青春バイバイ

三砂理子@短編書き

青春バイバイ

日曜日の昼前に秋葉原駅の電気街口の改札を出た咲良は、辺りをきょろきょろと見渡した。

休日の秋葉原は人が多い。男性の多い街中で、平日でもないのに制服姿の咲良はやや目立っていた。

咲良は駅前をぐるっと一周見て、探し人がいないと分かると、ゲームの広告が貼られた支柱に寄りかかり、スマートフォンをいじり始めた。

咲良が駅に着いてから十分ほど経って、男が一人、慌てた様子で改札を出てきた。四十代くらいの男は左右を見、それから咲良を視界に捉えると、ぴたりと動きを止めた。咲良はスマートフォンから視線を外さずに、その光景を視界の端だけで見ていた。

しばし咲良を見ていた男は、ぐっと両の手を握り力を込めて、ゆっくりと咲良へ近寄っていった。

男との距離が二メートルを切ると、咲良はさも今気づいたかのように頭を上げた。

「あ! もしかして、浜崎さんですか?」

男が声をかけるより先に、咲良は笑顔をつくった。浜崎はどきりとして立ち止まった。

「あ、ええ、はい。ええっと……、くろさくらさん、ですか?」

しどろもどろに尋ねる男に、咲良はにっこりと笑みを絶やさず答える。

「はい! あたしが、秋葉原の街をご案内します、くろさくらです。よろしくね、パパ」


浜崎の手を引き、咲良は秋葉原を歩いて回った。浜崎は初めてのお客だったので、他人に聞こえないような声でいくつかの設定を話した。

「あたしはアニメが好きな娘で、パパはオタク文化に疎いお父さん。娘の買い物に引っ張られて今日は秋葉原を回るんだよ。パパなんだから、あたしのこと、桜って呼んでね」

仲良しのパパと手を繋ぐのは、普通なんだよ。と言って繋いだ浜崎の手は緊張の汗でずぶ濡れだ。それでも咲良はいやな顔一つ見せず、握った手を離さなかった。

二人でグッズショップをいくつか回り、ファミレスで昼食を食べる。

そこでようやく咲良が手を離すと、浜崎はずっと恥ずかしかったのだろう、汗にまみれた手をこっそりとジーパンで拭った。

「ねえパパ、午後は動物園に行かない? 上野なら、ここから二駅だし」

スマートフォンで素早く動物園のサイトを出し、咲良がねだる。画面にはパンダが笹を食べている画像が大きく載っている。

「うん、いいんじゃないかな。僕はカピバラを見に行きたいな」

「上野って、カピバラもいるんだぁ。ぬいぐるみでしか見たことないから、楽しみ! あたしはね、パンダが見たいなあ」

緊張がほぐれてきて慣れたのか、浜崎も敬語が取れて、一見すると本当の親子のように見える。

咲良はカルボナーラを、浜崎はシーフードのパスタを食べ、浜崎が支払いをして、二人は上野へ向かう電車に乗った。

動物園は、秋葉原以上の混雑だった。親子連れやカップル、中高生の友達グループ等々、人でごった返している。

「ここなら、あたしたちも全然親子に見えるね」

にっこりと手を差しのべる咲良に、浜崎はごしごしと手を拭ってから手を繋いだ。


「楽しかったぁ! パパ、ありがとうね!」

「僕も楽しかったよ。桜と来てよかった」

初夏の空はまだ明るかったけれど、時刻は午後五時を過ぎていた。

「カピバラ、初めて見たけど超すごかった! あんなに大きいんだね、あたしびっくりしちゃったあ。でも、呑気な顔してて可愛かったなぁ」

二人は駅に向かいながら、本当の親子さながらに仲睦まじく談笑していた。

「うん、カピバラはとても良かったね。パンダとか、ペンギンも可愛くて、子供にもすごく人気だったねえ」

「可愛かった可愛かった! 生まれたばっかりのペンギンの赤ちゃん、よちよちしてて、もう可愛すぎーって感じ! ……あ、そうだ、さっき買ってもらったキーホルダー、早速かばんにつけちゃうね」

