濡羽色の紅
一人の老婆の話をしよう。
老婆の名前は誰も知らないし、誰も必要としていなかった。
ここは昔、小吉原と言われる程遊廓や娼館が多くあった。夜中でも道には明かりが灯り、花魁達の白粉の香りが満ちていた。
老婆は、島一番の太夫だった。
「あの人、昔は遊女だったんだよ」
今時時代劇などでしか耳にしない言葉だ。
老婆は老人独特の膝を曲げた摺り足ではなく、背筋を伸ばし凛と歩いていた。華やかさこそはないが上品な着物を纏い、裾を乱すこともなかった。
◆
何度か話をし、老婆は昔の話をする様になった。
「私が、一番綺麗だった頃よ」
老婆は一枚の写真を見せてくれた。古ぼけた白黒写真で、男と女が肩を並べ写っていた。
老婆は、美しかった。
男は老婆を身請けると申し出たのだと言っていた。顔立ちのはっきりした青年だった。
「この人にね、言ってやったのよ。一番になれないのなら貴方の所へなんか行かないわって」
男には妻がいた。
きっと、老婆はこの男が好きだったのだ。
◆
暫くして、老婆が死んだと聞いた。
孤独死だったそうだ。
夜、私は見た。幻ではない幻を。
夜道を老婆が歩いていた。
一番、美しい姿で。
細やかな衣擦れの音、何処からともなく提燈が灯る。紅い唐傘と禿を連れ、ぽっくりを履いて、しゃなりしゃなりと。
道の、提燈の先には男が一人立っていた。
嬉しそうな顔で女は男の手を取り、陽炎の様に消えた。
鼻を掠めた白粉の香り、女の、濡羽色に美しい唇が、綻ぶ様に笑んでいた。
島一番の太夫はこうして死んだ。
美しい太夫だった。
幾人もの申し出を断り続け、老婆は、幸せになった。
※タイトルについて。黒い口紅という意味ではなくて、この話を書いた時は濡羽色を光沢のある虹色だと思い違いをしていたので、イメージとしては笹色紅です。
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