ないものねだり

三砂理子@短編書き

ないものねだり

市立向日葵小学校は全学年の生徒総数が十二人という過疎地域の小学校であった。一番多い学年で、五年生と二年生の三人ずつ。六年生は一人もおらず、五年生が最高学年である。

五年生は男子一人、女子二人だ。椎名朱里と栗原美代の女子二人は仲がよい。一方で、男子の有田太一と朱里は犬猿の仲で、いつも喧嘩が絶えなかった。

それでもたった三人きりのクラスは、大きな争いごともなく平和であった。


国語や算数などの主要科目は二学年ごとに分かれて授業が行われる(六年生はいないので、五年生は三人だけだ)けれど、体育の授業のみ、全学年一緒に行われている。

それは、全学年でないと、ろくなスポーツができないせいであった。バスケットボールであれば十人。バレーボールであれば十二人。バドミントンのダブルスであれば四人いなければ試合ができないのである。野球やサッカーは人数が足りないので、当然できない。

この日は記録測定の日で、ハンドボール投げや反復横飛び、握力測定などの様々な種目を十二人で代わる代わる行った。

中でも全員が盛り上がったのは、短距離走の測定である。

「太一くん、がんばれーっ」

「朱里ちゃん負けないでーっ」

太一と朱里が横に並ぶ。ゴールでは下級生がゴールテープを持ち、美代がストップウォッチを持ち待っている。

「位置について、よーい、」

パァン、と空砲の音が響いた。二人がほぼ同時に駆け出す。

スタートダッシュに成功したのは太一の方だった。朱里を身体一つ分離していた。けれどゴールに近づくにつれ、朱里のスピードが乗っていき、二人の差はぐんぐんと縮まっていく。太一は焦ってさらに腕を大きく振るが、あと十メートルというところで朱里はとうとう太一を抜き去って、そのままゴールテープを切った。太一は朱里のすぐ後に続いてゴールした。

「朱里ちゃん、八秒三〇。太一くん、八秒六二」

美代がタイムを読み上げる。下級生たちはわああっと盛り上がる。

朱里もぴょんぴょんと飛び跳ねて喜んだ。

「上がった! 前よりタイム伸びた! やったーっ」

「朱里ちゃんおめでとう」

「うん! ありがと!」

「あーくっそー!」

横で太一が叫びだし、朱里と美代はびくりと驚いて太一を見やった。

「タイムは上がってんのにまた負けた! くそー!」

太一は空に向かって吠えた。朱里に対するやつ当たりではなく、自身のふがいなさに苛立っていた。

「だって、あたしだってタイム上がったもん。練習してるのは、太一だけじゃないんだよ」

「わかってるよ! もー!」

太一は髪をくしゃくしゃっと掻いて、それから広い校庭をめちゃくちゃに走り出した。暴れ馬のような太一を朱里と美代は眺めて、放っておこうと決めた。

「次は私と由紀ちゃんで走るから、ストップウォッチお願いしてもいい?」

「もちろん。がんばってね」

美代は下級生と共にスタート位置へ向かう。朱里はゴールラインに立ち、他の下級生にゴールテープを頼んだ。美代たちが走り、次の測定種目に移るまで、太一は戻ってこなかった。


