金曜日の追憶 - Sylvie Leclair (4)
それから一刻の後、シルヴィ・ルクレールはシスルが住まう建物の前に立ち、小さく頭を下げていた。その顔色を見る限り、まだ回復しきっているとは言いがたかったが、それでもシスルが家に運び込んだ時よりは随分よくなっていた、はずだ。
「……迷惑をかけたな。すまなかった」
「や、私が勝手にお節介を焼いただけで、アンタに謝られるのは筋違いだ。それに、面白い話も色々聞かせてもらったしな」
面白かっただろうか、とシルヴィはきょとんと首を傾げる。その所作がやけに子供じみていて、シスルは微笑みを押しとどめるのに必死だった。こんなところで笑ったら、絶対零度の視線で睨まれるのは目に見えている。
「あと、ここで話したことは」
「忘れとくよ。アンタはここにはいなかった。私とも会っていなかった。それでいいんだろ」
シスルの言葉に、シルヴィは小さく頷いた。それを見て、シスルは「はは」と小さく笑って、ひらりと片手を挙げる。
「どうせ次も敵同士だろうしな。私としても、その方が気楽だ」
シルヴィ・ルクレールはこの国を統治する《鳥の塔》の暗部だ。そして、シスルは法に触れる依頼をもこなす何でも屋。相反する世界に生きる二人が、このように、お互いの武器を手に取ることなく言葉を交わしていることの方が、奇妙なのだ。
明日からは、間違いなく今までどおりの関係に戻る。だから――今日の出来事は、「なかったこと」にした方がお互いに都合がいい。それだけの話。
「それじゃ、次会うときはお手柔らかに頼むよ、ミス・ルクレール」
「それは約束できない」
「だろうな。期待はしてない」
軽く肩を竦めるシスルに、シルヴィは感情の感じられない青い瞳を向けて、自然な所作でシスルに背を向けた。そのまま、足音も立てずにその場を去るかと思われたシルヴィだったが、ふと「そうだ」と足を止めて振り向いた。
「料理、美味しかった。……色々、ありがとう」
ぶっきらぼうな、彼女らしい感謝の言葉。
その一言を残して、シルヴィ・ルクレールは塔に向かって伸びる道を、歩いていく。その背中を見送っていたシスルは、薄い唇を微かに震わせて。
「どういたしまして、シルヴィ」
そっと乾いた風に乗せた言葉は、シルヴィに届いただろうか。
届いたところで、その一言にこめた思いが、彼女に伝わるとは思っていない。
彼女は、何も覚えていない。彼女の背を引き続ける悲劇の記憶、シスルが胸に秘めたままの記憶、本来そこにあったはずの何もかもに鍵をかけて。まっさらな今を、ただただ生きている。
曇天に向かって聳える《鳥の塔》が、そこに住まう「誰か」が望むままに。
今の彼女の姿を見る限り、それでよいのかもしれない、とも思う。忘れていた方がよいこともある。忘れてしまった方が楽になれる記憶は、例えばシスルにだって数え切れないほどあるのだから。
記憶は、罪であり、罰でもある。
そして、忘却は、決して「赦し」ではない。忘却の痛みは、時に彼女を元あった場所に引き戻そうとする。忘れてはいけないことだと責め立てる。だからこそ、彼女は亡霊のように、痛む頭を抱えて彷徨っている。
それでも、彼女はきっと、自分の罪と罰を思い出すことはないだろう。「思い出させない」ために、彼女は塔に首輪をかけられているだろうから。
そこに自由はない。だが、追憶が呼ぶ悲しみもない。シスルの胸を締め付けるものと同じ感傷も、ないのだろう。その点で、シルヴィ・ルクレールという女は、とても幸福な今を生きているのかもしれない。
――それでも、
遠ざかるシルヴィの背中を見据えながら、
――私は、忘れたく、ないのだろうな。
シスルは、自然と胸の前で拳を握り締めていた。
――それが、ハッピーエンドでなかったとしても。
ミラーシェード越しに見た、ゆらゆらと揺れる女の影に……長い黒髪を揺らして駆けていく少女の姿が被さった、そんな気がした。
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