ホラー

黒い傘

 その男は言ってしまうと奇妙だった。

 黒いスーツに白いワイシャツ、襟には同じく黒いネクタイを締めていた。そこ迄はさして珍しくもなく、葬式か何かの帰りだろうかと言った感じだが、目を引くのは男の手元、誰が見ても誰に問うても晴天と答えるであろうこんな天気に不釣り合いな、黒い細身のシックな傘を持っていた。

 街中を外れ、帰宅途中の学生や会社員、夕飯の買い物に行く主婦達が行き交う中、それ程大きくはない交差点でその黒い傘を携え、歩行者信号が青に変わっても渡る気配も無く男は佇んでいた。

 物腰の柔らかそうな端正な顔立ちをしているが、その表情には少し違和感がある。柔らかな表情に混在する他人を小馬鹿にした様な片鱗。喩えるならそう、『慇懃無礼』正にそれだった。


「彼処」


 その男の後ろを通り過ぎようとした時だった。

 直感的と言うか反射的に、止せばいいものを自分に向かって口を開いたのだと足を止めてしまった。

 足の筋肉が動きを止めた瞬間、どっと押し寄せる後悔。しかし、その瞬間を見計らったように、足が再び動く前に男は口を開いてしまっていた。

「向かいの信号の傍に立つ娘は当時十六歳、君の通う高校に入学する筈だった娘だ」

 仕方が無い、と、目を向けると、男の肩越しに俯いているセーラー服を着た髪の長い少女が見えた。

「長い黒髪が実に美しい娘でね、彼女自身もそれが自慢だった」

 少女は微塵も動かず俯き、プロのモデルでさえも不可能な、筋肉の些細な痙攣も無く微動だにせずに佇んでいた。

 傍をサラリーマンが通り過ぎようとも、交差点に密集する建築物に煽られた風が通り過ぎようとも、セーラー服のプリーツは愚か、髪の毛の一束揺らぎはしない。

「君とはそうだね。親友とまでは行かないにしても、可成り親しい友人になれただろうね」


 ――この男は一体何なのだろう。


 この時はまだ漠然とそう思うしかなかった。

 交差点の向こうに居る少女の不気味ささえ漂う気配よりも、この目の前に居る男の妙な雰囲気の方が気になっていたからだ。

「気を付けてお帰り。彼女に君のその制服は余りにも眩し過ぎるだろうからね」


 ――一体、何の話をしているのだろう。


 初めて制服を見たときにダサいとさえ思ったこの紺色のブレザー、灰色のスカート、赤いリボン。この格好の何処が眩しいのだろうか? 若さで多少自分好みに着崩してはいるものの、どちらかと言えばセーラー服の方が好きだった自分にとっては残念で仕方ないものだ。


「昼間だからと、光があるからと言って安心してはいけないよ。闇は只、暗いから闇だと言うのではないのだからね。暗い所に闇が居るのは言うまでもないが、闇は光を求めるモノ。闇は光が創り出すモノ。さあ、お急ぎ。間違っても彼女と眼を通わせてはいけないよ。堕ちるのは、君自身なのだからね」


 堕ちるのは、私自身。そう男の言葉を反芻する。

 何処へ、等とはこの際問題ではない。なりもしない。この目の前の男が言っているのはそんな事ではない筈だ。では何だ。あの少女が、自分に一体何をすると言うのだろう。

 男の不思議な声が脳内に染み込み、熱病の時の様な軽い眩暈に見舞われていた。

「ああそれと、これを持っていくといい」

 差し出された傘に一瞬気を取られ、そして再び男に視線を戻した時には姿は無く、辺りを見回しても去る後ろ姿さえ消え去っていた。

 白昼夢を見ているかのようだった。そうして立ち尽くしていると頬を冷たいものが掠め、見上げれば空から大粒の雨が降っていた。


          ◆


 狐の嫁入りの為明るい中、先程の眩暈の名残でふわふわと酔いしれた感覚で、雨音が心地よい帰路を男の傘を差し歩いていた。

 家々が隙間無く建ち並ぶ住宅地。所々にぽっかりと穴が開いた様に通る道から突然の天気雨に走る人が見え、料理の音や匂いが満ち始めていた。

 不本意ながら傘があって良かった。今日の夕飯は何だろうか、と、考えていると、ふと、視界の端に黒い革靴が映った。


 ……ローファー?


