デリート・リング

夏野陽炎

デリート・リング

 意図的に記憶を失えるなら、人間はどれだけ幸せなのだろう。誰にも忘れたい記憶はある。自分の過失や、親しい人を失った時、思春期の頃に残した傷跡、等々。万人が抱える病のようなものだ。

 幸せな記憶ほど頭の中に大して残らないのに、辛く悲しい記憶は鮮明に残り続ける。そのせいか、人は時折自分が恵まれない人生だったと錯覚を起こすこともある。

 長年にわたり、数々の研究機関が人間の脳について研究や調査を繰り返し、記憶の調整や改竄を試みてきた。だがいずれもが失敗に終わり、最悪の場合被験者は実験による精神的な苦痛に耐えきれず、身を滅ぼす結果となった。

 しかしそれはある企業の作り出した画期的な製品により、見事解決されることとなる。ハイポクリシー社の開発した特殊なリングは、これまでどんな政府機関や他の民間企業が成し得なかった人間の記憶操作に成功したのである。

 リングの内側には極小のICチップを内蔵した針があり、そこから送られる特殊な電気信号が脳へと伝達を送られる。やがて電気信号が脳へ到達すると、記憶を管理する海馬に刺激が与えられる。

 唯一ユーザーに必要なのは、リングの機能を使う際に『忘れたい記憶』を回想することだ。あとはリングが自動的に記憶の仕分けをして、忘れたい部分だけを削除してくれる。やり方だけで言えば、コンピューターのデータを削除とするのと大差ない。リングという形で普及したのも、その手軽さが目立ったからだろう。

 ハイポクリシー社は悪用されることを避けて、リングの販売はしなかった。社が運営する施設でのみ治療と称してリングを使い、不要な記憶の削除を行っているのだ。

 その施設で働く桐生という男は、施設で社員として働くと決まった時にはとても喜んでいた。採用通知が届いた日には、玄関先にあるポストの前で採用通知を片手に小躍りしていたくらいだ。

 ハイポクリシー社の給与や休暇といった待遇は、他の中小企業に比べてかなり良かった。長期休暇や有給休暇もあれば、給与は家庭を養うには十分な程にある。更に大した学歴もなければ、以前の仕事はいずれも長続きしなかった桐生にとっては、これほど都合のいい職場は他になかった。同等の待遇を求めて再就職を狙うのは、本来桐生にとって非常に困難な話だったのである。

 入社が決まって施設で働き始めた頃の桐生は生き生きとしていた。自分が第二の人生を歩み始めた喜びを噛みしめ、患者一人一人に懇切丁寧に接して記憶の削除という治療に向き合った。

 施設の職員は、ただ記憶の削除を行う際に付き添いをするだけが仕事ではない。治療する直前まで患者の相談に乗ったり、精神的なケアを行ったりというサポートをするのも仕事である。ハイポクリシー社はあくまで記憶を容易に削除するものではない、という方針を掲げており、サポートを行っても患者が削除を望む場合に限り、治療をすると決めていた。

 当然桐生の仕事内容も同様である。患者のサポートを行い、それでも患者が治療を望めば契約書にサインをして料金を払ってもらい、ようやく記憶の削除を行う。先に料金を払ってもらうのは、削除した記憶そのものを患者が忘れるから、という理由だった。

 出社時間から定時になるまで、桐生は仕事に没頭した。最も大変なのはカウンセラーとしての部分だけで、それ以外は特に苦にならなかったため、それだけで十分な給料と休暇を与えられることに満足していた。桐生はしばらくそんな生活に充実していたのだが、ある日を境に仕事への意欲を失っていく。

 たった一人の患者を治療した後だった。桐生は途方もない絶望感と喪失感に襲われ、自分の行いが正しかったのか、しばらく考え込む原因となったのである。以降、別段桐生が仕事を欠勤したり、早退したりするようなことはなかったのだが、周りの職員は皆桐生の異変に気付くほどに、彼は変化していた。

 ある日の昼休みの休憩室で、桐生を気遣ったある職員が桐生に「最近調子が悪いらしいが、どうしたんだ」と訊くと、隈だらけになった目元を向けて、その職員をじっと見つめた後に静かに答えた。

「俺は、どうしてこんな仕事に就いてしまったのだろうか」

 彼は静かに、後悔するように、そして自らの罪を懺悔するように答えた。以前までの桐生であればこんなことは決して口にしなかっただろう。

「前はあんなにも誇らしげに仕事をしていたじゃないか」

「この仕事は誇らしいものじゃない。俺たちがやっているのは、あまりにも残酷なことだ」

「例の患者を診てから、どうにも君はおかしい。よければ何があったのか教えてくれないか。話せば少しは気持ちが楽になるかもしれない」

 桐生はしばらく渋った。彼は今自分思い詰めている事情を口外するか悩んでいた。桐生に訊ねた職員がじっと桐生の目を覗き込んでいると、観念したのか、深く息を吐いた後に首を横に振った。続けて桐生は最期に一言だけ残すと、休憩室を出て行った。

