カンタ・グリヤ

冷泉 小鳥

プロローグ

 「カンタ・グリヤ。カンタ・グリヤ。カンタ・グリヤ。カンタ・グリヤ」

 どこか遠くから、歌声が聞こえてくる。その歌は単純な歌詞を反復していた。


 原子の雪が舞っていた。空を見上げると、雲1つない黒色が貼り付けられた空から、灰白色の雪がひらひらと落ちてくる。その雪の形は、かつて理科の授業で見せられた原子模型とそっくりの形をしていた。世界の基本要素。世界は原子でできている。


 雪は足元に積もり、摩擦のほとんどないつるつるの大地を形成している。この辺りの気温は体感では-30℃未満であり、雪が解ける気配は全くない。ちなみに、この体感気温は、浅利 佑都(ゆうと)がかつて家族旅行として北海道に行き、妹の小夜(さや)と雪合戦したときの記憶を基にしている。


 これは夢。佑都は、この世界が夢であることを知っていた。佑都はもう何度も、この謎めいた世界の夢を、繰り返し見せられていた。


 佑都は今、世界の果てに立っていた。佑都はこれ以上前に進むことはできない。白い息を吐きながら、佑都は歩いてきた道を引き返した。佑都は美しい氷の宮殿の玄関口に立っていたが、佑都はその中へと入ることはできない。佑都は幼い頃、夢の中でこの豪華絢爛たる宮殿を作り上げた。そう、それは、砂浜で砂の城を作ることと同程度には、簡単なことだった。佑都はその城に、「カンタ・グリヤ」と名付けた。その当時人気だったアイドルが歌っていたテーマソングの歌詞の一部で、幾度となく繰り返されたフレーズだった。「カンタ・グリヤ」という言葉は、その年の流行語大賞にノミネートされる程度には流行り、その後は完全に忘れ去られた。


 佑都は数分ほど歩き、夢の中での住居である掘立小屋へとたどり着いた。掘立小屋は概ね氷で作られており、吹雪から佑都の身体を保護してくれるが、寒さをやわらげてくれることはない。それでも、佑都はこの掘立小屋を愛していた。佑都が氷の宮殿を作り上げることができたのは、佑都自身の技量のためではなく、ちょうどいいタイミングでちょうどいい場所にいた、というただの偶然のおかげだった。しかし、この掘立小屋は、製作者である佑都の技量を反映したものだ。時折、吹雪に耐えられず掘立小屋は壊れたが、その度に佑都はより頑丈に、より快適に掘立小屋を改良していった。かつては屋根もなく、吹雪が入り放題だったけれど、今は二階建てであり、屋根裏部屋まで付いている。家の中が寒いのは仕方ない。何しろ、この夢の中で入手可能な建築素材は氷であり、氷とはいつも冷たいものだからだ。


「!」

 その時、佑都の視界の端を、白いワンピースを着た少女が掠めていき、そのまま姿を消した。このようなことは、夢の中ではよく起こった。佑都が氷の宮殿を作っていたとき、途中から共同制作者として加わったのが、この少女だった。その時の自己紹介を信じるのであれば、少女の名はフェイト。しかし、少女自身、「名前は今適当に付けただけだから、覚えなくていいよ」と言っていた。そう、少女は、「名前は必要ない」とも言っていた。夢の中にだけ生きている、夢の世界の住人。そのようなものなのだと、少女は自分自身について語っていた。


 佑都は、あの氷の宮殿の中にフェイトと名乗った少女が住んでいることを、ほぼ確信している。そして、少女は時折、こうして自らの存在を誇示して、佑都が少女のことを忘れることがないようにしている。いや、もしかすると、今のフェイトはこのような曖昧な形、見間違いかもしれない、と強弁できるような形でのみ、宮殿の外に出ることが許されているのかもしれない。


 あの氷の宮殿を作り上げたのは僕なので、僕は他人よりも多くの事実を知っている。氷の宮殿は世界そのものとして設計された。僕はいつも、砂場で砂の城を作るのが好きな、陰気な子どもだった。しかし、砂の城はいずれ崩れてしまう。そう、世界の外部からの介入によって、砂の城はいつも崩壊してきたのだった。だから、僕は世界そのものとして城を作ることに決めた。その際、城を作る場所は現実世界ではなく、ここではない別のどこかでなければならないのは明らかだった。そして、城の原料は砂のようなものではなく、美しく透明で、光を反射して輝く、氷であるべきなのは、佑都にとっては当然のことだった。

「カンタ・グリヤ。カンタ・グリヤ。カンタ・グリヤ。カンタ・グリヤ」

 この掘立小屋の壁から、天井から、そして床から、あの歌声が聞こえてくる。この歌は世界を満たしている。それゆえに、この世界はもう終わってしまっている、という事実が、言葉にせずとも佑都に伝わってくるのだった。

 何も生きておらず、何も死なない。製作者である佑都が時折訪れる他は、生命というものが存在しない世界。こんな世界の中で、あの少女は何を思うのだろうか?たった1日だけしか会話しておらず、その後は時折少女の残像めいた姿だけがちらついているだけの佑都には、よく分からない。


