スニーカーを履いた猫

雨後の筍

ありがとう、そして、さよなら

 ザァ、と風吹けば草々は身を捩るかのごとく一斉に靡く。

 森の木々の間を抜けてきたその風は一体どこから来てどこへ行くのか、草木を揺らすだけで風は何も語らない。

 満天の星々、煌く彼らにも思うことはあるのだろうか、夜にしか煌めけない彼らの悲哀すらも夜に溶けて。

 月は優しく輝いて、でもそれはなにかを照らし出すことはできなくて、彼女はただ見ているだけ。

 虫たちも騒いでいる。彼らの生は短く、その愛は情熱的に、されど刹那的に。

 月明かりに照らされて、風に草木は揺らめいて、虫の声はさざめいて、これだけのモノがあって今までの自分ならきっとただ浸れていたはずなのに、今となってはそれに埋もれることもできなくて。

 彼方に見える屋敷の窓から漏れる光はとても明るく、暖かさを感じる。でも、今の自分はそこに混ざることもできず寒風に吹かれ一人。

 彼らは楽しくやっているだろうか。いや、疑問を挟む意味もないだろう。楽しいに違いない。

 彼らの笑顔を思い浮かべて、一緒に笑い合えていた頃を思い出して、ポロリと涙が零れた。

 涙は流れ、抱えた膝の上の愛器へと。慌てて雫から愛器を避ければ膝には冷たい感触が。

 それを認識してしまえば、もう我慢することはできなかった。

 目頭は熱くなることをやめず、涙は枯れることを知らず。


 どこで間違ってしまったのだろう、何を間違えてしまったのだろう。

 本当に間違ってしまったのだろうか、きっとなにかの間違いなんじゃないか。


 涙を流し、誰に問うこともできないで。

 自問自答を繰り返し、風も星も虫も、誰も答えてはくれないで。


 きっと何も間違っていないのだろう、これが正しい形だったのであろう。

 こんなことなら出会わなければよかった、それでも出会えてよかった。


 頭の中ではそう思い込もうとしている。

 でも納得してしまったら、それで全てが終わってしまいそうで、本当にこの世に一人ぼっちなんじゃないかって。

 認めたくなんてない。認めなくちゃならない。認めざるを得ない。……認めなくたって彼には関係ない。

 彼のことを信じてきたはずだった、彼も私を信じてきてくれたはずだった。

 今となっては過去の幻想、幻像、都合のいい妄想。

 彼は……私をどう思っていたのだろうか。

 わからない、わかりたくない、それでもわかりたい。

 だからこの曲を奏でよう。

 諦めと寂寥と、それでもなお感謝をのせて、奏でよう。

 ありったけのありがとうと、つたわるほどのさみしさと、とどいてほしいこの想いを。

 この風にのせて、謳うのだ。どうか、あなたのもとまで……。


「響け、響け、響け、彼の心の奥底まで。届け、届け、届け、この救われることのない心よ。私は終わりを受け入れるから……お願いだから、きかないで」


 もう私に残っているのはこの二つだけだから……。


 流れ出る音色と足を包む古ぼけたスニーカー。

 草原に一人浮くその姿は寂しげで、儚げで、幻想的で……孤独だった。

 これはとある子猫の悲愛の小夜曲。






 彼と出会ったのは偶然だった。

 いつもどおりの日課のつもりで近くの泉に向かった。そこで出会った。

 本当は偶然じゃなかったのかもしれない。

 だってあの日は朝からなんだかモヤモヤするものを感じていたし、森だってザワついていた。

 きっと誰もがわかってたんだ。あの日きっとあの場所で何かが起こるって。

 でも、あの時の私にとっては偶然で、本当に運命のような出会いだった。

 倒れてる彼を家に連れて行ったのも、甲斐甲斐しく世話をしたのだって、なんでか彼を一目で気に入ってしまったからだ。

 今思うと不思議なことだ。お母さん以外の生き物には警戒心が先立っていたはずなのに、彼には全然そんなこと考えもしなかった。

 助けなきゃって、どうにかしなきゃって、そればっかり考えていた。


 幸い彼はお腹を空かせていたくらいで特に怪我も病気もなかったけれど、介抱した私に向けてくれた感謝の笑顔は今でもまだ覚えている。




 彼とはしばらく私の家で二人で暮らした。

 拾ってくれたお礼がしたいと積極的に彼は力仕事をやってくれたし、おかげで日課をを早く終わらせて彼と話し合う時間もそこそこあった。

 彼は自分をこの世界の出身ではないと語った。

 魔法じゃなくてカガクってものが発達した世界だって言ってた。

 カガクってのはよくわからなかったけど、魔法みたいな不思議な力がなくても似たようなことができる技術なんだって。実は今でもあんまりよくわかってない。

 ただ、彼はなんでか魔法にも詳しくてこの人は賢いすごい人なんだなと思った覚えはある。

 その時私が思ったことが彼の行く道を決めてしまったわけだし、その先が今この状況なのだから、自業自得というやつなのだろう。

 あの頃の二人だけの幸せな暮らしを夢に見る度に思う。

 なぜあのぬるま湯に浸かったような幸せな日々を捨ててしまったのだろうか、あれより素晴らしいものなど本当にあったのだろうか、それなのになんで……望んで進んだ道の果ての私は笑えていないのか。

