海を知らない人魚姫
三砂理子@短編書き
海を知らない人魚姫
学級委員がざわつくクラスメイトたちに「静かにしてください」と声をかける。
「はい、いいですか。それじゃ、二年八組の文化祭の出し物は劇に決まりました。次に劇の内容を決めたいと思いますが、今年の文化祭のテーマは『海』なので、なるべくテーマに沿うものを考えてください。別にストーリーを全部考えるんじゃなくても、海水浴とか、サーフィンとか、大ざっぱなものでもいいです」
次々と意見が上がる。海賊、海の家、焼きそば、かき氷、すいか割り、流しそうめん、海水浴、スキューバダイビング、釣り。劇の案というより、自分たちの夏の欲望である。学級委員は律儀にそれらを一つ一つ板書していく。
「他にはありませんか」
「はい。あの、劇の内容じゃないんですけど、提案があって、城崎くんに脚本を書いてもらったらいいかなって思うんですけど。どうですか?」
女子生徒の一人がそう言うと、近くにいた仲間の女子生徒たちがきゃあきゃあとはしゃぎ始めた。
「そういえば城崎くんは演劇部でしたね。城崎くん、どうでしょう。書いてもらえますか? もちろん、強制はしないですが」
城崎真太は無表情に顔を上げた。
クラス中の視線が真太に注がれていた。
「うーん。書きたいのはやまやまなんだけど、ごめん、劇部の方の脚本も書かないといけなくて。二つ書くのはちょっときつい。他のことなら協力するから、勘弁してほしい」
ごめん、と真太は頭を下げた。
「それなら仕方ないですね。では、天海さんの提案は却下ということで、進めます」
「あ、そうだ。それで、俺が書かないのにこんなこと言うのもあれかもしれないけど、劇の脚本は既成の作品からつくるのがいいんじゃないかと思うんだ。それだったら書く人の負担も減るし、みんなもお客さんも知ってる作品なら、分かりやすいし」
真太の案が通って、それから生徒たちは海を題材にしたいろいろな作品を上げていった。
鎌倉の町で暮らす姉妹の話、海難救助をするレスキュー隊の話、海賊にさらわれた幼馴染を救うために冒険する話、等々。
上がった作品数が二桁を越えると、学級委員はそこで打ち切って、多数決をとった。
「はい、じゃあ、劇の内容は『人魚姫』に決まりました。あとは、これを書いてくれる人……誰かいませんか?」
「あの、あたし、書きたいんですけど」
手を挙げたのはその女子生徒一人だった。その女子生徒は、先ほど城崎に脚本を頼もうとした天海有紗の仲間の一人だった。
その発言に異を唱える生徒はいなかった。けれど、賛成多数というふうな空気でもなかった。
伊藤伊吹が書くことに思うところはあるけれど、黙っている。それは自分が書きたくないという保身のためか、はたまたその場を荒らしたくないという平和主義のためか。
学級委員がクラスを見渡す。
「他に、書きたい人はいませんね。では、伊藤さんにお願いしたいと思います」
有紗が手を叩き始めると、他のクラスメイトもまばらに拍手をし出して、拍手が教室を包んだ。有紗と伊吹らの集団はきゃいきゃいとはしゃいで騒がしかった。
山本弥栄子は窓際の席で拍手もせずに、読みかけの文庫本に視線を戻した。
「ねえ、山本さん」
放課後、弥栄子が帰ろうとすると、その机の周りを五、六人のクラスメイトがぐるりと囲んだ。
「なに?」
「ちょっとさ、お願いがあるんだけど、ついてきてくれない?」
伊吹はその言葉とは裏腹に態度は有無を言わせぬ雰囲気で、弥栄子は大人しく伊吹らの後をついていった。
「山本さんさ、クラス劇の脚本、書いてくれない?」
人気のない廊下に連れていかれ、言われた言葉に弥栄子はぽかんとして伊吹を見た。
「さっき伊藤さんが書くって、自分で手を挙げたんじゃないの?」
「あんなの嘘よ。だってあたし、本なんて読まないし。脚本なんて書けるわけないでしょ」
「じゃあなんで手を挙げたの?」
「真太くんが書いてるって言うから。脚本家仲間? みたいな。話のネタになるかなって思って」
