34. 去勢手術が怖いから家出する
真弦の家に子猫がやって来て2ヵ月が過ぎた。陽射しが暖かい5月である。
汚い毛色のサビ猫娘はすっかり大きくなり、「ミィミィ」泣いていたのがすっかり「ニャー」と吾輩と似たような鳴き声になった。
あれから里親を募集し続けたが、不細工な容姿の猫は貰ってくれず現在に至る。吾輩としては親子水入らずでとても幸せだ。
真弦は進級して高校3年になっていた。
「この子の貰い手つかないねぇ」
子猫が来てちょくちょく顔を出すようになった美羽が綻びた猫じゃらしを直しながら呟く。
真弦と美羽は相変わらずこっそり同性愛を貫いている。
「そういえばこの子に名前付けたの? 無いと不便じゃない?」
現在、ソフトボールにじゃれ付いている子猫の仮の名前はあるにはあるのだ。
真弦は膝の上にだらりと横たわる吾輩の背中を撫でながら答える。
「……一応、『ウンコタレ蔵』という名前は付けてあるんだ」
美羽は一瞬固まる。
汚い毛色の子猫の名前はとても真弦らしいネーミングセンスである。下ネタを絡めてくる辺り、名付け親が天上院真弦としか思えない安直な名前だ。まあ、よく猫トイレの外でウンコを垂れている子猫だからっていうのもあるのだろうが酷いよ!
「ウン……? タレ蔵ちゃん……でいいの? この子女の子だよ?」
「だって仮の名前だよ。別にいいじゃないか」
「玉ちゃんの時でさえ適当だったのに、真弦ってば!」
こうやって真剣に真弦を叱る人は美羽しかいない。今出かけている同居人の光矢は猫の名前なんてどうでも良いらしく、「お前」や「おい」と呼んでいて気にも留めていないのだ。
「あ!」
何かを思い立った真弦は、いきなり珍しく自分の親に電話をかけだした。
そう言えば子猫の貰い手の宛てを今まで親に頼っていなかったのだった。
親子の健康の事を報告しあって数分後……、
「うん、うんうん、口座に振り込んでおいてよ。玉五郎を先に去勢してから8月辺りにタレ蔵の避妊手術するからさ」
……今、「去勢」って仰いませんでしたかお嬢さん? 去勢ってまさか!?
吾輩の名前、金玉五郎の由来である金玉が除去されるとでも……?
まさか、まさか……!?
真弦が通話を終えると、美羽が身を乗り出してきた。
「真弦、タレ蔵ちゃんも飼うの?」
「いんや、ワクチンと手術も済んでたら喜んで貰い手が現れる気がして」
吾輩の毛色の汚い愛娘は飼い続ける気が無いらしい。
ていうか……去勢手術だと……!? 父と娘で手術……!?
そして真弦は、吾輩かかりつけの動物病院に電話予約をし始めた。
「ハイ、じゃあ今週土曜の10時ですね。よろしくお願いします」
土曜日って……今日は火曜日! あと4日しか雄でいられないだと!?
吾輩はいつもの籠の中に戻ってガタガタと震えはじめた。
自分が自分である意味が無くなる……だと!? 人間の身勝手な行為によって……。
「(父ちゃんどうしたの?)」
何も知らない娘が吾輩の様子を見に来た。世間を知らない子供に手術の事を伝えて怯えさせるのはどうかと……。だが、いずれ知る痛みを伴う現実なのだから教えようかどうかと迷う。
ガチャッ。
突然部屋のドアが開いた。
「ただいまー」
疲れ切った光矢が帰ってくると同時に、去勢手術に怯えた吾輩は弾丸のように外へ飛び出したのだった。
この春高校を卒業した鈴木祐二は晴れて深夜バイトにシフトチェンジしたようだ。
特に顔やファッションに特徴も何もない平たい顔の彼は大学にも進学せず、フリーターという道を邁進している。この前、駅前のハンバーガーチェーンの前で昼にそこの制服を着てゴミ出しをしていたからかけ持ちをしているらしいな。
コンビニバイトのベテランになった鈴木が店の裏に出てきて畳んだ段ボールをゴミ捨て場に片づけている。
「ニャー」
吾輩が鳴くと、店内に戻ろうとした鈴木が振り返った。
さあ早く、腹を減らした吾輩に廃棄された弁当を一つよこすんだ!
「玉五郎か。この時間に散歩なんて珍しいなぁ」
鈴木は吾輩が天上院真弦に飼われている事は承知している。そんな鈴木は吾輩を持ち上げると、毛皮をくんかくんかかぎだした。
「はぁ~真弦ちゃん真弦ちゃん……」
ちょっ!? 鈴木、まだ真弦の事諦めてなかったのか!?
ていうか、吾輩を嗅いでも真弦の匂いなんて微塵もしないと思うんだけど……?
「この獣臭の中に微かに真弦ちゃんの匂いが……」
しないしない! キモイ!
暗闇の中で猫の匂いをクンクン嗅いでいる人間の気持ち悪さったらどう表現したらいいのだろう? とにかく、鈴木は今、他の人に見つかっちゃいけない姿をしている。
真弦は黙っていたら花のように清楚で美しい娘だからな、外見で惚れる男がたくさんいてもしょうがないのだろう。
「……真弦ちゃん、早く彼氏と別れないかな? あんなチャラ男じゃなくて俺の方が真弦ちゃんの恋人に相応しいと思わないか? なあ、玉五郎よ?」
糸目の不細工なお前なんか真弦の彼氏に相応しくねーよ! と吾輩に人間語が話せたら叫んでいたかも知れない。そしてまだ匂いを嗅がれている……。
しばらくして、鈴木は他のバイトに呼ばれて店に戻って行った。
吾輩の帰る場所は真弦が住むまゆみ荘ではなくなったのだ。
そう、また野良に戻ったのだ……。
シャッターの閉まった暗い商店街をとぼとぼ歩いているが、昼間の賑やかさとは違ってしんと静まり返っている。
昼間は暖かく絶好の昼寝日和なのだが、夜になると気温がぐっと低くなって体が冷える。
確か、居酒屋『歌声』の室外機の上は暖かかったと記憶している。
吾輩は早速場末の居酒屋の脇に設置してある室外機の上に上がって暖を取った。
数時間が過ぎた頃だろうか、ほろ酔いのどこかで会った事があるような長身のナイスミドルが居酒屋から出てきた。
「おや、吉良家の……」
ナイスミドルは宮司の服を着ておらず私服だったが、確か因幡という男だ。
因幡は吾輩を見下ろすと、スッと手を伸ばした。
吾輩を簡単に抱っこすると、首輪に着けている迷子札を確認する。
「ふむ、やはりな……」
因幡が長い片腕で吾輩を確保しながら、携帯を操作する。
5回ぐらいコールしたところで相手に繋がった。
「あ、もしもし、シメノちゃーん? うん、うん、ごめんねー。シメノちゃんの生徒さんの猫が迷子になってたから届けてくる。ちょっと帰るの遅くなるよん」
因幡のオッサンは奥さんに2トーンぐらい明るい声で状況を伝えると通話を切った。
奥さんの前では性格が180度変わるみたいだな……。知りたくもないのに彼のちょっと複雑な背景を知ってしまった。
吾輩は因幡のオヤジによってすぐにまゆみ荘に強制連行された。
帰る途中、吾輩は因幡の荷台がチャイルドシートになったママチャリの籠に入れられていたのだが、自転車だろうと飲酒運転はいけないよ。
その後、吾輩は手術日まで真弦の家に監禁される事になった。
吾輩の固い決意とは裏腹に、人間の権力には逆らえないようだ……。
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