人も物も乏しい田舎町に唯一豊かにあるのは広い土地であった。学校が終わると子供たちは一目散に走り出し、そのだだ広い校庭を走り回って遊ぶのだ。

「今日は何して遊ぼっか?」

「はーい! かくれんぼ!」

「えー、かくれんぼは昨日やったじゃん。僕おにごっこがいい!」

「えー! かくれんぼがいいよ!」

自由気ままな下級生をまとめるのが上級生である太一たちの役目であった。

「じゃあ、多数決にしよう。かくれんぼがいい人? ……鬼ごっこがいい人?」

鬼ごっこへの挙手が過半数を超えたので、その日は鬼ごっこをすることに決まった。じゃんけんで鬼を決め、鬼が十数えている間に他の生徒たちは走り出す。

「みんな、今日体力測定であれだけ運動したのに、よくバテないね」

「そう? まだまだ全然、体力余ってるよ」

「私はもう、へとへとだよ。明日は筋肉痛になりそうだなあ」

運動が得意な朱里や太一とは対照的に、美代は運動が苦手であった。

そんな話をしている間に鬼となった下級生の男子が走ってきて、朱里はひょうひょうと走って逃げたけれど、美代は逃げ遅れて、捕まってしまった。

「みーよー、大丈夫ー?」

鬼となった美代と距離をとりながら、朱里が訪ねる。美代は困った顔で笑い、「がんばる」と朱里に手を振った。

けれど校庭は広く、いくら下級生とはいえ遠く離れた距離を縮めるのは容易ではなかった。美代は十分ほど走り続けたが、結局誰も捕まえることができなかった。疲れ切った美代の元に、太一が駆け寄ってくる。

「お疲れ。俺がかわってやるよ」

疲労の色を顔に浮かべながら、美代は「ありがと」と言って太一の手に自分の手を乗せた。

「そこの木陰で休んでろよ。よーし、みんな、覚悟しろー!」

美代を校庭の端へ送ると、太一は校庭中に聞こえるほどの大声でそう叫んだ。

「うわ、やべっ」

「太一にーちゃんが鬼だ!」

太一の宣戦布告に、下級生たちは蜘蛛の子を散らすように逃げ出した。太一はそれを全力疾走で追う。速さの差は歴然で、太一はあっという間に距離を詰めてしまった。

けれど太一は男子生徒にタッチすることなく、ぐっと方向転換をし、別の下級生を追い始めた。

「きゃー! こっちきた!」

女子生徒を追うときはジョギングするように手を抜いて、男子生徒を追うときは全力疾走で、時には勢い余って追い抜くこともあった。そしてたまにタッチして鬼を交代し、また気が向いたら捕まって鬼に戻る。

「太一は、鬼ごっこ好きだよねえ」

「走るのが好きなんだよ、太一くんは」

きゃいきゃいと走り回る生徒たちを美代と朱里は離れて眺めていた。朱里は美代が鬼になってからの今まで、かくれんぼをしたがっていた男の子と一緒に、草の茂み隠れて鬼をやり過ごしていたのだった。

「そうだね。あたしに負けても、めげないし。ほんとは勝ち負けとか、気にしてないのかも」

「そうかな。きっと、朱里ちゃんがいるから、太一くんも楽しいんだと思うよ」

座り込んでいた美代が頭を上げると、そこには真剣な表情の太一の顔があった。

「あー! 朱里! 見つけたー! そんなとこにいたのか!」

遠くから太一の叫ぶ声がする。「げ、見つかった」と朱里は眉間にしわを寄せた。

「あーあ。がんばって、朱里ちゃん」

一目散に走ってくる太一と逃げ出す朱里を見て、美代はふふ、と笑った。



市内に小学校は三つあるが、その一方で中学校は一つしかない。市内の中学生は皆、市の中心にある桜中学校へ通うこととなる。とは言っても、その人数はさして多くはない。太一ら一年生は十五人で、一クラスであった。

「ねえ朱里ちゃん、部活、どうする? やっぱり、陸上部?」

入学してすぐに、体験入部のビラが配られた。小さい学校なので、部活数もさして多くない。球技等の集団スポーツは人数が集まらないと活動が成り立たないため、部活がないようだった。

「うん、陸上。美代はどこか行きたいとこある? 見学付き合うよ」

「うーん。どうしようかな。私も陸上じゃだめかなあ。マネージャーとか、募集してないかな」

部活見学に乗り気な朱里に対し、美代は消極的だった。

「いいの? 吹奏楽とか、文芸部とか、あるよ」

「うん。特にやりたいこととか、あるわけじゃないから。もしマネージャーがだめだったら、そのとき考えるよ」

放課後、二人は陸上部へ見学に行った。顧問の先生にマネージャーの件を訪ねると、現在マネージャーはいないが、マネージャーとしての入部も問題ないということで、美代は朱里と共に陸上部への入部を決めた。


