14 人間だから
「ま、待ってくれぇー!」
最後尾を走る坂之上達……ではなく、厳密に一番後ろを走っているのは彼らではなかった。
ヘルシング教官率いる逃走兵達の最後尾を走るのは、兵士でも何でもない中年男性だった。
白いシャツの下腹部は膨らんでいる。そのでっぷり太った腹ごと、サスペンダーでズボンを吊るしているようなものだ。
明らかに運動不足のその中年は、毛根が後退して広くなった額に、大粒の汗を浮かべていた。
自身の傷も負傷した仲間も抱えて走る訓練兵達に、その男性は追いつけない。既にカラカラに渇いた喉から、それでも必死に怒りを振り絞る。
「こ、この俺を誰だと思っている……! 魔道機甲兵団設立の立役者、『川端家』に名を連ねる者だぞ……! この俺に何かあったら、本家が黙っては……!」
何事かを主張する中年に、坂之上は振り向いて視線を向ける。
しかし坂之上以外の誰も、あの男のことを気にかけている様子はなかった。
「無視しとけよ坂之上。アイツは殺人鬼共が襲撃してきた時、一人で地下シェルターに逃げ込んだような男だ。アイツが内側から鍵をかけたせいで、多くの人間が避難できなかった……!」
エイジの言葉には怒りだけでない、もっと激しい感情が込められていた。それは坂之上へ悪態を吐く時とはまた違う、いわば明確な『憎しみ』が込められていた。
「……それに川端家の血を引くとは言え、分家も分家よ。家柄だけで地位を得て、実力も何もないんだから……」
舞姫すらも、あの中年のことを快く思っていないようだ。三四郎もアリスも同じ感情なのだろう。
普段からの素行に加え、今回の騒動で自分だけ助かろうとした浅ましさ。そんな彼の実態を目の当たりにして、減速する者などいなかった。
「おのれ……! 支部に辿り着いたら、貴様ら全員処罰してやる……! 臆病で腰抜けの敗北主義者共め! 貴様らの白い軍服は『いつでも死体になって良い』という、決死の覚悟の現れだろうが! 死に装束すら着こなせん者など、魔道機甲兵団には……!」
「よく喋るぜあのオッサン」
ふと、坂之上は『声』を聞いた。それは中年男性の暴言ではない。人外の、嫌悪すべき呻き声だった。
「グールです……!」
坂之上の背に乗せられ、アリスが後方を視認する。
ここは元より人間のいなくなったグールタウン。これだけの人間が行軍していれば、気配を察知したグール達が自然と集まってくるだろう。
「全員急げ! 速やかにここから離脱する!」
ヘルシング教官の指示の下、負傷した訓練兵達は速度を上げる。坂之上達も余力を振り絞って逃げる。
しかしここで、恐怖に耐性のない人間が、躓いてしまう。
「う、うわぁッ!」
情けない声を上げ、太った中年男性が何かに足を取られ横転した。追いかけてくる後方のグールにばかり捉われていたからだろう。
そして男性は気付いた。己の足にぶつかった障害物に。
「ひ、ひあああああああッッ!」
それは死体だった。頭部がグチャグチャに潰れ、右手がその手首から離れている。しかも切断された風でもなく、何か膨大なパワーで押し潰されたかのように。
訓練兵達はこの死体を難なく飛び越えていった。しかし訓練も何も受けていない中年は躓いてしまった。
後方からはグール達が追ってきている。逃げなければ。だが、腰が抜けて立てない。
「だっ、誰か……! 助けてくれぇぇぇ! こんな所で、死にたくない!!」
その声に反応して、廃墟の影から新たなグール達が出現する。緩慢な、しかし明確な足取りで、立ち上がることすらできない中年に歩み寄る。
距離はもはや数メートル。もうじき、その脂肪だらけの肉体は亡者達のエサとなってしまうだろう。内臓も血液も骨も、全てグール達の腹の中に納まってしまう。
「あっ……ひぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁッッ!!!」
