ホタルと目薬

三砂理子@短編書き

ホタルと目薬

日差しが目に染みて、私は眼鏡の下のまぶたを強くこすった。しぱしぱと瞬きをして、うっすらと目を開く。目薬を差そうと思いポーチから目薬を取り出し、眼鏡を外して目薬を垂らす……が、何も落ちてこない。容器を何度も強く押してみるが、わずかばかりの滴が容器の口からちらちらと見えるだけで、重さが足りない滴は容器を押す力を弱めると奥へ戻っていってしまう。

(あーあ、しまったなあ)

面倒くさがって眼科に行っていなかったツケが来た、と私は思った。空になってしまった目薬の予備は持っていなかった。

目を伏して肩の力を抜くと、日差しにやられた目の痛みが少し和らぐような気がした。

帰りに眼科に寄ろうと決めた。目薬がないことは、私にとって死活問題だった。

前髪をかき分ける。暗かった視界が少し明るさを取り戻す。けれど量のある前髪はすぐに重さで垂れてしまい、再び視界を覆う。

伸び放題になった髪は私の視力を奪うだろう。それを少しでも緩和するためには、目薬は必須だった。……本来ならば、それは前髪を切ってしまえば済むことだろうけれど。

私は人前に顔を晒すのが嫌いだった。

遠い昔、誰に言われたかももう覚えていない程には幼い頃の記憶。

「ナルちゃんって、目、怖いね」

その一言に、当時の私はそれはもう、大いに傷ついた。それから毎日地面を見て歩いたり、人と話すときも首より下ばかりを見て、人に目を見られることを極端に避けるようになった。目を見られることに怯えた。

徐々に髪が伸びてくると、これは好都合と思い、そのまま伸ばし続けるようになった。私の顔を覆い隠す髪が私の目を攻撃し視力が下がっていっても、前髪を切りはしなかった。遠くのものが見えずに目を細めるようになると、いっそう目つきが悪くなるのを自覚したが、その頃には周囲は誰も私の顔どころか私そのものを見ようとしなくなっていたから、大した差ではなかった。

中学の中頃に眼鏡をかけるようになり、私の視力は加速的に落ち続けた。眼鏡をかけても前髪が私の視界を塞ぐので、相変わらず遠くを見るには目を細める必要があり、目つきの悪さも視力の低下も改善されることはなかった。

あるとき、ふと前髪の隙間から見た日の光が私の目を焼いた。目が潰れるように痛くて、私は眼科に駆け込んだ。

暗い視界に慣れすぎた私の目は、ある程度以上の明るいものを見ることが困難になっていたのだった。

以来、私は視力の低下を目薬でごまかしながら、暗がりで生きることを選んだのだった。


放課後、私は学校からそのまま眼科へ向かった。馴染みの眼科の先生は私にあまり干渉をしない。過去には眼科に来る度に前髪の件を説教してきた時期もあったけれど、私の意思が頑なだったので、諦めたようだった。

「点眼薬がなくなる前に、定期的に来てくださいね」

「はぁい」

簡単な視力検査と最低限のやり取りをすれば、いつもの目薬を処方してくれる。受付の看護師さんも何も言ってこない。事務的にお金と紙切れを交換するだけ。

その気楽さが、私を悪い方向へ導いてることは自明のことだった。


眼科近くの薬局で目薬を受け取り、日が落ちないうちに家に帰る。

二階の自室に上がるのが面倒で、一階のリビングのソファにかばんを放ると、手持ちのビニール袋から目薬を取り出す。

(あれ? 何か、変?)

いつもと同じ目薬のはずなのにどこか違和感を覚えて、手のひらの上でころころと転がし眺める。

「あ、ラベル、ない」

そうして、違和感の正体に気づく。普通なら貼られているはずのラベルが容器に貼られていないのだ。

薬剤師の人が、貼るのを忘れたのだろうか?

