理科室の恋愛事情
三砂理子@短編書き
理科室の恋愛事情
木村翔子が入学した私立北浜高校には、七不思議があった。
夜の旧校舎から黒板にチョークで書く音がするだとか、立ち入り禁止になっている屋上へ続く階段にはさらにその上に続いており、それは異世界へ続いていて上ってしまうと戻ってくることはできないだとか、理科室の人体骨格模型は人骨でできており、動くのだとか。
それらの出回っている怪談の数を数えてみると七つどころではないのだけれど、どういうわけか「七不思議」と呼ばれていた。
その怪談話は入学したばかりの翔子たち一年生のもとにもすぐに伝わって広まった。
「これが噂の動く骸骨?」
「本当に人骨なのかなー?」
「いや、さすがにそれはないっしょ。人の骨使ってたらやばくね?」
翔子の友人である藤井真央と和田優美は七不思議のうち理科室の怪談に興味を持ち、三人で放課後に理科室へ来た。
三人は、なんら変なところのない人体骨格模型をまじまじと眺めていたけれど、動かないそれにすぐに飽きて、それからは恋愛話をし始めた。
中学生の頃に付き合っていた話、クラスメイトのかっこいい男子生徒の話、野球部のエースの先輩の話、等々。
「そういえば、二人は入る部活決めた? どうする?」
「うーん。悩んでるんだよね。あんま、どれも入る気しないっていうか。私、飽き性だからさ」
「真央はやっぱ野球部のマネかなー。野球部だけど坊主じゃないし、結構レベル高くない?」
「やっぱり? あたしも野球部いいなって思ってたんだよね。でも、バスケ部も捨て難いな。五十嵐君、バスケ部入るんだって」
「え、それまじ? えー真央、バスケ部マネにしよっかなー」
イケメンの彼氏がほしいと前のめりになる真央と優美に対し、翔子は一歩控えめだった。恋愛はしたいが、容姿は気にしない、普通の、楽しい恋愛がしたいと話していた。
真央はそれを「そんなこと言ってる間に年取っておばさんになっちゃうじゃん。若いうちに遊んだ方がいいに決まってるっしょ」と悪気なく笑い、その言葉通り、五月の半ばにはバスケ部の先輩と付き合い始めた。
それまでは、部活のない日の放課後は理科室の人体骨格模型の前に角イスを三つ寄せて恋愛話に花を咲かせるのが常だったのだけれど、真央はオフの日は先輩とデートがあると言って、それからは理科室には優美と翔子の二人だけになってしまった。
その頃、優美も同級生で仲の良い男子生徒がおり、二人の話題は大抵その男子生徒のことだった。優美が相談をして、翔子はそれに答えたり、そこから話題が逸れて別の話になったりしていた。
「あのね、翔子。……あたし、昨日勇人くんに告白されたの」
「本当! おめでとう!」
その日は梅雨の真っ只中で、外は雨がしとしとと降っていた。
優美は仲の良かった男子生徒と付き合うことになり、晴れ晴れとした笑顔だった。
「翔子が相談乗ってくれたおかげだよ。ありがとう。翔子は今誰か、いい人いないの? 恩返しって言ったら大げさだけど、応援させてね」
「うん、ありがと。でも、今は特にはいないかなあ。あ、そうそう、来週からバイト始めるんだ。そこで出会いがあったらいいなあ」
出会いがほしい、と話す翔子は、それでも以前の真央たちのようにがっつく雰囲気はなく、いい人がいればね、といった風だった。
優美は今度は自分が相談に乗る番だと話していたけれど、やはり真央と同様、その日以来、放課後に理科室へ姿を見せることはなくなった。
三人は放課後はばらばらになってしまったけれど、だからといって交友が途切れたというわけではなく、三人はよく一緒に昼食をとり、休日にはショッピングに出かけていた。
そして放課後の理科室には、翔子が一人で来るようになった。