翌朝、朱里と美代が学校へ向かう電車に乗ると、電車の扉が閉まる直前、太一が飛び乗ってきた。

「ふう、セーフ!」

「セーフ、じゃないでしょ。危ないじゃん」

「太一くん。おはよう」

「ん? おお、おはよ」

市の中心部へ向かう電車はサラリーマンと学生で埋まっている。通勤・通学の時間帯ではあるものの、自転車や車で通う人も多く、そのため電車は三十分間隔でしかやってこない。電車を一本逃せば、遅刻は免れない。

「太一はさ、部活、決めた?」

「ん? ああ。もち、陸上だよ」

運動部の少ない桜中学校の中では、陸上部は男女共に人気の高い部活であった。太一もまた、クラスで友達となった男子生徒と陸上部へ見学に行き、入部を決めていた。

「太一も陸上部にしたんだ。じゃあ、三人とも、また一緒だね」

「え? 美代も陸上部なのか? 走るの嫌いなのに?」

「うん。マネージャーだから、走ったりはしないけどね」

「そうか、マネージャーか。そういうのもあるんだな」

ところでさ、と美代が訪ねる。

「太一くんはさ、やっぱり、朱里に勝つのが目標?」

「ま、とりあえずはそうなるかな。結局、小学校で一度も勝てなかったし。打倒・朱里! だな」

「私だって、負けないから」

二人は一度真剣に睨み合い、そして笑った。


陸上部には太一たちの他に、二人の新入部員が入った。一方は太一の友人の森下宏和で、もう一人は秋山亮介だった。女子は朱里たち二人だけであった。

部活はいつも男女合同で行われた。男女別でやれるほど部員の人数がいないということと、顧問も一人しかいないというのが理由だった。

また、陸上の種目は、投擲競技や棒高跳びは、学校に砲丸やポール等の道具がないことから行うことができなかった。

部員は、短距離と長距離の二つのグループに分かれ、日々の練習を行っていた。朱里と太一は短距離組に入った。宏和は長距離、亮介は短距離になった。

「はい、昨日までで体験入部期間も終わり、今日から一年生も正式入部として、本格的に練習してもらうからよろしくね。私は部長の香川敦子。長距離組よ。で、こっちが副部長で短距離組の佐々木悟」

「よろしく。ま、副部長って言ってもじゃんけんで負けただけだし、気楽にね。ガチ系の部活でもないし」

「じゃあ、みんなで簡単に柔軟して、それからランニングね。基礎メニューまでは全員で一緒にやって、それからは短距離と長距離で分かれるから」

部長の指示に二年生以上が「はい!」と声を揃えた。一年生五人は後につられて返事をした。

身体をほぐす程度の簡単なストレッチの後、マネージャーの美代を除く陸上部員十三人が、香川と佐々木に続いて走る。校門を出て、学校の周囲を三周して戻ってきた。

それから間髪入れずにペアを組んでの入念なストレッチが始まる。美代は朱里と組んでストレッチを手伝った。

「はい、じゃ、ここからは長短分かれてね。長距離の子はこっち」

「短距離はこっち来よっか」

太一と朱里は佐々木副部長の元へ行った。十三人のうち短距離組は八人で、佐々木と太一、亮介の他は女子部員であった。

短距離組は五〇メートル、一〇〇メートル、二〇〇メートルのダッシュやスタート練習を中心に行われた。途中から顧問教師も練習に加わり、フォームの改善指導等も行われた。

十八時を回る頃には朱里たちは息も絶え絶えに、足はパンパンに張っていて、体育着も汗でぐっしょりだった。顧問が終了の笛を鳴らすと、朱里たち一年生は一斉に校庭に倒れ込んだ。

「クールダウンのストレッチも忘れないように。一年生はハードルとか用具の片づけだけど、最初だから、二年生も手伝ってあげて。場所教えてあげたりとかしてね」

部長をはじめとした二年生以上は倒れ込むこともなく、上がった息を軽い深呼吸で整え、おのおのクールダウンを行う。

美代はタオルとドリンクを持って太一たちの元へ駆け寄り、ひとりひとりにそれらを配った。

「っぷはぁ。ありがとうー美代、生き返ったあ」

「あー、死ぬかと思った」

「お疲れさま。香川部長が、持っていってあげなって」

「そっかあ。先輩に感謝しなきゃ」

他の一年生らも、渡されたドリンクをがぶ飲みし、煩わしい汗をふき取って、ゆっくりと起きあがってきた。

「ほら一年、ストレッチしな。それが終わったら片づけ、教えてあげっから」

二年の柳葉理沙が寄ってきて、声をかける。柳葉だけでなく、クールダウンを終えた二年生たちが、一年生の元に集まってくる。そして柔軟で背を押したり身体を伸ばすのを手伝ってやる。

