【短編集】蝉の川
楓麟
蝉の川
瀬見の小川をご存じだろうか。京都にある、水が膝にも届かないほど浅い川なのだが、実は何年か前までは枯れていて、そもそも水が流れていなかったらしい。溺れる心配もないので、幼い頃はそこへ行っては遊んだものだった。近くには森や神社があり、ここが大昔から人と神とが親しんできた場であったことを友人から聞いて、なるほどと思った。なんとなく立ち寄ることが多かったのは、多分、この懐かしい感じが好きだったからなのだろう。
ある夏休みの午後、僕はスケッチブックや絵の具を持って小川へ向かった。夏休みの宿題のひとつに、身近な風景画を描くというものがあり、僕はこの川を描こうと決めていたのだ。宿題は指定された画用紙に描いて提出するのだが、最初くらい、自由に描いてもいいだろう。静かな水の音や、揺れる葉の音を聞きながら絵を描く。我ながらいい考えだと思った。靴を脱いで、足だけ水に浸すのもいい。僕は到着するなり手ごろな小さい岩に腰かけて、時間も忘れて描いていた。けれど辺りが橙色に染まり始めると、さすがに帰らなければまずいな、と僕は立ち上がった。軽く伸びをして、並木道をゆっくり歩く――その時、眩しい夕日と一緒に何かが目に飛び込んできた。
木に、何かがしがみついている。沈む日の光が生んだ幻だろうか、と初めは思った。その影がゆらめいて、あやふやな形に見えたからだ。けれど、それは確かにいた。影はこちらに気づいたのか、木をずるずると滑り降りて地面に着地する。とてとてとこちらに歩いてきて、僕を見上げてきた。
その少女の容姿は、やんちゃな子という印象を受ける。シャツに短パン、おまけに裸足という格好だった。肩まで伸びた髪を結びもせず、顔には土がついている。少女は僕の手の画材を指さして、
「なにしてたの?」
と訊いてきた。それはこっちの台詞だったけど、僕は絵を描いていたんだよ、と答えた。
「へえ!」
少女は顔を輝かせた。
「じゃあ、わたしのことも描いてほしいな!」
「へ?」
間抜けな声を出してしまった。ちょっと恥ずかしい。
さすがに今から絵を描く時間はないだろう。僕は少し考えてから口を開く。
「いや、でももう日も沈んじゃうし、帰らないとお母さんが心配するよ」
「そうかなぁ」
少女は首をかしげた。困ったものだ。年を訊くと、相手は「むっつー」と元気よく答える。六歳の子供をこんな時間まで放っておく親も親だな。ふと、少女の片手が猫の手のように丸まっているのが気になった。
「それ、なに?」
相手はぱっと手を開いて見せてくれた。蝉の抜け殻だった。さっき木登りをしていたのも、これを取るためだったのかもしれない。
「蝉?」
「うん。セミすきー」
少女はもっと話をしたい様子だったが、周囲は紺色に変わり始めていた。僕も彼女も、帰らなければまずい。僕がそう言うと、相手は不満そうな声を漏らした。
「じゃあじゃあ、あした! あした、またきてくれる?」
僕がうなずくと、少女は眩しい笑顔を浮かべた。
だが、その日は雨だった。こんな土砂降りの中を川に行く子どもはいないだろう、と僕は瀬見の川に行くことを諦めた。もし明日晴れたらあの子を探そう。宿題も、まだ終わっていないことだし。
今日は、昨日とは打って変わって蒸し暑い。午前の部活を終えた僕は一日ぶりに瀬見の川に来ていた。手にはスケッチブック、鉛筆に絵具セット。浅い川を滑るように泳ぐつがいの鴨、風に揺れる木々の葉、蝉の鳴き声。絵にしたいものはたくさんある。だがどれも思ったようには描けず、むしゃくしゃしていた。そんな僕の他にも、ちらほら人が来ていたが、あの子供の姿はなかった。絵にできるものはないかと、川の流れに沿ってゆっくり歩いていたとき、光に反射して輝く水と一緒にそれは目に飛び込んできた。
ひとりの女の子が川に水を浸していた。歳は僕と同じ高校生か、中学生くらいだろうか。濡れないように白いワンピースの裾を握り、ぱちゃぱちゃと水音を立てている。長い黒髪は結いもせず、静かに笑みを浮かべていた。