「真央は今度先輩とディズニー行くんだって。優美は水族館。私は……理科室。なんてね」
翔子は一人で理科室へ来ると、授業の予習復習や宿題をしながらぽつりぽつりと呟く。
「よぉ、今日も来てたのか」
「あ、鶴岡先生。お邪魔してます」
「いや、別にここ俺のもんじゃないし。木村なら物壊したりもしないだろうし、好きに使っていいよ」
化学教師で理化学研究部の顧問でもある鶴岡一史は翔子と並んで頻繁に理科室に現れる教師だ。他の教師は授業以外で姿を見せることはない。
教師も生徒も、普通以上に七不思議を怖がるきらいがあるようで、七不思議の一つである人体骨格模型がある理科室に放課後わざわざ来る生徒は少ない。
それもそのはずで、この人体骨格模型の怪談が出回ったのはつい三年前のことだった。その上、目撃証言も複数あったのだ。
それでも春の間は七不思議を聞きつけた新入生が翔子たちのように訪れるが、そういう輩はなんの変哲もない人体骨格模型にすぐに飽きて梅雨の頃には誰も来なくなる。
目撃証言を目撃者本人から聞いて怖がる人、面白がって見に来るも動かない人体骨格模型に飽きる人、そもそも興味がない人。
それが大多数であり、週に一度、部員の少ない理化学研究部が来て雑談をしたり、実験をしたりするのを除けば、翔子や一史のように居続けるのは稀なことだった。
「はい。ここは人が来なくて静かなので、自習するのにちょうどいいんです。図書室より静かですよ、ここ」
「偉いなあ、木村は。藤井にももっと勉強しろって言っといてよ。こないだの小テスト、ひどかったぞ」
「あはは。真央は文系ですからね。数学も苦手みたいです」
翔子はその数学の復習をしているようだった。一史は翔子のノートをのぞき込んで、「難しいか?」と尋ねた。翔子は「そうでもないですよ」と答えた。
「木村は理系に進むのか?」
「うーん、どうでしょう。まだあんまり、将来のことは考えてないんですよ。進学か、就職かとか」
「ま、そりゃそうだな。こないだまで中学生で、高校受験終わったばっかだしな」
ひらひらと手を振って、「がんばれよ」と一史は理科室を後にした。翔子はぺこりと頭を下げ、再び机に向かった。
「鶴岡先生ってさ、結構イケメンだと思うんだけど、女子から人気ないらしいんだよね。なんでだろ」
新入生にはあまり知られていないが、一史は実は既婚者である。実験で傷や汚れがつくことを懸念して普段は結婚指輪をしていないので、知らないことは仕方のないことではあるのだけれど。
そのために毎年、春先には新入生のファンがつくが、しばらくすると既婚者であるという話が広まり、そして一史自身のガードが堅いこともあり、ファンは去っていくのであった。
「ま、私は鶴岡先生、好みとは違うけど。……実はさ、気になる人がいるんだよね」
翔子が独り言を呟くとき、翔子は勉強の手を止めることはしない。数式を解きながら一人で喋る。
「気になる、っていうか、告白されてんの。隣のクラスの俊介くん。中学が一緒だったんだけど、高校入ってから全然話してなかったし、中学でもクラス一緒だったの三年のときだけだったから……びっくりしちゃった。まだ、返事してないんだ」
どう思う? と翔子は人体骨格模型に笑いかけた。人体骨格模型は無表情のまま動かない。
「君に聞いても仕方ないね。あはは」
そう言って翔子はまた数学の復習をしながら、俊介のこと、学校のこと、バイトのことを話した。
六月の末には期末テストがあり、その勉強のために翔子は毎日理科室へ来るようになった。翔子は野球部のマネージャーをしていて週四日は部活に出ていたけれど、試験期間前は全ての部活が活動禁止らしかった。
