あべこべ姉妹
三砂理子@短編書き
あべこべ姉妹
わたしは姉が七歳のときに生まれた。
一人っ子だった姉は、妹ができたことに大喜びだったらしい。しかもそれが、姉と誕生日が同じだったから、まるで自分の半身ができたように、わたしを溺愛し大層甘やかした。
桜子という名前は、姉がつけた。姉は春生まれで春子と名付けられたので、わたしには桜という字をつけようということになり、それなら春子と同じ「子」をつけて桜子がいい、と言ったのだという。
姉は幼いわたしの面倒をとてもよく見てくれた。家では遊び相手になったり、寝かしつけてくれたり、平日は小学校が終わると飛んで帰ってきて、お母さんと一緒に保育園にお迎えにきてくれたり。
だからわたしがお姉ちゃん子になるのは至極当然の流れだった。
物心つく頃には、なにをするにもお姉ちゃん、お姉ちゃんとその背を追うようだった。七歳差ということもあり、わたしから見て姉はなんでもできるスーパーヒーローみたいな存在だったし、事実姉は人並み以上になんでもできる人だった。
中でも走ることに関してはずば抜けていて、わたしは小中学校の運動会で姉が走り負けた姿を一度も見たことがなかった。
姉はわたしの憧れで、幼いわたしはなんでも姉の真似をした。
姉が中学で陸上部に入り長い髪を切れば、わたしもずっと伸ばしていた髪を短くした。姉が好きになったアイドルをわたしも好きになった。なんでも真似をした。運動センスのないわたしは、姉みたいに百メートル走を誰よりも速く走ることはできなかったけれど。
姉はわたしが姉の真似をするのを怒らなかった。それどころか、髪を切った日には「似合ってるよ」と褒めてくれたし、十歳の誕生日には、姉のお気に入りの熊のぬいぐるみと色違いのぬいぐるみを買ってくれた。十二歳のとき、クラスに好きな男の子がいたわたしがバレンタインにチョコを手作りするのを手伝ってくれた。十四歳になり、おしゃれな服装に関心を持ちだしたわたしの買い物に付き合って、服を選んでくれた。
わたしはそんな姉が大好きで、なによりの自慢だった。
「さくら、遅刻するわよー」
「え、うそ! なんで起こしてくれなかったの!」
お母さんの声に、わたしは飛び起きた。時計を見ると、いつも起きる時間より、一時間も遅い時間だ。大遅刻だった。
「ちゃんと起こしましたよ、さくらが起きなかっただけよ」
そんなあ! と叫びながら、わたしは慌てて高校の制服に着替えた。そして、洗面所に駆け込む。朝はいつも寝癖がひどい。本当だったら時間をかけて直すのだけど、今日はとにかく時間がなかった。
「さくら、お姉ちゃんがやってあげようか」
ブラシでがしがしと髪をとかしていると、姉がわたしの手からそれをすっと取り優しく髪をすいた。
「お姉ちゃん! お姉ちゃん、学校は? いいの?」
「いいの。ほら、さくらはあたしのことより、自分の心配しな」
わたしの学校は姉の学校より遠いけれど、それでもこんな時間にわたしに付き合っていれば、姉だって遅刻は免れないはずだった。
「でも、だって」
と、わたしは断ろうとしたけれど、姉は頑なにブラシを返してくれなかった。姉の頑固さにわたしが折れるしかなく、姉がブラシをかけてくれる間に、わたしは簡単なメイクを済ませた。
「うん、これでよし。今日も可愛い」
わたしの髪をすき終わった姉は、わたしの頭をぽんぽんと撫でた。姉はいつまでも、わたしを子供扱いする。
「もう、子供じゃないんだから。子供扱い、しないでよ」
「高校生にもなって寝坊しといて、なに言ってるのよ。ほら、急いで朝ごはん食べないと、遅刻だよ」
もうどんなに急いでも遅刻には変わりないのだけど、姉に促され、わたしは席について遅い朝食を食べた。
「行ってきます」
「行ってきまーす」
「はい、気をつけてね」
姉と二人、家を出る。今から行けば、一限が終わる前には学校に着けるはずだった。姉は一限の開始に間に合うかもしれない。
「お姉ちゃん、行かないの?」
「ん? さくらを駅に送ったら、行くよ」
姉は自転車を押してわたしの横に並んで歩いていた。
普段、自転車通学の姉は、電車通学のわたしを毎朝駅まで送ってから学校へ行くけれど、それは姉の学校が近くて時間に余裕があるからだ。今日はただでさえわたしのせいで遅刻しているのに、駅まで一緒に歩いていたら、一限にすら遅れてしまう。
「わたしは大丈夫だから、お姉ちゃん、学校に行きなよ。授業、遅れちゃうよ」