「食べるためには、働かなくてはいけないからね」

 彼の背中は丸く縮んだ老人のようになっていた。

 彼の後輩である明坂は、その一連の成り行きを横で見ていた。

 明坂は桐生が中途採用された次の春に入ってきた新入社員であった。明坂が入社したばかりの頃の桐生は、まだ明るく勤めていた頃だったのもあり、彼もまた他の職員と同様に桐生の豹変に驚愕した一人である。

 ただし明坂自身は桐生とは就職したばかりの頃に指導として関わる機会は少なからずあったが、プライベートではあまり話したこともないため、特別親しいわけでもなく、あくまで同じ職場の人間くらいの間柄でしかなかった。故に、彼ともう一人の会話を隣で耳に挟む程度であった。

 だが、彼もまた桐生が豹変した理由に興味がなかったわけではない。他の職員と同じくらいには、気になっていた。



 午後の仕事で桐生が担当したのは、もう老い先短そうな老人だった。顔中に皺が広がっているし、腰もすっかり曲がっている。

 桐生はよろける老人の体を支えながら椅子に座らせると、まずは軽く自己紹介をしてから本題に入ると、今回老人の消したい記憶について話すように水を向けた。

 老人が言うには、若い頃に海外で傭兵として働いていたらしく、その頃の戦場での記憶が昔からフラッシュバックを起こしてしまうと言う。特にここ最近は夢の中に残酷な戦場跡の景色が頻繁に出て来て、寝付きが悪い上に、酷い頭痛と吐き気に苛まれることも少なくないと言う。これでは寝ることすら間々ならないと思い、記憶の消去をすれば解決出来るのではないかと、施設にやって来たと語った。

「こういう話になると、患者さんが消したい部分を念入りにイメージしてもらわないと、働いていた頃のことまでまとめて消えてしまうんです」

「それは少々困った話になりますなあ……」

 老人は後頭部を掻きながら苦笑いをした。一方で桐生は口調から表情までが淡々としており、あくまで事務的に仕事をこなしているようにも見えた。やはりこれも、以前の桐生では考えられない仕事の姿勢だった。

「リングは繊細な仕事をしてくれますから。しっかりイメージして頂ければ問題ありません。それで最後に警告ですが、一度消した記憶は絶対に戻りません。私たちは記憶を消すことは出来ても、戻すことは出来ませんから。それでも記憶の消去を望みますか」

「ええ、構いませんよ。もうあの光景を思い出すのは散々なのです。これまでは生き残った私だけでも、散っていった戦友の最期を覚えていなければと思っていましたがね。残りの余生くらい落ち着いて気楽に過ごしたい。当時の仲間たちも老いぼれ相手なら許してくれるでしょう」

 老人の精悍な顔つきは、きっと若い頃に幾多もの戦場をくぐり抜けて得たものだろう。桐生は話しながら老人を密かに観察していたが、肌が露出している部分には、数々の弾痕などが見当たった。

「わかりました。ではこの書類に同意のサインをお願いします。それと料金の方も先払いとさせて頂いておりますので、お支払いをお願いします」

 手元に置いていた契約書とペンを老人に差し出すと、老人はしばらく書類の内容を読んだ後に、手を震えさせながらも記名した。それからペンを置いて、財布から何枚か札を取り出すと桐生に治療代を支払う。老人は肩の荷を下ろしたように脱力させると、短く息を吐いた。

「よろしいですか」

 桐生が最後に訊ねる。

「ええ、お願いします」

 老人の枯れきった声は安堵が混ざっていた。

 桐生はサインされた契約書を受け取るとクリアファイルに仕舞って、厳重なケースに納められたリングを取り出した。それは宝石を散りばめた指輪でも入っているのではないかと疑うほどに、高価で頑丈そうな専用のケースである。

「これが噂のリングというやつですかな」

「はい。ではまず、忘れたい部分の記憶をイメージしてもらいます。これをしないと、必要以上に記憶が消えてしまうので。それでは一度深呼吸をお願いします」

 老人は指示されたとおり、ゆっくりと息を吸い、吐き出す。

「次に忘れたい記憶の部分だけをしっかりとイメージしてください。そう、例えば戦場で亡くなった方々の最期を思い出して頂くのがいいでしょう」

 老人は目を閉じながら深く考えていた。何十年も昔の戦場で死んでいった仲間たちの最期を一つ一つ丁寧に思い出していった。凶弾に倒れた者、爆撃に巻き込まれて四肢がばらばらになった者、同じ隊の仲間がパニックに陥って同士討ちをしてしまい、またそれを酷く悔いた者が次の日に首を吊っていたこと。

 いくつもの異国の言語が老人の頭の中を駆け巡った。彼らの多くは日本人ではなかった。様々な国家から集められた、行き場のない男たちばかりだった。自分もその一人だった。彼らの最期は決して華々しくなどない。泥と血に汚れて、ただの動かぬ肉塊になっていくだけの存在だった。その果てに残るのは肉でも骨でもない。気休め程度に数字と文字が刻まれた、傷だらけのドッグタグだけなのだ。弔いなどなかった。

 彼らの声が聞こえてくる。毎晩、毎晩、眠ろうとするたびに、もしくは眠っていると、亡者の呻き声が地獄へ誘うように、彼らの最期が何度も自分の中を駆け巡って死の痛みを訴えていた。老人はこれまでずっと悪夢に耐えてきた。しかしそれが自分に出来る唯一の弔いなのだと、心から信じていたのだ。