信号待ちで立ち止まっている間に、咲良はビニール袋から新品のカピバラのキーホルダーを取り出して、起用に片手だけでそれをかばんに取り付けた。

「うん、この子も本物に負けないくらい可愛い! 本当にありがとうね、パパ」

咲良の満面の笑みに浜崎は見とれてしまい、信号が青になっても歩き出すことができなかった。咲良ははにかむと浜崎の右手を自身の両手で包んで、「青だよ」と手を引いた。

夢の時間は上野駅に着くまでだった。駅前に着くと咲良はぱっと手を離して、「浜崎さん、携帯、貸してください」と尋ねた。

「あ、はい」と浜崎がスマートフォンを取り出すと咲良はそれを素早く受け取り、どこかに電話をかけ始めた。

「あ、もしもし。あたしです。うん。今終わったとこ。え? ああうん。いやだってほら、浜崎さん初めてだっていうから、サービスしてあげよっかなって。ええ、いいじゃん、あたしが好きでやってるんだもん。はいはい。うん、じゃ、ちゃんとお仕事したからね。はい、お願いしまーす」

電話は一瞬のことで、浜崎はぽかんと咲良を見つめていた。

「今日はありがとうございました。本当に楽しかったです。また、いつでも誘ってくださいね。水族館とか、カラオケとか、いろんなとこ、デートしましょ」

ぺこりと頭を下げて、それから「ばいばい」と手を振りながら、咲良は浜崎を置いて上野駅の人混みの中に消えていった。最後に見えた咲良の後ろ姿には、浜崎のあげたカピバラのキーホルダーがリュックの上で楽しそうに跳ねていた。

浜崎は夢から覚めた喪失感にぼうっとしながらも、動物園で咲良が見せた、本当の娘のような笑顔を思い出していた。

そしてそれは、喪失感以上に、独身四十男には堪えるのだった。

「……来月も、会えるかなあ」


黒川咲良が援交をしている、というのは、都立弦巻高校三年生の中でも知る人ぞ知る噂話だ。

あまり広くに知れ渡っていないのは、「援交」という話題が下世話だからというだけではない。咲良の普段の素行からは「援交」という行為とイメージが結びつかないために、信じる人があまりに少ないのだった。

「黒川さん」

声をかけられ、咲良は読んでいた文庫本にしおりを挟んで本を閉じると、顔を上げた。明らかに地毛ではない茶髪に、制服を派手に着崩しているクラスの女子生徒だった。

綺麗な黒髪とお手本のような制服の着こなしをしている咲良と並ぶと両極端の外見で周囲の目を引く。

「あのね、お願いがあるんだけど。先週の国語の授業、ちょっと寝ちゃって、ノート取り損ねてさ。良ければ貸してほしいんだけど」

「うん。いいよ」

あまり素行の良くないクラスメイトだったけれど、咲良はそれを気にする様子もなくかばんから国語のノートを取りだし、女子生徒に手渡した。

「ありがと! いつもごめんね、超助かる。今度なんか奢るね!」

「ううん、いいよ、そんな」

咲良は静かにそれだけを言って、また文庫本を開いた。茶髪の生徒もそれ以上はなにも言わず、似たような外見をした女子生徒の集団に戻っていった。

「川島さんって、いつも咲良ちゃんのとこにノート借りにくるよね。仲いいの?」

茶髪の彼女が去ると、咲良の前の席に座っていた女子生徒がくるりと振り返り、咲良に問うた。

「ううん、そうでもない。あ、でも、中学は同中だったよ。同じクラスになったのは今年が初めてだけど」

咲良は文庫本を閉じずに、視線だけを前方の少女に向けた。

「仲良くもないのに、ノート、貸すの? 咲良ちゃん、いいように使われてない?」

女生徒のその眼鏡の奥の瞳は心底咲良を心配しているようだった。

「うーん。そうかも、しれないけど。でも、全然、迷惑してないし。誰であれ、頼ってもらえるのって嬉しいから。だから大丈夫だよ」

ありがと、と咲良は眼鏡少女をねぎらう言葉を付け足した。眼鏡の生徒も、咲良ちゃんが言うなら……、と、素直に引き下がった。

普段の黒川咲良は、とても品行方正な一生徒である。

大学進学を目指して高校一年の頃から塾へ通い、その傍らで学費のためにファミレスでバイトをしている。その両立のために部活動には入っていないが、学校生活は至って真面目で成績も上々。行事ではしゃぐような性格でもないため、あまり目立たない、地味目な生徒だ。

黒川咲良を知っている生徒であれば彼女の「援交」の噂など信じるに値せず、また彼女を知らない生徒でさえ、噂を聞いても本人を一目見れば「ガセでしょ」と一蹴することがほとんどだった。

だから咲良自身も、そんな噂が出回っていることは知ってはいても、まるで気にも止めていなかった。


夜の九時に咲良がファミレスのバイトを終えて店を出ると、携帯に一通、メールが入っていた。「バイト先」と登録されている宛先からのメールには、今週末の仕事について書かれている。