「大丈夫よ。一日くらい、どうってことないわ」
こんなときでさえ、姉は折れない。
「もう、成績下がっても知らないからね」
わたしのせいにしないでよ、と突っぱね気味に言って、わたしは自転車の前かご、姉のかばんが入っているその上にわたしのかばんを乗せた。
姉の過保護さは筋金入りだ、と思う反面、甘やかされることが嬉しいと思っているのも事実だった。結局、姉が妹離れできていないのと同じ、わたしも姉離れができていないのだ。
そうしてわたしたちは、駅までの十五分ほどを他愛ない話をしながら歩いた。
「阿部ちゃん、遅刻するなんて珍しいね。どしたの?」
「うん、寝坊しちゃって。もう、超焦ったよ」
「へぇ、さくらが寝坊なんて、意外。夜更かしとかするタイプに見えないのに」
一限の授業半ばに学校に着いたわたしは、教室の後ろ扉からそぉっと入った。英語の先生はわたしをちらりと見たけれど、なにを追求することなく「あー、阿部か。阿部、遅刻、っと……」と名簿にチェックをつけただけだった。
かわりに、授業が終わるや否や、クラスの友人が何人か、こうして声をかけてきたのだった。
「ちゃんと、寝てるつもりなんだけどね。なんか、起きれなかったんだよね」
「そのわりには髪もメイクもばっちりですねえ、さくらさん?」
突然背後からの重みを感じて、わたしは「わ!」と机に突っ伏す形になった。重い体を少し起こして、後ろを見やればいたずらっぽい笑みを浮かべた友人・美琴がわたしにおぶさっていた。
「そ、そうかな? 急いでたから、結構雑なつもりなんだけどー」
「春子先輩でしょ」
図星を指されて、どきりとわたしの心臓が跳ねる音がする。
わたしは、姉のことを学校ではあまり話さないようにしていた。
だって、高校生になっても姉に甘えているなんて知られたら、恥ずかしいじゃないか。
美琴の姉とわたしの姉がクラスメイトである繋がりで、美琴はわたしがお姉ちゃん子なのを知っている。
「ちょ、ちょっとね。お姉ちゃんが、手伝ってくれるっていうから」
わたしは俯きがちに答えた。少し頬が上気しているようだった。
「へえー、阿部ちゃん、お姉さんがいるんだ。初耳だけど、すごく分かる。阿部ちゃんってお姉さんいそうだもん」
「うん、分かる。お姉ちゃんと仲良いの、羨ましいなあ。私、兄貴しかいなくてさあ」
「私も、兄貴と弟でさ。男兄弟に挟まれて、つまんないよね」
話題はうまく逸れてくれたようだった。それとなく話を合わせて、誤魔化す。心音が少しずつ落ち着いていくようだった。
美琴も、話に乗っかって姉の話をしていた。彼女は悪気があってわたしの姉の話を出したわけではないのだ。ただ、わたしが少し、姉の話題に過剰に反応しているだけなのだった。
「ただいまぁ」
「おかえり。高校、どうだった?」
「うん、なんとかなったよ」
家に帰るとお母さんがリビングでテレビを見ていた。姉はまだ帰ってきていない。今日は陸上部の部活の日だから、帰りは遅いはずだった。
「気をつけるのよ。あんまり遅刻すると、成績に響くんだから」
はあい、と気のない返事をして、わたしは自分の部屋に入った。
かばんをベッドの上に置いて、中から英語の教科書とノートを取り出す。明日は順番で当てられる日だから、予習をしなければならなかった。
数学の宿題も出ているのだけれど、それは姉が帰ってきたら、手伝ってもらおう、と決める。だからそれまでに、英語の予習を終わらせないといけない。
わたしは数学が大の苦手だった。姉は数学に限らず、勉強は一通りわたしよりできる。だからといってなんでも頼るのは良くないと思うから、一番だめな、数学だけ、いつも手伝ってもらっている。
どうしてこんなに姉妹で違うんだろうなあ。運動も、勉強も。
姉は憧れだけれど、時折、ふと自分と姉とを比べてしまうことがある。
「あーあ」
一度考え初めてしまうと、その黒いもやもやは一気に膨れ上がっていく。
英単語を写していた手が止まる。なにをする気にもなれなかった。
「ばかみたい」
と呟いて、ベッドに横たわる。
勉強ができなくても、運動ができなくても、家族は誰もわたしを責めたりしない。「さくらにはそれ以外に良いところがいっぱいあるから」と慰めてさえくれる。わたしが勝手に劣等感を抱いているだけだ。思春期だから。嫉妬心とか、少しの自尊心くらい、あるし。姉に追いつきたいという、小さな野心だって、あるのだ。
「あーもう、やめ、やめ」