試験前の翔子は勉強に集中しているようで、口数が少なくなった。それでも、勉強の合間の休憩時間にはいろいろと話をしていた。翔子は前に告白されたと話していた俊介とは付き合うことにしたということも休憩時間に言った。
試験の二日前には、翔子は俊介を連れて理科室へ訪れた。
「翔子ちゃん、いつもここで勉強してんの?」
「ときどきね。静かでいいよ、ここ」
翔子と俊介は一緒に試験勉強をした。けれど、俊介は飽き性で、十分に一度は勉強の手を止めて翔子に話しかけた。
翔子は慣れた様子で言葉を返しながら、勉強を続けていた。
「ええー。だってこの骸骨、動くんだろ? 見るからに気持ち悪いし、やだよ」
「そうかな? 私は気にしないし、嫌いじゃないよ、この子」
「サッカー部のOBの先輩がさ、これが動くとこ見たんだって。ガチらしいよ」
親しい先輩から目撃証言を聞いた俊介は人体骨格模型に心底怯えていて、話し合った末、二人は学校近くの市立図書館で勉強することになった。
二人はその日以降も図書館に行ったため、翔子が次に理科室へ訪れたのは期末テストが全て終わった翌日だった。
「久しぶり。やーっとテスト終わったよー。でさ、でさ、もう数学のテスト返ってきたんだけど! じゃーん! 九十七点! 惜しくない? すごくない?」
翔子は上機嫌だった。あまりに上機嫌で「すごくない?」を連呼するので、人体骨格模型は根負けしたように一度だけこくん、と首を縦に振った。
「ふふふ! ありがと!」
その日一日翔子は機嫌が良く、鼻歌を歌いながらテストで間違えた箇所を復習していた。
夏休みには一週間ほど夏期講習があり、講習が終わると翔子は理科室に顔を出してから帰るのが常だった。
理科室は利用者がいないために冷房が効いておらず、翔子も三十度近い部屋で勉強するのはためらわれたようだった。
「こんな暑いところにずっといて、大変ね。君は暑くないの?」
と翔子が尋ねて、人体骨格模型はこくりと頷いた。
「あ、そうだ、この間鶴岡先生に教えてもらったんだけどさ、君、ジェームズって名前あったんだね。今まで知らなかった」
人体骨格模型に名前を付けたのは一史だった。人体骨格模型の怪談が出回った際に、面白がって名付けたものだ。
「ジェームズ。うん、ジェームズ、かっこいい名前じゃん。君って呼ぶより愛着湧くね」
うんうん、と嬉しそうに頷く翔子に、ジェームズは照れた様子でぽりぽりと頬を掻いた。
九月に入り夏休みが終わっても、翔子は理科室へ現れなかった。九月の間に翔子が理科室へ来たのは授業で実験を行う一度きりだった。そうして季節が秋へと差し掛かった頃、約二ヶ月ぶりに翔子は放課後に理科室へ訪れた。
彼氏である俊介と放課後にデートをするため、部活のオフ日に理科室へ行っていたのをやめてデートに当てていたのだと、翔子は話した。
「でも、先週別れちゃったんだけどね」
なんてことない風に笑う翔子。でもその笑顔はどこか寂しそうでもあった。
「ジェームズ、愚痴聞いてくれる?」
しばしの沈黙の後、ジェームズは小さく首肯した。翔子は少し気持ちが軽くなったようで胸をなで下ろした。
「先週ね、私の誕生日だったの。それで前から行きたいって話してた水族館に学校の後行こうって計画してたんだ。なのに当日になって、いきなりドタキャン。信じられる? ありえないでしょ? 何度電話かけても出ないし。二人ともオフ日だったし、前から計画してたからバイトも入れてないはずだし、おかしくない? それでクラスのサッカー部の人に聞いてみたの。俊介くんに連絡つかないんだけど連絡とれない? って」
堰を切ったように翔子は話し始めた。いつものように教科書を開くこともなく、悲しそうな、怒ったような表情だった。
「そうしたら、なんて返ってきたと思う? 『連絡とれたよ。なんか、飽きたから別れる、って言ってるけど』だって! もう、本当に信じられない!」
