうだから?」

「疑問符付けんな。……博愛主義じゃないんだろ?」

「でもさー、ソレは自己主張だよね。ある意味で凄く判り難いけれど、何かをしたくて、変えたくて、そんな事をしているんでしょ? さっき君が言った死にたい消えたい云々とソレが、繋がってはいるけれど直結してるとは思えないんだよねぇ……。あ! 違ったらごめんね?」

「っ」

 何でもない言葉に胸が詰まりそうだったり、何でもない文章に泣きたく為ったりする、突然の、あの心が震える嫌な感覚。

 人はそれを何と言う? 人類はその感情に何と名前を付けた?

 ずっと望んでいた言葉、ずっと待っていた誰か、けれども決して認めていなかった願い。

 それが今、吉川の口から紡ぎ出されていた。

 拒絶と喜びが綯い交ぜになった複雑な心が後悔を生み、外の空気を吸いにサボタージュに赴いたのは途轍もなく間違いだったのだと思い知らされる。心の奥底は救済を望んでいたとしても、心の大半を占める外殻は知られたくないと言う自閉的な性質があった。

 泣きたかった訳じゃない。愚痴りたかった訳でもなく、増してや諭されるなんて以ての外で、それでも救済を求める奥底からの魔の手は、存外簡単に主導権を握ろうとしていた。

「俺……如何したら良いんだよ……」

「だからそれは僕が決める事じゃない。さっきも言ったけれど、促されるんじゃなくて自発的に君が決めてしなければ意味がないんだ。『気が付いても、何も変わらない』って言っていたけど、君、何かしたの? 何か行動したの?」

 何処となく無機質な声と、一方的に見つめるだけだった雅人の視線と吉川の視線が通い、今度こそ雅人は咎められているのだと感じて身を竦ませた。

 俯き、拳を強く握る。口を吐いて出そうになる言い訳を意識的に飲み込んだ。

 すると突然に、わさわさと頭を撫でる優しい感触。驚いて顔を上げると吉川が腕を伸ばして雅人の頭を撫でていた。

「自分で如何にかしなければならない時が来るんだから、早めにそうする練習をしなきゃ、ね?」

 そういってふわりと笑んだ吉川の顔は、今まで見たことのない、とろけるように優しい微笑みだっだ。

「え、なっ、……ななな何してんだよっ!」

 熱は顔に集中するのに、胸の中心は痺れるように暖かだった。

 只、知った顔をされるのが無性に腹立たしくて、ふとした瞬間の困った様な笑顔に涙が溢れそうだった。自分はそんな容易で簡単な存在でしかなかったのかと嫌悪すら感じていただけだ。

「……吉川の馬鹿阿保死ね」

 吉川の手を払えず其の侭にしているのも頭を撫でられるのが存外気持ち良いからで、決して、強がりなんかでは無い。

「有島君……ツンデレは女の子だから可愛いんだよ?」

 こてんと首をかしげのたまう吉川に心の中で「ツンデレって何!?」と突っ込みながら手を払い除けつつ立ち上げる。

「うるせぇ……! 鬼畜ドS教師死ね!!」

 なんともまあ捻りのない捨て台詞だが、階段を駆け降りる足は軽く、気を抜けば口元が緩んでしまうほど不思議と気持ちが楽になっていた。

「……死ねって二回言われた……。大切な事だから二回言いますって?」

 慌ただしい立ち去り方を見送り、果たして今のは雅人に通じるネタだろうかととぼけたことを思案する。

 空を仰ぎ秋ながらも太陽の強い光に目を細め、学生時代の追憶に浸りながら手を空に伸ばす。

「――青いなぁ!」

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