姉が悪いんじゃない。ほんの少しでも、姉を妬み嫌う、わたしが、全部全部、悪いんだ。
乱暴にかばんをベッドから落とす。布団を被り、ネガティブな思考を強制的にシャットアウトした。
「さくらは進路、どうすんの?」
「うーん。とりあえず、進学かなあ。なんか資格、取れるとことか。梓は?」
「私は大学行こうと思って。厳しいかも、だけど」
放課後の教室に残ってとりとめのない話をするのは、女子高生なら誰でも、日課みたいなものだ。
高三に上がるとすぐ、進路選択が待ちかまえていた。進学校でもない平凡なわたしの高校は、就職、専門、大学と、人によって進路がばらばらだ。
「ううん、そんなこと、ないよ。梓は頭良いじゃない。狙えるって」
それはお世辞ではなく、わたしの本心だった。梓は学年の中でもかなり上位の成績を取っているから、大学進学には十分の実力があると思ったのだ。
「うん、ありがと。がんばるよ」
さくらもがんばって、と言うその言葉もまた、彼女の本心だった。
「あ、さくら先輩! いた!」
「あ、やっほー。どしたの?」
教室の外から声が掛かり、その方を向けば見知った後輩の姿があった。「誰?」と訪ねる梓に「調理部の後輩だよ」とだけ答えて、席を立つ。
「いや、先輩、どしたの? じゃないですよ。今日、先週部活なかった分の振替日ですよ! みんな待ってたんですから」
「え、うそ! ごめん! すっかり忘れてた!」
わたしは慌ててきびすを返し、席に置かれたかばんをつかみ取った。その光景を、梓がお腹を抱えて笑っている。
「こら、笑わないでよ!」
「ごめん、ごめん。さくらが慌ててるのが、おかしくって。ほら、早く行ってあげなよ。後輩ちゃん待ってるじゃない」
ほら、と梓がわたしの背中を押す。笑いを堪えるような表情になにか言おうかと思ったけれど、再び廊下から「さくらせんぱーい」と呼ばれたので、わたしは大人しく教室を出ていった。
一年生の終わりに、わたしは友達に誘われる形で調理部に入った。それまで部活には入ったことがなく先輩との付き合いもほとんど経験がなかったので、最初は戸惑うことも多かったけれど、調理部は上下関係がゆるいこともあり、すぐに馴染むことができた。
料理は人並みにしかしたことがなかったが、部活でみんなとお菓子や簡単な料理をするうちに少しずつ楽しくなっていった。
「美琴ちゃん、美希ちゃんは元気?」
「はい、元気ですよ。一昨日、春ちゃんを見たって言ってました」
「本当? わたし、お姉ちゃんからなにも聞いてない。ひどーい」
美希ちゃんは美琴ちゃんの姉で、わたしの姉と同じ高校だ。美希ちゃんとわたし、美琴ちゃんと姉が同い年という縁もあり、自然とわたしたち四人は仲良くなった。
「春ちゃんが外で走ってるときに、お姉ちゃんが廊下を通りかかって、見つけて。手振ったら、返してくれた、って言ってました。いいですよねえ、春ちゃんの走ってるとこ、見られるの」
中でも美琴ちゃんと姉は随分と意気投合して、二人で遊びに行ったこともあるらしかった。
「夏前に大会があるみたいだよ。一緒に見に行く?」
「本当ですか? 行きます、行きます! お姉ちゃんも呼んで、三人で、行きたいです!」
「うん、行こ。わたし、毎年行ってるけど、人と行くはの久しぶり」
小さい頃は両親に連れられて行っていたけれど、中学に入ってからのこの二年は一人きりだ。美希ちゃんと美琴ちゃんを連れて行けば、姉もきっと喜ぶだろう。
「……あれ?」
ふとなにかにつまづいた気がして、立ち止まる。美琴ちゃんがつられて足を止め、どうしたんですかと言わんばかりに小首を傾げた。
そう、なにかが引っかかったのだ。なにか、わたしは今、おかしなことを思わなかったか。
「あのさ、美琴ちゃん、今何歳?」
「え? えっと、来月誕生日で十七になるので、まだ十六です」
「じゃあ、お姉ちゃんは、十七歳か」
姉とわたしの誕生日は四月だ。入学式や始業式より先に、誕生日がくる。
だからわたしは、十八歳のはずだった。
その事実に、さあっと血の気が引くようだった。
「ねえ、おかしくない?」
「なにがですか?」
突然表情を曇らせたわたしに、美琴ちゃんは怯えていた。それでも、わたしは、問わずにはいられない。
「わたし、十八歳で。お姉ちゃん、十七歳って。おかしいよね?」
「な、なにかおかしいですか? 私には、分かんないですけど」
だって、どう考えたって、おかしいでしょう!
