神ヒト血鬼~ヒューマニズム・オブ・レスタト~

Jestzona

#0『もう一度アージェンタイトで』

 受け継いだものの重さを知れば、今は躊躇うこともできない。

 たとえどんな悲鳴を聞いても、切り裂く手を止めてはいけない。

 同じものだとわかっていても。同じものだとわかっているから。

 託され、背負い、受け継ぎながら、同じだけの何かを裂いて、

 屍の山を一人で築く。

 ただ一人生き残った理由はわからなくても、

 誰に理解されずとも、後に誰もいないから、たった一人で祈り続ける。

 他に救いの道があっても。

 この道の半ばで死んだ、彼らの分まで歩いているから。


  ◆


「気を付けて下さい、チーフ。コーティングは有って無いようなものですから。そんな普通の手袋ごしじゃあ触れた途端、手首まで“崩れ”ますよ」


 開かれたトランクケースの内側は、まるで宝石箱のように紅くごうしゃな布張りだった。そこに半ば埋まりながらズラリと並ぶ銃弾たちに手を伸ばすことをやめて――アルマンは息を呑む。


「……ふざけてるのか? そんな劇物、また混戦に持ち込まれたら使いようが」


「無いですね。だから弱装弾として再調製してあります。入荷が遅れたので、間に合ったのはこれだけですが」


「再調製? 入荷だ? オイこの弾……何処から調達しやがった」


「騎士団のひとつにツテがあります。そこに無理を言って、流してもらいました。どの貴族領の騎士団かは、訊かないでくれると助かります」


「……なるほど、有る所には有る訳だ。しかも、街で何が起きようと我関せずの引き籠もり共に、そのままじゃ危なっかしくて使えねえ高純度の銀の銃弾ときたもんだ。お似合いだよ、洒落が利いてやがる。くそったれが」


「そういう負い目が彼らにも有るから、調達できたんですよ。貴族領にだって、あの殺人鬼の噂は伝わっていますし……私たちに対処を押し付けることに、納得してもいないんですから」


 アルマンをチーフと呼んだ若者は苦笑し、トランクの縁を指で小突いた。そして、すぐに笑みを止めて言葉を再開する。


「用意できた弱装弾は、短機関銃サブマシンガンの弾倉一つ分。私たちの防護服――クラスⅣのプロテクターを貫徹しない、ギリギリの威力です。これの持ち手が仲間に銃口を向けた場合、私たちは殺人鬼『ヴァニッシャー』の常套手段にまんまと填ったフリをして、裏をかくことが出来る」


「お前が使え、レオン。お前以外に居ない。今夜の作戦、いざという時はそいつで俺ごと撃て」


「わかりました」

「他の奴にも、そう言っとけ。的が俺なら、弾がなんだろうと構わず撃て」

「……チーフ。逆のことを私が要求したら」

「命令だ。わかったと言え」


「……ほんと、自分勝手な人ですね。どうして皆、ついていくのか。私も含めてですが」


 嘆息しつつ。レオンは明確な肯定も否定も語らなかったが、アルマンには充分だった。


「こっちの台詞だよ、こんな部下殺しに――くそったれが」


  ◆


 かつて雪という現象があったという。空から降り注ぐ、柔らかで儚い氷の結晶だったという。

 ――そんな妖精譚を、自分は何故知っているのだろうか?

 どの本にも載っていなかったはずだ。創成期以前の文献は、平民街では手に入りようがない。人から聞いた憶えも無い。むしろ誰からも教わっていないという妙な実感だけがある。

 知識というよりは、記憶に近い手触りだ。

 知らないものを思い出すなどと、形容するだけでも馬鹿らしいが。


 それでも、『ヴァニッシャー』追跡のために初めてコフィン・シティを出て、この廃墟の風景を一望した時、これが雪の降る様に似て非なることをアルマンは悟ったのだった。


 ここに降り注いでいるものは、雪ではなく砂塵だ。

 雪と違って溶けもせず、土地を潤すこともなく、そして一時たりとも降りやまず。

 ゆっくりと降り続く微細な砂の粒たちは、遙か彼方で竜巻にでも巻き上げられた石礫の成れの果てなのか、アルマンが暮らす街の土壌とは別の世界の匂いがした。


 大量の砂に埋もれて、ビルの隙間にあるはずのアスファルトの地面はもう何処にも見当たらない。低所にある建物の一階二階は埋葬されて既に久しく、堆積に耐えかねた高架道路ハイウェイは折れて砂場に突き刺さっている。

 まれに大型トラックが斜めに半身を覗かせているのは、おおかた周期的に流砂でも起こっているせいなのだろう。それならば、廃ビル群の優に過半数が、斜めに傾き、横っ腹を何かに抉られたような傷をさらしているのも説明がつく。


 砂に埋もれた無人街。あちこちで傾き、傷付き、倒壊している建造物。錆び付いた機械たち。

 どちらを向いても横たわっている、慣れ親しんだ文明のカタチ。時を越えて、まるで自分の街が滅んだ未来にでもやって来たような、空虚な現実感。


 そんな光景が、数キロ先の巨大な“壁”まで続いている。


『通信指揮車より警告。残り……を切りました。作戦中止、……下さい。繰り返します、日の出まで残り二〇分を切りました。今作戦は失敗と判断。首都公安警察、特務三課は撤退を……』


『突入開始だ! レオンの班は四階へ上がれ!』

『了解。各員続け! 時間が無いぞ!』


 砂の立ち込める夜空に、儚い電波が放たれては消えていく。

 この街にはもう有り得ないはずの、砂風以外の、動くモノたち。砂を踏み荒らす意志の群れ。


 光が瞬く。銃声の残響を、新たな銃声が掻き殺す。それはある廃建築――かつてはオフィス街の一角であったに違いない、一棟の廃ビルだけで始まった。

 砂に埋もれた一階二階を闇に閉ざしたまま、まずは三階の一室に銃火が灯された。

 三階が闇を取り戻す少し前に、四階が瞬き始める。そして四階が消灯する前に、最上階にあたる五階ホールの窓が最も強く照らされ、最も念入りな弾雨の洗礼を受けた。

 窓を塞いでいた板金が飛ぶ。壁に亀裂が走り、一箇所また一箇所と砕けて粉塵を吹き散らす。


 発火炎マズルフラッシュに照らされた部屋は、階数に関わらず、どれも廃ビルの西側だった。

 東側はとうに崩れ落ちて、誰が隠れ潜む可能性も余地も、もはや無かったためだ。


『室内状況を確認! 屍灰しはい、動く標的、共に確認できません!』

『五階奥の通路に屍灰らしきもの有り。二人分と見えますが、砂塵が混ざって判別不能です』


 全ての階から銃火が絶えて、そんな音声通信が飛び交い始めた。


『やはり、殺人鬼がこの建物に逃げ込んだ確証が取れません。クリアリング中なんの抵抗も受けませんでしたし、誘導に失敗していた可能性が……』

『他の逃走ルートは銀鎖のネットで塞いだままだ! 狙撃班も間に合って、建物入り口に煙幕が炊かれたのを確認してる。間違いなくここへ逃げ込んだだろ! ガスと飽和射撃で殺せたはずだ! それが出来るって理由でこの建物を選んだんだから――』


『うるっせえぞ、話し合ってる場合か! 夜明けまでに署へ帰投することだけ考えやがれ!』


 飛び交う全ての通信を、アルマンの怒声が蹴散らした。

 発砲による硝煙も、巻き上げられた砂塵も、そして発煙弾から放出されていた銀の粒子片チャフガスまでもが、打ち破られた窓や壁の欠損箇所から夜風にかれて流出してゆく。


 やがて霧散し、建物上階を包む靄が晴れた頃、穴だらけの壁の際に人影が立った。

 屋内を駆け回る他の者たち同様、警察制式のフルフェイス・ヘルメットに防弾服という姿だが、ひときわ目立つきょの男。薄明るく変わりつつある空をいちべつし、襟元のスイッチを押す。