「ありがとうございます」

「うん。よし。じゃ、片づけよ」

「はい!」

二年生に教わりながら片づけをし、それから着替えて帰る。太一が家に着いたのは十九時を過ぎだった。シャワーを浴びてご飯を食べたら、他に何をする気力もなくベッドに沈んでしまった。


陸上部の練習は平日は毎日放課後にあった。走ることが好きだったとはいえ陸上未経験の太一や朱里ははじめは練習についていくのがやっとで、部活が終わると帰ってすぐ寝るような生活が続いた。

それでも、一ヶ月、二ヶ月と練習を続けていくうちに次第に体力もつき練習にも慣れてくると、一年生たちのタイムは良くなっていった。その中でも、朱里は他の一年生と比べてひときわ抜きん出た成長を見せた。

もとより朱里は走るのが速い方であるという自負はあったが、陸上部に入り、走るときのフォームや、スタートの仕方等、教われば教わるほど、タイムはぐんぐんと縮まっていった。一〇〇メートルのタイムは同じ短距離組で二年生の柳葉とほとんど差がなくなっていた。

「ひゅう! 椎名ちゃん、すごいね。また速くなった?」

「ありがとうございます!」

短期間での急成長は、周囲はもちろん、朱里自身も実感するところだった。タイムという明確な数値によって、日毎に良くなっていくのが目に見えて分かる。それは朱里の自信となった。自信が増していくのに比例して、朱里は走ることがどんどん好きになっていった。

「これは今度の大会の記録が楽しみだね。かなりいいとこ、いくんじゃないの」

「本当ですか!」

「うん、ほんとほんと。俺が保証するって」

佐々木は副部長ということもあり、朱里によくアドバイスをしてくれた。褒められることも多く、朱里は佐々木を慕っていた。


六月には地区大会があった。それは一年生にとっては初めての大会だった。

種目は男子一年・一〇〇メートルから行われた。太一と亮介は二人とも一〇〇メートル予選に出場した。亮介は予選を通過し、一〇〇メートル決勝へ出場した。太一は予選すら通過できなかった。

「惜しかったね、太一くん」

「サンキュ。ま、でも、全然よ。亮介はすごいわ、ほんと」

「うん。決勝、すごかったね。……あ、次は朱里ちゃんだよ」

男子が終わると、次は女子の短距離が始まる。朱里も一年の一〇〇メートルに出場し、さらに共通・二〇〇メートルにも出場することになっていた。

「朱里も二種目ってすごいよな。共通って、二、三年生も出るんだろ? その中に一年が出るって、大抜擢じゃん」

「香川部長が先生に推薦したんだって。いい経験になるだろうから、って」

香川や顧問だけではない。美代も太一も、陸上部の誰もが朱里に期待をしていた。

「才能、ってやつなのかなあ。正直うらやましいよ、朱里がさ。好きなこと、好きなだけやって、楽しんで、結果もついてきて。俺なんか、好きでもさ、全然、タイム伸びないし」

「そうかな。私は二人とも、うらやましいけどなあ」

当の朱里は、幼なじみたちが自分を褒めていることなどつゆ知らず、念入りなストレッチをしていた。その表情は晴れやかで、大会への不安など全くないようであった。

「朱里ちゃんファイトー!」

美代が手を振ると、朱里も笑顔で応える。そして、朱里の順が回ってくると、朱里はすっと表情を変えた。真剣な眼差しで、コースの先を見つめる。

「位置について、よーい」

パァン、と空砲が響く。朱里は誰よりも先にスタートを切っていた。


「みんなお疲れさま。明日は長距離組の番だから、長距離組のみんなは頑張ろうね。短距離組は、結果は人それぞれだったけど、結果に関わらずみんな帰ってゆっくり身体を休めることと、寝る前にストレッチを忘れないこと。いいね?」