 彼のためによかれと思ってやったことだった。彼とならなんでもできる気がした。実際なんだってできた。でも、それが私の救いにはならなかった。


 彼は望んだものを手に入れることができた。それは私に出会う前から望んでいたことだったのだろう。それを知らなかった……教えてもらえなかった私が悪かったのだろう。




 彼を冒険の旅に連れ出したのは私だった。

 彼の知識も、偶然知ってしまった魔法も、こんな森の中で腐らせるにはもったいなかった。

 彼の力はもっと広い世界でこそ活かされるべきだと思ったし、彼自身も満更じゃないみたいだった。

 実際あまり表には出さないようにしていたみたいだったけど、彼も森の中での生活には少し飽きが見えてきていたし。

 だったら二人で旅に出よう。そして満足出来るだけ世界を回ったらここに帰ってきて二人で思い出話でも語りながら過ごそうか、なんて。


 昔の私たちは本当に無邪気だった。それは気づかないふりをしていた私たちの責任だったのだろうか。




 仲間ができたのは彼のおかげだ。

 少しは旅慣れてある村の酒場で二人だけの乾杯をしていた時の話だ。

 その日の依頼がうまくいったからっていつもより酒のすすみの早かった彼は、私だけじゃ飽き足らず、隣のテーブルで静かに食事をしていた女の娘にまで声をかけ始めたのだ。

 もちろんこっぴどく叱り飛ばしはしたけれど、なんだかんだでその娘もとりなしてくれて、迷惑かけたはずなのに仲良くしてくれて。

 そのあとまぁいろいろあったけれど、彼女も一緒に旅をすることになった。

 彼女が彼に惚れてたのは傍から見ても明らかだったけれど、それもまたいいんじゃないかなって。


 あそこで彼を私だけにつなぎ止めていられれば、きっと何かが変わっていたのだろう。二人だけの旅をいつまでも続けられたのだろう。




 彼はいつからか英雄になっていた。

 各地を旅して色々な事件を解決してきた私たちは割と顔の広い英雄となっていた。

 その頃には仲間も大分揃っていて、実際この時よりも後に参加してきたのは二人だけだった。

 国のお偉方は民草から成り上がった私たちのことをあまりよくは思っていなかったけど、おはなしすればわかってくれた。

 英雄として更なる活躍をしていく彼と仲間たちは輝いていたし、それを見ている私も誇らしくて仕方なかった。


 でもそんなしがらみを背負う必要はあったのだろうか。まだこの時の彼はあの家に戻ることを覚えていてくれたのだろうか。




 彼は結局魔王すらも倒してみせた。

 確かに辛く苦しい戦いではあったけれど、終わってみればあっさりとしたものだった。

 そこには彼らの決意とほんのちょびっとの私の助力があったわけだけど、結論的に言ってしまえば私達の仲間内では犠牲も出ず、比較的穏当にその最後の戦いは終わったわけだ。

 きっと民衆に称賛されるのだろう。彼らは互いに抱き合い押しおい喜び合っていた。

 そのときふと目の合った彼の表情は今でも覚えている。


 彼は目だけは笑っていなかった。あの時、決定的に道が分かれてしまったのだろう。




 それでも彼は私を愛していた。

