60. 増える。増えるよ真弦の子供!




 真弦の腹がパンパンに膨らんで歩行がゆっくりになった頃に、4コマ漫画の臨時アシスタントに津川聡美がやって来た。


「4コマ漫画じゃ産休貰えないのが辛いのね」


「そんな事はいい、陣痛と破水が始まる前に描く!」


 真弦が漫画に関して困った時に泣きつくのは決まって漫画人生の先輩である聡美である。


「とにかく下書きを描く! ペン入れは手伝うから早くするんだ」


「サトさんん……どうしよう、予定日の明日が今日に……! 明日が今日に!」


「うるさい! 産気づく前に描いてしまうんだよっ」


「お産終わったら原稿描けばいいかなぁ?」


「そんなんで間に合わなかったらお前は、ルンルンから、漫画業界から干されるんだぞ?」


 聡美が言う「ルンルン」とは、真弦が連載する少女漫画雑誌の名前である。


「うぐう……締切はまだ先なのに、お産で前倒しにするこの気持ちって……」


 真弦は漫画を強制的に描く苦痛に耐えながらなんとか4コマ漫画を描いていた。


「子供がポコポコ生まれてうらやましい限りだよ。こっちは不妊症だってのに」


 聡美は結婚してから未だに子供が出来ていなかった。だが、その不妊症が逆に夫婦仲を良くして現在まで夫と仲が続いていた。


「今日産まれるのか、今日産まれないのかの不安はサトさんにはわかるまい」


「そんな事わかるわい! ガキが産まれるか産まれないかの瀬戸際で漫画やってるんだから気持ちぐらい共有してらあ」


 漫画で切羽詰まっている女共の口調は荒い。

 真弦の出産という爆弾を抱えながらの漫画作業は時間の問題になってきそうだった。


 真弦の子供の心配は保育園やセイヤが見てくれるから心配はいらない。締め切り前はただひたすら漫画に向き合うだけである。


 真弦と聡美が4コマ漫画を描き始めて数時間が過ぎた頃だろうか、やっと描き終ったと真弦が原稿を整えていると……。


「うっ……!」


 真弦がデジタル原稿を見つめたまま硬直する。


「どうしたマトリョーシカ弦!?」


 聡美がペンネームで真弦を呼ぶと、真弦はギギギと歯から軋んだ音を立てながら口を開く。


「破水……した」


 床を見るがまだ真弦の座っている辺りからは水滴が落ちてきていない。


「ぎゃあああーっ! 来たぁぁ!」


 子供を宿していない聡美がいきなりパニックに陥る。

 携帯を取り出すなり、110番を間違って押して救急車を呼ぼうとする。


「サトさん、落ち着いて……」


 出産経験が無い聡美は落ち着いている訳が無い。


「待ってて、救急車呼ぶから」


「タクシーでいいよ。いや、それよりも編集部に原稿を送ってからでも遅くない」


 真弦は破水しても割と呑気に構えている。本番には強い女なので、肝が据わっていた。

 ブランケットを椅子の上に敷いて座った。頬を叩いて気合を入れ直す。


「サトさんはタクシー呼んで。私は編集に連絡して原稿送るから」


 てきぱきと動き始めた。土壇場で真弦の頭は冴えだしていた。


 そして5時間後、真弦は無事に4番目の男児を出産した。名前は光弦みつるといって、真弦にも光矢にも似てないモブみたいな顔をしていた。





 吉良家の子供は4人になった。あれもこれも光矢が悪いと決めつけるのは真弦は辞めにしたらしい。

 夫婦で協力して仲良く小さな子供達を子育てしている。


 机に向かう真弦は赤子の光弦をスリングに入れ、片乳を出して乳を与えながらパソコンで漫画を描いていた。

 真弦が書いているブログの『マトリョーシ母さん』が大ヒットしており、連載している漫画の書籍化の話が出ていた。加筆修正の作業に入っており産後も休む事が許されない。

 現在、マトリョーシカの由来にあたる双子についての4コマを修正していた。


「俺も手伝おうか?」


 手持無沙汰な光矢が真弦の後ろでウロウロと歩いている。学生の身でろくに働いていないのを気に病んでいるらしかった。


「いや、いい。あんたは真弓達をショッピングモールにでも遊びに連れてってやればいいんだ。……帰りにクリームドーナツ買って来て」


 真弦はディプレイに向かいながら光矢に答えた。子供と旦那も相手に出来ないほどの忙しさだった。