話すうちに、翔子は目に涙を浮かべていた。
「私が電話しても絶対出ないの。ラインもブロックでメールもシカト。それでもう、腹立ったし、どうしようもないし、メールで別れるって言って、それっきり」
制服の袖で涙を拭う。それでも涙は止まらず、翔子はわんわんと泣き続けた。
「……それでも、好きだったの」
涙を枯らした翔子が漏らした言葉に、ジェームズはかける言葉がなかった。
翌週、理科室にやってきた翔子は何事もなかったかのように、独り言を呟きながら勉強をした。しかし恋愛に関する話は極端に減り、「バイト先のお客さんでね、かっこいい人がいるんだ」とは言うものの、さして本気ではないような口振りであった。
「もうすぐ進路選択なんだよね。進学か就職か、あと文系か理系か。そんなこと言われても、全然考えてないや」
「なんだ、木村はてっきり理系進学に決めてるのかと思ってたぞ」
突然声がかかって、翔子は飛び跳ねるように驚いた。
「鶴岡先生! いたんですか、びっくりしました」
「よっ。すまんすまん。今ちょうど準備室に来たとこだよ。木村、いるかなと思ってさ」
「進路、どうしようかなって、考えてたんです」
「毎週勉強しにここ来てるし、理数の成績も良いみたいだし、木村だったら進学コースでもいけると思うぞ」
コーヒーの入ったカップ片手に一史は翔子に近寄り、机の向かいの席に腰掛けた。
「それともあれか、大学で勉強したくないか?」
「うーん。勉強は嫌いじゃないんです。数学も理科も結構楽しいです。でも、具体的にこれがやりたい、っていうものが浮かばないんです。将来なにになりたいとか、なにを勉強したいとか、考えてもなにも浮かばないんです」
北浜高校は中堅レベルの学校で、それ故に進路の選択肢は多い。進学クラスであれば大学や短大は地元の国公立大から東京の私立まで情報が揃っているし、就職クラスは公務員試験の対策や地元企業へのインターンも受けられる。
けれど選択肢が多いということは、絞るのも難しいということでもある。
「そうかあ。それは難しい問題だな」
一史は一度首をひねってなにかを考えた後、理科準備室へ戻っていった。そして数分後に戻ってきた一史の手には何冊もの資料集や参考書が抱えられていた。
「俺は理科教師だから他の教科についてはなにもしてやれないが、理科だったらいくらでも話聞いてやるから。今なんとなく好きだなーとぼんやり思ってるものを、もっと突き詰めていければやりたいこと、勉強したいことも見えてくるかもしれない」
翔子は目を輝かせ、資料集をぱらぱらとめくる。翔子が気になったページをじっくり読み始めると、一史はその資料の解説をした。
「先生、これ、今日借りて帰っちゃだめですか?」
「ん? ああ、いいぞ。……あ、でも待って、それ学校の資料集だから、後で俺個人のやつ持ってくる」
「ありがとうございます!」
一史は授業の準備があると言って準備室へ帰っていった。翔子は一人で黙々と熱心に資料集を読みふけった。
外が暗くなった頃、一史が資料集を持って理科室へ戻ってきた。翔子はその資料集を受け取ると、もう一度礼を言って帰っていった。
季節は巡り、翔子は二年生へと進級した。進路選択は理系の進学クラスを選択した。
春は理科室への来訪者が多い。翔子は騒がしい理科室にあまり馴染めず、理科室を訪れる頻度が少なくなった。
五月の中間テスト期間が終わって七不思議に騒ぐ生徒も少なくなると、翔子は元通り理科室へ来るようになった。
「そうそう、聞いて、ジェームズ。私ね、今度亮太くんに告白しようかと思ってるの。……いけると思う?」