 魔王を倒した勇者として彼とその仲間達は世界的にも讃えられていた。

 各国はこぞって彼を自国に引き入れたがったし、私達の国はさっさと彼に屋敷と爵位を渡してきた。

 私達もそれぞれが爵位をもらったけれど、やっぱりみんな彼についていって。

 結局旅をしないだけでいつもの仲間達でいつもどおりに騒がしくして。

 彼はまだ、私にも優しくしてくれていた。あの時見せた眼差しが嘘のように。

 それを周りの娘達は羨ましがったり囃したり、彼も満更じゃあなかったように見えたのに。

 それでもその時はやってきた。

 彼はずっと我慢していたのだ。

 もう何も感じ取れない相棒の姿に何を感じていたのだろう。私には経験がないから想像するしかできないのだけれど。

 誰が予想できたのだろう。きっと全ては上手く行くって。言い伝えなんて嘘っぱちだって思っていたのに。


 それでも彼との離別はある日唐突にやってきたのだ。






 草原に響き渡る朴訥とした笛の音色。

 穏やかで、安心するような子守唄。それでもそれは子に向けられるものでなく、愛する者への小夜曲セレナータ。

 ピロートークに女の唄う、男を男子へと戻す郷愁の響き。母に抱かれ眠る時を思い出させる……私・達・の・持・つ・魔・法・。

 響いて響いて、きっと今頃あの屋敷まで届いているだろう。

 彼のもとへ、彼女たちのもとへと。

 本当は私だってこんなことしたくなかった。だってこれじゃ誰も報われない。

 でもそれでも、私にだって譲れないものはあった。

 彼を見つけ出したのは私なのだ。彼を導いたのも私だ。彼がここまで活躍できたのだって私がいたからだ。彼女たちに出会えたのは誰のおかげだと思っている。お前を国に認めさせるのにどれだけ苦労したと思っている。魔王だってどんなに力があってもお前らだけでは倒せなかった。

 なのに。なのになのになのになのになのになのになのになのになのに。

 なぜ私だけが捨てられる? なぜお前らは笑っている? 私ほど尽くしたものはいない。私がいなければ何もできなかっただろう。どうして、どうして私が報われない?

 おかしいだろう。理不尽だろう。そんなの間違っている。認められたものではない。

 だからって私がしようとしていることも間違っている。自業自得の果ての逆恨みだ。

 それでも、だからって、もう私はダメなのだ。

 一人じゃあ生きられない。彼なしじゃあ生きられない。もう……一人は嫌なのだ。

 せめてあの輪の中に私がいれば、私だって我慢できただろう。あぁ、仕方ない人だなぁって。全く私がしっかりしないとって。

 彼は女の娘が好きだから、仕方ないねって。みんないい娘たちだから、仕方ないねって。そりゃ私よりも優先しちゃうのも仕方ないよねって。

 私は、相棒で、一番気心が知れてて、どんな冒険も一緒で、だからこそ……冒険の終わった今私の居場所はない。

 彼女たちはいい娘だから彼を必死に止めようとしてくれた。でもね、私が気づいていないとでも思っていたのかな。

 あなたたちだって、私がいなくなったほうがいいって思ってるの、隠してたのかもしれないけど、知ってるよ?