何となくもやもやは晴れないけれど、大したことではないだろうと思って、半日ぶりに目薬を差す。三滴、四滴とぽたぽたと落とす。乾ききった瞳が潤うのを感じる。生きている、心地がする。

髪を伸ばし自ら瞳を傷つけ、それを点眼薬でケアする、そんな愚行が。私は生きているのだと、実感させてくれる。痛みと快楽。

依存、に近い気持ちだった。

目薬を袋に戻し、かばんに突っ込む。

気分が上向きになったので、部屋に戻って英語の宿題でもしよう。そう思いながら階段を上っていく。

けれど、自室の扉を開いた瞬間、私はそんな思考はすっかり消え失せてしまった。

人間の子どもほどの大きさのある、グロテスクな昆虫。臀部が光っているから、蛍だろうか? 昆虫のくせに薄手の上着を羽織っているのが気味悪い。そいつが、私のベッドの上に、寝転がっていたのだ。

私は言葉を失って、呆然と扉の前に立ち尽くしてしまった。

ぎょろり、と昆虫がこちらを向く。私はびくん、と肩を震わせた。音の発信源は、のようだった。

「え、君、僕のことが見えるの?」

喋った! 昆虫が、喋った!

その声は、男の声だった。私は驚いて目をぱちくりとさせた。

「……見える、わ。あなた、誰?」

私が警戒しつつ問い返すと、巨大昆虫はベッドから身体を起こした。

「うーん。謎だ。実に不思議だ。奇っ怪だなあ」

昆虫男は腕を組んで首を傾げ、ぶつぶつと呟く。私はきちんと答えたのに昆虫男は私の質問そっちのけで、私は苛々し始めていた。ぴかぴかとお尻の光が瞬くのも、私には苦痛だった。

「僕らが見える人間だなんて、聞いたことがないぞ? それとも僕が無知なだけなのか? うーん、これはどうすべきなのだろうか」

「あの! あなた、誰? 私の質問に答えないと、警察を呼ぶわよ!」

私はかばんを投げつけたい衝動を必死に抑えてそう言った。教科書がいくつも入ったかばんはそれなりの重みがあり、万が一昆虫男にクリーンヒットして彼が他の小さな昆虫類と同様に潰れてしまったときの部屋の惨状を想像するとその衝動もどうにか止めることができた。

昆虫男は独り言をやめると、寝転がるのをやめ私のベッドに腰掛けた。

「警察を呼んでもいいけどね。たぶん、彼らには僕が見えないと思うから、君が変な人と思われるだけだから、やめておいた方がいい」

そんなものははったりだ、と思ったけれど、私ですら今目の前にいる彼の存在をまだ疑っているのに、警察が彼を見たところで相手にしてくれるとは到底思えなかった。

「あなた、なんなの? どうして私の部屋にいるの?」

「うーん。僕もね、どう説明したらいいのか、困っているんだよ。……そうだ! ちょっと、外を見てくれないか?」

昆虫男は唐突にがばりと立ち上がって、私に近づいてきたかと思うと私の腕を掴んで窓に引っ張っていった。昆虫に触れられ背筋がぞっとしたが、それよりも細い前足で思い切り引かれたときの力強さにぎょっとして、抵抗することも忘れて窓の外を覗く。

普段は人通りのあまり多くない、平凡な住宅地の道路。そこに、奇妙な光景が広がっていた。

人間のようでいて、人間ではない異形。あるいは、いくつかの動物が混ざったようなキメラや、今私の部屋にいるみたいな、本来のサイズとは桁違いな大きさの巨大生物。そんな種々様々な化け物たちが、町中を当たり前のように闊歩しているのだ。

夏なのにコートを着込んでいる、首から上が道路標識な男。体長一メートルほどありそうな魚の腹のあたりから人間の足がにゅっと生えている化け物。なんとも形容しがたい、丸っこい一つ目の謎生物の群れ。空を舞う巨大コウモリ。