名前は吉岡。三十代、男、独身。店の利用は二度目で、今回は咲良を初指名。外見的特徴は細身の長身に黒縁眼鏡。希望は秋葉原の観光案内、十時から十六時。咲良の服装は私服を希望。

それをなんとなくで読み流して、メールを閉じた。

先週よりマシかも、と咲良はぼんやり思う。十歳若いし、デブじゃないみたいだし。なにより指名をされると、指名料がバイト代に上乗せされる。お金を稼ぐために「援交」なんて噂をされながらやっている仕事なのだから、稼げれば稼げるほど良い、と咲良は思っている。


日曜日、咲良は山手線秋葉原駅の階段を駆け下りていた。

普段は制服、あるいは服装の指定がないことがほとんどなので、仕事用に用意されている、いわゆる「なんちゃって制服」を着て行くのだが、今日は珍しく私服でという指定があったために、服を選ぶのに手間取り、集合時間ぎりぎりになってしまったのだった。

電気街口の改札を抜け、駅前をぐるりと見渡す。連絡のあった人物の姿が見えず、咲良は深呼吸をして意識を整えると、もう一度辺りを伺った。

それでもやはり今日の指名客の姿は見当たらず、咲良はほっと胸をなで下ろす。

時計代わりにスマートフォンを起動させる。十時五十八分。いつ現れてもおかしくない時間だ。いつものように改札の見える位置で支柱に寄りかかって待とう、と咲良が一歩踏み出したときだった。

「あ、黒川さん。本当にいた」

視界の端から突然声がかかり、咲良はびくんと飛び跳ねるように驚いた。

「おはよ、黒川さん。黒川さんってこんな街に来るような人だったんだね」

声を掛けてきた男に咲良は見覚えがあった。しかし、見覚えがあるだけで名前が思い出せず、必死で思考を巡らす。

「ええっと……ごめんなさい、名前、なんだっけ。去年、一緒のクラスだったよね」

「坂木尚央だよ。っていうか、おれの顔、知ってたんだ。おれ学校じゃ地味だから、知らないかと思ってた」

坂木尚央は自称の通り、学校では特に目立った様子のない生徒だった。言うなれば男子版・黒川咲良と言うべき、外見も遊ばず、行事でも大人しく、品行方正で真面目な生徒だ。

そんな尚央のことを咲良が知らない一方で、尚央が咲良のことを知っていることは、咲良にとって衝撃だった。

「坂木くんこそ、どうしてこんなところに? 坂木くんて、実は、オタク?」

咲良は内心、ひやひやだった。咲良の高校はどちらかというと新宿や渋谷、原宿で遊ぶような子たちが多く、オタク系の生徒は少ないという印象だった。実際、これまでに秋葉原で知り合いと遭遇したことはなく、尚央との遭遇は異例のことだった。

仕事のことがばれないために、今日のお客が来てしまう前に、尚央と別れて移動する必要があった。

「いや、アキバに来たのは、これが初めて。今日はちょっと……デートで」

「デート? それって、学校の人?」

「んー……いや、くろさくらって人なんだけど。くろさくらって、黒川さんのことだよね?」

「はっ?」

想像だにしていない言葉だった。咲良は思わず素っ頓狂な声を上げてしまった。

「だから、今日黒川さんに観光案内を頼んでるのはおれなんだよ。吉岡って男と待ち合わせしているだろ?」

それは今日咲良が待ち合わせをしていた男の名前だった。咲良は目を白黒とさせて尚央を見た。

「どうしてそんなことまで知っているの? 私のこと、どこまで知っているの?」

「まあ、こんなところで長話するのもなんだから。近くのカフェでも行こうよ。奢るよ」

そう言って尚央は一人勝手に歩き出した。咲良は尚央について行こうとして、けれど立ち止まり、一度駅の方を不安げにちらりと見やった。それでも、また尚央へ向き直り、その後を追った。

「別に大したことは知らないよ。ただ、黒川さんが援交をしているなんて噂があったから、気になって少し調べてみただけだよ。そうしたら、くろさくらって名前で働いてるって聞いて。本当か確かめようと思って今日こうして来てみたんだけど」

喫茶店で席に着くと、尚央は先ほどの咲良の質問に答えた。その答えに、咲良の顔はみるみる真っ青になっていく。

「ねえ、嘘でしょ? だって未成年はうちに登録できない規則だもの。でたらめ言わないで」

「吉岡っていうのはおれの連れなんだ。おれの代わりに君を指名して今日呼んだのも彼だよ」

尚央はスマートフォンを取り出し、咲良に画面を見せた。そこにはスーツを着た三十代くらいの細身の男の写真が映っており、その下には「吉岡航大」という名前やプロフィール等が載っていた。