弥栄子はなにかの冗談かと思ったが、伊吹の表情は本気そのものだった。他のクラスメイトたちも「お願い」「伊吹ために」「クラスのことを思って」と口々に追随した。
影武者に弥栄子を選んだ理由を尋ねると「いつも本を読んでるから、書けると思って」という安直すぎる返答で、弥栄子はどこまでも呆れてしまった。
押し切られる形で弥栄子は脚本を引き受けた。引き受けたというより、引き受けなければ帰れそうもなかったから承諾する他なかった、というのが正確であった。
女子軍団に解放された弥栄子はその足で図書室へ向かった。海外作品がまとめられた棚の中から、ハードカバーの分厚い本を一冊取り出す。それはアンデルセン童話の作品集だった。目次で「人魚姫」が入っていることを確認し、カウンターで貸し出し手続きをした。
弥栄子はさらに、帰り道に市営の図書館へ寄って、学校で借りたものとは違う児童向けの作品集と人魚姫の絵本を借りて帰った。
三冊の本が入ったかばんは重く、家に着く頃には額に汗がにじんでいた。
その夜から弥栄子はいくつもの「人魚姫」、そして演劇に関する書物を読みふけった。
はじめは既成の脚本を短くして台本にしようとも考えたのだけれど、人魚姫を扱った戯曲は人形劇を前提としたもの一つしか見つからず、アレンジも多くされていたためにそのまま使用するということはできなかった。ただ、童話では人魚姫と王子に名前がなかったので、名前だけはその戯曲から拝借した。
弥栄子は脚本を書くなど当然初めてのことで、戯曲や書き方に関する本を参考に見よう見まねで書いていった。
翻訳者や対象年齢によって僅かに異なる言い回しやストーリー。どの作品でも共通する重要な台詞やキャラクター像をノートに書き出した。特に、絵本は簡潔にするために省かれているシーンが多く、二十分という制約のあるクラス劇の脚本を書く上で大いに参考になった。文化祭には近隣に住む子連れも多く訪れるので、魔女のシーン等の過激な表現も絵本に倣いマイルドな表現に直した。
そうして、二週間かけて弥栄子は脚本を書き上げた。
弥栄子から脚本を受け取った伊吹はその中身を見ることもしなかった。担任教師に印刷室を開けてもらい女子軍団でクラスの人数分を印刷すると、鼻高々とクラスにその脚本の写しを配った。
「なんか、ここ直した方がいいとか、あったら言ってください。あたしが書き直しますから」
我が物顔で振る舞う伊吹に弥栄子は腹が立ったが、今更自分が書きましたと言っても波が立つので、無視することにした。
幸いにも、書き直しの提案は出なかったため、弥栄子の脚本がそのまま劇に使用されることになった。
キャストは立候補と他薦によって決められ、王子役には他薦で真太、人魚姫と人間の姫は自薦で伊吹と有紗になった。演出は真太が役者と兼ねることになった。
役者にならなかった生徒たちはそれぞれ大道具や小道具、衣装の係に割り振られ、弥栄子は大道具のグループに入った。
夏休み、大道具係は週に三、四日集まって作業をしていた。大道具係の主な仕事は背景づくりだ。海の中、嵐の海、城の見える浜辺、城内、船内。それ以外にも教室の前に出す看板や廊下の装飾等、数は多く、人手や時間はいくらあっても足りない。
教室を半分に分けて、一方を大道具の作業スペース、もう一方は役者の練習スペースとなっている。盆明けには練習が本格化するため、作業スペースは廊下に押し出される予定だ。
作業スペースにはブルーシートをいっぱいに広げ、置ける限りの模造紙とインクが並んでいる。作業時はペンキで汚れてもいいように、ジャージに着替える。学年カラーの青いジャージは、海のために大量に使う青ペンキの汚れが目立たなくて都合がよかった。
美術部の宇田川梅、遠藤英二が事前に模造紙に鉛筆で下書きと色の指定をしており、他の生徒はその通りにペンキを塗っていくのが作業だ。
マルドロール ねえ、お姉さま方。私はどうしても、あのお方のことが忘れられないの。
人魚の姉1 まあ! あんな、魚のしっぽでなく、二本のつっかい棒をした人間に恋をするだなんて!