「イメージは鮮明になってきましたか」

「ええ、大丈夫です」

 生まれてきたことを誰にも感謝されず、死んでいったことは誰にも悲しまれないような彼らが残した呪縛に張り付けられる役目は、もう終わりだった。

 老人は静かに「お願いします」と改めて伝える。桐生は老人の小指にリングをそっとはめると、治療が一瞬にして行われる。

 リングから伝う信号は老人の体を駆け巡り、一瞬にして海馬へと辿り着くのだ。

 何十年という単位で積み重ねられてきた残酷な思い出は、波にさらわれた砂の城のように溶けていく。治療をしているだけの桐生には消えていく記憶の感覚は判らないが、老人の憑き物が落ちたような晴れやかな表情を見て、自分の仕事がまた一つ終えたのを確信すると、老人にはめていたリングを外して再びケースに納めた。

「お疲れさまです。以上で治療が終わりました」

 間もなくして老人は、施設を出た。老人の顔は施設に入ってきた時よりも晴れ晴れとしており、寿命が数年程伸びたのではないかと思えるほどに、足取りは軽快なものに変わった。

 桐生は去っていく老人の背を外まで見送ると、一礼してから踵を返した。

「今日も、同じことを言われたな」

 誰にも聞こえないくらいの小さな声で独り言を洩らしながら。



 定時になると施設の職員は一斉に帰宅の準備に入る。この仕事に残業はない。そういう契約で成り立っているのだ。もし仕事が残っていれば、それは自分たちのプライベートな時間か、もしくは次の日に早めに職場に来て片付けるのが掟である。

 明坂もまた同様に鞄の中に道具を詰めながら、帰宅の準備をしていたところだった。片付け終えた職員が次々と「お疲れ」と言って事務室を出ていき、残ったのは明坂と桐生だけになった。

 普段は会話などしない二人だったが、気まずさに耐えかねて先に口を開いたのは明坂の方だった。

「えっと、桐生さん。今日はどうでした?」

 咄嗟に出てきた言葉だったとは言え、明坂は自分の質問が馬鹿馬鹿しいものだと気付くと、心の中でどうしてこんなことを訊いたのだろうと、しみじみ後悔した。

「いつも通りだよ。いつも通り患者を診て、リングをはめて、記憶を消す。それだけだ」

 やはり、桐生の口調は淡々としていた。ただそれが後輩である明坂にとっては、面倒だから受け流しているのだろうと過剰に反応してしまう。

「君の名前は……明坂君だったか」

「ええ、そうです」

「明坂君はこの仕事をどう思う」

 唐突な質問に明坂は不意を衝かれ、口を半開きにしてしばらく固まっていた。そして桐生の質問の意図をなんとか汲もうと、必死に考えを巡らせた。

「深く考えなくていい。別に面接試験をやっているんじゃないんだ。気楽に、自由に思うことを言って欲しい」

 はあ、と明坂は短く返事をしてしばし考えた。桐生の態度はいつもと特に変わらないし、本人もこう言っているのだから、妙に回答を凝ったり嘘や遠慮を交えたりするよりも、素直に答えるべきだろう。

 そう納得すると、明坂は答えを述べた。

いことをしているつもりでやっていますよ。治療と言っているくらいですし、自分にも出来ることがあるんだなと実感できますからね。それに患者さんが皆晴れ晴れとしながら帰って行くのを見ると、やり遂げた気持ちになります。それに、自分の生きている意味が証明されたような気分になります。ああ、自分にはこんなにも人を幸せに出来る役目があるんだなと」

 明坂の答えにはまさに嘘偽りはなかった。彼は日々の職務で感じている思いをそのまま言葉にしたのだ。明坂本人からしてみれば、清々しい気持ちで正直に答えたのだし、人前で堂々と言える内容だったのだから、百点満点の答えである。桐生は面接試験ではないのだから気楽に答えろと言ったが、仮にこれが面接試験であったとしても遜色ない回答だっただろう。

 明坂は内心で巧いことを言ったとほくそ笑んだが、表情には出さなかった。同時に桐生からの関心と賞賛の反応を求めた。だが返ってきたのは期待したものと異なっていた。

「そうか……」

 返事はそれだけだった。相変わらず、いつからか変わってしまった死んだ魚のような目を明坂から逸らし、帰り支度に戻っている。そこには堂々たる態度で臨んだ後輩への関心などは、微塵もなかった。むしろ明坂の答えに失望したように、こめかみを押さえて首を横に振った。

 自分の言葉が気に入らなかったのだろうか、しかし自分は正直に答えたつもりだ。なぜ桐生さんはこのような反応をするのだろうと、明坂は額にじっとりした冷や汗を浮かばせながら、密かに動揺している。ただし桐生がそれを気付くことはなく、淡々と帰り支度を進めている。互いに噛み合っていなかった。むしろ、桐生が噛み合うことを拒んだのかもしれない。