咲良ははっと息を飲んだ。なぜなら、その写真に見覚えがあったからだった。

「……お店から送られてきた写メと、同じだわ」

「でしょ? 初来店客は相手を指名できないっていうから、わざわざ吉岡には一度他の女の子と秋葉原に行かせたんだよ。ちょっと可哀想だったな」

尚央は知りすぎていた。咲良のことも、咲良の今日の客の情報についても。それは尚央の今までの言葉が嘘偽りなどではないということのなによりの証拠だった。

「坂木くんは一体なにがしたいの? これだけの情報を集めて。こんなふざけた真似して私を呼びつけて。私にどうしろっていうの? なにが目的?」

「別に、なにか目的があったわけじゃない。ただの好奇心だよ」

へらへらと笑う尚央。咲良は俯き、震えていた。

「たかが好奇心のために、これだけのことを調べて、知り合いにデートまでさせて、私を指名させて、私を呼びつけたの?」

「うん、そうだよ」

咲良は膝の上に乗せていた両手をぐっと強く握りしめた。

「……馬鹿にしてるの?」

「え?」

「私が援交していたらどうだっていうの? 学校に言う? 家族に言う? 友達に言う? 私のこと、なんにも知らないくせに。私の努力を踏みにじろうっていうんなら、許さないわよ。私、落ちぶれてこんなことしてるわけじゃないんだわ」

知られたことの焦りや恐怖、嫌悪感さえ通り越して、咲良は憤っていた。ここが店内でなければ胸ぐらに掴みかかっていただろう。声には怒気を含んでいた。

「べ、別に、馬鹿になんてしてないよ。本当に、ただの純粋な好奇心なんだ」

「それが馬鹿にしてるって言うのよ。……もういい、お店に電話するわ。こんなの契約違反だもの。その吉岡って知り合いに、罰金払ってもらうから」

咲良がスマートフォンを取り出すと、尚央は慌てて立ち上がり、それを制止しようとした。

「ちょっと、ちょっと、待ってよ。もう少し話を聞いてよ。ほら、ここのケーキ、好きなやつ食べていいからさ」

咲良がにらみつけると、尚央はへこへこと頭を下げ、ケーキの写真が載ったメニュー表を渡してきた。咲良は不機嫌なまま、スマートフォンを置いてメニューを受け取った。尚央は一安心というふうにため息をついて、再び席についた。

「黒川さんが秘密を知られて怒っているのは分かったよ。無礼なことをして、ごめん。もうしない。このことは絶対に口外しないって約束する。代わりに、おれの秘密も黒川さんに教えるよ」

「坂木くんの秘密?」

なんとも勝手な言い分ではあったけれど、秘密、と言われると咲良は興味を抱いた。力んでいた咲良の表情が少し、柔らかくなる。

「おれはね、社長子息なんだ」

尚央はそれだけを言った。咲良はぽかんとした。

「……本気で言ってる? 中二病じゃなくて?」

「どうせ信じないと思ったよ。だから学校でも言ってないし。別に、いいけどね。証拠ならちゃんとあるよ」

今度は尚央が不機嫌になる番だった。口をへの字に曲げながら、スマートフォンを操作する。

「ほら、これ。坂木尚之っていうのが、おれの父さん。会社のホームページもあるし、そこに吉岡の名前と写真だって載ってる」

尚央が見せたサイトには、確かに「社長 坂木尚之」の名前や、先ほど見せられた吉岡の名前と写真も載っていた。

「へえ。ほんとなんだ」

「信じた?」

「まあ。一応」

「それは良かった」

会社名自体には咲良は聞き覚えがなかったが、サイトを見て、大手企業とも取引のあるそれなりに安定したIT企業だということは分かった。

「それで、そんなお金持ちのお坊ちゃんが、なんで援交になんて興味を持ったの? 残念ながら、私のは援交じゃないけど。健全だし」

「別に、援交に興味があるわけじゃない。やめろよ、おれが不健全みたいじゃないか。おれはおもしろい話ならなんでも、気になる性格なんだ」

ふぅん、と咲良は話半分に会話を流しながら、店員を呼び止めてチョコレートケーキを注文した。

「あ、それ、二つでお願いします」

「食べるの?」

「食べるよ。おれがお金を出すんだから、いいだろ」

「さっすが、お金持ち」

咲良は嫌みっぽく言った。尚央はそれを特に気にするふうでもなく、話を戻す。

「黒川さんの働いているお店は、いわゆる、JKビジネスって呼ばれてるやつだろ? 『JKお散歩』って、女子高生が、大人の男とデートするっていう。おれはさ、てっきりそういうのって、女子高生を過ぎたような女の人ばっかりがやってるもんだと思ってたんだよね」