「こちらはアルマンだ。おいレオン! 四階そっちはどうなった、無事か!」

『……こちらレオン分隊。戦果は不明ですが、このまま撤退します』

「よし! 狙撃班も応答しろ! おい、どうしたってんだ、聞こえてねえのか!」


 ザザッ、ザッ、と、嫌なノイズがヘルメット内に広がった。夜空は静かだが、砂塵に含まれるなんらかの成分が、今までの作戦中にも幾度か通信を妨げてきた。ノイズはその兆しだ。


「ちっ、こんな時に……まあいい、指揮車に急ぐぞ! 破城槌ラムは捨てていけ!」


 近くにいた部下を押しのけ、壁の亀裂を睨み、アルマンは壁に改めて向き直った。

 壁には風穴が空いているが、人の通り道としてはまだ小さい。

 全員で階段を降りていては時間がかかりすぎるので、緊急時は壁に穴を作って、飛び降りて建物を出る手筈だった。その様を見れば三つの狙撃班も、撤退を理解することだろう。


 問題は壁の穴を、人間大にまで拡げる方法だが。


 アルマンは拳銃をホルスターに収納した。代わりに何を手に取る訳でもなく、グローブに包んだ拳を、ただ握り締める。

 そして当然の如く振りかぶった。

 部下のうち、最初から廊下や階段にいた少数が駆け下りていく。残りは数秒後に開かれるであろう突破口を使うつもりで、室内各所への警戒を維持した。

 アルマンの背中を、危なげに見守る者など一人も居ない。

 朽ちた廃ビルとはいえ、銃で崩れなかったコンクリートの壁を、殴って破ろうとする男。そこに疑念を抱く者は居ない。

“この時代”の何処にも存在しない。

 ――否定し、阻む者は居るとしても。


 狭苦しい防弾服に覆われた全身を以て、アルマンは拳闘のフォームを描いた。靴底で砂をき、腰をひねって半身を旋回させ、拳の弧の軌道が最も遠い位置で壁の亀裂に重なるべく、骨格というバネを限界まで軋ませる。

 発射寸前の発条弩クロスボウのように、エネルギーを溜めて傾ききった、直立姿勢に程遠い体勢。

 その臨界の瞬間に、異変は起こった。


 一迅の風。

 と共に、何かがアルマンの顔面へ降り注いだ。


 より正しくは、ヘルメットの外装バイザーから更に数センチずれた空間へ。今まさに拳で砕こうとしていた壁が勝手に割れて、破片の雨となって殺到した。

 勝手に割れて? 否。

 外から入ってきた衝撃によって、壁は破壊されたのだ。


 先ほどアルマンに押しのけられたまま、半身を窓穴にさらすように立っていた部下一名が、それに捕まった。防弾セラミクスの外装と耐刃鋼繊維の裏地からなる胸部プロテクターが、易々と穴を穿うがたれて、素通りも同然に「射線」の通過を許す。


 壁を砕いて屋外から飛来した「銃弾」は、そのまま部下の背中から抜け出でて、アルマンの認識外へと姿を消した。

 防護服とヘルメットをまとった部下が、体を射抜かれた衝撃で重力を失う。

 見えない矢で瞬間、宙に磔刑に処されたように。

 垣間見えた僅かな身じろぎは、断末魔の悲鳴をあげようとしたためだろうか?

 実際にはそれは敵わず、ほんの一瞬だけ、赤い血が見えた。

 アルマンの眼前で、部下は貫かれた胸部からたちまち赤熱を始め、その色を四肢へ伝染させていった。赤光が爪先に達する頃には、傷口はもう無い。傷口を覗かせていた胴体そのものが、黒ずんだ灰となってボロボロと崩れ落ちてゆく。


 その手にあった物――銀の弾倉を孕むサブマシンガンが、砂塗れの床で鈍い音を立てた。あとは防護服やヘルメットごと無形の灰と化して、砂風と混ざり合う。


 その光景を目の当たりにし、部下の名を叫びそうになったアルマンは、しかし踏み留まった。

 肺に溜まった有りったけの空気を、そんなことに使うのではなく。

 今の自分には、他の部下たちへ吼えるべき言葉がある――


「っ、物陰に隠れろオッ!!」


 そう言った頃には既に、別の一人のヘルメットが吹き飛んでいた。軽量合金を主材とするフルフェイス・ヘルメットが宙を舞い、想像したくもない中身を隙間からぶちまける。


 ぱぁん、という破裂音と共に、灰が周囲へ散布された。弾ける瞬間だけ眩しく赤熱し、すぐ漆黒に染まって床に落ちる。それはヘルメットを被ったままでも細かな身動きだけで誰だか判別できるほど、親しく、付き合いの長い部下の――成れの果てだ。


「うわああああああああっ!」


 間近で見た別の一人が悲鳴を上げる。そして、それはそのまま最期の息となった。直前の犠牲者の首から下が灰と化す間に、悲鳴は途絶えて、心臓を撃ち抜かれた穴から“屍灰しはい”の噴き出す音に取って代わられる。


 それは『ヴァニッシャー』と戦い始めて以来、何度も見てきた光景の再現だった。


 かくして、瞬く間に三人が消滅した。その犠牲を払ってやっと、他の者たちは部屋から逃れ、またはアルマン同様、無事な壁に隠れる。

(狙撃? 外から狙われただと?)そんなはずは無い。だが――


「こちらアルマン、最上階が西から狙撃されてる! 索敵急げ! B班バイソンC班コヨーテD班ディンゴ、応答しやがれ! ……ああっ、くそ!」


 狙撃班に繋がらない。通信が使えないというのに、風の音は相変わらず聞こえなかった。建材の欠片が散る、パラパラという音。部下たちの体の震えと息遣い。そして自分の心臓の音。

 全てが克明に聞こえるほどの、静寂が訪れる。


「……くそったれが。追い込んだ気になって、射的台に昇ったのは俺たちの方かよ。一体どこでルートを抜けやがった……?」


(チーフ、聞こえますか? 見えました。敵は時計塔です)

(痛っ――なんだ、レオンか? ……時計塔だと?)


 頭の中、鈍痛と共に湧いて出た副官の声に、顔をしかめる。

 アルマンはしゃがんだまま、手頃な瓦礫を掴み、壁に開いた穴の中央めがけて放り投げた。それは驚くべき速さと正確さでたちまち狙撃されたが、その刹那を利用して、外の光景を垣間見ることができた。


 すぐに頭を引っ込めて、頭の中で呟いた。時計塔。確かにそれらしき建物はあった。

 しかし。遠すぎる。

 この廃ビルを含む半径数百メートルの作戦範囲内には、三つの高台があり、アルマンはその全てに狙撃班を配備させてあった。だが時計塔はそのどれより遠い。少なくとも一・五キロ。

 そんな遠くから、今の精度で狙い撃ちされているのか?

 ここに逃げ込んだと見せかけて、『ヴァニッシャー』はそんな遠くに居るというのか?


 信じがたい。とはいえ、レオンの言である。アルマンは覚悟を決めた。

 この距離で反撃する手段は、アルマンたちには無い。接近する必要がある。

 殺人鬼をたおすにしろ、この状況から仲間を逃がすにしろ、誰かがそれをせねばならない。


(……レオン、本当に、時計塔で間違いないんだな?)

(確かです。私の階は高架が射角を遮るので、狙われていません。こちらから仕掛けます)

「ふざけんな、くたばりてえのか!」


 ドゴンッ。窓穴の真下、僅かに残った壁を貫いて、衝撃が再来した。

 手首を吹き飛ばされた若い部下は痛みと混乱のあまり、アルマンが制止するより早く、その場を立ち上がってしまった。追撃によって数秒後、灰と化したことは言うまでもない。


「くそったれがっ……!」

(行きます! 分隊、足に自信のある者だけ私に続け!)

「待て! 俺が囮になる! てめえが続け!」

(無茶です! こちらが先行します、みんな行くぞ!)