香川の言葉に、部員全員が「はい!」と声を揃えた。

「あ、あと先生は大会運営の方でまだ仕事があるみたいだから、生徒たちだけで先に帰って、だって。みんな気をつけてね。じゃ、解散。お疲れさまでした」

お疲れさまでした、と口々に言って、部員たちはばらばらと帰ってく。朱里たちは三人で電車に乗った。

「二人ともお疲れさま。どうだった?」

「どうもこうも、結果の通りだろ。俺はこのザマで、朱里は県大会出場」

太一は少し拗ねているようだった。それもそのはずで、亮介は決勝に進出、宏和は自己ベスト更新、朱里は決勝に進んだだけでなく、県大会出場。結果が出なかったのは太一だけだった。その上、朱里は一年・一〇〇メートルを地区一位で突破していた。

「ううん、そうじゃなくって。走るときの緊張とか、高揚感とか、爽快感みたいな。どんな気持ちだったかなって」

「楽しかった! なんかもう、自分が風になったみたい!」

「俺は無我夢中で、楽しいとか、そんなの考える余裕、全然なかった。横のレーンのやつに抜かれたときとか、悔しくってさ」

「そっか。二人とも、全然違う景色が見えてるんだね。うらやましいな」

「うらやましい? 何もうらやましいことなんてないだろ、俺の見た景色なんて。最悪だ」

太一は恨めしげに美代を見たが、美代は「そんなことないよ」と言って、にこりと笑った。

「そんなことないよ。私には、二人みたいに熱中できるものがないから。陸上に打ち込んで、その結果見えた景色が、良くても悪くても、それは私には見ることのできない景色だから、うらやましい」

美代の言葉に太一ははっとして、それからばつが悪そうに顔を背けた。自分が美代に八つ当たりしていたことに気づき、それを恥じたのだった。

「……ごめん。俺、もっと頑張るわ」

「うん。応援してる」


七月の県大会はあっけなく終わった。朱里は地区では上位でも、県大会では全く歯が立たなかった。県大会に出場していた香川と佐々木も同様に、決勝へ進むことも敵わず、これが最後の大会となった。

三年生の引退後、次期部長には柳葉が選ばれた。副部長は長距離組の二年の男子になった。

八月は合宿を行い、合宿にはコーチも招いた。短期間に集中して個々の課題を克服していった。

合宿で特に伸びたのは太一だった。コーチの指導が合っていたのか、今まで苦手としてきたスタートダッシュを修正し、タイムをぐんと縮めたのだった。

九月の終わりには再び地区大会があり、これには六月には参加していなかった一年生も出場するため、ライバルも多くなった。

それでも、一年生四人は合宿の成果もあり、それぞれに良い結果を出した。太一は六月には敵わなかった一〇〇メートル予選を通過した。宏和も県大会出場まであと一歩という好成績だった。朱里と亮介は県大会へ進んだ。二年で県大会に進んだのは柳葉だけであった。

その頃にはもう、朱里は柳葉の短距離のタイムを抜いていた。女子共通・二〇〇メートルには朱里と柳葉が出場しており、二人とも県大会には進んだが、柳葉は予選敗退、朱里は決勝進出(ただし、ブロック大会へ進むことはできなかった)と、明確な差がついた。


しかし、冬は長かった。

大会もなく、ただただ練習を繰り返す毎日。走ることは楽しくとも、目指すべき目標がないというのは張り合いがなく、部員らのやる気を削ぐ。寒さで身体が硬くなり、タイムが伸び悩むのもモチベーションの低下の一因となった。

それでも三月の記録会では亮介と太一は記録を伸ばした。

そして新学期になり、新入生が入ったことで部内の活気は徐々に戻っていった。六月の大会では二、三年生はそれぞれ自己ベストに近い記録を出した。

県大会が三年生の最後の大会となった。代替わりとなり、部長には朱里が指名された。朱里はそれを受けた。副部長には長距離組からということで、宏和になった。

そうして部長になってから、朱里の記録は落ち始めていった。

七月、タイムが伸びなくなった。これまで寒い時期にタイムが落ちることはあっても、暖かくなれば自然と調子を戻していた。五月の末には自己ベストを更新もしていた。それが七月にぴたりと止まってしまったのだった。

