第8話

 昨日、お互いの想いを確かめ合い、晴れてお付き合いすることとなった私と速水さん。

 あのあと、彼のマンションへと移動し、一週間ぶりに夕食をともにした。メニューは、あの日と同じオムライス。自分がリクエストしたにもかかわらず、ろくに口もつけないまま飛び出してしまった私に、彼が再度腕を振るってくれた。……すごくおいしかった。

 そして、一夜明けたこの日。

 私は、陽奈ちゃんと一緒に、講義と講義の間の空き時間を利用し、大学の向かいにあるベーカリーへと来ていた。

 白い壁にモスグリーンの扉が映える、ヨーロピアンテイストな外観。内装は、ダークブラウンを基調とした、非常にシックなものだ。店内の一角をカフェスペースとして開放しているため、焼きたてのパンをすぐに堪能することができる。ドリンクとセットで頼むと、よりお得だ。

 ここ最近の散々な体たらくっぷりに対する謝罪と、前日声を張って叱咤してくれたことに対する感謝の意を込めて、私が彼女を誘った。

 私はスコーンとアールグレイのセットを、彼女はアップルパイとブレンドコーヒーのセットをそれぞれ注文した。カウンターでそれらを受け取ると、いつものように窓際のテーブル席へ。

「ありがとね、茉莉花。ゴチになります」

「ううん、私が誘ったんだもん。……私のほうこそ、ありがとう。陽奈ちゃんがああ言ってくれたから、私、速水さんと向き合えた」

 彼に自分の気持ちを伝えることができたのは、彼女が厳しくあと押しをしてくれたおかげだ。

「ほんとよかったわ。あんたが彼とうまくいって」

 コーヒーをひとくちすすり、『安心した』と陽奈ちゃん。

 彼女には、昨夜帰宅してすぐに、彼と付き合うことになったと報告をした。私が彼と大学を出てからずっと気にかけてくれていたらしく、今朝構内で会うやいなや、手を取って喜んでくれた。

「昨日初めて会ったけど、男らしくてすてきな人じゃないの」

「うん、ちょっと強引だけど。……でも、とっても優しいんだ」

「優しいのが一番よ。それに、あんたみたいな子には、強引なくらいがちょうどいいんじゃない?」

 彼女のこの言葉に、微笑み、こくんと頷く。

 昨日、彼が突然大学に現れたことには驚いたけれど、内心はとても嬉しかった。

 現実を直視できず逃げ出した、こんな臆病な私との関係を、有耶無耶にしないでいてくれた。

 彼のあたたかさが、その優しさが、渇いていた心にじんと沁みた。

 プレートに盛られたクロテッドクリームを、スコーンにたっぷりと塗る。甘い香りに誘われるようにそれを口もとへ運ぶと、ゆっくりとひとくちかぶりついた。

 ……嗚呼、なんたる幸せ。

 クリームやバター、チーズといった乳製品が大好物の私にとって、まさに至福のひとときだ。

「で、彼には話したの?」

「……何を?」

 食することにいそしんでいたおり、彼女から唐突に質問を投げかけられた。含まれているはずの目的語が不明瞭なそれに対し、私も語尾を上げて返す。

 口内のスコーンをあらかた飲み込み、さらに紅茶で流し込んでからの返事となってしまったため、少々間が空いてしまった。

「あんたが男の人と付き合うの、初めてだってこと」

 彼女から放たれたこの直球を、私は打ち返すことができなかった。

「えっ? い、言ってない……」

 そして、そのまま心の臓で受け止める羽目に。まさに死球デッド・ボール。心が乱れたせいで、第一声は見事にうわずった。

 避けて通ることのできない私の経歴——羽柴茉莉花、22歳。彼氏いない歴イコール年齢。

 大学に入学した当初、このことをカミングアウトするたびに、『嘘でしょっ!?』や『意外っ!!』といった声が周囲から返ってきた。まるで珍獣でも発見したかのような眼差しとともに。

 だって、しょうがないじゃない! と開き直るも、地味に凹んだりしていたものだ。

「や、やっぱり言っといたほうがいいのかな……?」

 私自身、汚点だとは思っていない。けれど、この手の知識は皆無なので、おどおどしながら教えを乞う(ちなみに、陽奈ちゃんには現在、社会人の彼がいる)。

「あー……べつに付き合ってたらすぐにわかることだし、あえて最初から言う必要ないっちゃないかもしれないけど……でも、あんた自身のために言っといたほうがいいと、あたしは思うけどな」