そうなじりそうになったのを、ぐっと堪えた。美琴ちゃんに八つ当たりしても仕方のないことだ。
「ごめん、今日ちょっと、部活出られない」
ごめんね、ともう一度謝って、美琴ちゃんが言葉を返す暇さえ与えずにわたしは学校を出た。
家には誰もいなかった。わたしは、自分の部屋に駆け込んだ。
クローゼットの奥にしまわれた薄汚れた収納ボックスを取り出す。その中には、わたしの昔の日記がぎっしりと詰まっている。
わたしはそれらをひっくり返すような勢いで取り出して、一つ一つ読み返した。
日記はナンバリングしていなかったので、それらを読みながら、書かれた年齢ごとにまとめて並べ直していった。
一つ、また一つと箱の中に押し込められていた日記が並べられていく。数が減っていく度に、わたしの鼓動は早くなっていくようだった。
そしてついに、最後の一つを並べ終える。
クローゼットの奥を確認しても、他に日記は見つからなかった。
「やっぱり、ない」
ベッドの上に所狭しと並べられた日記たち。
その中には、十一歳、十三歳、十五歳、十七歳の日記がない。
「……それに」
おかしなのは欠けた日記だけではなかった。山のような日記にも、おかしなことだらけだった。
わたしの日記によれば、わたしは去年、高校一年生だった。姉は高校二年生だった。そして、美希ちゃんは姉と同い年の高二で、美琴はわたしと同級生だった。
それに、わたしを調理部に誘った友達というのは、他でもない、美琴だったのだ。
美琴たちだけではない。中学の後輩だと思っていた子たちは小、中学のときの同級生たちだった。姉の先輩だと思っていた人は昔姉にクラスメイトとして紹介してもらった人だった。
わたしはそれら事実を、日記を読むまですっかり忘れてしまっていたのだ。
なにより、姉はずっと、ずっと、十七歳のままだった。
わたしが狂ってしまったのか。それとも、世界が狂っているのか。あまりに奇怪なことがありすぎて、わたしは自分の日記を信じることも、世界を信じることもできず、正常な判断ができなかった。
「さくら、さくら」
「ん……お姉ちゃん?」
声がして目を開けてみると、そこには姉が立っていた。わたしは自分のベッドで寝ていたようだった。視線を姉から横へ向けると、わたしの身体には丁寧に布団までかかっていて、さらには日記の山はボックスの中にしまい直されていた。
眠ってしまう前のことを思い出したわたしは、一気に意識が目覚めて、がばりと起きあがった。
「あのね、なんかお母さんが、坂本さんに用事があるから帰りが遅くなるって、さっき電話あったの。だから晩ご飯にカレー作ったんだけど。さくら、食べる?」
わたしの気持ちを知ってか知らずか、姉はいつもとなんら変わらない様子だった。
「……うん。食べる」
そうして二人でリビングに出て、姉が二人分よそってくれたカレーを、一緒に食べる。
わたしをベッドに寝かせてくれたのは姉だろうか? 日記をしまったのも? 姉は、わたしが過去の日記を広げているのを見て、なにか気づいただろうか? そもそも姉は、このことに気づいているのだろうか? わたしたち姉妹が、おかしいということに。
答えの出ない疑問が頭の中をぐるぐると駆け回っていて、カレーの味が分かない。直接姉に聞こうにも、こんなこと、どう尋ねたらいいか、分からなかった。
「ねえ、さくら。そういえば、この間、美希先輩に会ったんだよ。ミコちゃん、元気?」
「ああ、うん。今日ちょうど、わたしも美琴ちゃんに会って。その話、したの。三人で、お姉ちゃんの大会の応援、行こうね、とか」
「本当! みんな、来てくれるの。嬉しいなあ。がんばらなくっちゃ」
ぎこちない笑顔で話を合わせる。
にこにこと喜びながらカレーを食べる姉を見ていると、わたしただ一人がおかしいのかと思えて、胃がストレスできりりと痛む。
この作り笑いが、姉にばれていないといい。姉には心配をかけたくなくて、わたしは味のしないカレーを無理矢理胃に流し込んだ。
それから一ヶ月の間、わたしは過去の日記を何度も何度も丹念に読み直した。
