第6話
「羽柴……茉莉花ちゃん?」
初めて会ったとき、笑顔のすてきな、とてもきれいな人だと思った。
「いい名前ね。私、
優しくて穏やかな彼女の存在は、それまで入院した経験がなかった私にとって、非常に大きな励みとなった。
「担当薬剤師の鈴原です。お薬のことで、わからないことや不安なことがあったら、なんでも聞いてね」
これが、彼女——鈴原先生との出会いだった。
◆ ◆ ◆
2学期も半分が過ぎ、しだいに秋が深まりつつある11月上旬。
当時中学2年生だった私は、神戸市内の病院に入院していた。
医師に診断された病名は、神経性無食欲症——いわゆる拒食症というやつだ。
父と離婚し、女手ひとつで私を育ててくれることとなった母に、余計な負担や心配をかけたくないと意気込んだ結果、それが裏目に出てしまった。
過度のストレスのせいで、体が食事をまったく受けつけなくなってしまったのだ。
「……情けな」
真っ白な壁と天井、薄い水色のカーテン。8畳ほどの無機質な空間。
ポツリと漏れた独言は、溜息とともに、この部屋の静けさの中へと消えていった。
入院して一週間。当初より、私はひとり個室で過ごしている。ほかの人の食事を見たり、匂いを嗅いだりするのはつらいだろうという、主治医の先生の配慮からだった。
お見舞いに来てくれた友人や知人には、明るく平然と振る舞ってみせたけれど、そんなものは空元気だ。実際、身体的なダメージよりも、精神的なそれのほうが、はるかに勝っている。
テレビ台の上に置かれたデジタル時計に目をやると、時刻は午後5時半を回っていた。外はもう暗い。
さきほど、仕事帰りにここへ寄ってくれた母を見送った。この時間帯になると、母は必ず私の様子を見にきてくれる。そして、一旦帰宅し、夕食をとったあとに再びこの病室を訪れてくれるのだ。
税理士の資格を有する母は、市内の税理士事務所に勤務している。オフィス街の一等地に構えられた、大きな事務所だ。繁忙極めるにもかかわらず、家庭と仕事を両立している母のことを、私は心の底から尊敬しているし、感謝している。
ストレスの一番の要因——それは、私自身が一番よくわかっていることだ。
「ほんま何してんの、私……」
点滴の針が刺された自身の左腕を睨みつける。体内へと注ぎ込まれる高カロリー輸液。ある意味日課だ。わずらわしいけれど、食べられないのだから仕方がない。
自責の念に駆られ、悶々としていると、不意に病室のドアをノックする音が聞こえた。ふるふると、脳内のモヤモヤを掻き消すようにかぶりを振る。それから、気を取り直して『はい』とひとこと入室を促す返事をした。
「失礼しまーす」
先生は、その外見どおり、小鳥がさえずるような可憐な声をしているのだが、話し方は意外にもざっくばらんで、なかなかにフレンドリーだ。ユーモアもある。
「体調はどう?」
にこっと笑顔を浮かべ、軽やかな足取りでベッドサイドへと歩み寄ってきた。
相変わらず今日も美人だ。惚れ惚れする。
「だいぶよくなりました」
先生は、このつまらない、乾いた病院生活の中での癒しだといっても過言ではない。見ているだけで心が潤う。もはやオアシスだ。それは私だけではなく、ほかの患者——とくに男性患者——にとっても同じことが言えた。
看護師さん曰く、『ここの病院には、若くて優しいきれいな薬剤師の先生がいる』と、院内外でもっぱらの評判なのだそう。
「来たときに比べると、顔色も随分よくなってるものね」
忙しい仕事の合間を縫っては、鈴原先生は、こんなふうに私の病室まで足繁く通ってくれた。
こちらでは、あまり聞き馴染みのない標準語。先生は、生まれも育ちも東京らしいが、大学進学を機に、ここ神戸へ来たのだと言う。そして、そのままこの市民病院に就職したのだそうだ。
「点滴、面倒でしょうけど、食べられるようになるまでの辛抱だから」
「……はい」
ポタッポタッと、ゆっくり落ちていく輸液の雫を横目に、こう励ましてくれた。
まるで、私の心の中を見透かしているかのような言葉。……というよりも、自然に口をついて出てきたものなのだろう。
先生は、つねに患者に寄り添い、患者の立場になって、入院生活をサポートしてくれている。