その他、多数。

とんでもない光景に絶句している私に蛍男がぺらぺらと話すには、世界中にはこうした異形の生物が無数に生きていて、けれどそれは人間には認知できないものだということ。それを良いことに、蛍男や他の化け物たちは人間の建てた家などで勝手に暮らしていることが多いということ。今私がこうして蛍男が見えているのは異例であるということ。

「……というわけなんだけど。どう? 理解してもらえた?」

「全っ然。あなたの言い分は分かったけど、納得がいかないし、信じられないわ」

驚きの連続で、頭がついてこなかった。心臓がばくばくと鳴っていてうるさい。軽いめまいがするから、私は窓から離れてふらふらとベッドに倒れ込んだ。

「何が納得いかないの?」

「もしもあなたの言うような目に見えない生物がたくさんいたとして、それでもあれだけたくさん町中にいたら人間はみんなぶつかってしまうわ。見えない壁があちこちにあるなんて、すぐに怪奇現象だと話題になるはずよ」

手のひらで顔を覆い、視界を塞ぐ。今は視覚からの情報をシャットアウトしたかった。

「ああ、それだから人間というものはどうしようもないんだ。人間の常識が世界の常識だと思っている。でもそれこそが人間の人間らしさだと僕は思うね」

「……は? どういうこと?」

「人間は知覚できないものも認知できる、頭のいい種族だ。だからこそ気づかない。認知してなくても、そこに在るなら知覚できると思っている。それが誤りだと知らない。……つまりね、人間は、自分たちの認知したものしか知覚できないんだよ。僕らのような、人間が実在するはずないと思っているものを、人間は見ることも触れることもできない。そういう風に人間の体はできてる。そのことに君たちは、気づいてすらいないけれどね」

私が再び噛みつくより早く、昆虫男が「お、ちょうどいいのがいるよ。ほら、あれを見て」と手招きをしてきた。

寝転がったばかりの私は起きるのも億劫だったけれど、どうにか身体を起こし、ぼんやりと定まらない視界で巨大蛍の指さす方を見る。

うじゃうじゃといる化け物たち。その中に、一人、見知った顔を見つける。

「あ、お母さん」

家の近くの路地から、母が曲がってくるのが見えた。ビニール袋を両手から下げて、スーパーからの買い物帰りらしかった。

「あっ、危ない!」

母の向かいから、四つ足の化け物の群れがやってきていた。私は思わず声を上げていた、けれど。

「……あれ? どうして?」

「どう? 僕の言ったことが分かったでしょう?」

母と化け物の群れはぶつかることなく、母はまるで化け物たちなどいないという風にまっすぐと家の前まで来たのだった。

「ただいまぁ」

階下から母の声がする。私と化け物以外の存在が、これが夢でも幻覚でもないということを教えてくれるようだった。


それから、私と蛍男の奇妙な共生生活が始まった。

最初は出て行けと私は何度も言ったのだけれど、彼は頑なにここを出ようとはしなかった。

もう長い間住んでいるのだから出る気はない、と。その上、化け物たちを見たり触れたりできる私が興味深いのも理由の一つだ、なんて、なんとも身勝手な話だった。私の家なのに。