「明坂君、二つだけ忠告しておこう」

「なんですか……」

 明坂の声は震えていた。自分がとんでもない失態を犯したのではないかと、動揺しているからだ。

「一つは、僕は君の答えに怒ってなんかいない。君は職員として、模範的な素晴らしい回答をくれたと思っている。だから怯えなくていい。むしろ胸を張っていいくらいだ」

 そう言われると、明坂はほっと胸を撫で下ろした。桐生はそれを気にする様子もなく続ける。

「もう一つはね明坂君。君はこの仕事が報われないものだと知るべき、ということだ」

「え……?」

 自分とは真逆の意見だと、明坂は一瞬渋い顔をする。

「報われないんだ。患者にとっても、我々にとっても、ね」

 そう言って荷物をまとめ終えたのか、桐生は呆然と立ち尽くす明坂の横をすり抜けて背を向けると、そのまま事務室から出て行った。明坂が振り返った頃には、もう事務室には彼しかおらず、出入り口のドアはしっかりと閉められていた。

 その晩、明坂は寝室で横たわりながら眠りに落ちていくまでの間、反芻する桐生の言葉の意味を何度も繰り返し考えた。そして朝が来ても、彼の疑問が解決することはなかった。



 暗い部屋の中で、男はただ死を待つしかない病人のように寝転がっていた。電燈は目が痛くなるから点けていない。光を忌諱する蟲のように、ただベッドの上に転がっている。

 そんな彼を咎める者はいない。この家には桐生以外の者がいない。棺桶のような狭いコンクリートの部屋の中には、簡素なテーブルが一つ置かれているだけで、あとは精々彼が夕飯で食べた惣菜のあとが残っているだけだ。

 以前では自炊していたが、もはやそのような気力も失せてしまっている。

 時刻は既に深夜、桐生は眠れないままでカーテンのない窓から外を眺めた。微かな街の光が空と雲に反射して、赤く、または薄い黄土色のような色を映している。ここには本当の夜はない。いやむしろ、この街だけに限ったことではない。あらゆる場所で本来あるべきものが失われている。



 昼休み、明坂が食堂で昼食を食べ終えて席を立ったところだった。返却口に桐生の姿を見つけた明坂は、声をかけるべきか悩んだ。彼はまだ昨日の桐生との会話が、頭にこびり付いて離れなかったのである。

「おや、明坂君か」

 明坂が考えあぐねていると、先に桐生の方が彼に気付いて話しかけていた。明坂は一礼してから返却口に食器を戻すと、「どうも」と口を開いた。

「君はいつも食堂で食べているのかい」

「はい、値段も安いし美味しいので。あと、ここのチキン南蛮定食がお気に入りだからよく食べているんです」

「……まさか、毎日チキン南蛮ばかり食べているのか」

 表情には出さないが、桐生なりに驚いた反応を見せる。明坂は首を横に振って否定した。

「いいえ、週三回だけです」

「十分な回数だな。そうだ、一服しようと思っていたんだが」

「お供しますよ」

 実のところ明坂は煙草を吸わない性質である。学生時代の彼は何度か吸う機会こそあったが、あくまで他人に勧められてからもらって吸うことはあったが、自ら買うことは決してしなかった。

 喫煙所は屋外にある。ただし薄暗い灰色の雲が空を覆っていて、すぐにでも雨が降り出しそうだからか、喫煙所には二人以外誰もいなかった。桐生は天気を気にしながらも、ポケットから煙草の箱を取り出して火を点けた。

「よかったら君もどうだい」

 明坂が煙草を持っていないのを察したのか、桐生は煙草が何本か入った箱を差し出した。箱からは一本だけ煙草が飛び出ている。明坂はそれを「ありがとうございます」と言いながら一本受け取り、ライターを借りて火を点けた。明坂にとっての喫煙とは、いつもこの調子だ。

 肺に紫煙を取り込みながら、帰りがけに桐生から言われたことの意味を訊いてみることにした。

「昨日桐生さんに言われたこと、帰ってからも考えてみたんです。自分たちはともかく、患者さんが報われないっていう言葉の意味が判らなくて」

 若者らしいな、と桐生は言おうとして押さえ込んだ。自分は彼とそんなに年が離れているわけでもないし、偉そうに思われるのは嫌だったからだ。

「この仕事は体の病気を治療するような医者とは、根本的に違うってことさ。病を治療する医者は治療に成功すれば充実感を得られるし、患者は幸福感に包まれる。無論、整形外科といったものとも違う。この仕事は表面上でしか治療を行えない、虚しいものだよ」

「それこそ整形外科と同じじゃないですか? 体の一部に手を加えて新しい自分に生まれ変わる。鏡の前に立つのは表面上だけ新しくなった自分ですよ」

 明坂は灰を落としながら反論する。対して桐生は出来るだけ服に臭いが付かないように、曇天を見上げながら煙を吐いている。喫煙をしている時点で、その努力は少々滑稽であった。

「確かにそういった考えも出来る。だがかつての自分と向き合ってこそ、彼らは手術に臨む。基盤があるからこそそれを糧にして、自己変革を起こして生きているんだ。だけどね、ここの患者は違う」