「そういう人も、いるんじゃない? うちのお店はどうだか、私は知らないけど」

「知らないの?」

「だって、会ったことないもん。そもそもお店って言っても、店舗があるわけじゃないし。面接のとき店長に会った以外は、全部ネットと、メールと、電話のやりとりだけだから」

咲良の話を尚央は「ほうほう」と身を入れて聞いていた。

「なるほどなあ。店舗を持たずに経営してるのか」

「……こんな話、おもしろい?」

「うん、興味深いよ。こういう最先端の事業形態には、突飛でおもしろいアイデアが多いからね。父さんにもよく、そういう危ない分野にこそ知的好奇心を持てって言われてる」

チョコレートケーキが二つ運ばれてくると、尚央はすかさずケーキの先端にフォークを突き刺し、ぱくりと一口食べ、「でさ」とフォークで咲良を指さした。

咲良はびっくりして、フォークに刺していたケーキをぽろりと皿の上に落としてしまう。

「黒川さん、物は試しだから、おれと実際に『JKお散歩』、してみてくれない?」

「はあ?」

尚央の思いがけない発言に、咲良は目を丸くした。咲良は尚央のことを変わった人だと思い始めてはいたが、それでも、まさかそんなことを言い出すとは思ってもいなかった。

「だってせっかくお金を払って呼んだんだ。気になるじゃないか」

「あれは契約無効だって言ったでしょう。未成年の会員登録は違反なんだから」

「じゃあ、利用料と同額、払うよ。だから再契約してよ」

尚央は引き下がろうとせず、咲良は眉間にしわを寄せた。

「本気で言ってるの?」

「うん。本気だ」

尚央がじっと咲良を見つめる。咲良は目を逸らした。尚央の瞳は純粋で、本当に好奇心のためだけに動いているのだと分かってしまったからだった。

欲望を子供に向ける、大人の下品な目とは違うと分かってしまったから。

「……馬っ鹿みたい。お金をどぶに捨てるようなものよ。後できっと後悔するわよ」

「うん、いいよ。後悔しないから」

ヤなやつ、と咲良は呟いて、それからケーキをぱくぱくと食べ始めた。ほんのりビターな甘さが咲良の口内に広がった。

チョコレートケーキを食べ終えた咲良はアイスティーを勢いよく飲み干すと、無言で席を立った。

伝票を見もせずに店を後にする咲良に、尚央は伝票とお金をレジに置いて咲良の後を追った。


何人ものお客と仕事で回ったデートスポットも、隣にいるのが同級生だと思うと咲良はなんだかこそばゆいような気持ちになった。

いつもは親子という設定でやるのだと咲良が話すと、尚央は目を輝かせて、

「じゃあおれらもなにか設定を決めよう」

と言った。

「……言わなければ良かった」

まさかここまで変なやつだと思わなかった、と咲良は悪態をつくけれど、尚央はどこ吹く風で「どういう設定がいいかな」とへらへら笑った。

「従兄弟とかでいいんじゃない」

咲良はなおざりに答えた。

「うん、いいんじゃないかな。じゃあ、おれは咲良って呼べばいい?」

「はっ?」

「だって、従兄弟なのに、名字で呼ぶのはおかしいだろう。それとも年の差設定にして、お姉ちゃん、と呼ぼうか?」

お姉ちゃん、と言うときだけ、尚央がわざとらしく語調を明るくして言ったので、咲良はぶんぶんと首を横に振って拒んだ。

「いい。やだ。名前で呼んで」

「そう? じゃ、咲良もおれのこと、名前で呼んでね」

「……分かったわよ。尚央」

そっぽを向きながら名前を呼ぶ咲良に、尚央は満足げに笑った。


咲良は先週の男性客と回ったのと同じショップを尚央に案内していった。

尚央は初めて見る秋葉原の街に、興味津々だった。

「話には聞いていたけど、すごい街だね、ここは。とても楽しいよ」

「そう? それは良かったわね」

「うん。フィギュアの完成度はどれも高いし、購入層である男性に受ける造形をきちんと考えられている。プラモデルの展示見本も丁寧な仕上がりだ。日本の物作り文化のクオリティの高さが伺えるね」