ジェームズは親指と人差し指で輪をつくり、『OK』の意思を見せた。一年間共にいるうちに、ジェームズは翔子の前でのみ頻繁に動くようになっており、ジェスチャーも多彩になっていた。
亮太とは、最近翔子が気になっているというバイト先の後輩だった。亮太に会いたい一心で、テスト期間中もバイトを減らさなかったと翔子は話していた。
「来週、二人で遊ぶことになったんだ。亮太くんから映画に誘ってくれたの。だから、そのとき告白しようかなって」
ジェームズはうんうんと頷いて相槌を打った。翔子は「応援しててね」と嬉しげに笑った。
夏休みを前にして、翔子は久しぶりに真央と優美とで理科室へやってきた。三人は夏休みに遊びに出かける計画を立て始める。
「とりあえず海行きたいよね、海。それかプール」
「真央はプール派かな! ウォータースライダーとか、よくない?」
「プール、賛成! あ、ねえ翔子、お昼に見せてくれたパンフ、見せて?」
「うん、ちょっと待ってね。……はい。私、こことかいいと思うんだけど、どう? カップル向けのアトラクションもあるみたいだし」
いくつかのパンフレットを交互に見てはきゃいきゃいとはしゃぐ。三人は、それぞれの彼氏を誘って三組六人でのプールデートを計画したいようだった。
「いつが空いてるかなあ?」
「いつ行っても混むでしょ、夏休みなんて」
「それもそっか。じゃあ、みんなのバイトとかの予定照らし合わせて決める感じでいい?」
「オッケー! じゃあさ、六人のライングループ作るから、後で彼氏のライン教えてくんない?」
計画をルーズリーフにまとめ終え、三人は仲良く帰っていった。
帰り際、最後に理科室を出た翔子は後ろを振り返り、ジェームズに手を振り笑いかけた。ジェームズは二人に気づかれないよう、小さく手を振り返した。
九月の初週、理科室に来た翔子は嬉々としてジェームズにデートの報告をした。ジェームズは相槌を打ちながらその話を聞いた。
けれど、その二ヶ月後。
「もー信じられない!」
翔子が声を荒らげながら理科室に飛び込んできた。
「むかつくむかつくむかつく!」
ジェームズが小首を傾げ、何事かと話を促すと、翔子は興奮した様子で話し始める。
「もう絶交! 真央なんかもう大嫌い! むかつく! 聞いてよジェームズ、真央が亮太と付き合ってたの、しかも先月から! 信じられる?」
ジェームズが落ち着いて、と諫めるジェスチャーをすると、翔子はぴたりと話すのを止め、肩の力を抜いた。深呼吸をして席に座り、荷物を置いてから、声の調子を落として愚痴の続きを話した。
「夏にみんなでプールに行ったでしょう? そのとき初めて彼を紹介したんだけど、真央が一目惚れしちゃったんだって。タイプだったって。それで、プールデートの予定決めるのに交換したラインで個人ライン飛ばして、少しずつ仲良くなって、付き合ってた先輩との喧嘩の相談とかして。彼も話してるうちに心移りしちゃった、とかって。意味わかんない。ばれなければいいと思った、それでばれたら別れてくれって、もうむかつく。真央のこと友達だと思ってたし、彼のことも信じてたのに」
怒りを収めると次は悲しみが翔子を襲った。話しているうちに涙がぽろぽろと零れ落ちて、止まらなくなった。ジェームズはどうすることもできず、おろおろとするだけだった。
机に突っ伏して翔子はわんわん泣いた。真央と亮太を罵倒する言葉を吐いた。
翔子は十五分ほど泣くと、スクールバッグからハンカチを取り出して涙をごしごしと拭った。メイクが崩れ、眉毛も睫毛もなくなってしまった。それでも翔子はなにか吹っ切れたようで、一度大きくため息を吐いた後、両指で頬を吊り上げ、無理矢理笑顔をつくった。
「よし、もう泣かない」
ジェームズは心配そうに首をかしげる。