 そりゃ当然だよね、彼女たちはみんな宝石みたいな美少女ばっかりで、大人も驚く才女ばっかりで、彼を誰よりも愛してるって思い込んでる娘ばっかりだったんだから。

 確かにあの娘達の中にも仲良くしていた娘達だっていた。でも、それ以上に常に彼女たちは競ってもいた。

 そんな中に最初から当たり前みたいに彼の隣にいる娘がいたら嫉妬もするだろう。どけて自分がそこに行きたいと思うことだろう。

 いい娘達ばっかりだったから、表に出すほどの娘はいなかった。だからって思っていなかったわけじゃない。誰もが心の奥底に抱えていたに決まっている。

 

 でもね、もうそんな醜い争いしなくていいんだ。

 私が全て片付けてあげる。

 主が幸せになったあと、猫は鼠を趣味でしか獲らなくなったそうだ。

 でも、猫が鼠を獲れなくなったわけじゃない。主が幸せになれたのは、いつだって猫のおかげだった。だったら……猫が趣味でしか鼠を獲らなくなるくらい報われるのが当然だよね?


 私達の、私の一族の魔法が辺りへと広がり、すべてが静まり返っていく。

 風の音以外の全てが静寂と笛の音に包まれたのを認識し、半ば無意識に曲を変える。

 曲にのせていた催眠魔法を別の魔法へと切り替える。

 確かに、彼の持ってる魔法はすごい。知識だってこの世界でも有数のものがあるだろう。剣の腕だって一流と言って遜色ない。

 仲間たちだって凄腕ばかりだ。並みの魔法ではどうこうすることはできやしないだろう。

 

 『でもこ・れ・ばかりは話が違う』


 相手がどんなに凄腕だって、たとえ世界を救った勇者だって、大国を滅ぼした魔王だって、国を死守した賢者だって、誰も私達の一族の魔法には逆らえない。

 この世界で、唯一精神に干渉することを許された、猫精霊たちの大魔法。

 稀代の詐欺師にお似合いの、自分のいいように世界を回すための大秘法。

 ズルだって知っていた。代償だって知っていた。でもそんなの嘘っぱちだって、実際彼は何も変わりないじゃないかって、ずっと思ってた、思い込んでた。

 本当は兆候はあったのだろう。きっと私が認めようとしないで、彼も気づかせないようにして、結局その先がこのすれ違いだったのだろう。

 

 まだ遠くからだけれど、足音が微かに聞こえてくる。待ち望んでいた、来て欲しくなかった彼の足音。

 逆らえないのは知っていた。それでも逆らって欲しかった。自分の思い通りにならないで欲しかった。

 だって、だってだってだって、これじゃあおかしいじゃないか。

 

 彼の姿が見えてくる。いつまで経っても変える気のなかった、出会った時と同じ服装。

 出会った時の彼はもう少し幼い顔つきをしていた気がする。長い旅の果てにその身に刻まれた数々の傷と、身につけなくては生き残れなかった逞しさと、その精悍な面差しはあの頃との違いを私に実感させる。