「あのさー、日曜日ぐらい休めよ。体に毒だぞ」


 光矢も真弦の忙しさを心配している。


「別にお前は働かないで良いんだぞ? 来年から俺、研究室に配属される事になったし」


 ぴく……。真弦の耳がピクピクと動いた。ひっつめ髪だからよく分かる。


「早く言えーっ! 私がどんな思いで時間切り詰めて働いてると思ってるんじゃー!」


 真弦はブラウザの前でしくしくと泣き始めた。

 そして、シャキンと立ち直ると、「これもネタにするからいいや」と呟いた。


 妻に泣かれた光矢はけろりとしており、娘と双子を連れてセイヤと一緒にショッピングモールへと出かけて行った。


「どんどん同人から遠ざかってる……」


 真弦はブラウザの前でぼやきながら漫画を描き続ける。





 真弦は一体どこに向かっていくのか本人にも解ってないみたいだ。

 またもう一人、通算5人目を身ごもった辺りで月刊連載の話が舞い込んできた。今度は4コマギャグ漫画でもないストーリー漫画だった。


「おめでとうございます、真弦さん!」


 漫画イラストスクールの生徒の佐藤が手を叩いて喜んでいる。


「喜んでていいのか? イラストスクールの存続が危ぶまれるんだぞ」


「……それは困りました。プロの漫画家の元で絵を学べないのは僕としては損失に値する」


 日曜日のスクールは佐藤一人だけになっていた。田中という女子大生は佐藤との関係が終わったらしく、スクールに来なくなってしまった。

 現在は10人の生徒が残っている。


「ところで佐藤、何でアニメーション学院とかそういう学校に進まずに普通科に進学したんだ?」


「真弦さんは分かってるでしょ。将来学園物を描く為ですよ」


「ふぅん。で、同人の方は描けそうなの?」


「現在の若草学園に漫画研究会は存在していないのです。家で活動するしかなさそうです」


「何を言う、後輩! 同好会を立ち上げるんだよ。学生時代の私みたいに会長になれ会長に! お前には十分な実力がある」


 真弦は佐藤を説得して、母校である若草学園の漫画研究会復活を望んでいる。

 かつて真弦の身代わりの真澄が潰した部活に未練があったのだった。


「わかりました。学校で堂々と活動するには部活を創立するしかありませんね」


「よし、頑張れ後輩! 私は頑張って連載漫画を描くからよろしく頼む」


「で、漫画スクールの方は?」


「……どうしよう」

 真弦は選択の岐路に立たされているのだった……。


 吉良真弦の選択は正しかったのかどうかは分からない。

 結局、漫画イラストスクールは畳んで月刊漫画連載を2つ抱えた。


「真弦さん、僕をアシスタントにする気はありませんか?」


 漫画イラストスクールの最も古株である佐藤が毎週日曜日に邪魔しにやって来て一緒に違う原稿を仕上げている。


「ないない。うちは臨時でも高校生を雇う気は無いから! 乳母業務ありのブラック企業だからね」


 真弦は高校生の労働を拒否する。真弦が高校生の時にアシスタントに行っていた八雲プロジェクトはグレーに近いホワイト企業であったからだ。嘘でもブラック企業だと宣言していた。まあ、先に脅しておけば食いついたままにならないと思ったからだろう。


 子供の泣き声をバックミュージックに、漫画作業は淡々と進んでいく。

 双子の男の子の喧嘩は毎度の事だから真弦は助けに行かなかった。乳母役のセイヤが彼らを仲裁しに中に入っている。


「光太がポケ●ンとったー」


「光男が飛行機こわしたー」


 仲が良いのか悪いのか分からない真澄にそっくりな双子は互いに泣いていた。性格は真澄に似てないのが幸いだ。


「お前らうるさい! 仲良くしろ!」


 真弦は一喝するとまた漫画作業に戻るのだった。この日常の光景を、また真弦はブログのネタにするのだろう、テーブルの隅にあったメモ帳にメモをしていた。


「ほうら、子供の邪魔があるアシスタント業務は嫌だろう?」


「……子供の所為で原稿が進まないのは嫌ですね」


「そう……だろう?」


 佐藤のアシスタント申し出を断った真弦は悲しくなってきていた。

 4人の子育てをしながらの連載は厳しいと感じていた。



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