ふいに少女は顔を上げ、手を振ってきた。僕はびっくりして後ろを確認してしまった――自分に向けたものだとは思わなかったのだ。再び彼女のほうを向くと、今度は手招きをしている。
「なんですか?」
なんだろうと思いつつ、僕は近づきながらゆっくり尋ねた。相手は笑って言う。
「来てくれたんだ」
小川の手前ではたと立ち止まる。聞き間違いだと思った。僕がわけもわからず黙ったままでいると、少女は続けた。
「忘れたの、こないだの約束」
からかっているんだ。僕だってちょっと思ってしまったことではあった。見た目がこの間の少女に似ている、なんて……。姉か誰かだろう、と確信してしまうほどに、あの少女と目の前の少女はそっくりだった。
「昨日は来れなくてごめんね」
「……冗談ですよね」
「なにが?」
「いや、なにがって……僕はあなたとなにか約束をしましたか? 正直覚えがないので、人違いだと思うんですけど」
「一昨日、話したじゃない」
嘘だ……やはりこの人は、僕をからかっているんだ。だって、どう考えてもあり得ない話じゃないか。それでもなぜか、
「あの時の女の子ですか」
気づけば僕は訊いていた。相手は笑う。
「さっきから言ってるでしょ」
少女はもどかしくなったのか、わざと水の音を立て始めた。お互い黙ってしまうと、水音と蝉の声が大きくなったように感じる。僕はふと思い出して、訊ねてみた。
「蝉、好きですか」
「だいっきらい」
予想に反して、相手は顔をしかめて言うのだった。
「だってうるさいもん、ミンミン、ジージーってさ。ばかみたいだよね」
「……やっぱり、あなたはこの間の女の子じゃないんですよね」
「どうして?」
「いや、だって……」
僕が混乱しているにも関わらず、少女は僕が持っているスケッチブックに気づいて笑顔を浮かべた。
「今日も、絵描いてたの?」
「え? あ、はい」
「じゃあ、私のことも描いてほしいな」
「へ?」
間抜けな声を出してしまった。しかもそれは一昨日とまったく同じ反応だった。少女は手を後ろに組んで、僕の顔を覗き込むように見つめてくる。恥ずかしくなって、目を伏せる。
「駄目なの?」
「い、いや、でも僕はそんなに絵は上手くないし――」
美術部には入っているし、絵を描くのは大好きだけれど、僕の絵は上手いとはとても言いがたいものだ。それでも少女は何度も頼んでくるのだった。僕は小さく息をつくと、震える手で鉛筆を持った。絵を描くのに緊張するなんて生まれて初めてだ。相手は近くの岩に腰掛け、笑って僕を見ている。描き終わるまで、ずっと笑顔だった。
翌日、僕は再び瀬見の川を訪れた。少女が、また明日も来て欲しいと、僕の絵を受け取ったあと言ったからだ。ばかなことをしているなあ、と自分でも思う。宿題も全然はかどっていないし。けれど、今更ながら僕は気づいたのだ。わざわざ画材なんて重いものを持たずとも、カメラさえあれば撮った風景の中から描きたいものを選ぶだけでいい。だから今日はカメラだけを持ってきていた。少女を探しながら、シャッターを切ってゆく。やがて僕は昨日少女と会話をした場所までやって来た。スケッチをした時少女が座っていた岩を撮り、座って待とうと腕を下ろしたとき、いつの間にかそこに知らない女性が腰掛けているのに気がついた。長い黒髪、白いワンピース姿。
「来てくれたんだ」
僕よりも年上……二十歳くらいの女性は僕を見て微笑んだ。僕がわけもわからず黙ったままでいると、女性は続けた。
「何度も同じこと言わせないで。昨日も会ったじゃない」
嘘だ……確かに昨日会った少女に似ているが、そんなことがあるはずがない。それでも僕はどうしてか、彼女と初対面だとは思えなかった。
「そうそう、私ね、結婚することになったの」
女性は僕が何も言わないので、そのまま話しはじめた。結婚、か。僕は混乱した頭でなんとか言葉を発した。