 その勇者にふさわしい姿に、また私は激情を覚える。どうして、どうしてこの魔法に逆らってくれなかったのかと、お前は勇者じゃなかったのかと。


 この激情のままに曲を変えようとして、踏みとどまる。

 ここで踏みとどまる意味などないだろうと、一気呵成にやってしまえと私が囁く。

 それでも、やはりこれはフェアじゃないと思うのだ。

 彼は間違ったことなど一度もしていない。わかっている。全て私の責任で、悪いとしたらこんな世界で、さもなくばこんな魔法を残した先祖なのだろう。

 それだってひどい責任転嫁で、背負うべきものを背負えなかったからこそこんな状況に陥っているんだと自覚もしている。

 でも、感情を支配しきれないのだ。彼だけじゃない私だって、抗えないのだ……。

 逡巡して一旦演奏を止める。

 よく止められたな、と我ながら驚くが、これが自然なのだともなんとなく思う。

 一泊おいて虫たちがさざめき始める。木々がざわめくことを思い出す。彼が正気を取り戻す。

 目の前にいる私を見て、彼の目に浮かんだそれは一体何だったのだろうか。決していい感情ではなかっただろうし、もしかしたらなんの感慨すらなかったのかもしれない。

 だから私は訊ねよう。今となっては何の意味もないことを。私が一番わかっていながらわかってあげられなかったことを。


「ねぇ、今更だって、もう遅いんだってわかってるんだ。でも、最後に一つだけ聞かせて欲しいの。貴方は……私のことを愛してくれていた?」


 今度こそ彼の目には侮蔑と悔恨の色が踊った。

 そうだろう、今となってはなんの好感情も抱けない、それでも相棒だったはずの女に問いかけられたのだ。心中複雑なのだろう。でもそれだって抗えなかった彼が悪いのだ。

 そう、彼は抗えなかったのだ。そんなこと許されるはずもないのに。


「あぁ、確かに愛していたとも。それが今更なんになるってんだ? 俺はお前を捨てたし、今更よりを取り戻す気もない。どうして俺がここにいるのかも、よくわからないが、お前がなにかしたんだろう? そんなことよりもこの状況に対する説明をお願いしたいところだ」


 声からも無関心が伝わって来る。

 彼にだって薄々わかっているんだろう。自分の感情が操作される気持ちは生憎私は味わったことがないが、とんでもなく違和感を感じるものだってことくらいわかる。

 愛していたはずだった。昨日はもっと愛せていた。だんだん愛情が減っていく。それだけじゃない、何も感じられなくなっていく。

 そんな恐怖に彼はどれだけ怯えたことだろう。そして、諦めてしまったのだろう。

 だって彼には自分を愛してくれる女たちがいるのだ。本当に愛していたはずの女を失ったって彼にはそれを埋める人たちがいた。

 結局それも悲劇だったのだろう。

 最後まで私たちは相棒で、どちらも心の内を知ってたはずなのに、愛し合っていたはずなのに、決定的に踏み込まなかったからこそ、彼は抗いきれなかった、諦めてしまった。

 苦悩したのだろう。それでも流れてしまった時は埋められなかったのだろう。何の感情も抱くことのできない女を相棒としておいておくことに我慢できなくなってしまったのだろう。

 彼だって理性では理解しているはずなのだ、それでもダメだったからこそ今の私たちがある。

 だったらそれは仕方ないことなのだ。彼は誰もが謳うほど強くなくて、やっぱりただの一人の人間でしかなくて、強いかもしれないけれど普通の男の子でしかなかったのだ。


「うん、ありがとう。それと、ごめんね? 貴方が疲れてしまったように、私も疲れてしまったの。きっと、二人であの家でいつまでも幸せに過ごしていればよかったのね。そんなことに今更気づいたって遅いっていうのにね」


 私がクスリと笑えば彼は動揺を隠しきれず、それでも彼だってもう一人前なのだ。覚悟を決めた顔をしている。

 きっとどうしてこんな状況にいるのか聞くまでもなくわかってはいたのだろう。冷静さを失わない。


「もう、終わってしまったんだ。原因は知らん。お前に感づかせないようにしていたのも確かだし、その結果がこれなのだから謝るべきなのだろう。だが、それにすら疑問を持ってしまうんだ。なぜお前に謝らなかればならない、と。俺は一体何を信じればいいと言うんだ?」


 覚悟を決めた、それでも寂しそうな顔。自分の一番大切な感情を書き換えられてしまった哀れな男。


「だから決めたんだ。これが何が原因だって構わない。俺が強さを求めたのが悪かったからかもしれない。この世界に来たのがそもそもの間違いだったのかもしれない。君と……出会わなければよかったのかもしれない」


 自分すら信じられなくなってしまった彼の顔は、昔私に泣きついてきた時の彼の顔と変わらなくて、それでも彼はもう一人で立つ大人の男なのだ。誰に甘えることもできなくて。


「なんだっていい、なってしまったものは仕方ない。俺が悪かったのなら謝ろう。誰かが原因ならそいつを殴り倒してやったって構わない。でも、これだけは決めたんだ」


 そうやって私に宣言する彼は、迷いながらも進んでいく彼の顔は。


「もう二度と後ろは振り返らないって。お前は俺の相棒だった。昔なら最高の相棒だったって誰にだって胸を張って言えただろう。あんなにおもしろおかしく、楽しく生きられたのは、お前のおかげだったんだろう」