 すると、陽奈子大先生は、なんだか意味深長なことを宣った。

 ポンッと頭上に疑問符が飛び出す。

 脳内の引き出しという引き出しをすべて開け、今まで生きてきた中で得たデータを結集させるも、彼女の言っていることが私には理解できなかった。

 ……だめだ。恋愛経験値ゼロゆえ、さっぱりわからん。

 しかも、このタイミングでタイムリミットを迎えてしまった。なんて間の悪い。

 疑問を抱え、すっきりとしないまま、私は陽奈ちゃんと別れて大学へと戻った。




 アルバイト先の薬局でも、陽奈ちゃんに言われた内容を頭の中で反芻し、その意味をずっと考えていた(もちろん仕事はしっかりこなした)。

 けれど、結局答えは見つからないまま、あっという間に業務終了時間がやってきた(もちろん仕事はきっちりこなした)。

 結論——ない知恵を振り絞ったところで仕方ない!

 明日陽奈ちゃんにご教授願おう。うん、そうしよう。

 考えることをやめた私は、潔く帰宅準備を開始することに。実は、もうすぐ速水さんが迎えにきてくれることになっているのだ。

 お互いに都合のつく日は、なるべく一緒に夕食を摂ろうと、昨日ふたりで決めた。

 私の体調を考慮してくれた彼からの提案。

 できるかぎり彼と過ごしたいというのが本音なので、今の私にとって、それは願ってもないことだった。

 スタッフルームへと入り、ロッカーを開けて、いつものショルダーバッグとマイバッグを取り出す。

 この日、大名先生が、従業員全員に金時にんじんを5、6本ずつ配ってくれた。農業を営んでいる実家から、大量に送られてきたとのこと。実に鮮やかな紅色だ。

 ありがたく頂戴し、常に携帯しているマイバッグへと収納した。せっかくなので、彼と一緒にいただくとしよう。

 あ……速水さん、今日もう料理しちゃったかな?

 それはそれで楽しみだな、なんて図々しいことを考えていると、あと始末や戸締りなどの最終チェックを済ませた大名先生が入ってきた。

「お疲れ様です、先生」

「お疲れ様ー」

「にんじん、ありがとうございます」

「いいのよ。気にしないでちょうだい。もらってくれると助かるから。……にしても、今日は格別忙しかったわねー」

 白衣と交換にダウンジャケットを羽織る先生とともに、この日の業務内容を振り返ってみた。

 ここ数日、風邪を引いたという患者さんが急増している。処方された薬剤を見てみても、総合感冒薬や抗生剤、鎮咳剤ちんがいざい去痰剤きょたんざいといったものが、全体的に大きな割合を占めていた。

 冬の到来。

 そろそろ、厄介者インフルエンザも流行しはじめるころだ。

「元気になったのね、茉莉花ちゃん」

「え?」

 なぜに突然そんなことを?

 別に体調を崩したわけでもなければ、バイトを休んだわけでもないのに。

 思案に耽っていたさきほどの自分から脱皮したはずだったのだが、また逆戻りしてしまった。

 ある程度身構えていればよかったのだ。不意をつかれたこのときに。

 数秒後の自分に、そう教えてやりたい。

「若先生とうまくいったのね」

「えっ!?」

「ずっと好きだったんでしょう? 彼のこと」

「なっ、なんでそのことっ……!!」

「私、常に『恋する女の子センサー』が働いてるからね!」

 ウインクをしながら、グッと親指を立てた大名先生。その得意気な表情と、読心術でも極めているんじゃないかと思うほどの正答に、はからずも狼狽えてしまう。

 確認されたのは、体のほうではなく、心のほうだったのだ。

 っていうか、『恋する女の子センサー』ってなんですか? そんなオプションどこに付いてるんですか?