――それを許す、『流血鬼』ではなかった。
中年に手をかけようとしたグールの頭部を、飛び蹴りで粉砕する。
首なしになったグールは三歩よろめいた後に道路に倒れ、その亡骸にすらグールは群がる。
「なっ……何してんだよ坂之上!」
エイジが叫ぶ。先頭集団はどんどん離れて行ってしまっているのに、この状況で引き返すなど。それも、最低の行いをした男を助けるために。
「危ないよ坂之上君!」
三四郎も静止しようとする。それに、坂之上の背にはアリスも抱えられているのだ。彼一人だけの命ではない。無茶は許されないはずだ。
だが坂之上の眼鏡の奥の瞳は、微塵も揺らいでなかった。
「人は助ける。化け物は殺す。それが俺だ。どれほどの悪人だろうが、どれほどの聖人だろうが関係ない。人間が、まだそこで生きているなら……。俺はその命を繋ぎ止める……!」
呆れるほどの決意。行動理念。中年を助けたのはただ、彼が人間だから。たったそれだけの理由で、坂之上は脇目も振らずに駆け出したのだ。
「……そうだと思ったわ、貴方なら……!」
「オイ!? 舞姫!」
驚愕するエイジの声を振り切り、舞姫もまた坂之上の下へ向かう。普段の彼女を知る者からすれば、信じられない行動だろう。
「あ、アリスちゃんを危険な目には……!」
震える足と声で、三四郎もまた舞姫の背を追う。
エイジは茫然としたまま止めることもできず、やがて心底呆れたように頭を掻き毟った。
「あーもう……! バカヤロウしかしねぇのかよチクショウ!」
そしてまた、エイジも踵を返した。行軍中の勝手な行動。支部に戻ったら、全員ヘルシング教官から雷を落とされることだろう。
そのためにも、先生にちゃんと怒られるためにも、誰一人として死なせるわけにはいかない。
「たたた助けてくれぇ……! 俺を守ってくれるなら、いくらでも褒美を……!」
「黙れ。グールを集めたくなかったら、大人しくしてろ」
縋ってくる中年に、坂之上は冷たく吐き捨てる。人間を助ける気持ちには変わりない。迷いもない。しかし、その相手が坂之上にとって好ましいかどうかは別問題だ。
助けに来たはずの男から冷淡にされ、呆然とする中年。そんな彼の四方を取り囲むように、坂之上、舞姫、三四郎、エイジが立つ。
その折に、舞姫は弓矢を地面に置いた。彼女の武器であるはずの機械弓を。
どうしたのか――。坂之上がそう問いただすよりも先に、舞姫は剣先スコップを手に取った。頭部と右手首が潰された死体から、拝借したのだ。
「グールを倒す手段は頭部及び脊椎の破壊……。それで活動は停止する。私の弓より、直接殴打した方が早いわ」
「試し斬りの時間が来たようだな……! 斬殺水仙の刀と俺のチェーンソーで、ゾンビ共の首を跳ね飛ばしてやるぜ!」
「エイジ君も、舞姫さんも……。物騒だなぁ」
そう言いつつ三四郎さえも、鉄腕でガス灯を引っこ抜き、へし折り、その棒を鈍器として構える。
彼にとってすれば、至近距離で殴るのが怖いため鉄棒を持ったに過ぎない。
だが坂之上から見ても、充分物騒だ。当然、賞賛の気持ちしかない。笑うしかない。
坂之上もまた十字架を巨大化させ、その重量でグールを叩き潰す準備をする。
十字架に日本刀、チェーンソー、スコップ、そしてただの鉄棒。
まるで、いつかの日か見たつまらないB級映画のようだった。
ただ今の坂之上は、どんなアクション映画を観る時よりも高揚していた。
「丸太か角材でもあれば最高なんだがな……!」
続々と集まるグール。
命を無くしそれでも蠢く者達に、今日何度目かの危機に、彼らは再び立ち向かう。
「皆武器は持ったな!! 行くぞォ!!」
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