人魚の姉2 お姉さま、落ち着いてらして。……ねえ、マルドロール。実はね、私の友人にその男のことを話したら、友人が、その男を知ってると言ったのよ。
マルドロール ほんとう! お姉さま、お願いします。あのお方のこと、教えてください。でないと私、夜も眠れないわ。
人魚の姉2 男の名はジークフリート。北西の陸にある国の王子なのですって。
背後では劇の読み合わせが行われている。
真太は演劇部の練習があり、クラスの練習に参加するのはまちまちだ。真太がいない間、役者組は王子の出ないシーンを練習したり、王子役の代役を立てて読み合わせをしていた。
それでも、昼には演劇部を抜け出して教室で昼食を取りながら読み合わせを行うなど、真太のクラスの練習をないがしろにしない姿勢に、不参加を怒るようなクラスメイトはいなかった。
なにより、真太が不在の際に役者組の指揮を執っているのは有紗と伊吹らであり、彼女らは真太と一緒に昼食を食べることに幸福を感じている様子で、真太への批判を許さない風潮をつくっていた。
「あ、ねえ、青のペンキ余ってるとこ、ある? こっちもう切れそうなんだ」
「こっちもあんま残ってない。買い出し行った方がいいかもな」
その場にいた十人程でじゃんけんをして、ペンキの買い出し係を決めた。弥栄子の友人である岡村桜花が負けたので、弥栄子は「私も一緒に行くよ」と自ら立候補した。
「弥栄子ありがとね、ついてきてくれて」
「ううん、気にしないで。私が勝手にやってることだから」
ペンキが売っている大きなディスカウントストアは学校の最寄り駅から二駅先にある。弥栄子と桜花は、弥栄子の自転車に二人乗りをしてディスカウントストアへ向かった。
「弥栄子はどう思う? 文化祭のこと」
「どうって?」
「伊藤さんたちのこと。学級祭委員ガン無視で勝手に仕切って、仲間内だけで役者埋めちゃってるし、明らかに城崎くん狙いで、そのために文化祭利用してるっていうかさ」
桜花のように伊吹らに不満を持っているクラスメイトは少なくない。他のクラスは人望の厚い生徒がリーダーをやっているか、何事も意見を出し合い多数決をとって公平に決めているところがほとんどであった。
「うん、分かる。変に恨み買ってもめると面倒くさいからなにも言わないけど。早く終わらないかなあ、文化祭」
「ね、終わんないかな。来年は最後の文化祭だし、伊藤さんたちと同じクラスになりたくないなあ」
「てかさ、伊藤さん、城崎くんと話すときだけ、声つくってるよね」
「そうそう! 耳にキーンとくる高さ、ほんとやめてほしい。人魚姫の台詞、少なくて良かったよ」
買い物をしながら教室では言えないような愚痴を二人で話して、弥栄子は少し心が軽くなった。
ペンキやハケ等の買った備品を自転車のかごいっぱいに積み、むしむしとした空気を振り切るように帰路を急いだ。
「あ、城崎くん」
弥栄子と桜花は靴箱で真太に会った。真太は先程まで外にいたようで、ワイシャツが汗で湿っていた。
「城崎くんって今日、演劇部の練習じゃなかったっけ?」
「うん、今練習終わって戻ってきたんだ。今日は体育館、運動部が使う番だから、近くの地域センター借りてやってて。あ、それ、ペンキ? 俺持つよ」
真太は靴を履き替え手にしていたスクールバッグをリュックサックのように両肩にかけると、二人が分けて持っていたビニール袋を真太はひょいと持った。「そんな、悪いよ」と制止する弥栄子にも「気にすんなって」と譲らなかった。
三人で教室に戻ると、それを見た伊吹らは弥栄子をぎろりと睨んだ。弥栄子はそれを見なかったふりをし、そそくさとブルーシートの隅に逃げた。
夕方、担任教師が戸締まりに回ってきたので、その日の作業と練習は終了となった。明日も作業があるため、ペンキや模造紙はそのまま置いておくこととなった。
作業班はジャージで作業をしていたので、帰る前に更衣室で制服に着替え直しに行った。弥栄子は買い出しの際に既に制服に着替えており、制服の上からジャージを羽織った状態で作業をしていたことや、親しいクラスメイトは皆電車通学で帰り道が違うために、役者組と共に一足先に玄関へ向かった。
伊吹や有紗が真太に「一緒に帰らない?」「ね、駅までくらい、いいじゃん」としつこく誘っている横を無言ですり抜ける。
昼間の二人乗りよりも身軽な自転車を漕ぎ、日陰の多い道を選んで帰る。
「あれ、もしかして、山本?」
弥栄子が学校を出て五分程経った頃、背後から声がかかった。
弥栄子が振り向くより前に、声の主が弥栄子の右横に併走してきた。それは真太だった。
「わ、びっくりした。城崎くん」