「……ごめんなさいね、茉莉花ちゃん」

 しかし、それまでの薄桃色の乙女オーラは瞬時に消え去り、一転、目を伏せた先生の口から発せられたのは、謝罪の言葉だった。

 ここでアルバイトをするようになって3年が過ぎたが、こんなにも暗い顔をした先生を見るのは初めてだ。

 いったいどうしたんだろう。心配だ。

「瑠璃子さんのこと、急に言っちゃって。私から伝えてもいいのかどうか、迷ったんだけど……」

 ああ、そうか。そういうことか。

 鈴原先生が亡くなっていると、彼に無断で私に告げたことに対する罪悪感。それに先生は苛まれていたのか。

 私は、先生のその罪悪感を掻き消すように、首を横に振った。

「あのタイミングで、彼からじゃなく、大名先生から聞けてよかったと思います」

 悩み、苦しみながらも、彼に好意を寄せている私に『真実を伝える』という選択をしてくれた。

 もしも先生から聞いていなければ、何も知らなければ、7日目のあの日、私と彼の関係は途絶えていたかもしれない。

 彼に告白だなんて、おそらく夢のまた夢だっただろう。そして、以前にも増して、荒んだ日々を送ることとなっていたはずだ。……目に浮かぶ。

 そうならずに済んだのは、周囲の支えがあったから。

 本当に感謝している。陽奈ちゃんにも、大名先生にも。

「ありがとうございます」

 私が謝意を述べると、先生の表情がほぐれた。喜びと安堵が織り交ざったような表情。

 その目もとには、うっすらと涙が浮かんでいた。

 私たちがスタッフルームから出て間もなく、速水さんが到着した。裏の駐車場に車を置いてきたのだろうか。彼は徒歩だった。

「あっ」

 彼の姿に気づいた先生が、手招きをして薬局の中へ呼び込む。すると、非常に慣れた様子で、彼はこちらに入ってきた。

「ご無沙汰しています、大名さん」

「ご無沙汰しています、朔先生」

 先生が彼のことをこう呼ぶあたり、やはりふたりの間柄は親しいものであるらしい。それは、お互いの柔和な顔つきからもうかがえた。

 ただひとつ違和感をおぼえたのは、彼が敬語をつかっている、ということ。失礼を承知で、あえて言わせていただこう。

 ……つかえたんだ、敬語。

「茉莉花ちゃんのお迎えですか?」

「はい。それも、なんですけど……大名さんにひとことご挨拶を、と」

「え?」

「春から、また病院に戻ります」

「えっ、ほんとですか! ……お父様とお話されたんですか?」

「ええ、まあ」

「喜ばれたでしょ?」

「どうなんでしょうね。ご存知のとおり、あまり口数が多くはないので。『そうか』って、言われただけです」

「ふふっ。想像できますけどね。……でも、きっとすごく喜ばれてると思いますよ。私も嬉しいです、本当に」

 愛する人を失い、臨床不能となってしまった彼の気持ちや、傷つき、ボロボロになった息子を目の当たりにした速水院長の気持ち。

 彼ら父子おやこの当時の心境は、大名先生も痛いくらいに感じていたのだろう。どれほど居た堪れなかったことか。想像しただけで、息が詰まりそうだった。

 だからこそ、彼自身の口から語られた復帰の一報は、先生にとっても吉報となったに違いない。

「……それから、ふたりが一緒になってくれたことも」

 ここで、私の姿が、速水さんと一緒に、先生の視界に収められた。思わず彼と顔を見合わせる。

 目を細め、慈しむような先生の眼差しは、姉のように、母のように、あたたかいものだった。

 ……まあ、それもつかの間でしたけどね。

「これで大学に来た最大の目的が果たせたわね、茉莉花ちゃん!」

「…………えぇっ!?」

「私もひと安心だわ~」

 ちょっと、またこの人暴走してるんだけど!! 最大の目的ってアレでしょ!? いくらなんでも気が早過ぎやしませんかねっ!!