「本当に大丈夫だから。真央のことも亮太のことも、忘れる。もういいの。バイトももっと時給いいとこに変えてやるもんね。……心配してくれて、ありがとね、ジェームズ」
翔子は目を赤く腫らした顔でジェームズに近寄り、手を伸ばして頭をそっと撫でた。ジェームズは驚きおののいて後ずさりをしようとして、後ろが壁であることに気づいた。逃げ場のないジェームズは翔子が満足するまで撫でられ続けた。
怒り狂った翔子を見たのはそれが最初で最後だった。
翔子が三年生になると、翔子は受験のために部活を早々に引退し、塾とバイトのない日はほとんど毎日理科室へ来て勉強をするようになった。翔子は学内でもかなり上位の成績であるようで、今年担任になった一史と理科室で進学する大学について相談をしていることが度々あった。
「前のバイト先の友達がさ、亮太別れたって教えてくれたんだ。真央、先輩とは別れたって亮太に言ってたみたいなんだけど、それが嘘だったんだって。二股だったって。ふふ、ちょっといい気味」
翔子は勉強に集中するためか、勉強の最中に話しかけることはしなくなった。かわりに、ひと段落すると休憩として、話しかけてくるようになった。
「なんか、もう当分彼氏はいいかなーって感じ。遊びに行くなら女友達でいいよねっていう。その方が楽じゃない?」
その言葉は嘘偽りではなく、翔子はそのひと月後にクラスメイトと野球部の後輩の二人から告白されたが、受験に専念したいのだと断った。
「私、夏女なのかな? 毎年夏にコクったりコクられたりしてる。夏の恋にいい思い出ないけど」
ジェームズが返答に困って首を縦にも横にも振れずにいると、翔子は「冗談よ」とけらけら笑った。
翔子が東京の大学を第一志望に決めたのは秋のことだった。県内の同程度の偏差値の大学であれば学内推薦枠があり、翔子の成績であればほぼ確実に推薦を受けられたのだけれど、それでも東京の大学に入りたい学科があるからがんばりたい、と一史や両親と相談して決めたのだった。目標が定まったことで翔子は一段と勉強に励み、当然理科室へ来る頻度も、理科室での口数も少なくなった。
ジェームズは初めのうちは寂しさを感じてそわそわとしていたけれど、翔子の必死さを見て応援をしようと気持ちを入れ替え、それからは邪魔にならないようにと静かになった。
それを察してか、翔子は理科室へ来た日は帰りに必ずジェームズの頭を撫でてから帰るようになった。ジェームズは撫でられている間は嬉しいやら恥ずかしいやらで身動きできず、翔子が理科室を出ていく後ろ姿に向かって小さく手を振って見送った。
十二月下旬の放課後にやってきたのを最後に翔子は理科室へ来なくなった。それもそのはずで、その日は二学期の終業式があり、三年生の進学クラスは受験本番に突入するため三学期は授業がないのだった。
終業式の日は翔子は昼前に理科室へ訪れて、勉強をするでもなく他愛のない話をするだけだった。それを最後の息抜きだと決め、以降は遊ぶこともせずひたすらに勉強をしていたのだという話をジェームズが翔子から聞かされたのは、それから随分経ってからだった。
翔子はお昼を少し過ぎるくらいまで話して、お腹が空いたから、と帰っていった。帰り際、
「私、がんばるから。応援よろしくね」
と手を振る翔子に、ジェームズはぐっと親指を突き立てた。
二月、廊下をばたばたと走る音がした。それはどんどん理科室へ近づいてきた。勢いよく扉が開く。
「ジェームズ! 私、受かったよ!」
ジェームズの両手を握り、ぴょんぴょんと跳ねるようにして喜ぶ翔子。ひとしきり興奮が収まると、握りしめていた手を離し、
「ね、ね、ジェームズ、褒めて?」
と屈託のない笑顔でそう言った。ジェームズは少し戸惑ってから、両手を叩いてそれを祝福した。
「ふふ、ありがと、ジェームズ。ジェームズが応援してくれたおかげだよ」
