第10話(前編)
「んー……」
羽柴茉莉花、悩んでいます。
「んー……」
とってもとっても悩んでいます。
「んー……」
何に対してこんなに悩んでいるのかと申しますと、
「こっち!」
「……やっと決まったか」
魅惑のスイーツ——ケーキです。
ショーケースに張りつき、中のカワイコちゃんたちを凝視すること5分。ようやく、私の悩みは解消された。
選ばれたのは、イチゴのタルトでした。
脳内トーナメントで決勝を戦ったショートケーキは、激闘のすえに敗れ去った。接戦だった(ちなみに朔哉さんは、大人の魅力たっぷりのガトーショコラを選択)。
一部始終、固唾を呑んで見守ってくれていた店員のお姉さん。ほっと胸を撫でおろした様子で、ふたつのケーキを丁寧に箱詰めし、紙袋へと収めてくれた。
出入り口で彼女からそれを受け取ると、私たちはこのスイーツ店を後にした。
待ちに待ったクリスマスイブ。
明後日から冬休みに突入する私は、レポート提出期限地獄に陥っていた。そこから這い上がってきたのは、つい昨日のこと。おかげで、彼とまともに会うのは、花ノ井で食事して以来、実におよそ10日ぶりだ。
この日は、昼前に家まで迎えにきてくれた彼と、そのまま創作フレンチレストランでランチをした。その後、ゆったりと街ブラデートを楽しみ、今に至る。
これから、場所を彼のマンションへと移し、夕食——チーズフォンデュ——を堪能するのだ。
このあとのディナーとデザートを想像し、ケーキ片手に心躍らせながら歩いていると、『転ぶなよ』と彼に釘を刺されてしまった。『はーい』と浮かれた声で返事をする。
大丈夫。何があっても、ケーキは死守してみせますとも。
白と青できらめく街路樹の横を、彼と並んで歩く。向かう先は、区営駐車場だ。
移動手段を、電車にするか車にするか迷った挙句、買い物した場合の荷物を考慮し、後者を選んだ。結局、かさばるものは何も買わなかったのだけど。
日曜日ということもあってか、街中は、見渡すかぎりカップルだらけだった。
今までの私なら、さほど興味もなかったので、カップルがケンカをしていようがイチャコラしていようが、全然気にならなかった。が、今年はやけに彼らの姿が目に留まる。
手を繋ぎ、幸せそうな彼氏と彼女。
待ち合わせ時間に遅れたのだろうか? 怒る彼女に謝る彼氏。
飲食店の入り口で、紳士な彼氏にエスコートされ、はにかむ彼女。
……みんなそれぞれ、ドラマがあるんだろうな。
私に歩幅を合わせてくれている朔哉さん。そのきれいな横顔を見上げる。すると、私の視線に気づいた彼と、ぱちっと目が合った。
「どうした?」
「ううん、なんでもない」
首を傾げる彼に、照れ笑いを浮かべてこう告げる。そんな私の頭を、目を細めながら、彼は優しく撫でてくれた。
「あ」
「ん?」
「写真集買いましたよ、発売日に」
「おっ、サンキュ」
「2冊」
「2冊っ!?」
「鑑賞用と保存用」
「マジか……」
「すっっごく感動しました!」
「……俺も今めちゃくちゃ感動してるわ」
今までは知らなかったから。好きな人が隣にいる幸せを。その喜びを。
だから、気にも留まらなかった。
きよしこの夜。
彼らが皆、幸せな聖夜を、過ごせますように——。
「どこ見て歩いてんだよっ!」
街に軽快なクリスマスソングが流れる中。
突如、男性の怒鳴り声があたり一帯に轟いた。
大通りから少し外れた、あまり
声の根もとへ目を向けると、そこには3人の姿があった。
ひとりは、黒革のジャンパーを羽織った、20代前半くらいの青年。インナーもズボンも黒一色で、髪はオレンジ色だった。
両耳には、見ただけで肩が凝りそうなほど、ジャラジャラとピアスをぶら下げている。頭と服の色だけ見ると、ハチみたいだ。働き者のミツバチではなく、獰猛なスズメバチ。
そのハチみたいな青年に怯えながら、地面に膝をつくふたりの少年。制服を着用しているところから察するに、こちらは高校生のようだ。ひとりがもうひとりを支えている。……殴られたのだろうか。支えられたほうの少年は、左の頬を押さえてうなだれていた。
「……茉莉花。そのふたり頼むわ」
「え? あ、わかりました」
はあ、と短く溜息をつくと、少年ふたりを私に託し、朔哉さんはハチのほうへ爪先を向けた。少々かったるそうに左手で後頭部を2、3回掻きながら。
けれど、彼には少なからず背負っているものがあった。……怒りだ。
「大丈夫?」
言われたとおり、私はふたりの少年のもとへと駆けつける。
とはいえ、私が彼らに特別何かできるというわけではない。
「何があったの?」
とりあえず、友人を心配そうに支える彼に、状況の説明をお願いした。