 私はまだそのレベルまで達していない。ようやくスタート地点に立てたばかりなのだ。攻略なんてとうていできるわけがない。

 完璧経験値不足です。顔が熱いです。目が回ります。頭がどうにかなってしまいそうです。

 こんな私を、怪訝そうに彼が見つめてくる。『大丈夫か、お前』と言わんばかりに。

 話の中身に関し、ザックリ掘り下げられるかもしれないと案じていたのだが、何も聞かれなかった。

 どうやら免れることができたようだ。ほっと胸を撫でおろす。

 こうして、満面の笑みでブンブンと手を振ってくれた大名先生に頭を下げ、私と速水さんは駐車場へと向かい、車に乗り込んだ。




 途中、煙草を購入するために、少しコンビニに寄り道をした。マンションに着いたのは、薬局を出てから、およそ20分後のことだった。

 昨日仕入れた新情報。このマンション、実は速水さん自身の持ちものらしい。あの邸宅と一緒に、おばあさんから譲り受けたのだそうだ。

 つまり、彼はここのオーナー。これで、彼が住人たちと仲睦まじく話していることに合点がいった。みんな、オーナーさんと話をしているだけなのだ。

 彼が筋金入りの資産家だということは十分わかった。

 もう何を聞いても驚かないぞ、私は。

 玄関のドアを開けた彼に続き、私もお邪魔する。中に入ったとたん、食欲をそそる、なんとも言えない香りが漂ってきた。

 思ったとおり、今日の夕食はすでにでき上がっているようだ。

「これ、なんの匂いですか? チーズ?」

「お、正解」

「今日は何作ったんですか?」

「大根ステーキ」

「えっ、大根ステーキにチーズ?」

「意外と美味いんだって」

「いやいや、絶対おいしいでしょ。早く食べましょうよ」

 相互の味を脳内でミックスするだけで、涎が出そうなほどのメニュー。なにより、料理したのがほかの誰でもない、彼なのだ。期待を裏切らないに決まっている。

 はやる気持ちを抑えることができず、大好きな乳製品チーズに吸い寄せられるように、私はキッチンへと直行した。

 どれほどいていたのかというと、

「見事な金時にんじんだな。これ、どうしたんだ?」

「え? ……わっ! ごめんなさい!」

 バッグを見事にふたつとも放置してきてしまうほど。

 コートとマフラーを玄関のハンガーにかけた際、手もとから放してそのままにしてしまったようだ。

 慌てて、彼からそれらを受け取る。

「大名先生にいただいたんです。せっかくだから、また明日以降一緒に食べましょうね」

「へー。ああ、そういやあの人の実家、でっかい百姓家だって聞いたことあんな。……あ、手洗いとうがいしとけよ」

「はーい」

 帰宅直後の手洗いとうがいは基本だ。……玄関からここまでの一連の行動は、そっと心の奥にしまっておこう。

 ふたつのバッグをいったんダイニングの椅子の上に置き、洗面所へ。ドクターの指示どおり、手洗いとうがいを入念に済ませてから、再びキッチンへと戻った。

 にんじんは、彼の承諾を得て冷蔵庫で保管させてもらうことに。

 ひと足早くキッチンに立っていた彼と並び、私も支度を開始した。

「速水さん、先生と面識あったんですね」

 サイドボードから食器を取り出しながら、彼に問いかける。

 てっきり、『職場が近かったからな』といった程度のものが返ってくるのだとばかり思っていた。

「ああ。旦那さん、ウチの病院の外科医なんだよ」

 だからこの返答に、危うく手に持っていた平皿を落とすところだった。

 ……はい?

「俺が学生のころから、一緒に旅行したり、何度か家に来たりとかもしてるから、よく知ってるんだ」

 大名先生のご主人は、かれこれ20年近く、速水総合病院で勤務医として働いているらしい。名実ともに大変優秀なドクターで、現在は外科部長を務めているのだそうだ。

 いわゆる『家族ぐるみの付き合い』というやつか。なるほど、納得。

 少しずつ……本当に少しずつではあるが、彼のことや、彼を取り巻く環境のことがわかってきた。

 私も、彼にちゃんと話さなきゃいけないよね。家族のこと。

 もしかすると、すでに鈴原先生から聞いているかもしれないと推測してはみたのだが、どうやらその可能性はなさそうだ。守秘義務があるので、さすがに先生もそこまでは伝えていなかったらしい。

 お世辞にも明るいとは言えない私の過去。ゆえに、話すタイミングが重要だ。あんな重たい話、聞かされる彼の身にもならないと。

 今はまだ、そのときじゃない。

「んじゃ、食うか」

「わーい。いただきまーす!」

 今は、目の前にある幸せを、存分に味わうとしよう。




 食事を終えたあと、速水さんはリビングへと移動し、ソファに座って夕刊を読みはじめた。

 一方私は、彼に右半身を向けるような形で絨毯に正座し、テーブルに向かってカリカリとペンを走らせる。

 明日行われる英語の小テストに備え、目下勉強中なのだ。

 私は、書いて書いて書きまくって覚える性質たちなので、紙とペンがないと、安心して学習することができない。

 テストの内容は、あらかじめ指定された10の慣用句イディオムの中から5つが選ばれ、それらをひとつずつ用い、英文を5つ作るというもの。選択される5つの慣用句は、問題用紙が配布されるまでわからない。