 あの時、挫けそうになりながらも龍へと立ち向かった時の顔と寸分違わなくて。


「それでも、だからこそ、こうなってしまった今だからこそ、俺は胸を張って生きなくちゃならない。俺には責任を持ってやらなきゃいけない奴が何人もいる。あいつらをみんな放り出してお前との絆を取り戻すってのは、今の俺にはできない」


 昔の彼だったなら思い直してくれたのだろう。私のために、すべてを放り出してまた旅に出てくれたのだろう。

 わかっていたことだった。今の彼は勇者なのだ。私と二人あてもなく彷徨う冒険者ではないのだ。


「だから最後にこの一言でお前との関係は今度こそ終わりだ」


 あぁ、よかったのだろうか。これを聞いてしまったらきっと私はもう我を通せない。

 ここまできて、たったあと一曲奏でるだけで私は幸せになれるというのに、私はそれを捨てられてしまう。

 その確信がある。その一言は私に対する報いとして正当だと魂が叫んでいる。

 彼に出会えてよかったと、彼と旅ができてよかったと、彼を……愛せてよかったと、それで全て納得してしまえるとなんの根拠もなく信じられてしまう。


「ありがとう。俺はもうお前がいなくても立って歩いていけるよ」


 ずるいではないか。

 今更そんな笑顔を私に向けて。それは今の私じゃなくて昔の私に対して浮かべた笑みだったのだろう。

 それでも、彼の心には私との思い出が残っていて、きっと彼はそれを思い出して笑えるのだろう。

 そう思ってしまえば、彼との思い出が溢れ出して仕方ない。




 森の中で猪に追い掛け回されて慌てる彼を笑ったのはいつのことだったろうか。

 泉で水浴びをしていた私のところに呑気にやってきた彼を叩きのめしたこともあった。

 今では仲間の魔法使いの娘を酔っ払って口説いてしばいたこともあった気がする。

 魔物の群れと戦っていて背中合わせになった時のその暖かさを覚えている。

 魔王の配下に敗れて見逃されて悔しがっていた。その後本当は悔しがり足りなくて見張りをしながら一人泣いていたのを知っている。

 ひょんなことから間違って飲んでしまった惚れ薬で甘えに甘える私に満更でもない顔を浮かべていたことなんて忘れてしまいたかった。

 川で水遊びをしていた私達のところにやっぱりなに食わぬ顔で現れたこともあったっけ。

 龍に蹴散らされて全てを失いかけた夜に彼を慰めてあげたことは心に残っている。

 酒場でみんなで乾杯をしてドンチャン騒ぎしてあんな日々がもう懐かしい。


 そして、魔王戦の前日に愛情なんてもうかなりすり減ってしまっていただろうに私のところに来てれくたことはいつまでだって忘れやしない。 




 もういいのだろうか。

 彼は一人でも大丈夫だろうか。

 私の手助けはいらないのだろうか。

 もう、立派な勇者になれたのだろうか。

 だったら祝福してあげなければ。

 こんな呪いのようなことではなく、末代まで飾る祝福を。

 さぁ、奏でよう。

 今度こそ私の魂と、全てをかけて詠おう。

 