「すれ違うときに、ちょっとこいつの肩がぶつかっただけなんです。それなのに、いきなり胸倉掴まれて……」
ああ、なるほど。完璧言いがかりだな。
「殴られたとこは? 平気?」
手当てすることもままならない自分にもどかしさをおぼえながら、いまだ頬を押さえたままの少年に問いかけた。
「ぼ、僕よりも、その……お連れの方が……」
だが、彼が案じていたのは、自分を理不尽な理由で殴った、いかにも話の通じなさそうな相手に、躊躇うことなく近づいていった朔哉さんのことだった。
その不安を少しでも和らげられるようにと、表情を緩めて答える。
「大丈夫。彼、強いから」
全然心配していないと言えば嘘になるが、彼が『負かされる』ことなど、スズメの涙ほども想像できなかった。
だって、元空手部主将だし。なんてったって、インターハイ優勝者だし。
「やめとけ。子ども相手にみっともない」
怒っている。怒ってはいるのだが、口調はいたって冷静だった。
「ああ? なんだテメェ」
対峙して露呈した残念な身長差。私の目分量で、10センチはゆうにある。ハチはまずスペックで朔哉さんに劣ってしまっているようだ。
唯一勝っているのは、態度のデカさだけ。おそらく、それも時間の問題だろうけど。
「関係ねーヤツは引っ込んでろ!!」
ハチが右手の拳を振り上げた。的はおそらく朔哉さんの顔面。しかし朔哉さんは、まったくといっていいほど動じていない。
私は心の中でツイートした。
「おい。……人の忠告は素直に聞いとけよ、クソガキ」
——グッドラック。
「イデデデデデッ!!」
一瞬の出来事だった。
振り下ろされたハチの右手首を左手でパシッと掴むと、いともたやすく地面へとねじ伏せてしまった朔哉さん。
ハチは、掴まれた右手を背後に回され、うつ伏せになっていた。その頭部は、右手で押さえ込まれ、腰には右膝が乗っかっている。
攻撃を制してから地面に沈めるまでの一連の朔哉さんの動きを、私は目で追うことができなかった。
……すごい。
極めつけに、この外気温よりもさらに冷たい氷点下の視線を浴びせ、『ヒイィッ』とハチを縮み上がらせた。
次の瞬間、私の中で『ハチ』が『蛙』に変身した。
そのシチュエーションは、まさに『蛇に睨まれた蛙』。……いや、朔哉さんの場合、蛇っていうより黒豹かも。
ビビった蛙は、『さーせんっした!』と大声で謝罪すると、猛烈な勢いでこの場から走り去ってしまった。
あっけなかった。
「ったく。……大丈夫か?」
逃げる背中を呆れ顔で見届けると、朔哉さんは私と少年ふたりのもとへ歩み寄ってきた。
「す、すみません。ありがとうございました」
「病院行くか?」
「あ、いえ。大丈夫、だと思います」
「ちょっと見せてみろ」
しゃがみ込み、少年と目線を合わせる。殴られたという頬を診るため、右手の親指と人差し指で少年の顎を挟み、クイッと内側に手首をひねった。
「……あー、少し腫れてるけど、たいしたことはないな。気分悪くないか?」
「はい。……痛みも、だいぶ引いてきました」
赤くなってはいるけれど、切れたりはしていないようで、出血はなかった。
でも、まだ痛そうだ。
「なんか冷やすモンでもあれば、幾分かはマシなんだが」
「……あ、そうだ」
朔哉さんのこの言葉に、私はあることを思いついた。
紙袋の中からケーキの箱を取り出し、開封する。箱のすみには、キンキンに冷えたふたつの保冷剤。そのうちのひとつを、持っていた白いガーゼハンカチにくるみ、少年に差し出した。
「これで冷やすといいよ」
「え……?」
「このハンカチごと、持って帰って」
「い、いいんですか?」
「うん、あげる」
これくらいしか、私にできることはない。
少年は、私の手からそれを受け取ると、申し訳なさそうに頭を下げた。『ありがとうございます』——震える声で、そう呟いて。
私には、このひとことで十分だった。
これくらいしか、私にできることはないけど。たったひとつでもできることがあってよかった。
そう、思えたから。
「気をつけて帰るんだよ」
手を振り、少年ふたりを見送る。
彼らは、何度も振り返り、何度も私たちにお辞儀をしながら、帰っていった。
「保冷剤の存在、俺すっかり忘れてたわ」
「私はしっかり感じてましたからね。保冷剤とケーキの重み」
「そんだけ執着してるってことか? ケーキに」
「まあ、そう言えなくもないですよね」
「……さすがだな」
互いの顔を見ることなく、張りのない会話を交わす。
私たちの視線の先には、若いふたりの後ろ姿。
その小さなふたつの背中が見えなくなるまで、私たちはこの場を離れなかった。
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