 外国語は必須科目なので、単位を落とせば、それはそれは恐ろしいことになってしまうのだ。

「……できた!」

「おー、お疲れさん」

 ペンを持ったまま、勢いよく両手を天に突き出した私を、彼がねぎらってくれた。

 いつの間にやら、夕刊を読み終えていたようだ。

「コーヒー淹れましょうか?」

「いや、いい」

「……要らない?」

「じゃなくて、俺がするからお前は休んでろ」

 立ち上がる気満々だった私を制し、彼がコーヒーを淹れることを買って出てくれた。彼は、とにかくフットワークが軽い。

 キッチンへと入っていくその姿を見つめながら、曲げていた両足をテーブルの下へと伸ばす。

 ……ほんと、優しいんだから。

 心の中でそう呟くと同時に、笑みがこぼれた。私まで、なんだか優しい気持ちになれる気がする。

 足を投げ出してくつろぐこと数分。彼がコーヒーを淹れてきてくれた。左隣にスペースを空けてくれたので、テーブルの上を片づけ、私もソファへと上がる。

 ブルマンの上品で華やかな香り。ひとくち飲んだだけで、疲れなんて吹き飛んでしまいそうだ。以前は、コーヒーがおいしいだなんて、たいして思わなかった。

 大人になった? ……ううん、それだけじゃない。

 こんな気持ちに浸れるのも、こんなふうにコーヒーを飲んで癒されるのも、きっと、この人と一緒だからだ。

「……あっ、そうだ」

「ん?」

 ふと、壁にかかっているカレンダーを見て、彼にとある事項について尋ねようとしていたことを思い出す。

「写真集って、いつ発売されるんですか?」

 彼の集大成。その発売日。

 本当は、もっと早くに聞くつもりだったけど、諸々あって今になってしまった。

「今月の21日だよ」

「あと2週間くらいなんだ。……やっぱり緊張したりとかします?」

「んー……はじめのころほどじゃねぇけど、ちょっとはするかも。……最後だからっていうのもあるかな」

 どこか照れているような、切ないような、充実しているような……そんな表情だった。そこには、これまでの、これからの、さまざまな感情が詰まっているのだろう。

「すごく楽しみです。発売日に、書店に走りますね」

 彼の最後の英姿を、私は直接仰ぎたい。

 私のこの想いに耳を傾けてくれた彼は、柔らかく微笑むと、私の頭に左手をそっと伸ばした。

「なんか恥ずかしいな……でも、嬉しいよ。ありがとな」

 そのまま撫でられることを想像していたので、私は安心しきっていた。まるで、主人を前にした犬のように。

 彼に頭を撫でられるのは、とても心地いい——そう認識していたから。

 だが。

「——っ!!」

 彼の手のひらが私の頭頂部に触れた瞬間、ビクッと自身の肩が跳ね上がり、全身がガチガチに強張ってしまった。

「っと、悪ぃ……」

 とっさに手を引っ込め、驚いた様子の彼。無理もない。

 けれど、彼に対し、なぜこんな態度を取ってしまったのか……実は、私自身非常に驚き、動揺している。

「ご……ごめんなさいっ!!」

 若干パニックに陥りながらも、自身のこの非礼な振る舞いを彼に詫びた。

 今まで何度も頭を撫でられた。けど、こんなこと一度もなかったのに。

 顔が熱い。耳まで熱い。心臓、うるさい。


 ……ああ、そうか。私は今、速水さんを『男の人』として意識したんだ。


 この調子だと、手が触れ合っただけでも、過剰に反応してしまそうだ。いちいちこんなにビクビクしてたら、彼に不快な思いをさせてしまう。

 彼に、嫌われたくない。

 陽奈ちゃんが言ったことの意味が、このときようやくわかった気がした。

 汚点だとはまったく思っていないけれど、いざ彼に告げるとなると、こんなにも恥ずかしくなるなんて予想だにしていなかった。

 でも、だからこそ、

「あの……」

 彼にちゃんと、

「私……」

 伝えなきゃ。

「私、男の人とお付き合いするの、初めてなんです」

 どうにかこうにか口にすることはできた。

「…………マジで?」

 彼のリアクションも想定内のもので、これに対し、私は一回だけ首を縦に振って、さらに言葉を続けた。