この人に、私はどれほど救われたことか……。
「あ、そうそう! さっき、廊下で茉莉花ちゃんのお母さんとすれ違ったわ。とっても可愛らしいお母さんね!」
突然、そのくりくりとしたつぶらな瞳を輝かせながら、先生がずずいっと詰め寄ってきた。驚いた私は、思わず上半身をすすっと後ろにスライドさせる。先生のテンションは、依然上がったままだ。
「『娘がお世話になります』って、わざわざ挨拶してくださったの! 小顔で目鼻立ちがはっきりしてて……茉莉花ちゃんもお人形さんみたいですごく可愛いけど、お父さん似なのかな?」
一瞬、どくんと心臓が飛び跳ねた。
暗に、私と母の顔が似ていないということを示唆しているのだろう。私は、先生のこの問いに、眉を下げ、ほんの少し口角を上げることしかできなかった。
だって、私のこの顔は、間違いなく『母親譲り』なのだから。
私と母のあいだに、血の繋がりはない。
私を産んでくれた母親は、9年前に交通事故で他界した。
当時5歳だった私は、母親の死を即座には理解することができず、突如いなくなってしまった存在を探し、連日泣きつづけていたのだそうだ。
母が『母』になったのは、私が小学2年生のときだった。父が再婚することに対して、まったく戸惑いがなかったわけではない。けれど、快活で聡明なその独特の魅力に、私はすぐに興味を示した。なにより『母』として、『娘』の私に正面から接してくれた。25歳という若さも相俟ってか、気がつけば、私は母を『母』として慕っていた。
私が中学に進学する前に父と離婚し、母は私を引き取った。離婚時の父は、とてもじゃないが、一緒に暮らせるような状態ではなかったのだ。
酒に溺れてしまったせいで。
母親が事故で亡くなって以来、寂しさを紛らわすように、父の飲酒量は増していった。再婚してからも、それはとどまるところを知らず、私が高学年の頃は、夜な夜な浴びるように飲んでいた。ついには、勤めていた貿易会社も辞めてしまった。
酒という闇に逃げ込み、酒という闇に呑み込まれていった父。
普段は穏やかな父だったが、ひとたびアルコールが入ると、口調や態度、顔つきまでもが豹変した。ときに暴言を吐き、ときに暴力をふるった。
離婚の引き金は、父に殴られた私が負傷したことだった。幸い、怪我はたいしたことなかったが、これに激怒した母は、私を連れて家を出た。
父のことは好きだった、とても。でも、大嫌いになった。
憎むほどに——。
自分の中に巣食う、真っ黒な影。
「……っ、あの——」
それを勘づかれたくなくて、話題を変えようとしたところ、
「あっ、いっけない! 私、6時から院長先生と事務長さんと約束してるんだった!」
なにやら重大な用事を思い出したらしい様子の鈴原先生によって、はからずもそれは遮られた。
ちらりと時計に目を向けると、6時まであと10分を切っていた。
「じゃあ、茉莉花ちゃんの顔も見られたし、そろそろ行こうかな。ごめんなさいね、バタバタして」
「いえ。……いつも、ありがとうございます」
「お大事に」
ふわりと微笑んでそう言うと、鈴原先生は私の病室をあとにした。
見送った先生の背中は、今の私とは対照的に、どことなく嬉しそうだった。
◆ ◆ ◆
「茉莉花、ぶどう食べる?」
「食べる」
「即答やな」
「だって食べたいもん」
「まあ、なんにでも食欲あるんはいいことやわ」
「果物やったら食べれそうよ」
「はいはい。ほな、また持ってきます」
入院して3週目。体調もほぼ回復し、徐々にだが、食べ物も口から摂取できるようになってきた。
この日は、午後から休暇が取れたとのことで、母がぶどうを購入してきてくれた。
種のないピオーネ、私の大好物だ。ひと粒口の中に放り込むと、濃厚な甘さと芳醇な香りが一気に広がった。それと、ちょっぴり渋味も。
「……おいしい!!」
果汁が喉もとを通った瞬間、おのずと破顔する。それから私は、二口、三口と次々に頬張った。
「そう、よかった。食べられるだけ食べなさい」
どこかほっとしたような母の顔。たぶん、私が『食べ物を口にできている』という安堵感からなのだろう。