(僕は、この世界を救わなければならない。そうしなければ、僕もフェイトも、一生救われることはない)

 こうした思いが浮かんでくるが、口に出すことはない。声を聞いてくれる相手なんてどこにもいないのに、1人で喋っていても虚しいだけだ。

 

 佑都がかつて犯した過ち、その行為によって負った罪により、佑都の夢はもはや佑都の夢ではない。


 佑都の夢はいつものように始まり、いつものように終わる。何一つ問題は解決することなく、すっきりとしない印象を残して夢は終わり、時間は進み、太陽は昇り、浅利 佑都は目を覚ました。



「おはようございます、兄さん」

 1歳年下の妹の小夜に揺すられて、佑都は目を覚ました。小夜は陸上部に所属しており、朝は早起きしてジョギングするのが日課だ。朝起きるのが苦手な佑都は、目覚まし時計を使っても自力では起きられず、大抵遅刻するので、いつしか小夜が佑都を起こすのが日課になった。特に何か、2人の間に約束があったりすることはない。2人とも、当たり前のように、この現状を受け入れていた。


 佑都の瞳には、小夜は人並み外れた美少女に映る。佑都の顔立ちは、特徴のない平凡なもので、人混みに容易く紛れることができる。しかし、もし佑都が小夜の隣を歩いていると、そうはいかない。街を行く人は、たとえ急いでいる場合であっても、大抵一度は小夜を見て振り返る。それだけ、小夜の外見は見る人に強いプラスの印象を残すのだった。小夜の長い黒髪は、結ばれることもなく腰まで垂らされている。佑都と小夜が通う桜宮高校は、共学化した元お嬢様学校だけあって校則は緩く、髪を伸ばしたり、結んだりすることを規制する校則は存在しない。小夜の藍色の瞳は、まるで宝石のようにキラキラと光を反射していた。一方、佑都の濁った瞳は、朝日の光を気だるそうに吸い込むばかり。同じ血を引く兄妹なのに、どうしてこうも違うのだろう?


「……おはよう」

「もう朝食は作っておきましたから、早く降りてきてくださいね。冷めちゃう前に食べてください」

 そう言い残して、小夜は歩き去った。これから、小夜は汗を流すためにシャワーを浴びることになっているので、しばらくは佑都は洗面所には近づけない。うっかりしてラッキースケベでもしようものなら、後で酷い目に遭うだろう。


 佑都は一度だけ大きく伸びをして、階段を降りていく。佑都と小夜の部屋は二階にあったが、2人にとっては、海外に赴任中の両親が残して行った家は少々大きすぎた。2年前、桜宮高校に合格した佑都を待っていたのは、父の海外赴任の知らせだった。そこは発展途上国であり、生活力に欠ける父を単身赴任させると野垂れ死にする危険があったため、母もついていくことになった。そして、日本で教育を受ける必要のあった佑都と小夜は、そのまま2人だけで暮らすことになった。もちろん、仕送りは毎月十分な額が送られてきたが、両親を深く愛していた小夜は、時折寂しそうな表情をしていた。しかし、佑都は両親に対し複雑な感情を持っていた。両親が愛するのも、大切にするのも、いつも佑都ではなく小夜ばかり。元々「女の子が欲しい」と願っていた両親は、小夜を溺愛した。佑都は、放置された、ということはないが、小夜と比べるといい加減に扱われた面は否めない。佑都は、両親を批判したいのではない。もし佑都が父親だったら、佑都ではなく小夜により多くの愛情を注いだだろう。佑都の両親は立派な人だ。父は大手商社でサラリーマンとして働き、高い給料を受け取っている。仕事は大変で、残業することも多いが、やりがいのある仕事だ。母は専業主婦として、そんな父をいつも陰から支え、ささやかな日常から幸せを得ていた。


 佑都の朝食は、佑都の大好物のオムレツだった。オムレツを機械的に口に運びながら、佑都はぼんやりと新聞を読んでいた。新聞の一面には、平均株価が急落したことが記されていた。金融恐慌が近い、と新聞記事は告げていたが、詳細な情報は2面以降だそうだ。いつもそうだ。重要な情報は内側深くへと隠されている。


「きゃあっ!」

 その時、シャワーを浴びているはずの小夜の悲鳴が聞こえた。

 慌てて、佑都は食べかけのオムレツを放置して洗面所へと急いだ。

「ど、どうしたの?大丈夫?」

「わ、私は大丈夫ですけど、ほら、そこ……」

 小夜は裸のまま風呂場から飛び出してきていた。胸はバスタオルで辛うじて隠されていたが、刺激的な格好であることに変わりはない。佑都は小夜を直視できずに、天井のシミの数を数えはじめた。そうでもしなければ、不埒な想像をしてしまいそうだったからだ。

(もし小夜が僕の妹でなく彼女だったら、もっと良かったのにな)