わたしや姉の年齢、友人たちの年齢。それをノートに書き写した。分かったのは、わたしは十歳を境に、一年で二つ年を取っていること。そしてそれと時を同じくして、姉が十七歳から年を取っていないことだった。
美琴や他の友人たちはあくまでごく平凡に年を重ねていて、けれどわたしや姉との関係性は、年齢に応じて変化してしまっているらしかった。
わたしや彼女たちはそんなことに欠片も気づかず、おかしな日常を受け入れていたのだ。
この一ヶ月、周囲のいろんな人にさりげなく話を聞いてみたけれど、誰一人、両親でさえわたしたち姉妹の異常に違和感を持っておらず、わたしはこのことを誰かに話すのはもうやめた。
姉にだけは、怖くて聞くことができなかった。
わたしは一年で専門学校を卒業し、就職した。平凡……と呼べるかは分からないが、人並みに、OLになった。同期入社の人たちは翌年には後輩になり、新人のときお世話になっていた先輩は同期になった。けれど慣れとは怖いもので、一度受け入れてしまえば順応は早かった。相手はわたしが年齢を越していくことになんの疑問も抱かないのだから、あとはわたしの心の持ちよう次第で、案外、どうにでもなってしまうのだった。
社会人三年目には実家を出た。会社の近くの安アパートを借りて、一人暮らしを始めた。それでも実家からは電車で一時間とかからない距離だったので、月に数度は姉が遊びに来た。
姉はわたしが会社に行っている間に家へ来て、部屋を片づけ、晩ご飯を作って待っていてくれた。
相変わらず過保護で甘やかしな姉だったけれど、それはわたしにとっても数少ない楽しみだった。
「お姉ちゃん、最近、どう?」
「父さんも母さんも元気だよ。さくらはどう? 仕事つらくない?」
「ううん、平気だよ。もう慣れたし。最近はね、新人の子の指導係になったりして、忙しいんだけど。その子がね、橋本さんって名前なんだけど、すごくいい子なの。だから、結構充実してるの」
「そっか。なら良かった」
姉の作ってくれた肉じゃがと味噌汁を食べながら、わたしたちはお互いに近況を報告し合うのが恒例だった。
姉は、わたしが家を出てから随分と変わった。
まず、ずっと続けていた陸上をやめた。かわりに、ファミレスのバイトを始めた。陸上のために短くしていた髪も伸ばすようになった。
「あ、そうだ、父さんたちには内緒だけどね、あたし、彼氏できた」
「本当! おめでとう! 大丈夫、誰にも言わないよ。ねえねえ、どんな人?」
「んーっとね、四つ年上の人。陸部の繋がりで。先輩なの。あんまり、先輩っぽくない、面白い人なんだけどね」
それから、よく、年上の彼氏をつくるようになった。
そもそも姉は今まで陸上一筋の人だったから、恋バナはほとんど聞いたことがなかった。それが部活をやめてすぐに年上の人と付き合い始めて、その人とはあまり長く続かなかったけれど、それを皮切りに、付き合ったとか、好きな人ができたとか、そういう話をするようになった。
多くは三、四歳程年上の人だった。一回り年上の人とも、一度だけ、一瞬だけ。でも、年下と付き合った、という報告は、今のところ聞いたことがない。
それはおそらく、付き合うほとんどの相手が、一度は姉と同級生であった人だからだ。
姉の恋愛は、大体は半年とか一年とかでお別れしてしまう。長くても、二年。それ以上続いたという話は聞いたことがなかった。女子高生の、若い恋だな、なんて思う。
「そっかあ。ねえ、今度会わせてよ。見てみたい」
「なに言ってるの。恥ずかしいから、だめよ」
「えー、けち」
「もう。子供みたいなこと、言って。さくらこそ、どうなの? 好きな人とか、いないの」
「いないいない。全然、なにもないよ」
わたしが即答すると、うそだあ、と姉はおどけた。けれどわたしは本当に、潔白だった。
若い頃は何度かお付き合いをしたことがあったけれど、長く続いたのは、最初のお付き合いだけだった。
初めて付き合ったのは高三のときだった。バイト先の先輩で、二つ年上の大学生だった。最初は順調だったけれど、二年経ち、わたしたちは同い年になった。わたしを「さくらちゃん」と呼んでいた彼が突然「さくら」と呼ぶようになった。わたしはそこで、わたしたちの関係性が変わったのだと気づいた。翌年には「さくらさん」と呼ばれるようになり、言葉の端々に敬語が混じるようになった。それから三ヶ月と経たずに、わたしたちはお別れした。