八月、九月と経て、朱里のタイムはじわじわと落ちていった。夏合宿で他の部員たちの記録が伸びていく姿を見ながら、自分の記録を見て歯を食いしばった。エースとして、大人からも部員からも期待を一身に背負っていた。部長としても部員を鼓舞せねばならず、落ち込んだ様子を見せることはできなかった。

朱里は練習での測定記録を隠すようになった。練習は下級生への指導を兼ねるとして、太一や亮介との練習を避けた。

顧問とコーチ、そして記録測定を行っている美代は朱里がスランプに陥っていることに気づいていたが、部長としての役割、そして朱里自身のプライドを考慮して、他の部員の前で記録のことをとやかく言うことはしなかった。

そしてそのスランプから、朱里が復活することはなかった。

九月の地区大会はかろうじて突破したものの、十月の県大会は去年の記録を大きく下回り、目標のブロック大会どころか、予選さえ上位を逃し、決勝へ進めなかった。

その一方で、亮介は順調に調子を上げ、初めて県大会の決勝へ進んだ。太一も九月の地区大会で標準記録を突破し、初めて二年・一〇〇メートルで県大会へ出場した。そしてその県大会で太一は初めて、公式記録で僅差で朱里に勝ったのだった。

「朱里さあ、今日調子悪くなかったか? 朱里のあんなタイム、初めて見たよ。一瞬、よっしゃ勝った、って喜んじゃったけどさ。全然本調子じゃない朱里に勝って喜ぶって俺、アホみたいだぜ」

それは太一なりの慰めのつもりだった。けれどそれは朱里にとってはなんの慰めにもならなかった。

「うるさい。放っといて」

「うるさいとはなんだよ。人が心配してるのに」

「いらない。心配なんて。話しかけないで」

朱里は怒って、太一と美代を置いてずかずかと帰ってしまった。美代はそんな二人をおろおろと見ているしかできなかった。


その日を境に、朱里は部活に顔を出さなくなった。気まずさからか、美代とも太一とも距離をとるようになり、登下校もバラバラでするようになった。

陸上部の部長代理は副部長であった宏和が務め、副部長代理は亮介になった。朱里が来なくなってしばらくはぎくしゃくとした雰囲気があったものの、冬を越える頃には部員たちも慣れ、朱里の話題を出す人はいなくなった。

ただ、太一だけが、スランプに陥るようになっていた。

「おい。太一、いい加減にしろよ」

いつもは黙々と練習をこなす亮介が、その日は珍しく太一につっかかってきた。

「なにが」

「女々しいって言ってんだよ。椎名のスランプにお前まで付き合う必要なんてないだろうが」

「別に付き合ってなんかいねーだろ」

「じゃあそのザマはなんなんだ。そんな身のない練習で三月の記録会で結果を出せると思ってるのか?」

太一のタイムの落ち込み方は、まさに朱里と同じ道を辿るようであった。春はもう目前に迫っているのに、調子が戻らない。

「亮介には関係ないだろ。いいよな、亮介は。スランプとかないんだろ。才能もあってさ。県大会出て、決勝にも行けて、順調だもんな。俺みたいな落ちこぼれ、放っておけよ」

太一はそう吐き捨てて、逃げるように太一に背を向けた。今日は亮介と距離を置いて、練習しよう。そう思ってとぼとぼと歩きだす。その襟首を亮介はぐっと掴んで勢いよく引き寄せた。突然のことにバランスを崩した太一は引かれるままに後退し、そして後頭部に衝撃が走った。亮介の頭突きだった。