 流れ出す旋律は明るく、それはどこまでも響き渡り、澄んだそれに感じるのは、夏の青空に吹き渡る風のような爽快感と開放感。

 明るく楽しく、おもしろおかしく。

 彼らが全力で走ってきた道のりを辿るように。

 時には辛いこともあっただろう。泣きたいことだってあっただろう。それでも彼らは走り続けた。世の中悪いことばかりじゃないさって。そんなに捨てたもんじゃないさって。

 ほら君も感じるだろう? いつだって誰だってどんなときだって笑顔でいられる。そんな未来を目指して走り抜けた彼らの姿を。




 消えていく。

 目の前にいる彼は何事か慌てているけれど、別に何も不思議なことはない。

 この魔法は世界すら騙す大幻術。

 それでも限度だってあるわけで。

 そんなものを使い続けてきた私だってかなりの代償を払ってきた。

 ただ、ちょっとその代償が今回は高くつきすぎたってそれだけの話だ。

 体が光となって消えていく。

 それでも旋律を奏でる指と唇だけは残って欲しいものだ。

 こうやって冷静に思い返せるようになってみれば、私が求めていたものはいつだって彼が与えてくれた。

 親の愛情を失って一人だった私のところに彼はやってきてくれた。

 世界を見て回りたいという私に彼は付き合ってくれた。

 愛情に飢えた私に彼はいつだって優しくしてくれた。

 私がさみしくないように仲間をたくさん増やしてくれた。

 みんなが笑顔でいられる世界だって彼が実現してくれた。

 こんな私を愛してくれた。

 今だってそうだ。

 代償を払っていた術者の私の存在がこれだけ希薄になれば、そりゃ彼の感情だって戻ってくるだろう。

 大声で泣き喚いて私を止めようとする彼の手をひょいひょいと避けながら私は奏で続ける。

 それこそ今更だよって笑いながら。

 あぁ、彼が求めてくれる。立派になってもう一人でも大丈夫になった彼が。

 それはとてもとても魅力的なことだったけれど、もう手遅れなことでもあるんだよ。

 だから、私は刻み付ける。

 この私の存在をもってこの世界にひとつの物語を。

 誰もが知る勇者の誰も知らない英雄譚を。

 報われたって言ったって、それでも放置された分の恨みくらい仕返ししたって許されるよね? 女の娘の恨みは深いのです。

 だから、この世界に知らしめる。

 一人じゃ立つこともできなかった泣き虫な男の子の、それでも折れなかったその道を。

 みんなが笑顔でいられるこの世界を作った偉大な男の半生を。

 みんなにその情けなさを笑われるといい。みんなにその勇敢さを褒め讃えらればいい。

 そうやって、平和に生きていけばいい。

 これが私の最後の仕事。

 先頭に立って主を導いてきた猫の最後の仕事。

 本当は私のものにしたかった。

 実際私ならばそれだってできた。

 でも、それに意味がないことも知っていた。

 だったら、私が我慢すればすべてが丸く収まるならば、きっとそれが正解なのだろう。

 猫は貴族になった。そして趣味でしか鼠を獲らなくなったそうだ。

 でも彼が本当に望んでいたのはそんなことだったのだろうか?

 長靴を与えられた猫は、それで満足できたのだろうか。

 スニーカーを与えられた猫は満足できなかった。

 確かに長靴を与えられた猫のように貴族には叙された。でも猫が望んでいたのはそんなことではないのだ。

 彼はきっと主のもとで働きたかったに違いない。主を支えるのは自分だと自負を持っていたに違いない。

 私だってそうだ。彼を支えられるのは私だけだと思っていた。彼には私が必要だと思っていた。

 でも、長靴を履いた猫はきっと悟ったのだ。今の私のように。

 主はもう独り立ちしたのだと、自分がいなくてももう大丈夫なのだと。

 ならば最後に私のために、趣味のごとく私のために、この力を使っても許されるだろう。

 泣き腫らす彼には悪いけれど、それも一夜の夢みたいなものだから、忘れてくれると嬉しいな。

 もう体も消えそうだ。履いていたスニーカーが残るのは良心みたいなものかな。

 彼が最後に一言残したならば、私も最後に一言だけ遺そうかな。

 きっとこれだけは彼の心に残るから。


 ‘’バイバイ、私の愛した人。さよなら愛しい貴方。私はきっと幸せでした‘’






 その旋律は途切れることなく人々の心に届いていく。

 彼女の存在が失われた世界にあって彼女の存在を示す唯一つの記憶。

 あぁ、世界に響き渡れ、勇者とその相棒のスニーカーを履いた猫の物語よ。

 はばかることなく、全ての人に、ずっと記憶に残りますように。



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