尚央はにこにこと店内の商品一つ一つを見て回り、咲良はその後ろを退屈そうについていった。

「咲良はこういうの、興味ないの?」

「えっ。ないわよ。仕事柄、最低限の知識はあるけど。このお店だって何度も来てるし、商品も見飽きたわ」

「そうか。でも、他のお客と来るときはそんなふうに不機嫌に見ていたりはしないんだろ? もうちょっと、楽しそうにしてくれよ。せっかくのデートなんだから」

デート、という単語に、咲良は急に体温が上がるのを感じた。

「なに言ってるの! これはデートじゃないんだから。あくまで仕事だから、仕方なく……」

「おれはお金を払って、デートごっこをしに来てるんだけどな」

ムキになって怒る咲良だったが、尚央はしれっとそう言ってのけた。お金のことを言われてしまうと、咲良は反論ができなかった。

「わ、分かったわよ……。デートごっこすればいいんでしょ、すれば。この性悪」

咲良は目を閉じ深呼吸を二回した。そうして、笑みをつくる。

「尚央くん、この子、可愛くない? あたしこの子好きなの。ねえ尚央くん、買ってほしいなぁ」

猫撫で声の咲良に、尚央はきょとんと咲良を見た。先ほどまで興味がないと言っていたフィギュアを手に取り、つくり笑顔とは思えないような自然な笑顔で尚央を見つめる咲良。なるほどこれが咲良の仕事の顔かと、尚央はただただ関心した。

「うん、いいよ。咲良の欲しいもの、買ってあげるよ」

尚央はそう言って咲良が手にとっていたフィギュアを受け取ると、「おれもどれか買おうかなあ」と自分の分のフィギュアを物色し始めた。

買い物が済んだ頃には昼を過ぎていたので、二人は近くのファミレスに入った。

「尚央くんはこういうところ、来たことあるの?」

「あるよ。高校の友達とかと食べに行ったりしてる。家族で行くこともあるよ」

「へえ、意外。お金持ちの人って、こんなとこ、来ないかと思った」

「そうでもないよ。おれの家は別に、裕福な家系だったわけじゃないしね。爺ちゃんは普通の豆腐屋だよ」

二人はそれぞれカルボナーラとトマトのパスタを食べた。

昼食を取り終えた二人は、電車で池袋へ向かった。超高層ビルの中につくられた水族館は広さはないものの物珍しい水中生物を多く集めており、休日というのも相まって人で賑わっていた。

昼過ぎはちょうど各ブースでの動物たちのパフォーマンスが行われている時間だった。二人は指定の道順から逸れて、餌やりがあるというラッコのコーナーを見に行った。次にアシカ、ペンギンのパフォーマンスを見、ペンギンブースの近くにいたカワウソたちがじゃれついているのを見て、それから他の魚たちを見に戻った。

二人はたっぷり時間をかけて館内を一周した。

「あ、ねえ、尚央くん。これ買ってよ。ペンギンのぬいぐるみ。あたし、すごく大事にするから。ね?」

水族館の土産屋で大きなペンギンのぬいぐるみを見つけると、咲良は尚央にねだった。尚央は二つ返事で了承し、ぬいぐるみを持ってレジへ向かった。


「はい、デートはここまでね」

池袋駅に戻ってくると、咲良はそれまでの猫撫で声をやめて冷たく突っぱねた。それでも、大きなぬいぐるみの入った袋を抱えたその姿は、デートの余韻を感じさせる愛らしい容貌だった。

「うん。今日は付き合ってくれてありがとう」

尚央は財布と封筒を取り出し財布から数枚抜いて封筒に入れると、ペンギンのぬいぐるみが入った袋の中にさっと入れた。咲良はそれを少し嫌そうに目で追っていた。

「本気? 馬鹿じゃないの」

「約束しただろう。再契約分のお金はきちんと払うよ。嘘はつきたくないからね。……それに、今日一日、楽しかったから」

咲良は呆れて罵倒の言葉すら出てこなかった。はあ、とため息を吐き、それからお店に事務的な電話をかけた。

「分かってる? 今日あったことや私の秘密は全て、忘れること。絶対誰にも口外しないこと。嘘つきになりたくないって言うんなら、このことは絶対、約束だからね」

「うん。誰にも言わないよ。秘密にする」

「なら、いいわ。じゃ、ばいばい」

「うん、ばいばい」

咲良の姿が見えなくなるまで、尚央はにこにこと手を振り咲良を見送っていた。


一週間はあっという間に過ぎた。二人のクラスは離れていて、故意に会おうとしなければ立ち寄らない場所であったために、この一週間のうちに二人が学校で顔を合わせることはなかった。