『そんなことはない』、と手やら首やらを振って謙遜したジェームズに、翔子はけらけらと笑った。
「私、鶴岡先生に報告してくるね。誰よりも最初にジェームズに教えたかったんだ」
ジェームズはまさか職員室より先に理科室に来たとは思っておらず驚いた。それを見て翔子は「うん、予想通りの反応」再びけらけらと笑い、職員室へ向かった。
「さすがに、明日は抜けてこれそうにないから、ごめんね」
卒業式の前日、予行練習後に理科室を訪れた翔子はそう謝った。
「三年間、ありがとね。ジェームズは私の一番の友達だよ。卒業しても、絶対また会いに来るからね、私のこと、忘れたりしないでよ?」
ジェームズは首をぶんぶん縦に振った。それを見た翔子が泣き笑いのような表情になる。ジェームズは慌てて首肯するのを止め、『心配している』のジェスチャーをした。
「ごめんね、大丈夫。ちょっと寂しくなっちゃっただけ」
本当だよ、と涙を拭いて、翔子は角イスをジェームズの前に寄せ、座った。ジェームズを見上げてくる翔子。
「ね、ジェームズってさ、私に絶対自分からは触れてこないよね。無意識? それともわざと?」
ジェームズはジェスチャーの最適解が見つからず、うろたえるばかりだった。
「ごめん、からかいすぎた。もう意地悪なこと言わないから。……そうだ、せっかくだから、思い出話でもしよ。私が最初に理科室に行ったのはさ、優美が七不思議に興味持ったからだったんだよね。私、実はそのときそんなに興味なくってさ、でも行かないってのもノリ悪いじゃない? で、二人についていったの。でも、初めてジェームズを見たとき、なんていうのかな、ピン! ときた、っていうか。なんだかすごく気に入っちゃったの。可愛いなあって。それで、他に人も来なくて、三人でだべるのにも都合がよかったから、理科室でだべろうよ、って私が提案したんだよ」
ジェームズは翔子を見下ろし相槌を打ちながら、翔子の話を最後まで聞いていた。
その日の帰りは、「またね」と言って二人は別れた。
翔子が卒業してから、ジェームズはぴたりと動かなくなった。相変わらず怪談を知った生徒が面白いもの見たさに訪れては飽きて去る、の繰り返しだった。
「また来る」と言っていた翔子も卒業以来姿を見せなかった。翔子は東京へ行ったのだから、会えないのは当然とも言えた。
そうして動かなくなって丸四年が過ぎた。ジェームズが動いたという目撃証言も随分昔のこととなり信憑性が下がったようで、徐々に理科室への来訪者は減っていた。今年の新学期はもしかするとゼロかもしれない、とジェームズは考えていた。
けれどその考えはすぐに裏切られた。
「ジェームズ、久しぶり。……約束通り、会いに来たよ」
そう言って理科室に入ってきたのは、他でもない翔子だった。三年間見慣れていた制服姿ではなく、髪色も茶色ではなかった。
スーツに、黒髪。けれど変わらない笑顔と、おしゃべりな性格。勉強熱心なところも、そのままだ。
「私の居場所はここしかないって思った。だから、大学で教職をとったの。何年かかっても戻ってみせるって思ったんだけど……案外、早く戻ってこれちゃった」
ジェームズの目の前に立つ。悪戯っぽい笑み。そして、一言。
「褒めて」
困った。ジェームズはとても困った。笑みを崩さない翔子にジェームズはついに観念した。
勇気を振り絞り、そっと手を伸ばし、翔子の頭を撫でる。
「ふふふ。ありがと、ジェームズ」
翔子は満足げにそう言って、ジェームズに撫でられ続けていた。
End.
理科室の恋愛事情 三砂理子@短編書き @misago65
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