不思議じゃない国のアリス01

「ピピピ! ピピピ! ピピピ!」


 目覚まし時計が鳴る。


 が、眠っていた天常照ノは、意識的にか無意識的にか、要領よく目覚まし時計のアラームを止めると、また布団の中に、もぞもぞとこもっていった。


 ここは私立聖ゲオルギウス学園に、ほど近いアパート。


 隣に大きな教会を持つ、オンボロアパートだ。


 その二階の一号室が、天常照ノの城だった。


 屋内は、とても一言では言い表せない様相だった。


 床には八卦の紋様に、遁甲の魔術を付与した陣……それが描かれたカーペットが敷かれてあり、これには《人避けの魔術》がかかっている。


 天井を見れば、赤い縄が前後左右無尽に張り巡らされており、その縄にはまるで蔦からぶら下がるブドウのようにヒョウと呼ばれる中国の短刀が無数にぶら下がっており、そしてそのヒョウには一つ残らず霊符と呼ばれる魔術に使う符が刺さっている。


 床には遁甲の陣。


 天井にはヒョウと霊符。


 それらが、この部屋を不気味に変えている原因だ。


 魔術的と言っていい部屋模様だった。


「ん……むに……」


 そんな異常な部屋模様の中で、すやすやと安眠をむさぼる照ノ。


 と、ピンポーン、と、照ノの部屋のインターフォンが鳴った。


 本来なら床に敷かれたカーペットの魔術……遁甲の陣の結界によって照ノではない他人は、この部屋の存在は知っても興味もなく素通りするはずなのに、確かに照ノの部屋にインターフォンが鳴った。


「ん……むに……」


 しかし照ノは、それさえ無視して布団にこもる。


 しかしインターフォンを押している人物は諦める様子がないのか、ピンポーンピンポーンと何度もインターフォンを鳴らす。


「うるさいでやんす……」


 そう呟いて、もぞもぞと布団にこもる照ノ。


 今度は、ガチャリと玄関の扉の開いた音がする。


 そして頭部のベールをしていないオックスフォードグレーの修道服を着た金髪碧眼のシスターの少女が、無断で照ノの部屋に入ってきた。


 それは……その少女は、昨夜、照ノと一悶着を起こし、超身体能力をふるったクリスティナ=アン=カイザーガットマンに他ならなかった。


 クリスティナ……クリスは玄関から照ノの部屋へと入り、靴を脱いで丁寧にも揃えると、ズンズンと屋内へと入っていき、それから布団に埋もれている照ノから掛布団を引っ剥がして、縮こまる照ノの耳を引っ張って、