「おめでとうございます」
「うん、ありがとう」
「失礼ですが、あなたはおいくつなんですか? 随分と若い年で結婚するんだなあと思って」
「むっつだよ」
「……」
「あれ、どうしたの?」
自分が何を言っているのか分かっていないのだろうか。女性は首を傾げた。
「まあいいや。ねえ、今日は絵、描かないの?」
「ああ……それが、僕、思いついて。描きたいと思った風景を写真で撮って、家で描けばいいかなって」
「……じゃあ、今日は持ってきてないの?」
相手の笑顔がしぼんでゆく。僕はなぜか申し訳なくなったが、
「カメラなら、あるんですけど……」
とそれを掲げて見せることしかできなかった。
「なんで!」
すると、相手は急に大きな声で怒鳴った。
「今日しかないのに! なんでよりによって」
「えっと、あの、その……すみません」
「謝って欲しいんじゃないの、私あなたの絵、好きだったのに」
そうして女性は顔を背けた。僕は、彼女の頬を涙が伝っているのを見てしまった。
「……明日、また来てくれる?」
「分かりました」
だが次の日、彼女の姿はどこにもなかった。その次の日も、日が沈むまで僕は待っていたが、女性は現れなかった。
僕がはじめて少女に出会って七日が経っていたその日、僕はスケッチブックを片手に瀬見の川を訪れた。前よりも蝉の鳴き声が弱々しくなっている気がした。もう、夏も終わるんだなあと思いながら、あの岩の方へ歩いていたとき、木々の間から差し込む朝日と一緒にそれは目に飛び込んできた。
七十歳ほどの女性が、小川の真ん中で佇んでいる。眩いほどの白髪を結いもせず、白い蝉衣を着て。彼女は僕を見て微笑んでいる。
「来てくれたんですね」
「はい。お久しぶりです」
「こちらこそ、ずっと会わずにごめんなさいね」
「……?」
「私は、もうこんな姿になってしまった。あなたに会うのが恥ずかしくて、行けなかったんです」
「そう、ですか……」
僕は、あの時彼女が怒って、涙した理由が分かった気がした。
「ねえあなた、今日は絵、描いてくださる?」
「僕でよければ」
「ええ。あなたの絵、好きだもの」
女性は前と同じ岩に座った。僕は震える手で鉛筆を握る。
「私は、寂しかったんです」
目を閉じ、女性は語る。
「ずっと独りでした。ようやく光を浴び、ここに来てからはいろんな人に出会えた。恋人ができ、子供もできました。今は会えない、遠い遠いところにいるのですが」
「若い頃は色々ばかなことをしました。蝉が嫌い、なんて。今はそんなことはない、私は蝉が大好きだと誇れます」
「あなたに初めて会ったとき、もっとたくさんお話したいと思いました。なぜって、あなたの描く絵がとても好きだったから」
「本当は駄目なんです、こんなことをしたら。でも、どうしても我慢できなくって、あなたに声をかけてしまいました」
「楽しかった」
「あなたに会えて、お話できて、よかった――」
僕が顔を上げたときには、女性の姿はどこにもなかった。ただ、先程まで女性が座っていた岩の上に、小さな蝉の亡骸が仰向けに転がっているだけだった。
僕はそれをそっと手に取り、目を閉じた。
気づいてはいた。はっきりと確信したのは、少女に会って四日目の時か。あの日、僕は彼女を写真に収めていた。岩の上にじっととまっている蝉の写真は、今も僕の家にある。
六年間ずっと地中で独り夢見て、そして一週間だけ光を浴びて懸命に生きる。彼女は生きた。僕は? 僕はそれに比べて、どれだけ時間があるだろう。
「まだ、僕は絵を描き終わってない……」
いつか、僕は完成させなくてはならない。描きかけの女性の絵を。そういえば、夏休みの宿題もあるんだった。僕は立ち上がって、蝉をそっと川に流した。
川は流れ続ける。
これは後で知ったことなのだが、
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