 にわかに焦燥を帯びたレオンの声を聞きながら、アルマンは立ち上がり、壁に開いた穴めがけて全速で身を投げ出した。


 足がかりにした廃ビルの壁が、アルマンの脚力とは違う衝撃によって破砕される。

 おそるおそる顔を覗かせた獲物を仕留める算段で放たれた銃弾だろうか? 全く違う勢いで飛び出したアルマンは、同時に、今の自分とレオンのやりとりを五階の部下は聞いていなかったはずだ、という事実をあらためていた。


 念話の扱える平民など、全く以て希有な人材である。かくいうアルマンも、自分にその適性があるということを、レオンと知り合ってから初めて知ったくらいだ。

 とはいえ回線を開くことはできず、持ちかけられた念話に応じるのが関の山であるため、いずれにせよレオン抜きでは用を為さない才能だったわけだが。


(頼むぞ……ついてこようとするんじゃねえぞ、野郎ども――)


 一応、その心配はないはずだった。何故ならアルマンはこの時、自分に可能なめいっぱいの飛距離を狙ってビルを後にしたからだ。

 公安警察の武装課所属とはいえ、平民の身で咄嗟の跳躍から“三百メートル超の飛距離を叩き出せるヴァンパイア”など、署の警官すべて掻き集めてもそう居るものではない。


 部下の追随を許さぬ初速と角度で、アルマンは廃ビルから飛び降りるのではなく、ほぼ真横へと弓なりの弾道で飛び出していた。防護服を押し破りそうな砂風の圧を退けて、暴れる気流に聴覚を塞がれながら、急速に迫る着地点めがけて体勢を反転させる。


 そして別の廃ビルの側壁に、両の靴裏と片手で当たり前のように“着地”した。

 衝撃波が砂の堆積を吹き飛ばす。コンクリート壁に半球状のわだちが刻まれる。パラパラと舞い散る砂礫を逆巻く風が拾い上げ、アルマンの視界を遮ったが――距離も砂風もお構いなしに、平民ヴァンパイアの証ともいうべき赤い眼球で、アルマンは目的地を凝視した。


 目測一・三キロの西方にそびえる、石造りの時計塔。

 レオンの言が確かなら、その建物の何処かから敵は狙撃を仕掛けてきたはずだ。

 廃墟の街並みという遮蔽物を避けて撃ってきたからには、それなりに高い階層に陣取っていると思って間違いあるまい。

 塔の頂の付近、円形の時計盤がびっしりと砂の被膜に覆われている様に焦点を合わせる。


 そしてふと、その直下の階が目に付いた。

 窓とは違う、ずっと広く四角い広間が覗いていた。暗い闇に隠されつつも、砂の洗礼をほとんど受けていないように見える。まるでつい最近まで閉ざされていたかのような――


(バルコニー……か? あそこか?)


 他方、レオンたちの位置と動きは探すまでもなく“感じ取れた”。

 ヘルメットの中、アルマンは赤い視線を巡らせて、予期していた通りの方角でぴたりと味方を探し当てる。

 眼下の街並みをくぐる一団。垣間見えた人影は五人だが、実際は六人だと明確に“わかる”。


 廃ビルから北西へ飛び出したアルマンに対し、レオンらのった針路は南西。アルマンに比べるとだいぶ小刻みに跳躍を繰り返し、地を這うように廃建築の隙間を駆けて時計塔を目指すらしかった。


 レオンらしい、堅実な移動方法だ。

 だが街並みは一様ではない。時計塔周辺には遮蔽物がほとんど見当たらないことにレオンも気付いているだろう。犠牲者を出さずに、そのエリアを突破できる保証は無い。


(俺が照準を引きつけりゃいい!)


 膝を屈め、コンクリートの側壁を砕きながら、アルマンは第二の跳躍をした。

 身を隠して進むなど論外。飛距離の荒稼ぎも兼ねて、高々度めがけて斜め上に我が身を撃ち出して、先刻以上に硬く立ちはだかる風と重力を打倒して――

 いや、実際には打ち勝ってなどいないのか。

 街並みのどの建物より高い空まで上昇したが、ほぼ同時に失速して重力の虜となる。当然の物理現象だが、問題はその変化のスピードだ。


 ようやく自由落下が始まった頃、アルマンは歯噛みした。

 遅い。まだか。あの副官はアルマンの思考ぐらいお見通しだ。馬鹿な上官が無謀な賭けを始める前に時計塔へ辿り着くべく、全速で急行していることは間違いない。

 時計塔に潜む狙撃手がどれだけの手練れでも、弾丸の速さで数百メートルを跳躍中のヴァンパイアを、いくらなんでも狙いはすまい。


 アルマンが囮として機能するには、早々に見晴らしの良い場所に着地し、レオンが時計塔に取り付くまでの間、その場所に陣取って的になり続ける必要があるのだ。

 そう思って次の足場に辿り着くことだけを考えると、重力が次第に体を絡め取っていく自然の加速度すら遅く思えた。こんな風に感じるのは生まれて初めてのことだったが――


(ん……? なんだこの違和感は?)


 廃ビルから外へ飛び出した。時計塔めがけて廃墟を駆けること数秒、時計塔までの距離は残り約七〇〇メートル。他に動きを感じられる仲間はレオンら別働隊の六名のみ。

 足りない、とアルマンは疑問を抱いた。『ヴァニッシャー』の気配が相変わらず時計塔のどの層からも察知できないのはもはや当然として、あと感じられる気配が遙か後方に置き去りにしてきた部下たちだけだという事実にまとわりつく、この違和感はなんなのか。

 居るはずのものが居ない。感じられるはずの気配が何処からも感じられない。

 その違和感の正体が、廃ビルの周囲三ヶ所に布陣させていた狙撃班らの不在であると。今のアルマンには思い当たるだけの余裕が無く、気付いて動揺できるようないとまもまた無く。


 かつては立体駐車場であったとおぼしき構造物の屋上へ盛大に着地した頃には、アルマンはその疑問をすっかり忘れ去っていた。ギザギザに割れた足場に佇立ちよりつし、即座にレオンたちの位置を再確認するや否や、全神経を前方五〇〇メートルにそびえる大建築へ差し向ける。


(さあ来やがれ! 俺はここに――)


 狙い澄ました施条の一射が、既にアルマンの眼前に在った。ほとんど偶然の所作で身をねじり、すんでの所で左にかわすと、すかさず次弾が飛来する。

 何人もの部下を屍灰しはいに変えて葬った精密射撃とはいえ、射手の方角と、間違いなく数秒のうちに自分めがけて撃ってくるという事実さえわかっていれば。この距離を隔てて真っ直ぐ迫る弾道から身を守ることは、アルマンにとって決して無謀な賭けではない。

 問題は、射手の位置が大まかにしか、わかっていないことだった。特定できないままには、たとえレオンより先に時計塔へ辿り着けたとしても、何処へ殴り込めばいいかわからない。

 二発目、三発目から、アルマンは逃げるので精一杯だった。廃車どころではない砂まみれの屑鉄の裏へ転がり込み、ようやく一息つきかけるが、これ以上ない間の悪さだった。

“視覚によらず”、レオンの軌道を感知する。安全地帯を抜ける頃合いだ。このタイミングで囮をやってみせなければ意味がない。全くの無駄どころか、アルマンはわざわざ時計塔に迫る足を止めてまで、こんな所で踊っているのだ。身を隠して休んでなどいられない――


「うおおおおおおおおっ!」


 こんな無茶がバレたら、生還しても後でレオンたちに殺されるのではないか。それがどうしたという自棄ヤケた心境で、アルマンは立ち上がり、接続具を無視してヘルメットをぶっち脱ぐ。

 三発も引きつけておいて、結局、射手の位置を特定できていなかった。要は、そういう隙をこちらに与えまいという意図で敵は連射してきたのだろうが、思う壷では分が悪すぎる。

 なら、少しでも分の良い山勘に、大枚を注ぎ込んだ方がマシだ!


