恋愛連鎖

三砂理子@短編書き

高校教師

授業の終わりを告げるチャイムが鳴り、俺はそそくさと理科準備室へ逃げ帰った。コーヒーを沸かして席につく。肩の力が抜けて、はあ、とため息をついた。

生徒は基本的に、理科準備室への入室はできない。どこもかしこも生徒たちの談笑で溢れている学校内で、数少ない、静かな場所だ。

子供っていうのは、エネルギーに溢れている。俺だってまだ、周囲から見れば、大人になりきれていないような、若造だけれど。それでも、十歳も下の彼らを四十人も同時に相手をすれば、体力がいくらあっても適わない。

「平田せんせ、いますか?」

ホームルームが終わったらしく、外が少し騒がしくなる。準備室の外から女子生徒の声がかかる。

「いないよ」

「なんだ、いるんじゃん」

俺が嘘をつくと、女生徒は遠慮なしに準備室の扉を開けてきた。

「こら、準備室は生徒の入室は禁止だろう」

「まだ入ってません、扉を開けただけですー」

女生徒の後ろに黒茶金の色とりどりの頭がひょこひょこと見える。せんせ、せんせと鳴き声のような高音に俺は準備室に引きこもることを諦める。

「屁理屈言うんじゃないよ」と言って沸いたばかりのコーヒーをカップに注ぎ、それを持って準備室を出た。

放課後の理科室は生徒たちのたまり場だ。教室の半分は科学部が、もう半分は特に部活に入っていない生徒たちがごちゃごちゃと群れてたわいもない話に花を咲かせている。

「俺だってね、忙しいんだからね。毎日はつき合えないからね」

「嘘でしょ。平田先生、いつ準備室行ってもぼーっとしてるじゃないですか」

「そんなことないだろ。いろいろ仕事、してるだろ」

俺が理科室に入ると既にいくつも輪ができて、思い思いの話で盛り上がっていた。

受験生なんて言っても、高三の春なんて、みんな呑気なものだ。

「あっちゃんさ、この間の七夕祭り、彼氏と一緒にいたでしょ」

「えっ、なんで知ってるの?」

「私も行ってたんだよね。あっちゃん見かけて、声かけようと思ったら男の人といたから、声かけるのやめちゃった」

「まじ? 見られてたのかあ。芽衣ちゃんは誰と一緒にお祭り来てたの? 彼氏?」

きゃあきゃあと一番の盛り上がりを見せるのは、もちろん、恋バナってやつだ。俺はその輪に入り、若いっていいなあ、なんてことを思いながら、適当な相槌を繰り返す。

「ねえー、せんせはさ、彼女いるの?」

「なんで?」

「えー、なんでもいいじゃん。教えてよ」

「そうだよ、教えてよー」

突然話が俺に振られて、内心どきりとした。

いくつもの純粋な瞳が俺を見つめてくる。どうしたもんかな、と思考を巡らす。

「ま、今は仕事が恋人ってとこだな」

「えー、嘘っぽーい」

「ペーちゃん、ほんとは彼女、いるでしょ」

生徒たちの追及は止まらない。他校の先生じゃないかとか塾講時代の教え子じゃないかとか、果ては国語科の岸部先生じゃないかなんて、ああだこうだと言いたい放題、勝手なことを言ってくる。