それからというもの、一年ごとに変わる関係性に冷めてしまって、どんな恋愛も長続きしなかった。なんだか、一年かけて築いてきた二人の関係性を否定されているように思えてしまう。
仕事上の付き合いならばそれでも変わりゆく関係に慣れてしまったけれど、恋愛はどうにも、馴染むことができなかったのだった。
「残念。いい人できたら、教えてよ」
「できたら、ね。できないと思うけど」
「そんなことないよ。さくらにはきっと、いい人が見つかるって」
姉のその言葉はわたしにとってあまりにも、無責任すぎた。
一年で二つ年を取る身体は、年々急速に老いていった。どんなスキンケアをしても皺は増え、身体がきしむようになった。心は二十代でも、身体は四十代相応になっていく。ボロボロの身体は、思うように動いてくれなくなった。身体機能が衰えていく度、心がすり減っていくような錯覚さえ覚えた。
「ねえ、さくら。今度実家帰っておいでよ」
「え? うん、いいけど。なんで?」
姉は相変わらず、肌の綺麗な女子高生だ。
「最近、またしばらく帰ってないでしょ。父さんが、たまには顔を見たいって言ってたから」
「そうだっけ? んー。今の仕事が一段落したら、帰るよ」
一人暮らしを初めてしばらくはほぼ毎月帰っていたけれど、ここ数年、わたしはお盆とお正月の数日しか実家に帰っていなかった。
姉には仕事が忙しいと話していたけれど、それは建前にすぎない。
「親孝行できるうちに、帰っておいでよ」
分かってる。分かってるよ。その言葉は喉につかえて出てこなかった。
わたしは怖いのだった。父と母に会うことが、怖い。
少しずつ両親に年が迫っているという事実を直視したくなかった。
両親の年齢を超えてしまうかもしれない。あるいは、両親より先に、老いて死ぬかもしれない。身体がきしむ度、白髪と皺が増える度、声が掠れて出なくなっていく度に、そんなことを考えた。
それはなによりの親不孝だろう。
両親の年齢に少しずつ近づいていくわたしが両親に会うことが、本当に親孝行になるだろうか? こんなボロボロのわたしなのに。
「……うん」
わたしは力のない返事をするしかできなかった。
父が倒れたという連絡は、その日からひと月もしないで届いた。
職場にいたわたしは、社員に事情を伝え、大急ぎで病院へ向かった。
「さくら!」
「お母さん、お姉ちゃん! お父さんは?」
病院には母と姉が先に来ていた。目の前の扉の上には「手術中」のランプが光っている。
「ここ最近、父さんの具合がずっと良くなかったのよ。町医者には年齢的なものだと言われて、気をつけるようにしてたんだけど……」
母は言葉を詰まらせ、うっと涙を零す。姉がそっと寄り添い、崩れ落ちないように肩を支えた。
「手術の成功率はそう低いものじゃないんだって。ただ、年齢のこともあるし、命は助かっても、その後の生活は分からないって」
母に代わって姉が答えてくれる。半年以上父の顔を見ていないわたしは、まさかそんな、と混乱した思考が脳内をぐるぐると駆けめぐっていた。
手術は無事に成功した。久しぶりに見た父の姿は随分と皺だらけで、肉が落ちて身体は細かった。六十代の父は、わたしの比にならないほどの速度で老いているように見えた。
術後の経過は良好であったけれど、父は定年を待たずに会社を退職した。あと数年働くというのが、気が遠くなるほど長く、心身とも耐えられないと言っていた。
わたしは一人暮らしをやめて実家に戻り、父に代わって働き手となった。
身体年齢が五十を迎え、会社でもそれなりの仕事と給料を与えられていたわたしが食の細い両親と高校生の姉を養っていくのはそう難しいことではなかった。
夜遅くに仕事から疲れて帰ってくると、母がご飯を温めて待っていてくれた。姉がお風呂を沸かしていてくれて、父がねぎらいの言葉をかけてくれた。