結局、寝るときは私のベッドではなくリビングのソファに行くことを条件に、彼は居候を続けることになった。

蛍男には名前がなかったので、私は彼を「ゲンジ」と呼ぶことにした。ゲンジホタルの、「ゲンジ」だ。

名付けをするなんて、なんだか大きなペットを飼うみたいだった。人の言葉を話す、大きな虫なんて、正直、勘弁してほしいのだけれど。


ゲンジは私が出かける先に度々ついてきた。

私は外では極力ゲンジを無視するように努めた。うっかり返事をしてしまって、周囲の人に奇怪な目で見られるのはごめんだった。

「なんだナルミ、こんな問題も解けないのか。僕が教えてあげよう」

「これはこの間授業でやった問題と同じものだろう。教科書の四十二ページを見るといいぞ」

授業中に背後からかかる声。耳を塞いでしまいたい気持ちをぐっと堪える。怪しまれる行動はしたくない。

ただでさえ苦痛な数学の授業がより憂鬱なものになってしまった。

「あのね、私はあなたのことが嫌いなの。それに、周りに人がいるところで話しかけるのもやめて。私が虚空に話しかける変な人だと思われるじゃない」

傘を閉じ、玄関の鍵を開けながら私はぼやいた。ゲンジは何をしないでも、雨に濡れることはなかった。

「それは相手の方が愚かなだけだろう。君は本来存在しているものが見えているだけで、君の方が世界をより正確に見えているんだから」

「正確に世界を見る必要なんてないわ」

正確さより、人と「同じ」であることが求められる社会なのだ。集団からあぶれた者は、異端のレッテルを貼られ、再び集団に戻ることはできないだろう。

私もその「異端」側の人間であるけれど、これ以上の悪いレッテルは望むものではない。異端は異端なりに、平和に暮らしたいのだから。

家に帰ると、私はリビングの床にかばんの中身をぶちまけて、テレビをつけた。適当なバラエティ番組にチャンネルを合わせ、床に散らばった中から数学の教科書とノートを見つけて取り出す。

リビングローテーブルに教科書とノートを広げ、シャーペンを手に、問題と睨めっこをする。

テストまであと二週間。物覚えの悪い私は、他の人よりも早くに勉強を始めないと、悲惨なことになる。

「ほうほう、数学の勉強か、関心だな。僕が分かりやすく解説してやろうか? ……なんだ、なんで無視するんだ。今は家に母親もいないし、他人に奇怪に見られることもないだろう。お、おい、テレビの音がうるさいぞ。なんで音量をあげるんだ。近所迷惑になるだろう、もっと音を下げろ、耳が痛いじゃないか」

「ゲンジ、耳なんてどこにあんの?」

お喋りの止まらないゲンジに私はつい言葉を返してしまった。ゲンジの一人喋りを妨害する意図でテレビをつけ、音量も大きくしてみたのだけれど……ほとんど無意味だったようだ。

「僕にも耳はあるぞ。耳というか、振動を感知するセンサーだな。だから、大音量を流し続けられると、センサーが馬鹿になってしまって、困る。やめてくれ」

「だったら、その止まらない口にチャックでもすることよ。……それから、そのぴかぴか光らせているそれも、やめて」

私はまた少しだけテレビの音量を上げて、それをBGMに勉強を再開した。ゲンジはそれから静かにソファに座りバラエティ番組を見ていたようだった。


「なんでずっとそこにいるの」

テストまであと三日に迫っていた。私は毎日のようにリビングで勉強をしている。

「テレビが見たいんだ」

「勝手に見ればいいでしょう」

「そうはいかない。君の母親がいる間は勝手にテレビの電源が入ったら驚かれるし、かといって彼女が見ている番組を一緒に見ようとは思えない。その点、君の見る番組はなかなか面白いな。興味深い」

私の母は最近九十年代のドラマにはまっていて、録画はそうしたいくつかのドラマで埋まっているし、ドラマの他はニュースや天気予報くらいしか見ない。確かに、退屈だと思うのも無理はないな、と思う。

