02


「……お兄ちゃん。朝だよ、モーニングだよ、愛しの来夢ちゃんだよ」



 ダルさが抜けきらない今日この頃。

 俺の足元に妙な温もりを感じ、目を擦りながら上半身を起こす。

「……何でお前が俺の部屋に居る」

 ぼやけた瞳に映るのは桃色のトレーニングウェアを身にまとったツインテールの我が妹。

 前のファスナーを一番上まで締め、サイズが大きいのか、手先まで袖に覆われている。

 その様子が目の前で確認できるのは、何故だろうか。

「ほらっ、はーやーく、起きてよ! トレーニングいーこーうーよぉー」

 よく目を凝らすと、モーニングスマイルの来夢が足に跨って、俺の身体を揺らしていた。

 来夢が起こしに来るのは珍しいことじゃないけど、こんな駄々を捏ねたスタイルは久しぶりだ。

「トレーニング? 今、何時だよ」

「5時だよ。pmじゃなくてamだよっ!」

 そんなの、言われなくても分かる。

「確かに約束したが、明日からでも良いだろ……」

 と身体を後ろに倒すが

「寝ちゃだめぇー!」

「うおっ!」

 右腕を両腕で捕まれ、グイッ、と引き戻される。

 どうやら俺に安眠の時間は無いらしい。

「もぅ! 桂子ちゃんも待っているんだから準備して! お兄ちゃんのトレーニングウェアは机に上に置いてあるからね」

 ベッドから降り、仁王立ちの来夢は机の上を示す。

 着替えを用意されるのは気恥ずかしいが、桂子ちゃんを待たせる訳にはいかない。

「はいはい。分かった、準備する。来夢は桂子ちゃんの所に行ってろ」

「えー。お兄ちゃんのヌーディ―な姿見ちゃだめ?」

「駄目だ。ほらっ、さっさと行け」

 しっしっ、と払うと来夢は顔を膨らませてドアの前へ。

「もし二度寝しちゃったら、お兄ちゃんが妹のことLove youなこと全世界にアップロードしちゃうからね!」

 ドアノブを回し廊下に出た来夢は身体を反転して投げキッス。

 マ○リックスで避けられるほど柔軟ではない俺はさっと視線を外す。

「もう、精一杯のLovein' youな所アピールしたかったのにぃー。お兄ちゃんろくでなし! でも大好きだよ」

 とフォローを忘れない妹ってマジ有能でしょ、的なドヤ顔を見せた来夢は手を振ってフェードアウト、玄関の方へ向かった。

「トレーニングか」

 懐かしい響きだな。

 高校球児時代のルーチンも、辞めてからは一切してこなかった。

 まぁ、来夢や桂子ちゃんに教える立場になったことだし、いっちょ気合い入れるか。




「あっ、お兄様! おはようございます」

 来夢が用意したジャージに着替えた俺は悴む身体で玄関を出ると、ライトグリーンのトレーニングウェアを着た桂子ちゃんがお待ちしていた。

「待たせて悪かったな」

「いいえ。私も少々寝坊してしまったので、お互い様ですよ」

 と本来、俺が言うべきセリフを言われて照れくさい。

「ふふっ、本当はお兄ちゃんにおニューの服、見てもらうの楽しみで遅れちゃったんだよね」

「ら、来夢ちゃん!!」

 とポカポカ来夢の肩を叩く。

 しかし、同じ型紙だが着る人が違うと印象が違うな。

 来夢はちょっとサイズが大きいのか、着させられているみたいで親近感が沸くが、桂子ちゃんはピシッと繊維が延びていて身体のラインが明白だ。

 胸元のファスナーも谷間の部分まで下ろしていて、中にシャツを着ているが妙な大人ぽさがひかる。

 見えるか見えないか、そのドキドキ感……良い。

「その……あまりトレーニングウェア、という物に縁が無くて、来夢に選んでもらったのですが……」

 うるうるした瞳で見つめてくる桂子ちゃん。

「似合っているよ。正直ドキッとした」

 素直な感想を述べると、桂子ちゃんの顔がほんのり林檎色に染まる。

「あっ、ありがとうございます! 来夢ちゃんに感謝です!!」 

 と来夢の肩を包み頬ずり。

 何とも百合ゆりしい行為に来夢も顔を照れ笑い。

「ちゃんとお兄ちゃんの趣向に合わせたもんね。お兄ちゃんマーケティングのプロ、と呼びなさい」

「うんっ! 同居、というアドバンテージを駆使されたのは悔しい気持ちもございますが、感服です」

 それにしても、俺の趣向はどこで筒抜けになったのだろうか。