「喰・ら・い、やが、れえええええ!!」


 先刻、目に留めた場所。時計塔の上層、時計盤の直下に見かけた真っ暗なバルコニー。

 そこへめがけ、アルマンは有りっ丈の力を込めてヘルメットを――投球した。

 鉄球ほどではないが、それに比べて特別軽いというわけでもない半球型の機械の塊。

 それが自転しながら五百メートルすっ飛ぶ様を、投げた当人が、異様な光景だと思った。

 奇跡的に横風もなく、放物線というよりほとんど直線で重力に喧嘩を売るその丸いシルエットは、どうやら莫迦莫迦ばかばかしいまでの的確さで目的の場所を目指すつもりらしかった。

 砲弾よろしく、『ヴァニッシャー』が居るという保証のない空間へレオンたちより先に殴り込んで、そいつは果たしてどんな衝撃を顕現するのか――いや、そもそもそんな程度の結果で済むのか。老朽化した建物の支柱ぐらいは破砕しかねない運動エネルギーの接近を、


 銃撃音が拒絶した。


(! 今のは……)その時、アルマンの知覚が捉えた光明が四つあった。

 ヘルメットが割れて横に弾かれる、甲高い弾着の石火。

 ようやく微かに聞き取れた、前方からの発砲音。

 そして――時計塔の上階、時計盤の真下に開かれた闇の奥で瞬いた、銃火の光と。

 その光が仄かに浮かび上がせた人影。黒いフード姿で、銃と共にうつせている何者かの姿。


「……ぉぉかぁああああああ!!」


 飛来する銃弾を、もはや難なくなしながらアルマンはえた。同時に、頭の中で声が響く。


(チーフもう充分です! あとは我々の突入まで守りに徹してください。狙わせすぎです!)

(ふざけんな、お前らが飛び込む瞬間に的をれなきゃ意味がねえ! てめえは早く――)

(到達しました)

(何?)


 レオンたちの気配が、アルマンの側面前方を“上昇”していった。

 いつのまにか時計塔に到達していた赤い目の六人の仲間たちが、廃建築の群れから飛び出して時計塔の中腹へ。複雑な壁面を“ほぼ垂直に駆け上がる”こと数秒。最後の跳躍を行った。

 そして狙撃手の射界に入らず、一階下の窓に飛び込む。

 る者は銃撃によって。また或る者は蹴り破って。

 部下たちのガラスを破る音が連なって聞こえてくる頃には、アルマンはもう駆け出していた。

 一度、目で捉えた以上、もう見失うことはない。

 直前までこちらを狙っていた時計塔の人影が、何かを察知したように銃座を離れ、闇の更なる奥へと身を退かせていくのが見えたのだ。


(勝った!)立体駐車場の割れた屋上面を蹴り、アルマンは跳躍しながら心で叫んだ。


 ヘルメットを失った頭、特に顔面に硬い砂が当たっても、高揚感は最早陰りようがない。

 ついに捉えたのだ。ついに追い込んだのだ。居所を特定し、こちらから攻め込んだのだ。長かった犠牲の日々に終止符を打つ時がついに来た、と血が騒ぐ。

 レオンたちのように迂回する必要は無い。元よりそんな思考も無かった。目的地とその真上の時計盤がみるみる大きくなる様に、得も言われぬ感奮が胸の内から広がってくる。

 殺人鬼は闇の奥へと後退したらしく、灰色の空を上昇するアルマンにその姿は見えなかった。

 逃げおおせる気か? 『ヴァニッシャー』ならその算段を用意してあっても不思議ではない。

『ヴァニッシャー』に迫るケースは過去にも有ったが、奴はその都度、嘲笑うようにアルマンたちの追及をかわしてきた。今回も直近の敵を殺し、こちらの探査網に穴を開けて――?


(させるかよ!)


 死んでいった部下たちの顔が脳裏に浮かぶ。

 それに続いて、なんの断絶も区別も無く、生きている者たちの顔までが想起される。

 最後の飛び石となる斜塔を蹴り壊しながら、アルマンは最後の跳躍をした。

 間近に迫ったことで、高低差ゆえの仰角が険しくなる。目指す突入口をひとたび見失うが、それも一瞬のことに違いない。

 もうなんとも感じなくなった砂風の中、時間と距離にらされて飛翔する。


 急げ、急げ急げ急げ。早く早く早く早く。

 一瞬を長く感じる。感じ取れるはずの部下たちの気配を探す。


 だが、それ以上に性懲りもなく殺人鬼の気配を探っている自分が居た。

 相変わらず、それは感じ取れない。上階からは仲間たちの気配と共に銃声が轟いて、戦闘が始まったことだけが判断できる。

 そして自分は、仲間に加勢しようとはやる気持ちに、体の全てを委ねている。そこに嘘はない。


 だが湧いてくる異物がある。

 なんだこの感覚は。

 なんだこの焦りは。


 仲間が殺されることへの恐れや焦りと共存して、理性も感情も圧倒しそうになる焦燥感。

 奴を逃がしてなるものか、と。他の誰にも“先を越されてなるものか”と。

 脳でも骨でも肉でもない身体の何処かが、我先にと何かを欲求している。


『チーフ、知っていますか? 私たちヴァンパイアという名の、一番古い意味を』


 不意に、甦る記憶があった。何週間か前、酒場でなんとはなしにレオンが漏らした蘊蓄うんちくだ。


『吸血鬼。血を飲む化け物、という意味なんだそうです。いえ、本当にそうなんですよ』

『私たちの祖先は、何を好き好んで、自分たちにそんな一人称をあてがったんでしょうね?』

『吸血というのはわからないでもないですが、鬼というのは悪趣味に過ぎます』

『そんな単語は、その手の事件を起こす犯罪者にだけ、背負わせればいいのに』


 例えば「殺人鬼」のような。アルマンは信じなかったが、同意はした。

 レオンの話が本当だろうと嘘だろうと構わないが、鬼は俺たちではなく「奴」の方だ。


(させるかよ。逃がさねえ。必ず仕留めてやる。俺のこの手で狩ってやる)


 そんなことを、自分の血が訴えているような気がした。

 生まれて初めて己の本分を見出したような、奇天烈な違和感と一体感を併せ持つ衝動。吸血鬼としての自分が『ヴァニッシャー』を求めている――なんだ? 今俺は何を考えた?


 夜空が白く薄れていく。背後で折り重なっていく薄明の輻射ふくしゃが、あらゆる死角から視界へと染み込んでくる。残り時間はほんの僅かだ。

 そして、目指す時計盤が間近に迫る――

 最後のジャンプを終えた吸血鬼ヴァンパイアアルマンの身体は悠々と風を押しのけたのち、目的の高度ぴったりで、重力に対する蹂躙じゅうりんをやめた。

 自由落下が始まる直前の浮遊感と共に、時計塔のバルコニーに降り立つ。


 そして茫然と。

 赤い光の粒が舞うのを、

 砕かれた赤が光を失うのを、

 熱を失った屍灰しはいが宙に散らばるのを、アルマンは茫然と目撃した。


 一人分の銃声が止む。

 担い手を失ったサブマシンガンが床を打ち鳴らす。

 プラスチックがプラスチックを割るような、軽く甲高い音と共に――

 よく知っている首都警察制式の防弾ヘルメットが、中身ごと白刃に断ち割られる。

 頭を横薙ぎに断割された防護服の人物が、新たに全身を赤い屍灰へと変化させて破裂した。

 その直前、ちょっとした後ろ姿に潜む姿勢や体格などの特徴からでも、アルマンはそれが部下のうちの誰なのかを即座に理解することが出来た。

 だから、その名前を今度こそ絶叫しかける。

 しかしまるで阻止するように、「それ」は速やかに次の仕手へ取りかかっていた。

 全身を覆う黒いローブに身を包んだ「それ」は、袖口から覗く幅広の両刃剣をほんの少しゆっくり動かし始めたかと思うと、次の瞬間には恐ろしい速さの太刀筋を描いて、三メートル以上離れていたはずの別の武装警官を両断し終えていた。


 全て、アルマンがバルコニーに着地してから、次の一歩を踏むまでの間に起きたことだ。


 アルマンの頭の中が、心が真っ白になる。

 だが血は真っ赤に熱を帯びて歓喜したような気がした。

 どちらの支配下で身体は動いたのか?