「あまり違いが判りませんが……」

 桐生は俯きながら煙草を吸っている。

 やはり明坂は彼の言いたいことが判らなかった。正しくは、彼の言っている『違い』が判らなかった。明坂の持論としては、メスをリングに置き換えただけの話である。職員たちは執刀医ではないが、やっているのは患者の抱える消したい記憶という悪性腫瘍の切除ではないのか。彼は無表情で煙草を吸う桐生に若干の苛立ちを覚え始めていた。

「桐生さん、本当にあなたは変わったんですね」

「はは……。そう言われるのも何度目になるかな。周りの連中も口を揃えて同じことを言うよ」

「僕が入社した時に比べれば、明らかにあなたは変わりました。しかもその理由を誰にも話したがらないですし」

「僕以外の誰もが、自分たちの意志や目的を持って仕事をしている。もしも余計なことを吹き込んでしまえば、皆の労働意欲が削がれてしまうかもれない。……いや、自意識過剰かもしれないか。だが僕は僕なりに考えを持って、口外しないようにしているつもりだ。それに僕は望んでこんな自分になったわけじゃない。どうしようもないから、こんな自分になっただけだ」

 吸い殻を喫煙所に置いてある吸い殻入れに放ると、生気の籠もっていない瞳が明坂を映した。笑っているようにも怒っているようにも見えない。ただあらゆる感情を殺した者の目をしている。

「そろそろ戻ろう。昼休みは終わりだ」

「そう、ですね……」

 やはり明坂にとってしてみれば釈然としない。頑なに口にしない彼のことを軽蔑こそしなかったが、失望させられた気分になっていた。自分にはこっそり真実を話してくれるのではないかと、彼はどこか期待していたからだ。

「なんなんだっ」

 短くなった吸い殻を投げ捨てるように吸い殻入れに突っ込んで、肩を落としながら午後の仕事へと赴く明坂の姿を見た同僚は、眉間に皺を寄せながら歩く彼の姿に怯えていた。当人はそれに気付く由もなかった。



 翌朝明坂が出勤すると、中年の主任が椅子に座って腕を組みながら「ううん……」と考えるように声を洩らしていた。朝からどうしたのだろうか。

「おはようございます、主任。何かあったんですか」

 明坂は言ってから首を突っ込まない方が良かったかもしれない、と気付いたが、既に手遅れである。主任は待っていたとばかりに、愚痴を垂れる主婦のように事情を話し始めた。

「実は桐生から休みが欲しいと連絡があってねえ」

 間延びした口調で主任は溜め息を混ぜながら話す。

「桐生さんが、ですか。急病でしょうか」

 入社してから無欠勤無早退を貫いていると名高い彼が欠勤の連絡を入れるのは、ここの職員の誰もが驚愕するような出来事である。

「それが詳しいことを話そうとしなかったんだよねえ。病気なのか慶弔休暇なのか、一言も言ってくれないままで」

「はあ」

 自分が上司なのだから、はっきりと訊ねればいいのではないかと明坂は言おうとして、すぐに呑み込んだ。

「明坂君、何か聞いちゃいないかい? 昨日のお昼は二人でご飯を食べていただろう」

「いえ、食器の返却口でたまたま居合わせただけですが……。自分は特に何も聞いていませんよ。昨日だって元気そうに見えましたし。申し訳ありませんが、お力にはなれそうにないです」

 昨日彼が桐生と会話したのは昼休みが最後だった。定時になり帰ろうとした頃には、既に桐生は事務室を出ていたのである。

「判ったよ。いやすまないね、引き留めて」

「お気になさらず。それでは」

 軽く頭を下げて主任のデスクから離れ、明坂は自分の席に着いて仕事の準備を始める。ただ一つだけ、いつもと違う点が彼の目に付く部分にあった。

 彼はいつも机の上を出来るだけ片付けてから帰宅する。最低限の物だけしか置かないようにしているのだ。故に、決して書類の入った封筒など放置して帰らない。

 しかし明坂の机の上には、見覚えのない封筒が置いてある。昨日帰宅する際にはなかったはずだと、間違いなく確信を持って言える。誰かが間違って自分の机に置いたのだろうかと思ったが、封筒の表にはしっかり明坂宛と書かれている。

 手紙ならば自宅に届くだろうし、職務関係の書類にしても、本人不在の時に封筒だけを放置して行くだろうか。せめてメモの一つでも残すのが筋だろうと疑ったが、中身を見てみると手書きで書かれた便箋が何枚か入っており、また内容をざっと流し見した限り、どうにも仕事に関するものでもないらしい。

 首を捻りながら文末の差出人を見ると、桐生の名前があった。明坂は息を呑み、改めて手書きの便箋を初めから読み始めた。

 そこには桐生がこれまで誰にも語らなかった、ある一人の患者のことが書かれていた。そしてその患者と関わったことで、桐生が何を得て、何を失ったのか。彼が口にしなかった全てが書かれていた。



『僕はよく君を含めて皆から人が変わったみたいだ、と言われる。だがそれには明確な理由があって、止む無く僕はこんな人間になってしまったのだ。他の職員の皆には余計な心配をかけて申し訳ないと、重々承知している。判っていながらも前向きに仕事をする気になれない。正直なところ、僕はあの患者を診た時からずっと生きた心地がしない。心臓の真ん中が穿たれ、冷え切った空気が筒抜けになって流され続けているような気分だ。