「いってえ! なにすんだよ!」

「うるせえ。腑抜け野郎が。太一、見損なったぞ。さっさと女子・一〇〇に転向しちまえ。そこで椎名と二人でうじうじ走ってろ」

ひどい罵倒を浴びせて、亮介は太一を突き放した。そしていつものように、一人で黙々と練習し始める。

太一は練習する気も失せてしまって、校庭の隅に体育座りになり練習を眺めていた。

「どう? 外から見る練習風景は」

太一が顔を上げるとそこには美代がいた。美代はジャージ姿で首から三つのストップウォッチを下げ、手にはタイムを記録するためのクリップボードとペンを持っていた。

「いいのかよ、こんなとこ来て。やることあるんじゃないのかよ」

「今、長距離組の三キロのタイム測定中だから。少しの間だけね」

「あっそう」

「亮介くんがね、ここ最近、タイムが落ちてるの」

「嘘」

「本当」

美代はそれをなんでもないことのように言った。そして、手にしていたボードから一枚の紙を取り、太一に見せた。

「これ。ここ二週間の短距離組のタイム。太一くんも落ちてるけど、亮介くんも、少しずつ、下がってる。……まるで、朱里ちゃんと太一くんの関係みたい」

「俺と朱里?」

「太一くんは、朱里ちゃんに勝つことが目標だったでしょう。でも、朱里ちゃんもね、太一くんに勝ち続けることが目標だったんだよ」

「嘘」

もちろん、大会の記録も目標の一つだけど、と美代は付け足した。

太一にとって、朱里が太一を目標としていたというのは初耳だった。この二年間、朱里は一度だってそんな素振りを太一に見せたことはなかった。たった一人で、どんどん高みを目指していくのだと、太一の目にはそう見えていた。

「女子である以上、いつかは男子に勝てなくなるときがくる……。でも、その限界に挑戦したい。男子に勝ち続けたい。太一くんに、勝ち続けたい。その一心で、朱里ちゃんはずっと、努力してた」

太一は朱里を超えることを目標として、成長してきた。そして、朱里もまた、太一を超え続けることを目標としてきた。二人は別々に高みを目指していたわけではなかった。互いを目標とし、高め合ってきた。そのことを、美代だけは知っていた。

「陸上はね、……ううん、陸上でも、スポーツでも、勉強でも、なんでもそうだと思うんだけどね。ライバルがいる方が、燃えるし、成長できるんだって。ま、私は全然、そんな経験ないんだけど。でも、こうして外から練習を見てると、朱里ちゃんと太一くん、それから、太一くんと亮介くんが、ああ、燃えてるなって、見えるの」

「亮介が……俺の、ライバル?」

「太一くんがどう思ってるかは知らないけど。亮介くんは、少なくとも、そう思ってるみたいだよ?」

朱里の不在で太一の調子が上がらないのと同じように。亮介もまた、太一の不調に苛立ちを覚えている。学年でたった二人の、男子短距離組。唯一競える存在が、気力を失ってしまっていることに。

「太一くんは、ライバルが多くて大変だね」

じゃ、私はそろそろ戻らないと。測定の仕事をしなきゃ。美代は小さく手を振って、校庭の中央へ走って行ってしまった。

残された太一は、雲ひとつない空を見上げた。


翌朝、太一は珍しく早起きをした。手早く支度をして、家を出る。向かったのは駅ではなく、朱里の家だった。朱里と話をしたくて、朱里が家から出てくるのを待ち伏せをしようと思ったのだった。

けれど、そのもくろみは失敗に終わった。

朱里は、家の中からは出てこなかった。代わりに、外から、家に帰ってくるところを太一と遭遇した。

「……なんでいるの」

「朱里、お前、その格好……、あ、ちょっと! おい!」

太一がなにかを言おうとする前に朱里はその言葉の先を察し、慌てて家へ入っていった。

その日の放課後、HRが終わるや否や教室を出ていく朱里を太一は腕を掴んで引きとめた。

「話があるんだけど」

「あたしにはない」

「俺にはある」

太一は半ば強引に、朱里を校舎裏に引っ張っていった。

「もう、離して! なんなの!」

「朝のあれ、どういうことだ? なんで、お前……」

「べつに。特に意味なんてない」

早朝、太一が朱里の家の前で遭遇したのは、ジャージ姿の朱里だった。首にはタオルを掛け、額には汗が光り、どこをどう見ても「走ってきた」帰りの姿であった。

「部活、戻ってこいよ」

「なんで」

「好きだろ。陸上」

「好きじゃない」

「嘘だ」

「嘘じゃない!」

朱里はキッと太一を睨んだ。太一はウッとひるむ。

「太一にはあたしの気持ちなんてなんにも分かってない。だから放っといてよ」

「じゃあなんで朝走ってたんだよ。理由を言えよ」

「言わない」

「言うまで俺は納得しない」

それはまるで子供のわがまま合戦だった。論理もなにもない。意地の張り合いだった。折れたのは朱里の方だった。

「じゃあ言うけど。走るのは好き。でも、陸上も陸上部も嫌い。勝手に期待して、結果が出なければ残念がって、また次にプレッシャーをかけてくる。そのくせ、結果が出れば妬まれる。あたしは楽しく走りたかった。誰かのために走ってたわけじゃない。なのに、みんなが勝手に、あたしに背負わせるから! だからもう、嫌なの!」