 既に五人の戦果を上げた殺人鬼は、まるで床が動いているかの如く闇の中を滑り、次の獲物を目指した。あるいは、既に充分な接近を完了していた。

 六人目の標的。時計塔へ突入した仲間のうち、最後の一人。アルマンの信じる副官。


「レオン!」


 アルマンの手の中で、拳銃がセミオートの火を放った。撃ち出された弾丸たちは戦場の只中へと狙い通りに直進し、それらのうち一つが奇跡的に、殺人鬼の剣へ着弾した。

 レオンめがけて既に軌道に乗っていたためか、外的な力に阻害された剣はあっけなく主の手を離れた。フロアの奥側へと回転しながら放物線を描き、朽ちた柱のひとつに深々と突き立ったことで停止する。

 ここは上階の時計盤を制御していた機械たちの墓場か。闇に浮かび上がるのは砂を被った床と柱と、似たり寄ったりのガラクタが築く蜘蛛の巣のようなワイヤーの斜線ぐらいだ。

 アルマンの靴に何かが当たる。

 そうか。この細長い銃身か、愚かな俺の部下を何人も食い物にしたのは――


「! チーフ……くっ!」


 レオンがこちらに気付いた。ヘルメットを被った細身の副官がこちらを顧みつつ、もし殺人鬼の手に剣が残っていたならば間に合わなかったであろうタイミングで飛び退すさる。

 果たしてアルマンの視界、左前方にレオン。

 そしてフロアの中央部に立って空手をローブの陰に収める、黒ずくめの人物。

 殺人鬼『消失者ヴァニッシャー』。

 ついに見つけたついに追いついた。また俺の仲間を殺したのか殺したのか殺したのか!

 まだ殺し足りないのか!


「うオオオオオオッ!!」


 気が付けば、いつのまにか、とは言うまい。自分の体が殺人鬼の黒いシルエットめがけて突進を始めたことなら自覚していたし、そういう衝動を止められない己の性も承服済みだ。

 もっとも、多くの犠牲の上に成り立ち、今もなお部下の命がかかっているこの戦いで、ワケのわからない欲動に体を使わせてやる気など全く持ち合わせていなかったが。

 ナイフが二本、殺人鬼のローブの中から飛び出してきた。ヘルメットを被っていないアルマンの両目を狙う直進軌道を、こちらは防護服の腕部で払い、即座に拳銃を発砲したが、鈍色にびいろの金属音にことごとく阻まれた。

 黒いローブの裂け目から、ナイフの次に覗いたのは両刃の大剣。

 つばは無く、元よりそんなもの要らぬとばかりに異様に幅広がった柄元から、二等辺三角形の要領で切っ先まで直線を引く左右対称の長大な得物は、今さっき弾いた代物と全く同じ形状だ。


(同じモンがもう一本だと!?)


 両刃剣が突き出されると踏んで、アルマンは急停止のたたらを踏んだ。

 部下を次々と仕留めていった相手の手練、剣捌きと立ち回りの怪を思い出せ。剣の間合いから離れればいいなどという、単純な話ではない。

 離れてレオンと連携し、十字砲火を仕掛けるべきだ。

 アルマンがそう判断した時、ちょうど呼応するかのように左側面でレオンの気が動いた。殺人鬼から遠ざかっていた部下が体勢を立て直して床を蹴る。高く飛び上がり、黒ずくめにサブマシンガンを向ける。

 跳躍の軌道を理解し、アルマンも、即座に拳銃のトリガーを引いた。

 だが殺人鬼は一歩も動かず、アルマンの放った銀弾を広い刀身で受け止めるのみ。


(チーフ、横に跳んで!)


 念話が響いて初めて気付いた。

 あの黒ずくめ。剣を盾にしつつ、もう片方の手に拳銃持ってこっそりこっち狙ってやがる!


「くそったれがぁっ!!」


 レオンのサブマシンガンと、殺人鬼の拳銃が同時に唸りを上げた。フルオートで最低八発、転倒同然に回避したアルマンの横を拳銃弾が駆け抜ける。

 そしてそれらの射撃動作と同時並行に、黒ずくめは左手だけで見蕩れるほど巧みに両刃剣を操ってみせた。頭上を大きく飛び越えながらレオンが放つ弾の雨を、『ヴァニッシャー』と呼ばれてきた殺人鬼は剣を逆手に順手にと持ち替えながらクルリとひるがえして防ぎきる。

 更に、遊底スライドの後退した銃を捨てて、倒れたアルマンへと追い打ちの投げナイフまで繰り出す。この動作だけ僅かに遅かったが、あくまで他の動作との比較でしかない。

 なんだこの化け物は。


 アルマンは更に転がり、おかげで弾切れ寸前の残弾をほとんどたらにしか吐き出すことができなかった。当たらない。弾の幾つかはちゃんと殺人鬼へ殺到したのに当たらない。


 黒ずくめのまとうローブがはためき、五四〇度くるりと回って両刃剣が投擲とうてきされる。


 投じられた剣の旋回は、天井に着地して弾倉交換タクティカルリロードを行った直後のレオンを捉え、その体に深々と突き立ったことで停止した。


「! レオン!」


 レオンの全身が、防護服やヘルメットごと屍灰となって破裂し、上階の大時計まで繋がっているらしい古びた機械の群れへと降りかかった。

 両刃剣が直下して、ワイヤーの一つを切断する。

 黒ずくめは柱を蹴りながら跳躍し、レオンの道連れにならず剣とも別の落下軌道を描いていたもう一つの物体――レオンのサブマシンガンをキャッチした。

 機械がどう動いたのか、時計塔の頂から鐘の音が鳴り始める。


「レオーーーーーーーーーーーン!!」


 アルマンの声は途中から、響き渡る鐘の音にかき消された。

 全身が沸騰するような熱感の中、アルマンは黒ずくめの着地点へ滑走し、ありったけの力を左手に込めて真下の床へ叩き込んだ。

 支柱間近の床が割れ、柱と床の支持均衡が失われたことで、破壊は広い崩壊へと拡散を始める。百年単位の経年劣化を証明するように、床は亀裂を走らせるまでもなく割れ、あるいは崩れ、ボロボロの砂礫へと瞬く間に変貌し――そして、その変化がフロア全体にまで伝染する。

 まるで、銀毒に冒されたヴァンパイアの灰化のように。

 フロアの崩壊が、建物全体のそれにまで連鎖していく。

 鐘の音がリズムを失い、それとは異なる断末魔を時計塔が上げ始める中、崩壊の起点となった大時計真下の機関室から、土煙の壁を破り、真横の空へ飛び出す影が一矢。

 アルマン。と、その腕に取り押さえられた黒ずくめの人影である。


「――ぅぉ――ォォォ……!!」


 薄れて消えていく鐘の音と、ますます大きくなっていく時計塔の断末魔を背に浴びながらも、怒りの吼え声は完全な埋没を拒み続けた。

 右の腕と左の手で黒ずくめを――そして自由落下を告げる浮遊感で地面までの距離を、しっかりと捕まえたまま。己の巨躯の下敷きにして殺人鬼を地面に潰すべく。

 だが、殺人鬼を包むローブの布が不意に波打って、アルマンの左手を絡め取った。

 確かに敵を取り押さえていたはずの両腕から、予想以上に軽いそうしんごたえがすり抜けて、アルマンは一人あらぬ方角へ加速する。

 投げられた。アルマンの突進力が死ぬ直前、あらがえる程度に衰えた直後を見極めなければし得ない妖美なまでのあしらい技で、アルマンの体は殺人鬼のローブ――おそらく最外層を構成していたマントのような黒布――に包まれ、変化した放物線の先で弾丸よろしく廃ビルに突っ込んだ。建材を破る反作用の全てを、自分の背中で受け止める。


(ぐぅああああああっ!!)