 何度も仕事を辞めようかと悩むこともあった。こんな仮初の治療など行い続ければ行い続ける程、自分の気が狂いそうな気分になっていく。患者が帰っていくたびに、酷い罪悪感に駆られてしまう。どうして自分はこんなところで働いてしまったのだろう、どうしてまだ働き続けているのだろうと、日に日に疑問は増していく。だが今の生活を保っていくには、自分の気持ちを押し殺し、利口さを演じて働くしかなかった。

 こんな手紙を君に押し付けるのは無責任だと思うし、自分の価値観を他人に共感してもらおうなどと言うのは、エゴに過ぎないのも判っている。それでも、この仕事が、ハイポクリシー社のやっていることが、本当は誰の為にもならないということを誰か一人でも伝えておきたいと思い、最後に筆を執って書き残そうと思い至った。

 もしも君が僕の意見など知らぬと思うならここで破り捨て、抹消してくれても構わない。しかし、どうして僕がこんな人間になってしまったのか、という疑問を明らかにしたいのであれば、この先を続けて読んで欲しいと思う。

 さて、ここから先は君が読み進めていくと決めたのだろうと想定して書いていこう。そもそも僕がこうなってしまった原因、というには失礼に値するだろうが、全ては近江さんという若い女性の患者と関わってからだった。

 その日の僕はかつての僕と同じように、意気揚々に出勤したし、彼女が来る午後まではいつもの調子で仕事をしていた。今思えば、あんな気持ちでよく仕事が出来ていたなと、自分に感心してしまう。

 話を戻そう。近江さんは見たところ、他の患者と然して違いがないように思えた。軽い自己紹介をしている間でも、話し方や性格に特徴があるわけでもなさそうだった。優しそうな口調で、ゆったりとしていて奥ゆかしい、むしろ問題なさそうに思えるくらいだ。だから僕はいつもの調子ですぐに仕事を片付けられるだろうと、普段通り消したい記憶について訊ねた。これはどの職員も治療の過程でやることだ。それまでの会話では異常らしいものもなかったし、特に大きな問題はないだろうと踏んでいた。

 だが、彼女は過去を話は始めた途端、彼女から発している空気が一変したのだ。まるで怨念を撒き散らしているようだった。僕はそれまで自分がオカルトの類は信じない男だと思っていたが、周囲にいる人間を呪い殺してしまいそうな気配に、悪寒が走ったのをよく覚えている。貴様も同じ場所へと引きずり込んでやろうとする、怨嗟の声に似た空気。オーラと言われるものだろうか、それが彼女から発されていたのだ。僕はすぐに本能的に危険を察し、同時に彼女にはとてつもなく忘れたい、深い傷のような記憶があるのだと判った。最も恐ろしかったのは、それだけの強烈な気配を出していながらも、彼女は瞬き一つせずにに淡々と話していたことだ。

 近江さんの話を聞く限り事の元凶は、彼女の家庭環境にあった。母親は水商売をしており、父親は会社の金を横領して解雇されると、職に就かず酒を飲んでは博打に明け暮れていた。勿論近江さんの両親の夫婦仲は円満ではなかった。父親は遊んで帰るたびに借金を増やし、母親は働いてそれを返済する。時には体をも売っていたらしい。返済が遅れると父親は酒を飲んで近江さんや彼女の母親に暴力を振るい、返済の当てを作ろうと親戚に頭を下げさせた。父親はと言うと決して働こうとしなければ、頭を下げようともしない。返済金を調達することすら出来ない無能なお前たちが悪いのだと、一方的に責任を押しつけていた。家に居座る悪魔のような男だったと言っていた。近江さんはそんな両親を見て、そして心と体に傷を負いながら育ってきたらしい。唯一の救いは、彼女自身が誤った道へ進まなかったことだろう。

 彼女自身は真面目な人だった。学業が優秀で、奨学金で進学校に通っていた。教師や友人といった周囲の人たちは、誰もが口を揃えて彼女のことを尊敬した。近江さんは自分から家庭の事情を話そうとしなかったが、周りは薄々ながらも察していたらしく、またそれが彼女の評価に繋がったらしい。

 近江さんが高校二年になる直前だった。彼女の父親が暴力事件を起こし、逮捕されたのである。父親は逮捕されると同時に、芋蔓式にこれまで隠し続けていた悪行の数々が明るみにされることとなった。他県の山奥で秘密裏に行っていた大麻の栽培、違法薬物の販売、密輸や売春の仲介など、口にするのも憚られるような罪が続々と発覚したのだ。

 マスコミはこれを大々的に取り上げて報道した。まずは逮捕された父親、そして次にターゲットになったのは家族、つまり近江さんと彼女の母親である。家庭環境に始まり、住所や顔など、プライバシーと呼ばれるものは一切関係なく調べ上げ、週刊誌の記事には面白おかしく編集したものを記載していた。

 日夜押しかけてくるマスコミから逃れるため警察に助力を申し込んだものの、何の協力もしてくれなかったらしい。しばらくは家から出るどころか、家にいるのも苦痛に思える生活を強いられていたと言う。