 目の前から動こうとしない為、訝しく思いながらも避けて通ろうと足を踏み出そうとした瞬間、フラッシュバックのように男の言葉が脳裏を過ぎった。


 ――彼処。向かいの信号の傍に立つ娘は……。


 悪寒が背中を貫く様に這い上がった。

 雨の音を無視するように、静まり返った住宅街。先程まで道の両側に満ちていた人の気配が消えていた。突然の天気雨に走る人もなく、家々の換気口から排出される食事の匂いも、今では泥遊びで作った飯事の様に無機質なものに変わっていた。


 ――眼を通わせてはいけないよ。


 何かが、変だ。確証の無い違和感ながらも、自分がそれを感じていることは確実だった。

 男の言葉は、何かがおかしかった。そもそも相手に聞こえないとは言え、目の届く範囲にいる人に向かって、『当時』等と言う言葉を使うものだろうか? ニュースにせよ他の番組にせよ、その言葉には必ず『過去』という状況が伴っていた筈だ。

 あの時、彼女は確かにそこに立っていた。自分となんら変わりなく、普通に、『今』と言う時間に、交差点の向こうに立っていたのだ。


 ――普通……? 誰が? あの少女が、『普通』?


 どくりと心臓の収縮が想像出来るほど大きく波打ち、ごくりと固唾を飲み込み、激しい鼓動は警鐘の様にけたたましく打ち鳴らす。

 緊張に筋肉が固く身構えた直後、その声は鼓膜を震わした。


『――――ねぇ』


 嗄れた声が傘越しに耳に届き、革靴はゆらりと一歩、歩みを進める。

 まるで、怖い話を聞いてしまった後の、独りきりで居なければいけない真夜中の恐怖を彷彿とさせる、嫌な予感だった。


 傘を上げてはいけない。

 顔を上げてはいけない。


 全身が神経にでもなったように、些細な空気の変化さえも感じ取れるように、声の主に集中した。

 全身で警戒し、全身で探った。

 脂汗で滑りそうになる傘の柄を握り締め、奮えそうになるのを、怯みそうになるのを、必死に堪えた。

 暗闇の中の化け物が、半信半疑の存在から、確実に存在するのだと耳元で囁かれるような、体現できない恐怖。


 目を見ては。

 目を見ては。

 目を見ては。

 目を見ては。

 目を見ては。


 眼を、見ては。


 微かな衣擦れの音と共に傘に大きな振動が伝わり、縁を見れば白い手が布を突き破りそうな程強く掴んでいた。

「っ!」

 足が竦み地面に縫い付けられた様に動かない。瞑りたい目も瞼が降りようとはしない。震える手で、只管傘の柄を強く握り締めた。この手を離したら、終わり。そんな気がしてならなかった。


 !!!!


 人間とは思えない強い力で傘を引かれ、取られまいと必死に腕を引き抵抗するが汗で滑って思うように引き戻せない。ミシミシと傘の骨が湾曲に耐えかね悲鳴を上げ始める。

 もう駄目かもしれない。そんな思いが一瞬頭を過ぎった所為なのか、その一瞬の思いを体は諦めと受け取ったのか、するりと、手から傘が離れた。

 スローモーションで離れていく傘。重力に倣って落ちていく黒い傘。その黒を目で追い、反射的に顔を上げる。

 異様なほど模範的に整えられたセーラー服。白い首、肩に掛かる黒髪が視界に現れ、首と同じく白い顎が、頬が、そして、眼が。


『ねぇ』


 白い顔に開いた二つ穴のような真っ黒な瞳。歪に見開き瞳の形さえ歪んだ眼がこちらを見ていた。

 ニィ、と色の悪い薄い唇が持ち上げられ、口が傷口から滲む赤黒い血のように裂ける。

「ひっ……!」

 白と赤と黒。屍蝋の様な手が近付いて来るのが解っていても、只目を見開き震え、浅く不規則な呼吸を繰り返すしかなかった。

 視界を埋めていく白い、手。


 かたん、


 黒い傘が軽い音を立てアスファルトに落ちた。


          ◆


 雨は止み、アスファルトに薄く張った雨水が夕陽を写し金色に輝いていた。

「……だから眼を通わせてはいけないと、申し上げましたのに」

 佇む男が視線を落とすのは黒い傘。雨粒を撥ね、ピンと張った翼に金色の宝石を鏤めた烏を思わせる、漆黒の傘。

 その表情は悲哀にも見えるが、嘲笑を含む同情にも見えた。


 ――クス


 その形のいい唇を微かに歪ませると、男は雫の滴る傘を拾い上げ雨粒を軽く払うと肩に差し、くるくると幼子の様に回しながら歩き始めた。

 それはそれは、愉しそうに。



 彼処。

 黒い傘を差す娘は――――……。

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