「私、別にこの番組を見てるわけじゃないから。見たかったら、好きにチャンネル変えていいわよ」

床に散乱した教科書たちに埋もれていたリモコンを掘り出し、ゲンジに投げる。ゲンジは難なくそれを受け取ると、不思議そうに、尋ねてきた。

「いいのかい? 僕はてっきり、ナルミがこれを見ているんだと思っていたよ」

「別に、見てないわ」

テレビはあまり見ない。画面をずっとつけていると、目が疲れてしまうから。テレビの光は、私には刺激が強すぎる。

「じゃあどうしてテレビをつけていたんだ?」

「……静かなのは、好きじゃないのよ」

静寂は嫌いだった。綺麗な空間も。何もない、ということが、どうしようもなく嫌だった。

床に雑多に物を広げると心が安らぐし、テレビの雑音が心地よかった。ゲンジのお喋りは……少し、うるさすぎるけれど。本当は、無音よりは、ずっとマシだった。

「僕はわりとこの番組を気に入ってるよ」

それだけを言って、ゲンジは再びテレビに見入った。私は少し目が疲れたからと、ラベルのない目薬を両目に点した。


「今日からテストだから、しばらく学校にはついてこないでよ」

朝、いつものように玄関先までついてきたゲンジに、釘を刺す。

「なんだ、せっかくついて行ってこっそり回答を教えてあげようと思っていたのに」

「余計なお世話!」

ゲンジがおどけた仕草をしてきたので、私はゲンジを軽く突き押して、玄関の扉を素早く閉めた。

ゲンジは勝手気ままな居候だけれど、家人に存在を悟られることは避けたいらしく、私や家族の後ろについて家を出る他はほとんど家で大人しくしているらしかった。

だから、扉さえ閉めてしまえば、ゲンジが学校についてくることはほとんど心配ないのだった。

私はどれくらいかぶりに一人で学校へ向かった。数週間前まではそれが日常であったというのに、なんだか物足りない気持ちだった。

一瞬、ゲンジなんて本当は存在していなくて、全て私の妄想と幻想の産物だったのかもしれない、と思いもした。けれど、少し顔を上げて見ればそこら中に奇形生物がうようよとしていて、それが私の心に平穏を与えるのだった。


期末テストが終わり、週も梅雨も明け、空は大嫌いな晴天だった。

「今日はついて行ってもいい?」

「……もう、テストはないけど」

でも来るな、とは言わなかった。ゲンジは「じゃあ行こう!」と上機嫌に飛んでいた。

晴れの日は太陽がゲンジ以上にかんかんと照っていて、ゲンジの発光はあまり気にならない。それを分かっているのか、ゲンジは学校に向かう間ずっとお尻をぴかぴかと点灯させていた。

私は今日の天気と対照的に、どんよりとした面持ちだった。今日から、先週の期末テストの返却が始まる。しかも、一限目は一番嫌いな数学だった。

「今日はテストの結果が返ってくるんだろう? ナルミはあれだけ勉強していたんだし、きっと良い点数が取れているはずだ。楽しみだなあ、ナルミ」

「バッ……!」

人の気も知らないで呑気にプレッシャーをかけてくるゲンジに、私は思いきり「馬鹿」と叫びそうになる。寸でのところではっと気づき、慌てて両手で自分の口を塞いだ。

いけない、いけない。一週間ぶりにゲンジがついてくるものだから、気を緩めてしまっていた。深呼吸をして、落ち着きを取り戻す。

家の外では、口を利かない。反応もしない。周囲に怪しまれるようなことは、あってはいけない。

ゲンジのペースに飲まれそうだったので、私は歩調を早めて、ゲンジを置き去りにして学校に向かった。


「どうだった?」

テストの答案が先生から返されると、ゲンジが無音で飛びながら、ぐぐっと顔を近づけて点数を覗いてきた。

私は素早く、点数の書かれた部分を折って隠す。

「なんで隠すのさ。これだけ正答してるのだから、隠すような点数じゃないだろう?」

ゲンジは諦めが悪く、私の点数を見ようとしてくる。私はこれ以上抵抗をするとクラスメイトに怪しまれてしまうから、しぶしぶ点数を見せた。

「七十二点! すごいじゃないか。今までで一番の出来だろう」

ゲンジはいつも以上にお尻を光らせ、まるで自分のことのようにはしゃいで喜んだ。

私はまさかこんな風に喜ばれるとは思っておらず、完全に不意打ちだった。

(馬鹿にされるかと思った)