 ただ唯一の救いは父親という悪の権化が家から消えたことだろう。

 世論を気にした学校側は近江さんを退学に追い込んだ。彼女はそれを止めることは出来なかったし、誰も歯止めをしようともしなかった。当然のように処分が順当に下され、間もなくして彼女は正式に退学となった。彼女自身は何の罪も犯していない。だが世間はそれを受け入れなかった。それまで親しくしていた友人も手のひらを返したように目の前から消えていき、評価してくれていた教師から向けられるのは冷たい視線だけ。ただ血の繋がった人間という理由だけで、彼女は咎人と同じ烙印を押されたのだ。

 近江さんが退学に追い込まれた頃、マスコミや近隣住民からの注目を避けるため、彼女の母親が引っ越すことを決めた。少なくとも現状よりも良い方向に打開できるのではないかと考えたからだ。引っ越し先は元々住んでいた場所から遠く離れた、とある小さな村だったらしい。二人は少ない貯金と荷物をまとめて、逃げるように家を出た。村に越してからは外出するたびにマスコミが追いかけてくることや、日夜電話が鳴り続けることはなかった。納屋のような古い家に住み、その日暮らしの生活しか出来なかったが、暴虐の限りを尽くしてきた父親から逃れられただけでも、近江さんにとっては救いだったと言う。

 だが村は失楽園を強いられた者たちを受け入れる場所ではなかった。彼女たちを待っていたのは村八分という名目の迫害だったのだ。マスコミは追いかけてこなかったものの、村の住人たちは連日報道されるニュースで近江さんたちのことを知っていたのだ。村の住人たちは犯罪者の家族がやって来たと流布し、数々の嫌がらせを繰り返した。次第に落ち着くと思ったが、その兆しは全くない。近江さんの母親は積み重なるストレスのせいか、精神的に不安定になった。娘以外とは一切会話が出来なくなり、仕舞いには目を合わせるのも不可能になった。

 更に肉体的にも衰弱していくのが目に見えて判ったという。原因はAIDS。近江さんは口にしなかったが、きっと夫の借金を返済するため、体を売って稼いでいた時に感染したのだろう。医者に病名を宣告された彼女の母親は、ただ下を向いたまま誰かに向かって、「ごめんなさい」と誰かに向かって繰り返し呟いていたらしい。

 近江さんは働けなくなった母親の代わりに、仕事を倍に増やして働いていた。村の人間たちはそれを面白おかしい話の種にしていたのを彼女は知っていた。

 彼女の母親が家に籠もりきりになってから何年か経った冬に仕事から帰宅した近江さんは、自分の母親が喉に刃物を刺して亡くなっていたのを発見することになる。もともと母親の死期は近かったらしいが、それでも唐突に訪れた母の死は彼女にとって衝撃的だったに違いない。

 葬儀は費用がなかったため行われなかった。ただ焼かれ、骨だけになって骨壺に入れられた母親を共同墓地に入れることが、近江さんに出来る唯一であり最良の選択だった。これで母は楽になれただろう、もう誰にも苦しめられずに、虐げられずに、追い詰められずに、泣かずに済むのだと。そう思ったと言う。彼女なりに母の死を受け入れるしかなかったのだろう。

 それから数年が経った。近江さんは住んでいた村を出て、この町へ引っ越してきた。新しい環境ではマスコミが追ってきたり、嫌がらせをされたりすることは一切なくなった。彼女の人生はようやく落ち着きを手に入れたのだ。働きながら定時制の高校に通い、高校の卒業資格も手に入れた。それもあって、以前よりも良い仕事に就けた。

 定時制高校で出会ったある社会人の男性は近江さんと同じように、家庭の事情で高校に通えなかった。二人は互いの境遇や年齢が近いのもあって次第に親しくなっていった。そして定時制高校を揃って卒業した年に、彼らはめでたく婚約をしたのだ。ようやく近江さんは長い冬を乗り越え、春を迎えたのである。

 不肖ながらもここまでの彼女の境遇を親身に聞いていた僕にとっては、大変安堵した瞬間でもある。君も同感であると信じたい。

 そして彼女がここに来る数ヶ月前、彼女たちは町の小さな教会で挙式した。近江さんの友人は少なからず出席していたが、親類は当然のことながら誰もいなかった。ただし新郎や彼の家族は彼女の事情を十分に承知していたから、誰も口出しはしなかった。むしろ今までの苦労を労い、寛大な気持ちで迎えてくれたと言っていた。

 僕はここまでの話を聞いて、ようやく最初に彼女から感じた憎悪の波動が、徐々に弱くなっている事実に気付いた。ほんの少しだが、彼女を覆っていた悪意が霧散したように思えたのだ。同時に僕はここで一つ疑問を覚えたのである。ここで幸福な結末を迎えた彼女が、なぜここに来たのか。

 僕が訊ねると、彼女は神妙そうに話し始めた。これまでの自分で言うのもなんだが、これまでの半生を振り返れば悲惨なものばかりだった。父の暴虐、母の死、自分を取り巻いてきた環境や人々、改めて述べることではないが、彼女は心に深く傷を残したままなのだ。傷が癒えることはなく、今でも幼少期からの記憶がこびり付いて離れない。時にかつての記憶が自分をパニックに追い込む。