申し訳なさはもちろんあるが、母のこの表情を見ると、私も安心する。
「あんた、髪伸びたな」
「え? うん」
「この前切ったん、いつ?」
「んーと……9月ぐらい。確か文化祭の前やったと思う」
「後ろはそんな気にならへんけど、前めっちゃ気になるな。お母さん、切ったげよか?」
「えっ!? やめてよ!!」
「えー、なんで? 私、上手よ」
「よう言うわ!! 前に切ってもらったとき、コケシみたいになったもん!!」
「……えー、可愛かったよー」
「……目、泳いでますけど」
これが、私と母の平常運転。いつもこんな感じだ。
他愛のない会話をしながら、母とふたりで、あっという間にひと房をたいらげてしまった。
「ほんなら、お母さん一回帰るわね。また来るから」
そう言ってバッグを持つと、母は椅子から立ち上がった。
まだ夕飯には早い時間だが、休みとはいえ、家事などいろいろ済ませておきたいことがあるのだろう。
「うん、ありがとう」
母には、苦労ばかりかけてしまう。
私なんかを引き取ったりしなければ、もっと自分の時間を、人生を、有意義に使えたかもしれないのに。
そんなふうにまた自分を責めていると、コンコンと2回ドアをノックする音が聞こえた。
「失礼しまーす」
室内に響いた可愛らしい声。例のごとく、鈴原先生が病室を訪れてくれた。
「あ、お母さん来られてたんですね」
頭を下げて挨拶をした先生に、母も深々とお辞儀をする。
「お世話になります、鈴原先生。娘からいつも聞いています。よくしていただいているみたいで……本当に、ありがとうございます」
「いえいえ、とんでもないっ! 茉莉花ちゃん、とってもいい子ですね。……お帰りですか?」
「ええ。またあとで来ます」
「そうですか」
「それじゃあ、失礼します」
「はい、お気をつけて」
もう一度先生に頭を下げ、私にひらひらと手を振ると、母は帰路に着いた。
「茉莉花ちゃんのお母さん、若いわねー。私とそんなに変わらないみたい」
母の容姿に、こう
それもそのはず。だって……
「ほんとのお母さんじゃないから……」
「え……?」
「ほんとのお母さん、私が5歳のときに交通事故で死んじゃって……私が小2のときに、お父さん、お母さんと再婚したんですけど、去年離婚して……。血が繋がってないのに、お母さん、私のこと引き取って、育ててくれてるんです……」
視線を下に落としたまま、口ごもりながら、やっとのことでこれだけ伝えた。
鈴原先生は、今年26歳になると言っていた。母は31歳だから、ふたりは5つしか離れていない。
「そう、だったんだ……。ごめんね、茉莉花ちゃん。知らなかったとはいえ、嫌な思いさせちゃったね」
先生の表情が曇ってしまった。こんな話を聞かされたんだ。当然の反応だろう。私は、先生のこの謝罪に、頬を緩めて無言で首を横に振った。先生は、全然悪くない。
言うつもりはなかった。なのに、つい出してしまった。……吐き出してしまった。
限界だったのかもしれない。自身の体が病に
この苦しい心境を、誰かに……いや、ほかの誰でもない、鈴原先生に聞いてほしかったのかもしれない。
室内は、暗く重たい空気に包まれた。
沈黙が漂う。やっぱり、言わずにいたほうがよかったのだろうか……。
そう、後悔していたとき。
「血の繋がりなんて、関係ないんじゃないかな」
鈴原先生が、静かに口を開いた。
「……え?」
何を言われているのか、瞬時に理解することはできなかった。
さきほどまで母が座っていた椅子に腰を下ろした先生。顔までの距離が近くなった。
「お母さんは、茉莉花ちゃんのことが可愛くて大切で仕方ないのよ。仕事も頑張って、子育てだってちゃんとして……ひとりでなかなかできることじゃないよ? すごく憧れる。私も、あんな立派な母親になりたいって思うもの」
この瞬間、先生の優しい言葉が、そのあたたかさとともに、私の胸にストンと落ちてきた。
鼻の奥が、目頭が……熱い。
「茉莉花ちゃんのお母さんは、誰が見たって『本当の』お母さんよ。……大丈夫。茉莉花ちゃんは、お母さんの負担なんかじゃ絶対ないよ」
「……っ——」
涙がこぼれた。