日曜日、秋葉原駅には咲良の姿があった。

いつも通りお客を待っている咲良は、スマートフォンを片手に、少し苛々しているようだった。眉間にしわを寄せ、八つ当たり気味にスマートフォンを強くタップする。時刻が十時を回り、改札から指名客が姿を現すと、咲良はその男にぶつからんばかりの勢いで突進した。

「ちょっと、坂木くん、どういうこと!?」

開口一番の怒声に、尚央はしれっと答えた。

「どうって、今週もおれが咲良を指名しただけだけど」

「気安く名前で呼ばないで!」

平日、バイト先から届いたメールを見て、咲良は衝撃を受けた。週末のデートの相手が、先週と同じ「吉岡」だったからだった。

そして今日の待ち合わせに現れた尚央を見て、咲良は怒りを爆発させたのだった。

「どういうつもり? なにがしたいの? 『JKお散歩』が気になるっていうから、先週、ちゃんと付き合ってあげたでしょう。一体なにが不満なの?」

「不満だなんて、とんでもない。逆だよ、逆。楽しかったから、また指名したんだよ」

尚央はひょうひょうとしていて、咲良には尚央がなにを考えているかさっぱり分からず頭を抱えた。

「お店に通報されたら困るし、その分の口止め料は、また、ちゃんと払うよ」

咲良がお金に執着しているのを十分に理解した上で、尚央は咲良をお金で釣ろうというのだった。それはまるで「WIN‐WINだろう」と言わんばかりの横暴な物言いだったけれど。

「……あたしとのデートは、高くつくわよ、尚央くん」

咲良は尚央を、金づるにしてやろうと、決めた。


それから毎週、尚央は「吉岡」の名前で咲良を指名し続けた。咲良には尚央のその行動は理解できなかったが、見知らぬ中年男と出かけるよりは尚央とのデートは気が楽だったし、稼ぎも良かったから、三度目からは追求することもしなくなった。

「そういえば、おっさんとデートするときって、腕組んだり、手繋いだりとかしないの?」

「……するわよ」

咲良は答えるのを躊躇ったが、正直に答えた。答えれば尚央が、

「じゃあ、おれたちもしよう」

と提案してくるのは目に見えていたからだった。

手を差し出してくる尚央に、咲良は渋々と手を重ねた。そして、咲良は驚いた。尚央の手のひらが、今まで手を繋いできたお客たちとはあまりに違っていたからだった。男の人の手はじっとりしているものだと思っていた咲良は、尚央のべたつかない手を不思議そうに何度も握り直して、尚央に怪訝な顔で見られたのだった。

適当に街を歩いて回り、お昼になると行きつけになった秋葉原のファミレスに二人は入った。メニューを開く前に、ドリンクバーを頼む。尚央が席を立ち、二人分の飲み物を取って戻ってくる。