 佑都はそう思ったが、いずれにせよ小夜を深く愛していることには変わりなかった。

「兄さん、どこ見てるんですか!現実逃避しないでください!」

「あ、ごめん。つい動揺して……」

 視線を下ろすと、再び小夜の白い身体が目に映った。肌の表面に水滴が浮いている所を見ると、小夜は身体を拭く暇もないような事態に直面したようだ。

 小夜の指差す先を見ると、そこにはムカデがいて、うねうねと不気味に脈動していた。

「ムカデ?ただのムカデじゃないか」

「兄さんだって知ってますよね。私はムカデが大嫌いなんです。何とかしてください!」

「僕だってムカデは好きじゃないんだけどなぁ……」

 小夜は昆虫は苦手ではないけれど、クモやムカデのような足がたくさんある虫は苦手だ。足を見るだけで、気持ち悪くなるそうだ。だから、そうした虫が侵入した場合、虫を処分するのは僕の役目となる。

 ムカデは叩き潰してから、新聞紙にくるんでゴミ箱に捨てた。小夜はその間に身体を拭き、制服姿に戻っていた。

「ありがとうございます。おかげで助かりました」

 小夜は深々と頭を下げた。

「そんなことはしなくていいよ。貸し1つ。それで十分だよ」

 そして、佑都は再び朝食を食べ始めた。


「いってきます」

 誰もいない家に向かって、佑都は挨拶した。

「兄さん、そんなことをしても、誰も返事なんてしてくれませんよ?」

「これでいいんだよ。習慣は大事にしないとね」

 佑都と小夜は、いつも一緒に家を出て、一緒に桜宮高校まで歩く。桜宮高校までの道のりは、アップダウンが激しい徒歩15分なので、自転車で登校する生徒はあまりいない。ただ疲れるだけだからだ。


 佑都は小夜と談笑しながらも、夢の中の光景、あの「カンタ・グリヤ」と唄う声のことを忘れられずにいた。もしかすると、あの世界、氷の宮殿こそが現実であり、今僕が見ている景色、眩しく輝く太陽、アスファルトで舗装された地面、周囲に立ち並ぶ建売住宅の変わらない景色、道の横に並んだ植木鉢、アスファルトのすき間で生い茂る雑草、道の脇を流れる小川、息を深く吸い込むたびに感じられる酸素、暖かさ、どこからか届くパンの匂い、そうしたもの全てが発信する生活感全てが、ただの夢に過ぎないのかもしれない……。

 その時、佑都の右手は何か暖かなものに繋がれ、佑都は思考から現実へと引き戻された。

「兄さん。今朝もぼうっとしてましたけど……またあの夢を見たんですか?」

 コクン、と佑都は頷いた。右手から伝わってくる暖かさが現実であることを否定することは、何人にもできないように思われた。


(ああ、そうだ。もし僕の存在がフィクションに過ぎないとしても―――よくあるライトノベルの主人公みたいな、一時の楽しみで消費される薄っぺらなものに過ぎないとしても―――僕は今ここで生きている。愛する人と手を繋いでいる。生の素晴らしさを感じている。この世にある美しいものと繋がっている。それだけで……僕は満足だ。これ以上の関係なんて、望んではいけない。そうだ、今が幸せなんだ。ここが僕の人生の到達点なんだ。ここが終わりだ。このまま終われば、僕はハッピーエンドだ、世界だ、全てだ、僕は幸せなんだ……)

 佑都はぼんやりしたまま登校した。何を問いかけても生返事しかしない佑都を、小夜は心配そうに見ていたが、小夜にはどうすることもできなかった。小夜の経験則では、こうなった兄は昼休みの頃にはまた元気に戻る。しかし、小夜の目には、兄が少しずつ壊れていくように見えている。繰り返される悪夢が、佑都の精神を着実に蝕みつつある、ということは、小夜も察していた。

 佑都が寝言としてつぶやくフレーズのいくつか、「氷の宮殿」「雪」、そして「カンタ・グリヤ」。これらのものが佑都の悪夢と結びついていることは、小夜も知っていた。

(お父さんも、お母さんも日本にはいません。兄さんが悪夢で苦しんでいるのを知っていて、悪夢から救い出せる可能性があるのは私だけです。待っててください。私が兄さんを助けてあげますからね……)

 小夜の鞄の中には、教育(あるいは洗脳、または調教、もしかすると催眠術)に関する書物が数冊入っていた。佑都の悪夢は、佑都の強迫観念によって引き起こされている、と小夜は信じていた。ならば、別の強迫観念で塗り替えてあげれば、悪夢は終わる。小夜は佑都を、ただの兄としてではなく愛していた。小夜の望みは、佑都を自分のものにすること。そして、その望みのためなら、小夜は手段を選ぶつもりはなかった。

 とはいえ、学校での佑都の身は安全であった。小夜がもし仕掛けるとすれば、それは2人きりであり、邪魔の入らない自宅だ。小夜は、成功率が98%を超えるまでは内心を押し殺して慎重に振る舞うことを決心していて、今現在のシミュレーションでは、成功率は95%。


 運命の日はもうすぐだった。


 

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カンタ・グリヤ 冷泉 小鳥 @reisenkotori

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