わたしがどんなに年を重ねて、両親に限りなく年が近くなったり、姉とは二回り以上年が離れてしまっても、わたしたちの関係性は変わることがなかった。わたしたちは年齢以前に、「家族」という揺るぎない関係性があるのだと、わたしは今更になって実感したのだった。
もっと早くに気づいていれば、もっと早くに実家に帰っていれば、と後悔しても、それは後の祭りだった。
幸せな家庭は長くは続かなかった。
父が、ある日突然倒れて、そのまま帰らぬ人となった。最初に倒れた日から五年が経っており、経過観察も安定していて、不慮のことだった。わたしと姉はそれぞれ会社と高校へ、母は夕ご飯の買い出しで父を家に一人にしていた、ほんの僅かな時間でのことだった。
そこからは連鎖的だった。母は買い物に出た自分を責め、食事が喉を通らなくなっていった。日に日に衰弱していく母を病院に通わせ、点滴を打ったり薬を処方してもらった。それでも一度弱った心と身体は、そのまま戻ることはなかった。
父が亡くなった一年後に、後を追うようにして、母も他界した。
わたしたち姉妹は、二人きりになってしまった。
「さくら、さくら、朝だよ」
「うーん。……おはよ、お姉ちゃん」
「おはよう、さくら」
目覚めたばかりだからか、年のせいか、喉にタンがからまったみたいに声が出なかった。しゃがれた声は、お婆ちゃんのようだ。
わたしたちは、家族四人で住んでいた家を引き払い、狭いアパートを借りて暮らした。実家はわたしたちが二人で住むには広すぎたし、なんだか両親の死のにおいがするような気がして、住み続けているとわたしも両親の後に続いてしまいそうだった。
「朝ご飯とお弁当、できてるよ」
「はぁい。ありがと」
アパートはわたしの会社に近い場所を選んだ。
姉は電車通学はお金も時間もかかるからと、アパートの近くの高校に転入した。そして学校とバイト、家事をすべてこなしてみせた。
「行ってきます」
「行ってきまぁす」
朝家を出る時間はわたしの方が早いはずなのに、姉はいつもわたしに合わせて家を出る。姉の自転車の前かごにわたしのバッグを乗せ、会社まで一緒についてくるのだ。
ふと横を歩いている姉を見やると、わたしより十センチも小さいはずの姉と視線の高さが変わらなくなっていた。六十代になり、腰が丸まってきて、背筋を伸ばすことがつらくなったせいだった。
たくさんのことが変わってしまったのだと、思う。それでもこの姉の介護じみた過保護さは相変わらずで、わたしは懐かしさを覚えた。
わたしが定年を迎えても、わたしたちは二人で質素に暮らした。働き盛りの従姉妹が一緒に住まないかと申し出てくれたりもしたけれど、わたしたちはそれを断った。ただ、わたしの身にもしものことがあったときは、姉のことをお願いしたいと、姉には内緒でそう頼んだ。
目まぐるしかった会社での今までの生活と違い、いくつ年を取っても日常に変化のない定年後の暮らしというのは、なんだか不思議な感覚だった。
姉が変わらず学校にバイトにと忙しく過ごしているのを見ると尚更だった。
散歩や家事手伝いをして過ごしながら、姉のことをよく考えるようになった。
「さくら、お酒飲む?」
「え? なんでお酒があるの?」
「うふふ、内緒」
なにか祝い事がある日でもないのに、夜、姉がどこからともなく缶のお酒を取り出してきた。わたしは付き合い程度に飲むだけで、家にお酒を買って帰ったことはなかった。
「まあまあ、細かいことは気にしないで。あたしもさくらも、さすがに一缶全部飲むわけにいかないじゃない? だから、半分こしよ」
わたしの返答も聞かず、姉は缶を開けお酒を二つのグラスに均等に注いだ。フルーツの、甘い香りが鼻を抜ける。
「かんぱーい」
久しぶりのお酒に、急激に体温が上がるような感覚に襲われる。それはもちろん錯覚であり、暗示的なものだろうけれど。
「あ、おいしいね、これ。好きな味かも」
そう言って姉はけらけらと笑った。お酒のせいなのか、あるいはわざと陽気に振舞っているのか。姉はそのまま、わたしよりも随分早いペースでお酒を飲み切ってしまった。
わたしはいつになくよく喋る姉に相槌をうちながら、ちびちびと甘いお酒を飲んだ。
「お姉ちゃんはお酒、飲んだことあるの?」