細い前足で頭を撫でられる。顔が熱を持ち、赤くなるのが分かった。下手に振り払うこともできず、ただ俯いてじっと恥ずかしさに耐えるしかできなかった。

こんなことならいっそ、いつもみたいに馬鹿にしてくれた方が良かったのに。


期末テストは全体的に成績が上がっており、ゲンジは私より嬉しそうだった。両親にも褒められ、私も少し嬉しくなった。

「僕が教えてあげたおかげだな。うん」

「あんたはテレビ見てただけでしょう」

喜びが一周したのか、今度は何故か得意げになりだしたゲンジを、私は軽く小突いた。

「教えようと言ったのに、断ったのはナルミだ」

僕が教えれば学年トップだって狙えたんだと自信満々なゲンジに、

「ふぅん。じゃあ、次のテストは教えてもらおっかな」

やれるもんなら、と私は挑発し返した。


期末試験が終わってしまえば、夏休みはもう目前だった。インドア派……というよりは引きこもりがちである私は、夏休みは当然、クーラーの効いた自宅で快適な引きこもり生活を過ごすつもりだった。暑い夏に、学校へ行かなくて良いというのは、幸せなことだ。

「あんたが、蝉の化け物じゃなくて良かった」

リビングでさして興味もないドラマを流しながら、私はテストの復習をしていた。

「そもそも僕は、蛍ではないんだからな。たまたま、蛍と呼ばれる動物と形態が近しいだけだ」

「はいはい」

今よりうるさかったら、困る。そう笑うと、ゲンジは少し不服そうだった。けれどそう言いながら、ゲンジのお尻は相変わらずぴかぴか光っているから、おかしかった。

最近はゲンジの光に慣れたのか、光っていてもさして気にならなくなっていた。

「……あ、目薬、なくなりそう」

梅雨前にもらった目薬は、そろそろ二本目が切れそうになっていた。暑さがピークに達する前に、またもらいに行かないといけないな、と思う。

「前髪、切ったらいいんじゃないか?」

「嫌よ」

「だって邪魔だろう」

「邪魔だけど必要だわ」

「僕はそうは思わないな」

しつこいな、と私は少し苛々した。ゲンジはいつもしつこくうるさいけれど、今までこんなに深入りはしてこなかったのに。

「私は今のままでいいの。このままでいいの」

「若いうちはいいかもしれない。けれどこの先、これ以上目を傷つけては、視力の低下どころか、下手をすると失明しかねない」

「だからなんだって言うの。ゲンジには、関係ないでしょう」

「だって、その方が可愛いのに」

私はかっとなって、手元にあったペットボトルの水を投げつけた。ゲンジは避けなかった。

ペットボトルから飛び出した水は勢いよくゲンジに降りかかり、ゲンジの足下に染みをつくった。

「あんたに、私の何が分かるっていうの!」

私は怒鳴って、零した水も散らかした勉強道具もそのままに、二階の自室へ上がって勢いよく扉を閉めた。

ゲンジの言葉に、私は無性にむかむかしていた。

(何も知らないくせに)

何も知らないくせに。その言葉ばかりが、私の頭の中をぐるぐると駆け巡っていた。

夕方、母親が「成美、ご飯できたわよ」と階下から呼ぶ声で目が覚めた。いつの間にか眠ってしまっていたようだった。

勉強机に置かれた鏡を覗いて、目が泣き腫らしていないのを確認する。……泣き腫らしていても、前髪に隠れて見られることはないだろうけれど。

一階へ下りると、ゲンジの姿はなかった。どこへ行ったのかは気になったけれど、わざわざ探す気分にはなれなかった。

夕ご飯はカレーで、スパイスが効いていて少し涙目になった。


終業式の帰り、私は一人で眼科に寄り、目薬をもらってきた。新しくもらってきた目薬にはきちんとラベルが貼られていた。

「ただいま」

家には誰もいなかった。父は仕事、母はパートに出ている時間だった。それでもそう言ってしまうのは、返事を期待したからだった。

ゲンジはあれから、姿を見ていない。よその化け物たちは見かけるから、また見えなくなってしまったというわけではないようだった。だから多分、家出だった。

探そうにもあてはない。出会った始めは出て行ってほしいとばかり思っていたのに、この二か月のうちに、気付けば心を許すようになっていた。

(……あんなやつ、別に)