 彼女の父親はまだ獄中に居ると言うが、父親が出所、もしくは脱獄した時に真っ先に自分のところに来るのではないか。また以前と同じように誰かに裏切られ、見捨てられ、迫害されるのではないかと、様々な強迫観念が唐突に襲ってくる。

 ならばいっそのこと、辛かった過去の全てを忘れられたら、自分はようやく初めて裡にあるしがらみから解放されるのではないか、そう思って過去と決別するためにここに来たと言った。

 その時の僕は深く感銘を受けていた。彼女に「全てを忘れさせて下さい」と言われ、「当然です、それが僕たちの仕事ですから」と溌剌はつらつに答えて見せた。近江さんがこれから未来を見据えて生きて行くためには、必要なことだと紛れもなく肯定し、治療に値するものだと判断したからだ。

 結論から言えば、僕はいつものように患者にリングを填めて、忘れたい記憶を削除させてあげたわけだ。しかしここからが問題だった。彼女は忘れたい記憶を見事に削除した。内容は「憎悪を抱え続けたことと、それに関する過去の出来事の全て」。治療は成功に至り、解決したと思った。

 しかし、記憶を消した後の近江さんはやけに静かになって、顔から色を失い人形のように硬直してしまった。僕はどうしたのかと話しかけたが、しばらく返事はない。どうにも様子がおかしい。まるで植物人間に話しかけているようだった。さっきまであれほど饒舌に話していた人が、ここまで急変するだろうか。こんな患者はこれまでに例がなかったから、酷く心配した。

 ようやく口を開いた彼女は、一言呟いた。

 どうして私はここに来たのでしょうか。

 それは以前から治療を終えた患者がよく口にする台詞だった。治療をした部分を忘れているのだから、当然何の記憶を消したのか覚えている訳がない。でもそれまでの僕は特に気にせず、簡単に説明するだけで受け流して、帰って行く患者を見送るだけだった。

 しかし彼女は違う。リングが記憶を削除した瞬間、生きる力の全てを失ってしまった。目の前にいるのは数分前の近江さんではなく、近江さんの形をした別のモノになっていた。

 僕はそこで初めて理解した。彼女が消してしまった記憶というのは、彼女の生きるための根幹だったのだと。誰かを憎み、そして憎まれてきた記憶そのものが、彼女の生きる糧であり基盤だったのだと。ではそれを失ってしまえばどうなるのか、簡単なことだ。彼女はゼロ、無そのものになる。建物が土台から崩されると倒壊してしまうように、彼女は積み重ねてきた人格そのものまで壊れてしまったのだ。

 なんということをしてしまったのだろうと思いながら、僕は彼女の背中を見送った。その後、彼女が無事に家まで辿り着けたのかも判らない。彼女と話したのはさっきの一言が最後で、結局僕は何も答えられないままだった

 彼女との一件を通じて、ようやく僕は一つ思うことが出来た。人は過去があって現在いまがある。犯した過ちを学習し、失敗を糧にし、そして現在に至っている。人類の歴史もまた同じだ。過去なくして今はないのだ。

 なぜ人間は幸福な記憶よりも、悪い記憶ばかりをしっかり覚えているのか。今や未来をより良くするために、過去の失敗を省みるためだ。ハイポクリシー社のリングは容易に人の記憶を消してしまうが、これは本来あってはならない。僕たちは常に過去と向き合い続けなければ、上手に生きていけない不器用な生き物だから。

 そういった現実を突きつけられた時に、僕は本当に自分の仕事が正しいのか疑問に思い始めた。ハイポクリシー社の職員としてではなく、一人の人間として考えていくようになったのだ。その頃から周りは僕に人が変わったようだと言い始めた。しかし僕は彼らの意見に、偽善者たちの意思に抗う。そもそも僕らは医者じゃない。正式な免許だって持っていない。それなのに他者の過去に干渉し、記憶を操作するなどという行為はおこがましく、危うくないだろうか。

 いずれ君たちもこの仕事の抱える本当の意味を知り、向き合うべきなのだ。しかし僕は弱者だ。結局最後まで現実に向き合いながらも、解決することは出来なかった。気持ちだけの勇気しか持ち合わせていなかった。こんなジレンマに苛まれるのであれば、いっそのこと近江さんに関する記憶を消してしまおうかと悩んだが、記憶の削除を否定している身としてそれは出来ない。

 だから僕はこの職場を離れ、一つの策を取ろうと思う。この結末を抵抗と言うべきか逃避と言うべきか、その判断は君に委ねる。ただ唯一この事実を伝えた君には、僕と近江さんのこと、そして人が過去と向き合う意味を深く考え、そして覚えておいて欲しい。』



 明坂は手紙を全て読み終えると、既に始業時間寸前だった。手紙を一度デスクの引き出しの中に仕舞った彼は、すぐに始業の準備に取りかかる。患者は今日も記憶の削除を求めてやって来る。急がなければと、彼は支度した。

 紅葉の色がくすんで、冷たい地面に落ちては積もっていく時節のことであった。

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デリート・リング 夏野陽炎 @kagero_natsuno

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