縁環恋鎖

kenko_u

1.小崎冬子の場合

 放課後はいつも、同じ席に座る。

 図書室の閲覧席の、入口から四列目、いちばんはしっこの席。

 放課後に残ってまで本を読んでいこうなんて生徒はほとんどいないし、卒業まで二週間を切った二月の終わりころ、大学受験もほとんど終わって、自習のために席をとる人もほとんどいない。

 だから、その席が埋まってしまっていることもほとんどなかった。


 鞄をその席に置いて、適当な本を一、二冊見繕って、その席に着く。

 本はなんだっていい。頭を使わなくても入ってくるようなやつ……人形劇のシナリオとか、数少ない漫画の蔵書の適当なやつだと最適。

 どうせ、まともに読みはしないんだから。

 わたしはただ、その席からあるものだけを観ている。


 司書の美晴先生。名前じゃなくて、苗字が美晴、名前は若菜。美晴若菜先生。


 いつも貸出カウンターに座って、ときどきメガネを直しながらお仕事をして、手が空いてるときにはなにかの文庫本をめくってる。

 ショートヘアーで、切れ長の目で、目元に小さなほくろのある大人のひと。

 たぶん、二十代後半くらい。三十代じゃないと思う。

 本を借りに来るひとがいると、美晴先生は机に置いた小さな瓶にさしてあるしおりをとって、書類や本にそれを挟むと、少し低くてやわらかい声でこたえてくれる。


 この席は、その声がいちばんよく聞こえる。

 ずっと、その声を聴いてた。

 仕草を観てた。

 空気を感じてた。


 それがもう、終わってしまう。卒業と一緒に。


 学校は残酷だと思う。


 どんなに焦がれていたって、卒業してしまえば先生に会う口実はない。

 卒業生が遊びに来ることはあるけれど、それだって毎日行くわけにいかないし、それに――卒業するのは、生徒だけじゃない。


 美晴先生も、卒業する。


 若い美晴先生がどうして卒業するのかは、聞いたことがない。聞けない。

 よく図書室を利用するから、美晴先生と面識はあるし、はち切れそうな胸を抑えてやっといくつか話したことはあるくらいはできるけど、きっと聞けない。


 わたしは埋められそうもない歳と立場の差を前に、ただ屈するしかなくて。

 こうやって少しでも長い時間をここで過ごすことで、自分を納得させてる。


 わたしがあと十年大人だったら、美晴先生は私をどう見てくれるだろうか。


 そうしてもやもやと考えているあいだに、陽は沈んで、図書室には閉館のチャイムが流れる。


 今日もろくに読まなかった本をしまって、借りるための適当なシリーズ小説を取って、帰り支度をして。

 それから、貸出カウンターへ。


「はい……返却日は6日ね」

「はい」


 短いけど幸せなやりとり。

 薄く漂う、大人のひとの香り。

 きれいな手から、本を受け取ろうとして――


 本が、渡されない。


「小崎さん、そうだ」


 美晴先生の声が、わたしの名前を呼ぶ。


「はい」

「いつも来てくれているし、もうすぐ卒業だから、これ、記念にあげる」


 そういって美晴先生は、机の上の瓶に差した押し花の栞を、わたしが借りた本に差して渡してくれた。


「あっ、あ――」


 どうしよう。

 なにを言ったらいいんだろう。

 いつもより長く声をきいていたから、整理がおいつかない。


「あっ、あの、大切なものじゃ……!」

「ええ、だから、大切にしてくれるとうれしい」


 もういちど、本を差し出す美晴先生。

 わたしは、それをどきどきしながら受け取った。


「……ありがとうございます」

「どういたしまして。アネモネ。冬の花、あなたと同じね」


 美晴先生は、栞を指さしてそう言った。


「先生は……」

「なに?」


 いろんな言葉が、胸の中から詰まって出てこない。

 わたしはぐっとつばを飲み込む。


「先生は、わたしたちの卒業の日までいますか?」

「ええ、三年生は卒業が早いから、式より先までは」

「卒業式の日は、図書室やってますか?」

「ええ」

「わかりました、あの……本、ぎりぎりまで借りるかもしれないので」

「そうね、せっかくだから、たくさん利用してね」

「はい! ……さようなら」

「さようなら」


 私は図書室を飛び出して。

 足早に下駄箱へ向かって。

 夕日が差し込む運動場を見ながら。

 本と栞を胸に抱いて、誰もいないのを確認してからすこしだけ泣いた。

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