「朝ですよ照ノ! 起きなさい!」


 そう叫んだ。


 照ノはといえば、


「いて、いてて、いてててて……」


 クリスによって引っ張られた耳を痛がりながら、意識を覚醒させた。


「なんでやんすか……いったい……。今日はもう動きたくないでやんす」


 そう言って引っ張られた耳を掴んでいる手を払いのけて、布団に縮こまる照ノ。


 クリスは、無言でパジャマ姿の照ノの脇腹に、ボディブローを打ち込んだ。


「げはぁ!」


 悲鳴をあげて本格的に覚醒する照ノ。


 涙目で起き上がり、


「何するでやんすかクリス嬢!」


 そう抗議した。


 クリスはというと、フンスと鼻息も荒く息をつく。


「ちゃっちゃと起きなさい照ノ。マリアが朝食を作ってくださっています」


「マリア殿が……ううん……それは起きねば……ねばねば……」


 ぼんやりとした口調で、そう言って、布団から抜け出す照ノ。


 それからパジャマ姿のまま、洗面所へと赴き、顔を洗って眠気を吹き飛ばす。


 それでやっと意識の六割が覚醒したといった現状だ。


「くあ……」


 あくびをしながら、照ノは自身の部屋へと戻る。


 同時に部屋で待っていたクリスに、腕を握られて、ズリズリと引きずられてアパートを出る照ノ。


 照ノとクリスはアパートの階段を下りて道路に出ると、アパートの隣にある大きな教会へと入っていった。


 照ノとクリスの二人は教会の正面玄関からは入らず、裏口から入って私生活をなすプライベートルームの一つであるダイニングへと足を向けた。


 そこには……ダイニングには、ダイニングテーブルが置いてあり、そのテーブルにはクラブサンドとレタスサラダとオレンジジュースが三人分置いてあった。


「あらあら、照ノちゃんは眠そうね……」


 茶髪のふわふわとしたパーマヘアーを持った大人の女性にして外人のシスター……マリアはエプロンを外してキッチンの一角にかけながら、教会に入った照ノとクリスを迎えた。


「すみませんマリア。この男を起こすのに時間がかかってしまい……」


「別に起こしてくれなくてもよかったでやんすが……」


 そんな余計なことを言った照ノのみぞおちに、クリスは肘鉄をかました。


「ゲホァ……!」


 苦痛に呻き、床をゴロゴロと転がる照ノを見つめて、それからシスターマリアは「うふふ」と笑う。


「暴力は駄目よクリスちゃん。それが照れ隠しでもね」


「て! 照れ隠しなんてしてません!」


「そう? 隣の男の子を起こしにいくなんて甘酸っぱいことをしているから、その照れ隠しにワンパクになってるものだと……」


「邪推です!」


 キッパリ。


 そう言うクリスの頬は、少しだけ赤らんでいた。


 ようやく痛みが引いたのか、よろよろと立ち上がった照ノは、


「なんで起きて早々に小生はボコボコにされているでやんすか……?」


 そんなことを愚痴りながらダイニングテーブルにつく。


「あなたがボーっとしてるから悪いんです……!」


 フンと鼻息も荒くそう答えるクリス。


「あらあら、仲がいいのね」


 そう言って慈愛の笑みを浮かべるシスターマリア。


 クリスが顔を真っ赤にして憤激する。


「違います! 誰がこんな奴!」


「こんな奴とまで……。まぁ、いいんでやんすがね……」


 クリスの暴言を聞き流し、合掌し、


「いただきます」


 と言うと照ノはクラブサンドをかじりだした。


 それに対してまたまたクリスが激昂する。


「また! あなたは! 仮にもここは教会ですよ! 仏ではなく主に感謝なさい!」


「小生、一神教の教徒ではありやせん故、唯一神などと、いるかもわからんモノに感謝する謂れはございやせん。あ、マリア殿、このクラブサンド絶品でやんすねぇ」


「そお? 美味しかったならよかったわ。いっぱいあるからどんどん食べてね」


「ではありがたく」


 そう言って、ヒョイヒョイと、クラブサンドを掴んでは、口に放り込んでいく照ノ。


 クリスはといえば、照ノにあっさりと主を否定され、殺気をみなぎらせていた。


 右手に一本、仮想聖釘を具現化する。


 それを照ノに向かって投げるより速く、シスターマリアがクリスの口にクラブサンドを突っ込んだ。


「はい、クリスちゃんも。あまりカッカしてるといいことないわよ?」


 クリスは、口に突っこまれたクラブサンドを、モグモグと咀嚼して、嚥下。


 それから手に持った仮想聖釘をテーブルに置き、ストンと椅子に納まると、マリアに一礼した。


「申し訳ありませんでした。シスターマリア」


「謝る必要はないわ。ただもうちょっと寛容が欲しいところね」


「はい……」


 そう言ってクリスは、


「父よ、あなたのいつくしみに感謝してこの食事をいただきます。ここに用意されたものを祝福し、わたしたちの心と体を支える糧としてください。アーゲー」


 祈り、十字を切って、食事にとりかかる。


 照ノに、クリスに、マリアが、黙々と食事をとること十五分。


 クラブサンドも、レタスサラダも、オレンジジュースも、きれいさっぱりなくなっていた。


 照ノは満足の吐息をつくと、


「ごちそうさまでしたマリア殿」


 そう言って一拍した。


「はい。お粗末様でした」


 仏教式の食後の祈りにも動じず、柔らかく笑ってそう返すシスターマリア。


 クリスもクリスで一神教式の食後の祈りをし、十字を切って食事を終えた。


「さぁて……では小生はアパートに帰るでやんす」


 そう言って照ノは立ち上がった。


 クリスもまた教会の自室へと向かう。


 シスターマリアは食後の後片付けに精を出す。


 照ノは教会の裏口から出ると、教会の隣のオンボロアパートの二階の自分の部屋に戻る。


 それから、「ふわぁ~」と大きく欠伸をすると、


「よし。ではもう一眠りするでやんすか」


 そう言って布団に転がろうとしたところで、背後からヤクザキックをくらい、


「おぶぎょう!」


 と奇声を発して吹っ飛ばされた。


 照ノは狭い六畳間を二転して壁にぶつかると、それから背中を蹴った犯人に愚痴る。


「何をするでやんす……」


「何をすると聞きたいのはこっちです。何を帰って早々寝ようとしてるんですか、あなたは」


 クリスがそこにいた。


 オックスフォードグレーの修道服はそのままに、手には学生鞄を持っている。


「今日は学校でしょう。早く着替えなさい。行きますよ」


「今日はサボるでやんす……」


「…………」


 クリスが手に一本の仮想聖釘を具現化した。


「……と、思いやしたけどやっぱり行くことにするでやんす。いやぁ人の知識欲のなんと業深きことよ」


 弱い照ノであった。


 照ノはパジャマとシャツを脱いでクリスの前でパンツ一枚になって、それからワイシャツと黒いスーツのボトムスに黒いネクタイをして喪服の格好になると、壁にかけてあった曼珠沙華の意匠をあしらった紅の羽織を着る。


 それからキセルを口にくわえて、学生鞄を持つと、ボサボサの髪を弄りながら、


「では行くでやんすか」


 待っていたクリスにそう言った。


 クリスはブーツを、照ノは下駄をはいて外に出る。


 クリスが言った。


「毎度疑問に思いますけど何でキセルなんかくわえるんですか?」


「おしゃぶりの代わりでやんす」


 紅の羽織を風にひるがえしながら答える照ノ。


「この国では煙草は成年になってからじゃなかったかしら」


「小生二千七百歳でやす故」


 そう言って二人は、私立聖ゲオルギウス学園に向かって歩を進めた。

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