自分が母の枷になってしまっているのではないかと、不安で不安でたまらなかった。
誰かに言ってほしかった。母と一緒にいてもいいのだと……私は、母の娘でいてもいいのだと。
「ありがとう、ございます……」
誰かに言ってほしかった言葉。それを、ほかの誰でもない、鈴原先生に言ってもらえた。
そのことが、今の私にとっては、このうえなく嬉しかったのだ。
「早く退院して、一日も早く、またお母さんとふたりで生活しないとね」
その小さな手のひらで私の頭を撫でると、先生はきれいな笑顔でこう言ってくれた。
「……はい」
両手で涙を拭い、私はこくりとひとつ頷いた。
この日、鈴原先生が、私の心を覆っていた
◆ ◆ ◆
「今週末にも退院できるって、先生が」
「ほんと? よかったわね、茉莉花ちゃん!」
入院して、1ヶ月が経とうとしていたある日のこと。
午前中、回診に来てくれた主治医の先生が、先日行った血液検査の結果を説明してくれた。
食事も、ある程度の量を自力で摂取できるようになったとのことで、この日、退院許可が下りたのだ。
このことを鈴原先生に伝えると、先生は私の両手を握りしめ、自分のことのようにとても喜んでくれた。
と、しばらくふたりではしゃいでいたのだが、急に先生のテンションが下がってしまった。
「先生、どうかしたんですか?」
不思議に思い、顔を覗き込む。
すると、先生は、切なそうな笑みを浮かべて、私にこう話してくれた。
「茉莉花ちゃんが退院できるの、すごく嬉しいけど……残念だな。せっかく仲良くなれたのに、もう会えない」
「え……?」
会えない……って、どういうこと? 確かに、退院すれば先生と直接話する機会は減ってしまうかもしれないけど、その言い方……まるで、別れの言葉みたい。
そして、次に先生の口から告げられた事実で、それは現実のものとなった。
「私、今年いっぱいで退職することになってるから」
「!! そう、なんですか……」
「うん……」
退職——それは、先生がこの病院を去ってしまうことを意味する。この病院から、いなくなってしまうのだ。
唐突なカミングアウトに困惑する。何を言えばいいのか……言葉が見つからない。
だが、その理由というのは、
「私ね、結婚するの。だから、東京に帰るんだ。19のときからこの町にお世話になってるから、離れるの、ちょっと寂しいけど……」
非常におめでたいものだった。
一瞬しんみりしかけたけれど、そんな必要なんていっさいなかった。
私は中学生だから、よくわからないけど、それ以上に喜ばしい退職理由なんてあるのかな、なんて思ってみたり。
現に、先生の表情も、それほど硬くはなっていないし、むしろ柔らかそうだ。頬も、若干ピンク色に染まっているような気がする。
切なそうに見えたのは、実は照れていただけなのだろうか。
「……どんな人?」
私は、鈴原先生に結婚相手について尋ねてみた。
先生みたいな才色兼備のすばらしい人を射止めたその彼に、単純に興味があったのだ。
「うーん、そうだなー……」
私のこの問いに、それまでよりも顔色華やかに、先生は喜色を濃くした。私まで、つられて嬉しくなってしまう。
「賢くて、強くて、かっこよくて……強引だけど優しくて。……あ。あと料理がものすごく上手。とっても器用なの」
このときの先生の顔は、今まで私が見たどの顔よりもきれいだった。思わず、恍惚としてしまうほどに。
私にもよくわかった。先生が、その結婚相手のことを、心から慕い、想っているのだということが。
「頑張ってるところ、あまりほかの人には見せないのよ。弱音も絶対吐かないし」
「すてきな人なんですね」
「……うん」
もしかすると、見初められたのは、彼のほうなのかもしれないな。
鈴原先生には、幸せになって欲しい——そう、切に願う。
その日、私は母にある依頼をした。それを快諾してくれた母は、『すぐに持っていくから!』と、力強く約束してくれた。
退院するまでに、ちゃんと形にして、先生にプレゼントしよう。
ありったけの感謝の気持ちを込めて。
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