朱里はフィジカルは強かった。メンタルだって、人並みにあった。けれど彼女にのしかかってきた重圧は、人並み外れていた。それは、まだ十四歳の少女が背負うには重すぎた。

嫉妬もあった。ただでさえ、短距離組には女子が多く、その上一年女子は朱里一人だった。上級生からの嫉妬の塊は、朱里の精神を少しずつ蝕んでいた。

「太一はいいよね。周囲の期待はあたしや亮介に向いてるんだもん。太一はなんにも背負わず、好きに走ってればいいんだから。あたしだって、自由に、のびのびと走りたかったよ」

朱里の言葉に、太一ははっとした。その言葉は太一が朱里に対して抱いていたものと鏡映しのようだった。

「……俺は。朱里がうらやましいとずっと思ってた」

「あたしが? こんなに窮屈なのに?」

「朱里も、亮介も。才能があるやつはいいよなって思ってた。俺は走ることが好きでも、才能ないから。勝てなくて。みんな二人のことばっか注目して。俺の走りなんて誰も見てない。記録も平凡。朱里にだって勝てない。情けないなあって思ってた。二人みたいに、表彰状、もらってみたかった」

結果を求めた太一と、自由を求めた朱里。二人はあまりにも、互いのことばかりを見ていた。自分になくて、相手にあるもの。そればかりを追っていた。

「なにそれ。才能才能って。あたし、めちゃくちゃ努力したんだよ」

「知ってる。美代から聞いた。自主トレで土日も筋トレしてたって。俺に勝ち続けるためにって」

「は!? なんで知ってるの!? いつ!?」

「昨日。帰りに教えてもらった」

「信じらんない! 絶対太一には言わないでって言ったのに!」

美代に秘密をばらされたことを知り、朱里の顔はみるみる赤くなった。慌てる朱里を見て、太一は懐かしさを感じていた。

「朱里のむすっとした顔以外の顔、久しぶりに見た」

「うるさい!」

朱里は両手で顔を覆った。けれど両手と短い髪では、その真っ赤な耳までは隠すことはできなかった。

「なあ、鬼ごっこしないか? 陸上部のみんなと」

「え? なんで、鬼ごっこ?」

「だって好きだろ、走るの。うん、やろう」

朱里の返事も聞かず、太一は朱里の手を取り校庭まで走った。朱里は一瞬転びそうになるも、すぐに体制を戻し、太一に引かれるままついていく。

「おーい。鬼ごっこ、やろうぜ!」

校庭では部員たちが部活前の柔軟運動をしていた。

「どうしたんだ、急に。椎名まで連れて」

「今日は外周の代わりに、鬼ごっこやろう。な、宏和、いいだろ?」

「え? うん。みんなが良ければ、いいけど。……っていうか、そういうの、決めるのは部長でしょ。部長、いるんだし」

宏和が視線を朱里に向ける。ほかの部員たちも、一斉に朱里を見つめる。

「え、えっ。えーっと……その、長い間、迷惑かけて、ごめんなさい。それはさておき、なんか、鬼ごっこをやる、って。いい?」

部員たちは、声を揃えて「はい!」と答えた。

「じゃ、鬼は朱里な!」

「はっ!? えっ!?」

「十数えろよ。ほら、みんな逃げろ!」

部員たちは蜘蛛の子を散らすようにわっと逃げ出した。それを見て、朱里は一息ついて、それからにやっと笑った。

「よーし、みんな、覚悟しろー!」

レーンもなにも引いていない校庭を、朱里と太一は自由に駆け回った。


End.

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ないものねだり 三砂理子@短編書き @misago65

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