いなくなっても、寂しくなんてない。そう自分に言い聞かせる。ぎゅっと胸を締め付けられるこの気持ちの正体なんて、知らない。

そう思うのに。どうして私は、毎晩枕を濡らしているのだろう。


蝉が騒々しく鳴いている。私はクーラーをがんがん効かせたリビングで、相変わらず勉強道具を散らかしながらテレビをつけながら、夏休みの宿題をしていた。

この夏新しく買った数学の参考書が分かりやすくて、以前ほど数学に対する嫌悪感がなくなっていた。少しだけ、勉強が楽しいと思い始めていた。

夏休みの間、勉強をする度に思い出すのは、あのうるさかった蛍の化け物のことだった。しばらく外出をしないうちに、私は化け物たちが見えなくなっていた。

(別の新しい家に、住み替えたのかな)

私は彼に文句ばかりだったから、愛想を尽かされたんだろう。そもそもここは私の家であって彼の家ではないのだから、その表現は正しくないけれど。

静かな部屋での勉強は、集中力が持続できそうになかった。私はかばんに最低限の荷物だけをしまい、家を出た。


夕方家に帰ると、キッチンから肉の焼けるにおいがした。

「ただいま」

「おかえりなさい。もうすぐ、できるわよ」

キッチンから声がかかる。姿は見えないけれど、母の声だった。

「……ごめん、お母さん。晩ご飯、いらない。食べたくない」

私はそれだけを言って、母の「どうして?」という問いから逃げるように自室へ入る。叩きつけるようにかばんを下ろして、その中から目薬を引っ張りだした。

私は怒っていた。今にも大声を上げたいくらいだった。

私は眼鏡を外し、右目に一滴、目薬をさした。

「やっぱり、いたんだ」

私の学習椅子に、ゲンジが、座っているのがぼんやりと見えた。

「……どうして、僕が見えるんだ」

ゲンジの声はとても悲しそうだった。私は手に持った目薬をゲンジに見せる。

ラベルのついていないその容器は、空になっていた。さっきのが最後の一滴だった。

「……残していたのか」

「たまたま残っていただけ。そもそも、本当にこれが原因だったなんて確証は、なかったわ」

片目にさしただけでは効果は薄くなっていしまうようで、ゲンジの姿をはっきりと捉えることはできない。それでも、目の前にいるそれが、いなくなったはずの彼だと、私には分かっていた。

「そこまでして、僕に、なんの用? まだ何か、言い足りないことでもあったの?」

「ええ、そうよ」

ゲンジの顔はおぼろげで、彼が今どんな表情なのか、私には分からない。私に分かるのは、彼の悲しげな声色と、いつもと変わらず点滅するその光だけだった。

「どうして突然消えたの?」

「君はずっと、僕を疎んでいただろう」

「じゃあ何故、戻ってきたの?」

「それは、ここがずっと、僕の家だったから」

「あんたがそうまでしてこの家に……いえ、この家の、私の部屋に住み続けるのは、どうして? ゲンジ、答えなさい!」

私が詰め寄ると、ゲンジは「そ、それは……」と歯切れ悪く、言葉を濁す。

「今日、図書館へ行ってきたわ。昆虫図鑑を読んだの。もちろん、蛍の項目よ」

ゲンジはじっと動かない。私はゲンジが今どんな表情で私の言葉を聞いているのか知りたくてたまらなかった。

「図鑑に書いてあったわ。成虫の蛍が光るのは、求愛行動、あるいは、コミュニケーション行動のため。……そうね?」

その問いに、ゲンジは黙りこんで、答えなかった。

そう、答えなかったのだ。そしてそれこそが、答えだった。

ゲンジは、蛍ではない。そう言ったのはゲンジ自身だった。昆虫とは別の種族なのだと。あのときのように、もう一度、それを言えばいいはずだった。いつものように流暢に言葉を返せばよかったのに。