「だから、さっき頭を撫でられたのも、けっして嫌とかじゃなくって、変に意識しちゃって……」

「あー……そう、だったんだな」

 彼と顔を合わせられず、肩を落としてうなだれる。

 あまりの申し訳なさに、軽く失神できそうだ。

「幻滅、しましたか……?」

「えっ!? いや、そんなことは微塵もないけど……なんか、意外っつーか」

「よく言われました……」

「おいおい、誤解すんなよ? いい意味でだかんな。……お前、すっげぇ可愛いじゃん。頭も性格もいいし。なのに、よく周りが放っておいたなって思って。たぶん、意外だって言ったヤツの大半が、俺と同じ理由だよ」

「……」

 一瞬にして、がらりと空気が変わった。

 そんな恥ずかしいこと、なんでさらっと言えちゃうのよこの人。

 頬がジンジンするくらいまで熱くなったのなんて、生まれて初めてだ。頭も、やかんみたいにシューシューいってる。まさか、面と向かってここまで褒め殺されるとは、思ってもみなかった。

 彼の第一印象からすれば、まったくもって想定外だ。

 なんてったって『お前日本語話せんの?』だったからね。

「高校ンときとか、告られたりしたことねぇの?」

「ないですないです! 私、女子高だったから、出会い自体なかったし」

「中学ンときは?」

「全然。興味もなかったです。……からかわれたりはしましたけど」

「男子に?」

「男子に」

「……それ、単にからかわれてただけじゃねーぞ、たぶん」

「?」

 彼のこの質問の意図も、最後の言葉の意味も、全然ピンとこなかった。

 もちろん、気にならなかったと言えば、嘘になる。

「いや、なんでもない。……茉莉花」

「えっ!? ……は、はい」

 けれど、それよりも由々しき事案が発生した。

 なんの前触れもなく、彼に名前で呼ばれてしまったのだ。

 いや、べつに取りたててどうということはないし、ここまでドギマギする必要なんてないのかもしれない。

 でも、私にとっては、一世一代の大事件だったのだ。

「ちょっと、手ぇ出せ」

「手?」

「両手」

「……こう、ですか?」

 彼の要求するポーズがわからなかったので、とりあえず手の甲を上に向け、揃えて彼のほうに差し出した。

 すると、それで正解だったのか、彼は私の手を下から掬い上げるように、そっと掴んだ。……というよりも、添えているといったほうが適当かもしれない。

「平気か?」

 ——触っても平気か?

 そういう意味だったんだと思う。

 さきほどのように動揺することもなく、強張ることもない。代わりに、心が満たされていくのを感じた。

「はい」

 私は、頷いた。

 これに対し、彼は微笑んで、ひとこと『そうか』と返してくれた。

 さらには、こんなことを。

「男と付き合ったことないとか、そんなこと、ほんと気にしなくていいから。むしろ嬉しいし」

「……嬉しい?」

「ん。至極光栄」

「っ……」

 この人と出会えて、本当によかった。

 好きになったのが、好きになってもらえたのが、この人で、


 本当によかった。


「……ありがとう」

 そうだ。焦ったって仕方ない。

 私たちの関係は、始まったばかりなんだから。

「……ん? 『興味なかった』って、お前……今まで好きになったヤツひとりもいなかったってこと?」

「え? あ、はい。たぶん」

「……」

「……速水さん?」

 下向いちゃった。さっきよりも手の温度めちゃめちゃ上がってるんだけど、大丈夫なのかな?

 その後しばらくしてから、彼は顔を上げた。『そろそろ帰るか』と私に帰宅を促したその頬は、心なしか、ほのかに赤く染まっていたような気がする。

 さらに、耳は紅潮していた。まるで、大名先生からもらった金時にんじんみたいに。

 そのときの彼の心情をうかがい知ることはできなかったけれど。

 私は、そんな彼が、なんだかとても愛おしかった。

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