 轟音。壁と言わず建物丸ごと貫通して、その先にあった別の廃屋の根元にまでアルマンは突貫する羽目になった。銀でも陽光でも水の流れでもないが、警官でもない一般人なら致命傷に“なりかねない”圧力に、間違いなく全身の骨が粉砕され、数秒の気絶を強いられる。

 布に絡まれると同時、溢れていたはずの力が出せなくなった――この布、まさか銀が織り込まれているのか。刃物や銃弾が銀素材を含むのは“対人の凶器として当たり前のこと”だが、衣類や装飾品にまで銀を仕込むなど、平民の界隈かいわいでは聞いたことがない。この外套がいとうに限った話でないとすれば、下手すると訓練された警官でさえ、『ヴァニッシャー』と同じ格好をするだけでロクな身動きができなくなってしまうのではなかろうか? アルマンも含めて。

 それに投げ飛ばされた直後、偶然に見えた黒ずくめのフードの奥。


(黒かった……だと? いや、見間違いだ。そんな目の色、聞いたこともない)


 平民は赤。貴族は金。創世記に登場するヴァンパイアハーフダンピールでさえ赤と金の片眼ずつ。

 貴族サマが嫌うはずの銀や機械を大量に身に付けている件といい、その上でのあの手練といい、『ヴァニッシャー』の実態は近付くことで逆に余計にわからなくなっていく。

 そうか、外からあのフロアの空気を探れなかったのも銀の影響か。あの機関室全体に銀製の何かが仕込まれていたため、あの時アルマンは、先に突入したレオンたちを――


 ――レオンたちを。


 自分は死なせてしまった。また多くの部下を。あまつさえ、自分が死んだ場合には存命のすべての部下を任せられると信頼していた副官までも、自分は無駄死にさせてしまった。

 仲間をやられるたびに怒りで埋め尽くしてきたアルマンの胸中で、今までとは全く違う類の喪失感が生まれ、たちどころにあらゆる熱を奪い去った。

 自分の大っぴらな怒りは、後顧の憂いを不要にしてくれる副官が居てこそのものだったのか。

 多くを失い、ついにそれほどの大きなものまでを、自分は失ってしまったのか。

 背骨が再生していく。内部構造までは無理だが、防護服も、重さと輪郭を取り戻していく。


(……違う。失ったのは俺じゃない。俺はまだ何も失っちゃいない)


 被害者は死んでいった者たちだ。失ったのは彼らだ。彼らや、あるいは首都に居る彼らの家族に贖罪すべきこの自分、部下殺しのアルマンは、まだ手も足も血も失っていない。

 ついにレオンさえ帰らぬ人となったのに。

 自分はまだ生きている。

 なら当然、しなくてはいけないことがあるはずだ。

 痛む体を押さえ、よろめきながらアルマンは砂塵の地面に降り立った。周囲には、アルマンの体と相討ちになって砕けた、まだ断面の新しい(つまり、砂塵の皮膜が張っていない)石塊いしくれが無数に転がっている。

 それに加わるようにして、非常に見慣れた、しかし場違いな人工物が頭上から落ちてきた。


(……ヘルメット? なんでこんな所に転がってやがる……そうか)


 当初の作戦地を取り囲むように配備していた、味方の狙撃班。影も形も見えなくなってしまったが、彼らはアルマンやレオンよりも敵の狙撃を探知しやすい場所に居たし、それゆえに、『ヴァニッシャー』からもまず真っ先に狙われたはずだ。

 電波通信が滞る最中、背後からの狙撃を受け、アルマンたちより先にここを目指した者が居たのだろう。しかし時計塔には辿り着くことができず、途中でやられてしまったのだとすれば、こんな所に警察制式のヘルメットが転がっている可能性は有る。


 ――犠牲の上に成り立っている。


 ヘルメットを被り、バイザーを降ろしながらアルマンは思い知った。空が白い。場所によってはもう日が覗いているかもしれない。これらの防具で、直射日光を防ぐことは出来ない。

 拳銃は今も右手にあった。殺人鬼を地面に潰した後、トドメに撃ち込むつもりでずっと握っていた虚仮コケの一念か――投げられて廃ビルに突っ込んだ際、砕けたのがこいつの銃身ではなく自分の骨だったことが何より幸運だった。現在の弾倉を確認。後三発。身に余る。予備弾倉はポーチのアタッチメントごと何処へやらだ。

 無事なホルスターに銃をしまい、アルマンは耳を澄ました。気配を漏らすような敵ではない。自分にはどう足掻いても、『ヴァニッシャー』を見つけることは出来ない。が、もしここにレオンが居たなら、どう助言してくれただろう?

 もう一度だけアドバイスをくれ、レオン。今までの言葉からでいい、ほんの教訓をくれ。


「これ以上……」地面を蹴る。真上にではなく、だが高くアルマンは舞い上がった。


 風の中、黎明れいめいの空から狙い澄ますは、変わり果てた時計塔の跡地だった。土台部分が砂塵に埋もれているせいで跡形もなく崩落するとはいかず、全長の半分をバラしたところで落ち着いたらしい。鐘の音も絶え、土煙は砂塵と大差ないぐらいには薄まっていた。

 その跡地をにらむ。と同時に、聴覚の限りをとある遠方に傾ける。

 過熱したエンジンにせっつかれて、防塵仕様の無限軌道キヤタピラが砂上を駆ける音が聞こえた。

 味方の指揮車だ。西方、数キロ先の『壁』へと帰路を急いでいる。

 そしてそれを――日の出が迫り、首都へ通ずる地下廃道に逃げ込もうとする黒いかんおけのような装甲車を、数百メートル離れた時計塔跡、瓦礫の山の隙間から黒い人影が狙っていた。

 得物は細長い狙撃施条銃スナイパーライフル。装甲車が廃ビル群の隙間に覗く一瞬を待ち構えて――


「やらせるかアアアアアアアッ!!」


 落下しつつ、アルマンは怒号を上げた。叩き付ける全霊の拳はライフルや黒ずくめを正確に狙えたものではなかったが、落下の勢いを乗せて瓦礫の山に叩き付けた結果、衝撃が土砂崩れに近い現象を起こして、狙撃ポイントを丸呑みにする。

 アルマンは自身、かろうじて崩落の流れを逃れながら、それでも必死に廃建築の隙間から今一度、装甲車の姿を垣間見る。そうせずには居られなかった。

 思わず喉から、息を溜める暇など無いのに声が漏れる。


「……行け……っ!」


 日の出は今にも始まる。間に合え。生き延びろ。こいつのケリは俺がつける。

 いずこから如何なる軌跡を辿ったのか、アルマンの目前に「それ」が着地した。外套を捨てて尚、フード付きの黒いロングコートに身を包み、その奥にもまだ何層か同色の服を着ているらしい正真正銘の黒ずくめ。ひとたび背丈や肩幅が露わになれば、レオン並みに華奢きやしやである。

 その仇敵に対し、一歩を踏み出す。

 途端、黒ずくめの両手がブレるように揺れ、どちらかからナイフが飛来するが、


(今更そんなコケおどしが効くか、くそったれ!)