「咲良はさ、どうして、こんなことまでして、お金が必要なの?」

「なに、急に」

「いや、そういえば聞いてなかったなって思って。こんな仕事して、そのお金をなにに使うのかなって」

尚央の好奇心癖がまた始まった、と咲良は思った。

「学費よ、学費。大学に行くためにお金を稼いでるの」

「咲良ほどの成績だったら、国立に行けるだろ? それでも、普通のバイトだけじゃ、足りないの?」

「そうよ、足りないわ」

興味関心のままに根ほり葉ほり聞いてくる尚央に、咲良は徐々に顔色を曇らせていく。

「咲良の家って、それほどまでにお金に困っているの? お父さんのご職業は?」

「ええ、そうよ。うちにお金なんてないわ。うちは片親だし、貧乏なの。坂木くんには分からないでしょうね」

それは明らかな拒絶の意思だった。咲良はそれっきりメニューで顔を覆い、尚央と口を聞こうとはしなかった。

「黒川さん、ごめんなさい」

黙りを決め込み続ける咲良に、尚央は頭を下げた。咲良はメニューを少しだけずらして、目元だけを見せた。

「デリカシーのないことを聞いてしまって、ごめん。好奇心に従う前に、黒川さんの気持ちをもっと気にかけるべきだった」

「全くよ。ほんと、尚央くんって性格悪いわ」

そう言いながら、咲良はようやく再びメニュー表から顔を見せた。尚央をなじってはいるけれど、もう随分、許しているようだった。

「ごめんなさい。別にお詫びってわけじゃあないけど……午後は咲良の本当に行きたいところに行こう。お金は全部、おれが持つから」

「当然よ。……そうね、だったら、遊園地に行きたいわ」

あと、カルボナーラ。と咲良はメニューを指さした。

「はいはい。仰せのままに」


十二月になると、咲良はファミレスのバイトも週末のバイトも辞め、勉強一本に絞った。

尚央が咲良に口止め料としてバイト代以上のお金を支払っていたおかげで、想定していたより早くにお金が貯まったことが幸いしていた。

バイトを辞めたことは尚央には伝えなかったが、お店を通じて、咲良が辞めたことは尚央にも分かっているはずだった。

学校で尚央が咲良に声をかけてくることはなく、二人の縁はそのままそれきりとなった。


国立大学の入試は二月の末だった。

試験官の「やめ」の合図を聞き、咲良はふう、と息を吐いた。

咲良は終了時刻の五分前には問題を解き終え、見直しも終わっていた。自分の実力を十分に出せたはずだという実感があった。センター試験の自己採点も高得点を取れており、不安な気持ちはなかった。やりきった、と思った。

合否の発表は弦巻高校の卒業式の翌日であるから、それまではまだ、安心しきれないけれど。滑り止めの私立大学の合格はもらっており、進学できることは確実だ。

あとはもう、なるようにしかならない。


卒業式前日、卒業式の予行練習のために、咲良は久しぶりに高校を訪れた。数ヶ月前までは毎日通っていた場所であるのに、咲良は懐かしさを覚えた。

同級生たちのほとんどは進路が決まっていて、青春の終わりを謳歌せんと盛り上がっていた。

咲良も仲のよかったクラスメイトたちと別れを惜しんでいろいろなことを語らった。雑談の最中、咲良の元に茶髪のクラスメイトが来て、「今までのお礼。ありがとね」と言って咲良にピンクの包装紙に包まれたプレゼントを渡してきた。ラッピングを解くと中には文庫本サイズのレザーのブックカバーが入っていて、咲良は茶髪女子に「ありがとう」とお礼を返した。

卒業式はつつがなく進行した。咲良はなんとなしに尚央の姿を探したけれど、大勢いる卒業生の中から尚央を見つけることは難しく、見つけることができなかった。


入試の合否結果はインターネット上で確認できるので、咲良は十時になるとスマートフォンから大学のホームページにアクセスした。受験番号を入れて画面をタップすると、読み込み画面が表示されて、咲良はごくりと息をのんだ。

アクセスが集中しているのか、読み込みは遅かった。徐々に表示される画面。その中に「合格」の文字が表示された瞬間、咲良は安堵の気持ちから、ぽろぽろと涙を流した。

合否が出たら、学校に顔を出すようにと担任に言われていた咲良は、その身一つで高校へ向かった。三年生のいなくなった学校は少し活気がないように思われた。

まっすぐ職員室へ向かい、待ってくれていた担任に報告をする。合格の報告に、担任もその周囲にいた先生たちも、にっこりと笑って咲良を祝福した。

一通りの挨拶を終え、咲良は学校を後にした。校門を出ようとしたところで、人影が見え、立ち止まる。

「なんでいるの?」

「黒川さんがいるかと思って」

「なにそれ。ストーカー?」

そこにいたのは、尚央だった。尚央と会うのは実に三か月ぶりだった。予想外のことで、咲良はいぶかしげに尚央を見た。

「ううん。デートのお誘い」

「私、もうお店辞めてるんだけど」

「知ってる。だからこうして、直接誘いに来たんだよ」

咲良はなにか罵ろうと口を開くが、咲良が言葉を発するより先に、ぐぅ、と咲良のお腹が鳴った。時計は十二時を回ったところだった。

「……カルボナーラ!」

「はいはい。おれの奢りでね」

「いい。半分出すわ」

ファミレスに向かって足早に歩き始める咲良を尚央は慌てて追った。「いいの?」と尚央が尋ねると、咲良は仏頂面で答える。

「私はもう、JKじゃないし。くろさくらでもないから。私、もう自分のことを安く売ったりしないわ。お金でホイホイついてくるだなんて思わないでね」

その言葉に尚央は面食らったが、それからくすくすと笑いだした。

「今までより、よっぽど高くつきそうだ」

尚央が咲良の横に追い付くと、二人は自然と手を重ねた。


End.

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青春バイバイ 三砂理子@短編書き @misago65

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