沈黙は、肯定だった。

そして、光り続けるそのお尻が、何より雄弁に語っているようだった。

「君に、何が分かるのかと言われたとき、気付いたんだ。君は僕のことを知らないんだって。僕がいつからここにいて、いつから……君のことを、見ていたかって。気持ち悪いと思われるかもしれないけれど、僕はずっと、君を見ていた。ずっとここにいた。君がこの家に遊びに来た友人になじられて、ショックを受けたときも。それから光を拒絶して生きるようになったことも、全部、見ていたんだ」

ゲンジが語りだしたことは、私にとって、衝撃だった。見られていたんだ。私の、古い古い、傷。目に見えない言葉のナイフで刺された、その瞬間を。

「君が初めて僕を見つけたあの日、僕は死ぬほど嬉しかった。こんなことがあるのかって、舞い上がったんだ。……それで、その日、僕は君の友達になることに決めた」

目薬のことは、最初から気づいていたのだと、ゲンジは言った。あの目薬が私とゲンジを繋いでいるということ。あれが尽きれば、私は再びゲンジが見えなくなってしまうことも。

「知っていて、どうして、教えてくれなかったの」

「教えたところで、同じものが手に入るわけじゃない。どの道、僕らの時間は有限だった。だから僕は、ほんの少しの間だけ、ナルミを元気づけてあげたかったんだよ。短い間だけでも、ナルミの友達として、一緒にいたかった」

「だから、黙って去ったの? 私のことが好きだって、言わずに、逃げたの?」

声がわななく。いろんな思いと感情がぐちゃぐちゃとないまぜになって、怒っているのか、悲しいのか、分からない。涙だけは絶対に見せまいと、きゅっと口を一文字に結ぶ。

「……君はもっと、賢い人かと思っていた。考えるまでもないことじゃないか。僕らの時間は、夏より短い。種族だって違う。僕は君が言うように、化け物でしかない。……こんな欲望、願うことさえ、おこがましいことだ」

その言葉に、私はいよいよ、ゲンジの服の襟に掴みかかった。

「あんた、どこまで勝手なの。私の気持ちも知らないで。知ろうともしないで。あんたが言わないなら私が言うわ。……私、ゲンジが好き。種族も時間も関係ないわ。ゲンジ、あんたが、私の初恋よ」

酷い告白だった。自分よりも一回り以上小さい相手の胸倉を掴んで、まるで喧嘩をするみたいに、怒りに任せて告白をした。

ゲンジはおたおたともがいていた。

「……君は本当に、愚かだ」

「なんとでも言って。ただし、この期に及んで、ノーなんて返事、しないでよね」

ああそうだ、と私は言葉を続ける。

「図書館の帰りに、私、髪を切ったの。どう? 似合うでしょう?」

ゲンジはもごもごと言葉を詰まらせた。お尻がウルトラマンのカラータイマーのようにピンチを知らせているようだった。

長く伸ばした髪を前も後ろも短く切ってしまった私には光を遮るものは何もないけれど、そんなものはもう、怖くなかった。

好きな人の放つ、光なのだから。

しばしの沈黙の後、ゲンジは覚悟を決めたように深呼吸をひとつ。

「……だから僕は、切った方がいいって言ったんだ」

その言葉だけで、私には十分だった。襟を掴んでいた腕をそのままゲンジの首に回す。小さな身体は、けれど私を精一杯受け止めてくれた。

夏の終わり、短い夜だった。


End.



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