 ヘルメットの曲面が、刃を逸らして火花を散らす。

 アルマンは歩を加速させ、突進よろしく黒ずくめへ詰め寄った。


 やつは攻撃に際して、常に武器を使う。だがその全てが殺傷を目的としているわけではない。この投げナイフが良い例だ。生身の頭部をさらしていた先刻ならいざ知らず、今この状況では、回避運動を誘うための牽制打でしかないのが瞭然りょうぜんだ。そもそもこの黒ずくめは、今のところ、拳銃やナイフでは一人の犠牲者も出していない。

 警戒すべき凶器――時計塔でアルマンの部下を次々斬り捨てた両刃の大剣も、一キロ強の距離を制して狙撃をやってのけたスナイパーライフルも、今頃は仲良く瓦礫にもぐっているはずだ。


 そして明らかとなった殺人鬼の輪郭は、そういった大型の武器を他に隠し持っていないことを物語っていた。


 唯一の例外――殺人鬼のコートの背面、腰の位置で固定されている、見慣れた一挺ちょうのサブマシンガンを除いては。


「ふッ――ぉお!」


 拳を奮う。振りかぶってから繰り出す頃には、もうそれが届く程度には近付いていた。あれだけ鮮やかなフットワークで何人も葬ってきた殺人鬼は、だがアルマンの接近から遠ざかるでも、迎え撃つでもなく、紙一重で次々躱す。まるでこちらを観察しているようだ。

 それでもアルマンは、反撃を警戒して、決して大振りな動きはとらなかった。岩を砕くような力は込めない。力のコントロールは相手が一枚も二枚も上だ。力の大きさで挑めば空中で投げられた時の二の舞となる。隙は最小限まで殺して動かねばならない。


 反撃してこない黒ずくめ相手に、ジャブを空振りすること十数回。


 ヘルメットの中で急速に、呼吸と集中が乱れていく。疲労ではない。間合いも拍子も完全に掌握されている、という実感がそうさせるのだった。

 そして僅かな可能性にすがるように、アルマンの視線が再び殺人鬼の腰背面へ逸れた瞬間。突如としてこちらの守りをくぐり、いとも容易くアルマンの懐へ、殺人鬼が肉迫した。


(――――しまった!??)背筋が凍る。ガチン、という音と同時、左腕部が何かに叩かれる。


 急速に遠ざかったのはアルマンの反射的な後退ゆえか、それとも殺人鬼が身を退いたのか?

 砂の地面にナイフが落ちた。

 至近距離から奴が投じたものか? 指先で弾くように、刺すでもなく斬るでもなく――

 かくして、アルマンはようやく思い至った。

 この殺人鬼にとっては、自分という敗残寸前の平民の武装警官など全く眼中に無い。


(野郎、俺の防具を調べてやがるのか……!)


 銀の武器でアルマンを殺せば、服や鎧も燃えて灰になるから。

 生きたままのアルマンを弄んで、その装備を調べているのだ。

 今後の参考のために。

 アルマンの仲間をこれからも効率よく的確に、より多く殺し、そして殺し続けるために。


「ふっ……ざけんなあああ!!」


 衝動に任せたアルマンの一撃が、再び迫った殺人鬼の速度に――追い付いた。

 それまでは目で追うことすらできなかった殺人鬼の左手に、アルマンは拳の軌道を重ねた。銀のナイフを叩き落とす。

 殺人鬼が後退し、それを上回る速度でアルマンが接近する。

 技術も戦術もかなぐり捨てた大振りなフックが、避け続ける殺人鬼の動きを一変させた。誘い、嘲笑うような紙一重の回避から、迫るものを脅威と認めた上での、的確な迎撃動作へ。

 だが瞬間、アルマンの粗雑な連撃はその段階すら追い越した。


(今更遅ぇ!)渾身の力を乗せて繰り出したスクリュー・ストレートが、直撃こそ逃したものの、初めて獲物を掠めて、その体勢を押し崩した。


 好機。風圧を浴びて動きの止まった標的を逃すまいと、アルマンは次撃を試みる。

 果たして――必殺を予感して放った追撃の拳は、殺人鬼を逃してくうを打つこととなった。

 間に合う、体勢を立て直すまで間があるはずだ、というこちらの見立てが間違っていたわけではない。倒れた体勢からそのまま滑るように移動された――いや、倒れていく勢いを利用されて逃げられた。明らかに、アルマンの知らない体術でこいつは体を動かしている。


(力じゃない。単純な速さでもない。体の形を変えてもいない。こいつの強さはなんだ?)


 考えている暇は無い。

 距離が離れた。それも殺人鬼の側から離れてくれた。

 再度の接近戦を挑むべきか? いいや違う。当初から勝機は一つ。そして接近戦では、奴はあのサブマシンガンを使う気がない。


 もし他に銃を持っていたら? 四五口径や、四〇口径の豆鉄砲がコート裏に潜んでいたら?

 やるしかない。元より、確実な勝ち方など有るとは思っていない。

 自分に出来ることは全力を以て可能性に懸けるだけだ。レオンが残してくれたかも知れない可能性に――開けてみれば空箱だった、という結果もあり得る大博打に。


 アルマンは拳を引き、一足跳びに後退した。


 不可解な行動ではないはずだ。もう接近戦で、お前がこちらを侮ることは無いだろうし、先程は虚をいて尚、俺の拳はお前にカス当たりするのが精一杯だったのだ。事実上、接近戦は詰んでいたと言っていいし、俺の腰には銃がある―そしてお前も持ってるだろう?


(さあ来い、抜け!)


 だが、黒ずくめは異なる行動をとった。コートの裾から円筒状の缶のような物体を取り出し、自分の足元へ転がした。直後、黒煙が噴き出す。


(煙幕!? しまっ―)


 煙は黒ずくめを中心に素早く展開し、いくつかの遮蔽物や、崩れ残った時計塔の一隅まで包みながらほぼ同時に霧散した。


 居ない。見失った。だが、まだ活路が絶えたわけではない。アルマンは瓦礫の山を全速力で下り、障害物の無い、見晴らしの良い場所で立ち止まった。


 腰の拳銃の銃把グリツプに手を伸ばし、西部劇の、決闘開始寸前のガンスリンガーのような姿勢で静止する。耳では何も聞き取れなかった。全感覚が間違いなく冴え渡っていたが、体内で血と肉が、かつてないほど騒いでいる。生まれて初めて味わう世界だった。


 アルマンたちヴァンパイアにとって、肉体は器でしかないという説を聞いたことがある。アルマンが服を着るように、何かがアルマンという肉をまとって、個体が成立しているのだという。

 例えば、今着ている防護服。壊れたはずの装甲が、曲がりなりにも外形を取り戻し、今もこうして服としてアルマンの身を包んでいるのは、アルマンの平民らしからぬ自己治癒力が肉体だけでなく服までを再生したためだ。これはアルマン特有の現象ではなく、コフィン・シティで暮らす全てのヴァンパイアに共通することである。

 アルマンの肉体を癒そうとした、アルマンの中のなんらかの中枢は、肉体と被服の区別をしていないわけだ。その中枢は血であるとも、魂であるとも語られている。


 今、アルマンはそんなオカルトの諸説よろしく“自分が拡がっていく感覚”を味わった。

 普段は血と肉と骨、せいぜい服を占めて満足している己の魂だかなんだかが、それでは足りぬと、体の外まで版図はんとを広げてくるような錯覚。もっと広く、大きな器を求める欲の疼きを。

 そのためには、自分の肉体自体を作り替えることすらいとわない血の猛りを。

 まるで噂に伝え聞く貴族吸血鬼ヴァンパイアロードたちのように。神話の時代、ヴァンパイアがまだこの世界の支配者でなかった時代から存在し続けているという、偉大なるエインシェント・ヴァンパイアたちのように。


 視界の端で、何かが動いた。


 アルマンは自分自身の銃を抜く素早さに舌を巻きながら、しかし懇切丁寧に狙いをつけてトリガーを引いた。我が身を守ることを今は考えなくていい。体の重心を正中線に固定して、まるで射撃訓練場で撃つように無警戒に、当てることだけを考えた。

 銀の銃弾が撃ち出された。現れた標的、つまり黒い人影の胸の中央ぴったりに風穴を開けて、ビシリと走った亀裂が黒コートの人影を四つに増やした。次の瞬間、鏡面がただの無数の破片となって飛び散ったが、それの意味するところがアルマンには理解できない。


 彼は、鏡や水面が物体を映し出すことをもちろん知っていたが、“人の姿が映るなどとは想像したこともなかった”のだ。鏡を覗いたことはあるが、そこに自分の顔姿を見つけた経験など無い。映るのは無生物―建物や、ヴァンパイアが身につけていない衣類や道具のみだ。コフィン・シティの鳥獣どもだって映りはしない。