ああもう、こうなったら、やけくそだ。

「ペーちゃんって言うんじゃない。あーもう、はいはい、いるよ、彼女。同業者でも教え子でもないし、普通の彼女だよ」

投げやりにそう言った瞬間、今までで一番の喚声が上がった。しまった、と思ったときにはもう遅い。

「どんな人どんな人?」

「だから、普通の人だって」

「普通じゃ分かんないよー。もっと具体的なの、教えて!」

「美人? それとも可愛い系?」

「写真ないの? 写真!」

「あー写真見たい! プリとかさ! 年齢? 年下? 同い年?」

先程以上の、怒濤の追究。制止の言葉を挟む余裕さえなく、質問の波に溺れてしまいそうだった。

「写真はないよ、プリクラなんて撮るような年でもねえし」

「年齢は? 上? 下?」

「ああもうこれ以上は答えません、この話はおしまい!」

いくら答えても終わりが見えない質問責めを、俺は無理矢理断ち切った。ブーイングが飛んでくるが、適当にあしらっていく。

「あー分かった、やっぱり人には言えない相手なんですね? 教え子とか!」

「えーっ! 女子高生ってこと? うちの生徒? 犯罪じゃん!」

「ああもう、好きに言ってろ。違うからなー。俺はお子ちゃまたちには興味ないの。ほらもう仕事があるから帰るからなー、おまえたちもあんまり遅くなるなよ」

空になったコーヒーカップを取り、立ち上がる。生徒たちはまだ聞き足りないようで、俺を引き留めようと騒ぐ。

「ああっ。ペーちゃん、逃げんの!」

「ペーちゃんって言うなっての。ひ、ら、た、せ、ん、せ、でしょ」

根城たる理科準備室へ入ってしまえば、もう追ってくる生徒もいなかった。コーヒーメーカーに残っていた冷たいコーヒーを再びカップに注いで、自席に座る。

「はあぁ」

自然とため息が漏れる。嫌な汗をかいたな、と思う。

「ペーちゃんねえ」

平田の「平」と、教師の中でも若い方であるから「ペーペー」を掛けて、「ペーちゃん」なんだそうだ。

誰がつけたあだ名かなんていうのは、学校中に広まってしまった今、特定するのはほとんど不可能だけれど。おそらく、受け持っていたクラスのうちの誰か、だろう。それが悪口ではなく、大した理由も悪意もなく生まれた呼び名であろうというのは想像に難くない。

それは先程呼んできた生徒たちも同様で、誰もがその呼び名に親しみを込めていただろう。

けれど相手の意図と、受け手である俺の気持ちは、別のものだ。

自分が一人前であるとは、言わないけれど。

「ペーペーは、だって、へこむだろぉ……」

悪意のない子供たちからのあだ名を軽く流せないようでは、やはり、まだまだ一人前にはほど遠いのかもしれなかった。

冷めたコーヒーを一口すすると、苦く悲哀の味がした。


気を紛らわすために仕事をしていたら、いつの間にかひどく没頭してしまっていたようで、ふと顔を上げると空がコーヒーを零したように真っ黒になっていた。春先とはいえ、夜は少し、肌寒い。

「いかんいかん。もうこんな時間か。そろそろ帰らないとなあ」

コーヒーカップを簡単に洗い、残った仕事の書類をかばんにしまう。戸締まりを確認して、準備室を出た。

「あ、平田先生。遅いよお」

薄暗い廊下から突然声を掛けられて、俺は飛び跳ねそうなくらい驚いた。視線を声の聞こえた斜め下へやると、女生徒が一人、廊下の隅に座り込んでいた。

「百瀬じゃないか。こんな時間にそんなところで、なにしてるんだ」

「なにって、先生を待ってたんじゃないですか」

そこにいたのは百瀬という三年の生徒だった。その事実に、俺はまた驚いた。

この高校は二年生に上がる際に文理選択があり、そこで文系に進むと、二年からは科学系の授業は一切行わない。だから文系である彼女は俺の受け持ちではなく、一年次に基礎的な化学の授業をした程度だ。

ほとんどの生徒が下校したであろうこんな遅い時間に、出待ちを受ける程に慕われている相手ではなかった。

「なんでまた、俺を。用事? それともなにか、質問でもあった?」

「うん。先生の彼女が教え子って、本当ですか?」

勉強関連の、ということを指しての言葉だったのだが、予想外の内容に、俺はむせてせき込んでしまった。

「だ、大丈夫ですか?」

慌てて百瀬が駆け寄ってくる。

「だ、大丈夫……。なに、おまえそんなこと聞くために残ってたの? こんな時間まで? 一人で?」

「いや、はい、まあそうなんですけど。本題はそこじゃなくって。その、もしそうだったら、相談に乗ってもらいたいなって、思って」

はあ? と俺は思わず声を上げていた。俺が教え子と付き合っていたら、相談したかった? 何故?

「え、なに、もしかして百瀬おまえ、誰か教師と付き合ってるのか?」

「ち、違います! ……教師では、ないんですけど」

含みのある返答だな、と思う。とりあえずこのまま薄明かりの廊下でというのも良くないだろうと、「話なら聞いてやるから、今日はもう遅いし帰りなさい。明日の放課後にでも、理科準備室に来な」と言うと、百瀬は静かに頷いて、くるりと背を向け帰っていった。