 まぁ、追々問いつめるとしてそろそろ開始しないとな。

「……そろそろ良いか?」

 俺の声に反応した二人がピンっと反応。

 拘束を解き、俺の方を向く。

「あっ、ごめんねお兄ちゃん。素振り? それともランニング?」

「その前に、まずはストレッチだな」

 スポーツをする上で、ストレッチは必須。

 怪我防止という観点が強いが、身体を伸ばすことでより柔軟かつテクニカルなパフォーマンスに繋がる。

 特に成長期の二人には慎重に行う必要が有るな。

「内野手の二人は今後のプレー向上に繋がるし、重点にやっていくぞ」

「正直地味だなー、て思うけど。お兄ちゃんがそう言うなら」

 と渋々了解する来夢を尻目に、桂子ちゃんは満面の笑みで頷く。

 俺も久々の運動になるし、気をつけないとな。




「うーんと! 柔軟終了。お兄ちゃんランニングしよっ!」

 俺が尻を地面に付け足を広げていると、柔軟を終えた来夢に背中をトントン、と叩かれる。

 身体を捻ると薄ら額に汗を書いた来夢が顔を前へ出していた。

「あぁ、そうだな」

「昔は一緒に走っていたもんね」

「懐かしいな」

 手を差し伸べると来夢が手を引っ張り、感覚で足に力を入れる。

「あーずるいです! 私もお兄様と繋がりたいです」

 桂子ちゃんの唇を噛みしめると、来夢は両握り拳を腰へ

「ふふーん、羨ましいでしょー」

 何とも勇ましい姿に桂子ちゃんの眉間に皺が寄る。

 別に来夢とは長い期間一緒に居た関係で、ローコミュニケーションで意志疎通が出来るだけなのだが。

「悔しいですが。私もお兄様の特別になれるようにがんばります」

「ふんふん。その志はお兄ちゃん検定特一級のこの来夢ちゃんがみっちり指導しちゃうからね。厳しく行くよ」

「はいっ! 師匠!!」

 ビシ、と右手を額に当てて敬礼。

 おい、色々と間違っていないか。

「よしっ! じゃあお兄ちゃん検定合格目指してランニングだよ!」

「はい! お兄様も行きましょう」

「お……おう」

 急にボルテージが上がった桂子ちゃんに対して少々引き気味に答える。

 当の本人はスタンディングスタートの構えで敷地と道路の境界線につま先を乗せ、やる気満々だ。

 まぁ、どうせ走ることに変わりないし、モチベーションが高い方が良いだろうよ。



「はぁ……はぁ……」

 ランニングが終わり自宅に帰ってくると、少し遅れて桂子ちゃんが肩を上下に揺らしながら走ってくる。

「お兄様は、速すぎです……」

 徐々にスピードを緩め肩を落とした桂子ちゃんへ労いの意味を込めて、準備しておいたタオルを乗せる。

「ちょっと桂子ちゃんには厳しかったかな」

 家を出て、商店街を抜け、本相模川沿いを走って戻ってくる5キロのコース。

 サボっていたと言え、長年の積み重ねは簡単に消える事無くかなりのハイペースで走ってしまった。

 来夢は問題無くついてこられたけど、喘息持ちの桂子ちゃんへの配慮が足りなかったかもしれない。

「いっ……いえ。私のことは気になさらないで下さい。ついて行けるように頑張りますから」

 と胸の前で腕を曲げてにこっ、と笑う。

 桂子ちゃんの心意気は評価したい。

 だが、所詮ウォーミングアップ。オーバーワークは控えるべきだ。

「焦らなくて良い。自分のペースで、少しずつこなせるようになろうな」

「はいっ! 頑張ります」

 桂子ちゃんは頷いて、顔をタオルで覆う。

 静止したことで汗の量が増したのだろう。

 さて、これから素振りをしたいがここで重要な問題に気がつく。

「……そう言えば、俺。野球関係の物は捨てたよな」

 バット、グローブ、ユニフォーム等野球に必要な物は二年前処分した。

 あの時は無意識だったから記憶が曖昧だが、野球関係の物を捨てた事実は理解している。

「あっ! それなら大丈夫だよ」

「はぁ?」

 俺のぼやきに反応したのか、来夢が右人差し指にキーホルダーの輪を入れクルクル回しながら近づいてきた。

「はいっ! 倉庫の鍵。お庭の」

 回すのを止め俺の手のひらに置く。

 倉庫……あぁ、有ったなそんなの。

 大掃除の時ですら開けた覚えが無いから忘れていた。

 でも、何で? 