“昔はそうではなかった”などと、知る由もない。


 後方から、何か来る。体が反射的に振り返ろうとしたが、それでは間に合わないと踏んだアルマンは体勢を崩して横に転がった。

 直後、フルオートで最低八発。銀の銃弾がアルマンを追い、後半の何発かは追い付いてきた。ヘルメットにヒビを入れ、膝のプロテクターを剥ぎ、そして二発が右腕を貫通する。


「―ぐ―あッ―!!」


 腕は穴があくのではなく、肩の付け根から吹き飛んだ。拳銃を掴んだままの右腕が宙を舞い、逆に腕を失ったアルマンは反動で地に叩き付けられた。体に溢れていた力は消えて、傷口から灰が噴き出す。自分の屍灰を浴びながら、彼は黒ずくめの姿を見つけた。

 アルマンが発砲したのとは、正反対の方角。距離十メートル足らず。

 その手には黒く四角張ったフォルムの自動拳銃オートマチックがあった。レオンのサブマシンガンは、引き続きコートの背面に据えられたままである。


(…くそ…ったれが)


 体中から力が抜けていった。倒れたままで動けない自分の体、外しようのない距離、そして敵が隠し持っていた拳銃。既に銃口は定められている。アルマンは絶望した。

 奴はもう、あと一発撃つだけで自分を殺せる。更に言えば指一本動かすだけでいい。自分が死ぬのは一秒後か二秒後か? いや、たとえ撃たれずとも、傷口から灰化が進んで数分の命か。

 もしそうなったら、日が昇って焼け死ぬのと灰化で死ぬのと、どちらが早いだろう?


 アルマンがついにそんなことを考えた瞬間、黒ずくめはトドメの動作に入った。


“撃ち尽くした右手の銃を捨てて”、腰の後ろから銃を取る。アルマンの赤い目が見開かれた。


 同時に、頭上で自分の右腕が破裂する音を聞いた。一気に灰化したらしい。間違いなく、まとっていた防護服の袖やグローブまでまとめて灰になったはずだが、例外が一つだけある。

 アルマンの体が動いた。みっともない、脚のもげた虫のようなバタつきで体を起こし、傷口からますます勢い良く灰を吐き出しながら、もつれる足で地を蹴った。

 空中で、手を伸ばす。腕ごと吹き飛んだ後、その腕までぜて更に宙へ突き上げられた彼の拳銃が、弾倉の中身ではなく、それ自身が銀でできているかのように白い光を反射していた。


 アルマンがその銃を取ろうとしていることを、黒ずくめはすぐ理解したはずだ。だが誰がどう見ても、隻腕の男が空中で銃を掴み、狙いをつけるより、黒ずくめが撃つ方が早い。

 アルマンの無事な左手が拳銃に届いた。黒ずくめはその銃ではなく、アルマンを標的にした。


 サブマシンガンが唸る。


 弱装火薬に射出された銀弾の雨が、拳銃を掴んだばかりのアルマンの体に次々と命中した。

 アルマンを包むプロテクターは一度壊れている。防弾用の層構造は失われており、本来ならば易々と凶弾を招き入れるハリボテの鎧と成り果てていたが、レオンのサブマシンガンから放たれた特製の弱装弾はそれさえ貫通せず、殺到し、表面に食い込んでいくのみ。


「おおおおおおああああああアっ!!」


 激痛と闘志で、アルマンが吼えた。軽量サブマシンガンの銃声は続き、アルマンの鎧に亀裂を刻み続け、その衝撃を体内に伝えたが、貫くことだけは適わない。

 ようやくヘルメットのバイザーが砕けたとき、アルマンの体が黒ずくめの間近へ落ちてきた。覆い被さるようにぶつかり、隻腕ゆえにしがみつくこともできぬまま、倒れながらたった一発。

 その一発が黒いコートに穴を開け、それを着る者の脇腹を貫いた。

 ビチャッ、という音で飛沫しぶきが散って、アルマンのボロボロの鎧にかかった。熱い。アルマンはそれを屍灰の熱と信じて疑わなかったが、バイザーの隙間から目に入ったのは血の滴だった。思わず片目を閉じながら、その感触―痛みと熱に、全身がしびれて動けなくなる。


(ぐっ、なんだこいつは…屍灰じゃねえ、“なんで血なんかが”…それにこの臭い)


 目の前の黒ずくめは、脇腹からますます血を流しながらよろめいた。灰なんて一粒も出てこない。レオンの特注弾には劣るものの、制式純度の銀の弾芯弾殻が確かに胴体へ穴を開けたのに、どうして灰化しない? 貴族の中には銀への耐性を備えるものがいるというが、この殺人鬼はそれなのか? 自分は貴族と戦っていたのか? 都市伝説同然の怪物と?


 血が入らなかった右の赤い目で、アルマンは黒ずくめをなんとか見上げた。“片腹から血を流すだけなら無傷のようなものだろうに”、そいつは何故か銃創を押さえて、傷が癒える様子もなく、後ずさり、アルマンから離れていく。視線が合った。やはり両目とも黒い。


 そして去りゆく方角の先では、地平線が―いや、遙か遠き『壁』が白く光り始めていた。


 朝だ。日が昇ったのだ。ヴァンパイアが身動き出来ない時間帯。しかし前任の部隊が遺した情報通り、黒ずくめは仄かな逆光で輪郭を白く染めながら依然、歩き続ける。歩いてゆく。

 その動きに合わせて、地面の上を身じろぎする何かがあった。信じがたいが、奴の影だ。鏡に姿を映すどころか、奴は太陽光を浴びて影を創るらしい。


 平民離れした速さと身のこなしをみせ、大量の銀の得物で武装し、鏡に姿を映す術をもつ。都市の外でも昼間デッド・タイムに力を失わず、直射日光を受けても無事で、それどころか浴びながら影を出すことができ、目は黒く、銀に貫かれても灰にならず血を吐くだけ。


 そんなヴァンパイアの話、聞いたこともない。


 銃に弾は残っていた。しかし、アルマンは体が震えるばかりで自由にならず、銃を傾けることすらできなかった。朝になったからではない。傷を負いすぎたからでもない。力が抜けるのではなく、逆に全身がこわる感じなのだ。

 特に、血を浴びた箇所が熱い。引っ込んでいたはずの血の昂ぶりがまた体から溢れ始めて、まるで防護服に付いたあの黒ずくめの血を舐めるように―この血も変だ。本体から離れたくせに灰にならず気化もせず、主に戻ろうともせず、なんでこびり付いている?


 目の奥も熱い。焼けるように痛い。


 日差しがついにアルマンに届いた。熱い。と同時に、全身の力が抜かれていく。なのに例の感覚は、降り注ぐ死の光の中わざわざ増長して、鎧や地面の血を舐め回しながら全身を包み始める。蛇のように踊り、炎のようにうねって、死んでいく以上の勢いで活性化していく。


 この血はなんだ。奴は何者だ。体が死んでいく。魂は死と再生を同時に味わっている。

「ぅぅぅぅぉぉぉぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおああああっ!!!」


 日没まで、あと一一時間と四〇分。




――#0『もう一度アージェンタイトで』終




 遠い遠い昔、とても恐ろしい魔王が居て、この世の滅びを食い止めた。

 けれど彼はあらゆるものを憎んでいたし、病は既に世界そのものを変貌させた後だったので、

 途方もない代償を支払ってなお、世界を救うことはかなわなかった。


 かつての通りの、本来在るべき命の人々は地上から姿を消し、

 命という言葉の意味すら変わってしまった新たな世界で、

「生き」残った人々と「生み」出された新たなヒトたちは、大きな棺に閉じこもり、人生のような夢をみる。


 いつでも外に出られる癖に、私たちのほとんどは、地平線も星空も見たことが無い。かつての通りの空と光が、死の意味だけは変わらず教えてくれるから。


 これはきっと、そんな世界の物語。


カミ ヒ ト ケッ 

  - たった一人の最後の人間レスタト -

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