翌日、六限の授業の終わりと同時に、百瀬は準備室へやってきた。俺は六限は受け持ちがなく、書類仕事をしているところだった。

「早いじゃん。ホームルームは? さぼり?」

「ううん。六限が担任の飯田先生の授業だったから、早めに授業が終わって、ホームルームも授業時間のうちに済ませちゃったの」

「そうか。じゃあ、こっち、入って」

普段は準備室に生徒を入れることは滅多にないけれど、理科担当の先生が担任している生徒の進路面談をするときなど、厳密には生徒の入室が禁止されているわけではない。

ただ、それ以外の場合で日頃理科準備室を利用するのが俺くらいなものなので、静かに仕事ができるように勝手に禁止にしているだけだった。

百瀬は初めてはいる理科準備室に少し心が弾んでいるようで、辺りをきょろきょろと見回していた。

「へえ、コンロとかコーヒーメーカーとか、なんでもあるんですね」

「おいしい飲み物があれば、仕事がはかどるからな」

おいしさよりもカフェインの量が大事だということは、高校生のうちはまだ、知らなくていいだろう。

準備室の奥にある、来客用のソファへ促す。

「んで、昨日の続きだけど」

「あたし、今、付き合っている人がいるんです。サラリーマンの男の人です」

昨夜言葉を濁した様子とは打って変わり、百瀬は単刀直入に本題に入った。

「とても優しい人で、大好きなんですけど……いつも、不安になっちゃって。あたしみたいな子供が、釣り合ってるのかなって。もっと大人の美人な女の人の方がいいんじゃないか、そういう人に、すぐ心移りしちゃうんじゃないかって」

思い詰めているとも取れる言葉は、けれどすらすらと演劇の台本を読み上げるようだった。

昨夜はおそらく、俺が年下と付き合っているらしいと耳にして思い立って待ち伏せをしていたのだろうが、それから一晩過ごして、自分の中で頭の整理をつけたのかもしれない、なんてどうでもいいことを分析する。

「彼氏、何歳? 俺と同年代くらい?」

「……先生の、一個上、です」

俺の一歳年上。二十九歳。百瀬との年齢差は、十一。ほとんど一回り、違うことになる。なるほど、不安になるのももっともなことだ、と内心で頷く。

常識的に見れば、誰だってそんな男危ないよと言うだろうし。百瀬自身もそれが分かっているから、彼女はきっと、大人どころか友人にさえ話していないのだろう。

ここで俺が常識を説くのは簡単だった。危ないぞ、今は進路に集中すべきだと、掛ける無難な言葉はいくらでもある。

けれどその中から、本当に彼女のためになる言葉を選ぶことは、とても難しいことだった。

「……まず、昨日の質問の答えだけど。俺が付き合っている女性は、教え子じゃないし、年下でもない。俺より、年上の人だ。だから百瀬の彼氏の立場になって答えてやることはできない。悪いけど」

「それでもいいです。平田先生の意見を、教えてください」

百瀬はじっと俺の目を見ていた。そのまなざしは、俺には荷が重すぎるものだ。

「これは、平田先生じゃなくて、ペーちゃんの意見として聞いてほしいんだけど。多分、百瀬も分かってると思うけど、一般的に高校生と付き合おうとする大人は、あんまいい大人じゃない、ことが多い。それは分かるだろ?」

俺は予防線を張った。百瀬は小さく頷いた。あまり真剣すぎずに聞いてほしい、ということが伝わったようで、俺も少し、肩の力を抜く。

一人前の教師としてではなく。ペーペーの、半人前の大人の言葉を、答える。

「でも、そうじゃないことだっていくつもある。一回り違う相手と生涯添い遂げた人もいるだろうし、あるいは同い年だからって必ずうまくいくわけじゃない。勉強と違って恋愛に公式も解もない。そいつと自分、一対一の関係だ」

その言葉は百瀬を励ますようでいて、その実、俺自身へ言い聞かせる言葉だった。

「百瀬はまだ若いし、もしなにかあっても、やり直せるんだから。今は素直に、自分の気持ちに正直になればいいんじゃないか。それで万が一彼氏に裏切られるようなことがあったら……また、俺のとこに来いよ。そのときは絶対、百瀬のこと守ってやるから」

「……うん。ありがとう、ペーちゃん。ペーちゃん、なんか、すごく先生っぽいこと言うんだね」

「先生っぽいんじゃなくて、先生なんだけど、俺」

「えー。ペーちゃんは、いつも、先生っぽくないよ?」

でもそこがペーちゃんのいいとこじゃんね、と百瀬は笑った。俺は怒る気も沸かなくて、百瀬と一緒に笑った。

「うん、ペーちゃんのおかげで、ちょっと元気でたかも! ありがと。あたしもうちょっと、頑張ってみるよ」

「おう、頑張れ。青春は学生の特権だからな。でも、勉強も忘れずにやるんだぞ」

「分かってるよー。ちゃんと勉強もしまーす」

昨夜の不安げな表情は面影もなく、百瀬は「平田せんせ、ばいばい」と笑顔で手を振り準備室を出ていく。

「あ、先生も、頑張ってね!」

去り際の一言。その言葉に大した意味はないだろう。百瀬からすれば、仕事頑張ってね、程度のつもりだったのだろうけれど。

「俺も、頑張らないとなあ」

生徒を励ましたつもりが、自分が励まされていたなんて、半人前にもほどがある、と自嘲した。

もう一仕事するかと、俺はコーヒーメーカーのスイッチを入れた。

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