「んー、まあ、人並みにね。ほら、あたし、精神年齢は成人だしさ」
それまでけらけらと笑っていた姉が、その言葉を言った瞬間、しまった、という顔をしたのをわたしは見逃さなかった。
わたしは椅子が音を立てて倒れるのもいとわず、勢いよく立ちあがり、皺くちゃの両手で姉の首を掴んだ。急に身体の動かしたせいかアルコールが身体を駆け巡り、頭がくらりとした。
わたしは酔っていた。そして、酔っていることを言い訳にして、勢いのままに姉の首をぎゅっと締める。
「お姉ちゃん、知ってたの」
そのときのわたしは完全に頭に血が上っている状態で、焦点もろくに定まっていなかった。自分がなにをしているのかさえ、確かではなかった。
呼吸を奪われた姉はわたしの問いに答えることができるはずもなく、けれど何故か、抵抗らしい抵抗もしてこなかった。
姉は抵抗しようと思えばできたはずだった。わたしは死にかけの老体で、姉は十代の身体なのだから、姉が手でも足でも繰り出せばわたしはひとたまりもなかったのに。
姉は生理的な涙を零しながら、口元を微かに釣り上げて、笑った。
わたしもぼろぼろと涙を流し、顔も思考もぐちゃぐちゃになりながら、両手の力をぐぐっと強めた。
阿部桜子の葬儀が執り行われた。
式場には両親が死んだときと同じ、死のにおいが濃く香っていた。
八十歳を越えて亡くなったさくらの葬儀に集まったのは、多くは五十代前後のさくらの「後輩」たちであり、「元同級生」たちだった。
「春ちゃん、これから、どうするつもり? もし春ちゃんさえ良ければ、私たちのところに、」
「雪子さん。お心遣い、感謝します。……でも、大丈夫ですから」
若い喪主は大変だろうと葬儀を手伝ってくれたのは、あたしとさくらの従姉妹にあたる雪子さんだった。雪子さんは生前のさくらに、あたしの面倒を頼まれていた。けれどあたしは、それを断った。
お金には困っていなかった。三十年近くバイトをしてきた蓄えはまだ十分にあった。家だって頼ろうと思えば頼れる相手は一人ではなかった。けれど断った理由は、そんなことではなかった。
雪子さんが帰り、家に一人きりになったあたしは、台所から一番大振りの包丁を取り出した。
あの日、さくらに首を絞められたリビングの席に包丁を持ち立つ。
あたしはあのとき、さくらに殺される覚悟があった。さくらがあたしの将来を心配していたのは知っていた。誰よりも優しい子だったから、さくらが死んで、あたしが老い始めてしまう前に、あたしを殺そうとしたはずだった。
結局あたしは、さくらに一度も本当のことを言えなかった。あたしがあたしたち姉妹の異常に気付いているということだけではない。
あたしは、あたしたちが異常になった原因を知っていた。……というより、原因は、あたしだった。
あたしはさくらを愛しすぎた。さくらのためならなんでもしてあげたかったし、なんでも与えてあげたかった。自分の異常さを理解していたからこそ、一時は陸上に打ち込んで、さくらから離れようとしたこともあったけれど。……それでも、さくらへの愛情は変わらなかったから。
あたしが年を取らなくなり、代わるようにさくらが二つの年を取るようになったとき、あたしはすぐに気付いた。
あたしはあたしの時間すら、さくらに与えてしまった。
そのことに気づいていたのに、あたしは、さくらに恨まれるのが怖くてそれを打ち明けることができなかったのだった。それどころか、早々に成長の止まったあたしに対して、ぐんぐんと背も身体つきも大人びていくさくらを見て、ああ本当にさくらにあたしの時間を与えられたのだと、喜びさえ感じていた。
そして真実を隠したあたしは、あたしの分の人生をも歩んでいくさくらに、全てを与え続けることしかできなかった。
「……ごめんね、さくら。ずっと、愛してる」
懺悔と告白を最後に、あたしは刃を自身の胸に振りおろす。恐怖も痛みもなく、あの世で再びさくらに会えることの喜びがあたしを満たしていた。
End.
あべこべ姉妹 三砂理子@短編書き @misago65
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