 現役の時ですら倉庫にしまった覚えは無いし、遡(さかのぼ)っても保管した記憶は無い。

「一緒に行こっ! 桂子ちゃんも来る?」

「いえ……私は休憩しておりますで、お二人でどうぞ」

 座り込んでいる姿から、相当参っているみたいだ。

 無理させない方が良いだろうよ。

「そう? じゃあ待ってて! すぐ戻るから」

 俺は来夢に腕を引っ張られ、奥ゆかしい笑みを浮かべる桂子ちゃんを残して倉庫へ向かう。

 芝生の庭を通り抜け突き当たりを曲がった先、住宅に挟まれ薄暗い空間にひっそりと存在していた。

「ライトいる?」

「あぁ、頼む」

 来夢は頷くと、スマートフォンを取り出しライトを点灯させる。

 鍵穴に差し込み回すと、ガチャと音がした。

「心の準備は良い? オープン!!」

 ガラッ、と近所迷惑お構いなしに開けられた倉庫そこには……



「なっ……何で」



「ふふっ。お兄ちゃんの野球道具。びっくりした!?!?」

 目の前には捨てたはずの野球道具が、まるで記念館のように綺麗に展示されていた。

 バットは傘立てに刺さり、グローブ、そして現役時代の写真は、昔フリーマーケットで買って使わなくなった本棚に飾られている。

 ユニフォームもシニア時代のやつから最後の試合で着た物まで、綺麗にハンガーに掛けられている。

 来夢が電灯のスイッチを入れると、より鮮明に倉庫内が確認できとても管理された空間だと認識する。

「もしかして、来夢が?」

「うんっ! 来夢なりにメンテナンスしたと思うけど……どうかな?」

 身体に触れるか触れないかの距離。

 俺は中へ入り、最も使用していた内野手のグローブにを持ち左手にはめる。

「凄い……」

 何だ……この身体と一体化した感覚は。

 あの頃と同じ、いや、それ以上に馴染んでいる。

 グローブは繊細だ。

 使えば使うほど型が付き、その人色に染まる。

 無論、しっかり管理しなけば滑らかなグラブ裁きは不可能だ。

 これなら今すぐ試合でも使えるぞ。

「大変だったんだよ。お兄ちゃん、急に大きな袋抱えて飛び出すんだもん。幸い、お休みの日だったから回収できたけどね」

 少しずつ鮮明なる記憶。

 そういえば、そうだったな。

 全ては野球が悪い、野球さえ無ければ苦しくない。

 そんな思いで、野球人生を捨てたんだよな。

「来夢一人じゃ無理だったから、桂子ちゃんと一緒に運んでね。傷心のお兄ちゃんに見つからないように気をつけたんだよ」

 無気力だった俺は注意力が散漫で、来夢の行動を気にしていなかったと思う。 

 気がついたら高校を卒業していて、気がついたら大学生になっていて……気がついたら俺は野球を意識しなくなっていた。

 空虚な二年間。

 その裏で、来夢は俺の為に残してくれた。

「……ありがとう。お前が妹で本当によかった」

「ううん。感謝するなら桂子ちゃんもだよ。来夢だけじゃここまで綺麗に出来なかった」

 すると、来夢は写真立ての足下を指でなぞり俺に見せる。

「ほらっ。ほこり、無いよね? 桂子ちゃんが定期的にお掃除してくれたんだよ」

 確かに入ってきてからほこりぽさは無かったし、湿っぽさも感じなかった。

 見渡すと所々に除湿剤や消臭剤の容器が置いある。

 余程意識していなければこんな風には出来ない。

 桂子ちゃんにも感謝しよう。

「改めてありがとうな。桂子ちゃんにも伝える」

「うんっ! どういたしまして。桂子ちゃんにも言わないと、一生口利いてあげないからねっ!」

 といつもお調子声に戻った来夢は傘立てから金属バットを取り出し、グリップの部分を俺に向けて差し出す。

「お兄ちゃんは来夢を連れて行ってくれたよね……全国」

 二年前、決勝タイムリーを打って憧れの土を踏んだ。

 結果は初戦負けだったが、応援してくれた来夢の姿は記憶の復元と共に蘇る。

 あの日、監督の冷めた態度に集中出来なかった。

 でも、来夢の陰りの無い声援のおかげで集中できた。

 そうだ……俺は来夢の笑顔が有ったから、野球を楽しむことが出来たんだ。

 頼っていたのは来夢じゃない。

 俺が来夢を頼っていたんだな。




「いこっ! お兄ちゃん。今度は来夢達が連れて行ってあげるよ」





 俺は頷きグリップを握りしめる。

 彼女達の思いを胸に刻むように。




 その後、俺は桂子ちゃんに感謝の意を伝え、朝のトレーニングを再開した。

 桂子ちゃんは謙遜している感じだったが、俺の想いは伝わったと信じたい。

 ちなみに、その後は素振りを指導したが、守備専門だった俺が偉そうに言えない分野なので、基礎中心に教えた。

 己の気恥ずかしさも関係してか、桂子ちゃんの鎖骨や来夢の汗に妙な色気を感じてしまったことは身の内に留めておきたい。

 そして、時刻は8時過ぎ。

 トレーニングを終え朝食を食べた俺は、大学用バックを肩に掛け最寄駅へ向かった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る