「おう。山本って家こっちだったんだな。知らなかった。中学どこ? 二中じゃなかったよな?」
「うん。私、去年こっちに引っ越してきたんだ。だから中学も前のとこ。海なし県だったし、中学は山の中だったよ」
よくよく話してみると、二人の家は学区は違えど自転車で十分とかからない近所であることが分かった。
真太は両親も地元で生まれ育った人間で、ずっと海の近くで育ったために、海のない県から来たという弥栄子の故郷の話に興味津々だった。
「そういえば、私、海って行ったことないかも」
「うっそ!? 一度も? こっち来てからも?」
「うん。去年の夏はおばあちゃんち行ってたし。テレビとかでは見たことあるんだけどさ」
弥栄子には山や木々に囲まれた生活が当たり前だった。海の近くに引っ越してきても、文化祭で『海』がテーマとなり劇の台本を書いていても、それを身近に感じたことはなかった。
「じゃあ、今から行こうぜ!」
そんな弥栄子にとって、真太のこの提案は予想外のものであった。
「えっ、今から!?」
「もちろん! 案内するよ!」
弥栄子の返答も聞かず、真太は十字路を右折してしまった。まっすぐ進もうとしていた弥栄子はブレーキをかけて止まり、ハンドルを右に切った。
はじめは見知った町並みだったけれど、次第に知らない建物ばかりになり、そして、道を抜けるとピンク色の景色に襲われた。
夕焼けの光を反射した海はきらきらと桃色に輝いていた。
初めて見る、光煌めく景色。弥栄子は自身の胸が強く高鳴るのが分かった。
「初めて海を見た感想はどう? マルドロール」
「やめてよ。……でも、綺麗。テレビで見るのと全然違うね」
わざとらしく尋ねる真太に、弥栄子ははにかんだ。
「ま、俺には見慣れた景色だけどね。でも、何度見ても飽きない」
「うん、分かる。ずっとずっと眺めてても飽きないかも」
二人は自転車を止めて、砂浜を歩いた。波打ち際まで近づいて、弥栄子のローファーは少し濡れて砂がくっついた。
ぽつりぽつりとしていた会話は次第に口数が減っていった。無言になってしばらくして、歩くのもやめて立ち止まった。沈黙のまま、海を見つめる。
ざざ、ざざ、と波打つ音が響いていた。
それから弥栄子は度々海に訪れるようになった。週に一度の頻度で真太とばったり会うこともあり、そのときは二人で海を眺めた。
二人はいろいろなことを話したが、大抵は真太が話題を出し、弥栄子がそれに乗っかるという形であった。その話題の中にはクラス劇の話題もあり、真太は「あの人魚姫の台本、ほんとに伊藤が書いたのかな?」「なんかさ、自分で書いたっていう割には作品への理解が足りない気がする」とも言ったのだけれど、「そうなの?」「うーん、私はキャスト組じゃないし、よく分からないや」と弥栄子は決して真実を話すことはしなかった。
文化祭は滞りなく終わった。文化祭後には、一般客や教師らが答えた評価アンケートによって決められた文化祭大賞と各学年の学年賞の発表があった。大賞は三年五組、二年の学年賞は一組が受賞した。二年八組は、箸にも棒にも掛からなかった。
文化祭の翌週、弥栄子は海で真太に会った。挨拶だけ交わし、静かに海を眺めた。海はいつも変わらず美しかった。
「あのさ」
いつものように真太が沈黙を破る。弥栄子は一瞥し言葉を促した。
「こんなこと、山本に話しても仕方ないんだけどさ。俺、伊藤に告白されたんだ。それで、……付き合うことになった」
「そっか」
弥栄子はそれだけを答えた。弥栄子の胸中には様々な感情が渦巻いていた。けれど、そのどの感情も口にはしなかった。
「ごめんな、変な話振って。ここにくるとさ、なんか分からないけど、素直な気持ちになるんだ」
真太は何度か謝って、別の話題を振った。演劇の大会が控えていること、家族のこと、クラスのこと。弥栄子はそれに相槌を打ったり、黙って海を見つめたりした。
日が沈みかけた頃、弥栄子はおもむろに立ち上がった。
「伊藤さん、結構嫉妬っぽいから、あんまりこういうの、やめた方がいいよ。だから私、もうここに来るのやめるね」
唐突な言葉に、真太は動けなかった。弥栄子は真太の返答も待たずに離れていった。
ようやく我に返った真太が「え、なあ、なんで!?」と弥栄子の背中に問いかける。弥栄子は立ち止まり、半身だけ振り返ると、
「さようなら、ジークフリート」
と言って、二度と振り返ることはしなかった。
End.
海を知らない人魚姫 三砂理子@短編書き @misago65
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