予定調和という檻の中で囚われの少女が願った奇跡

ゆきしぐれ

与えられた記憶

5月。日曜日の早朝。

「ピピピ……ピピピ……」

 とある高級マンションの薄暗い一室に、けたたましい電子音が鳴り響く。最低限の生活用品しか置かれていないせいか、どこか無機的な印象をうける空間だ。部屋の主である少女はすぐにまぶたを開き、腕を伸ばして目覚まし時計に手のひらを乗せた。

 おそらく、気持ちが高ぶって良く眠れなかったのだろう。今日は、少女にとって大切な日なのだ。

 簡素な文字盤が示す時刻を改めて確認し、少女は決意を固めた。

 遮光カーテンはわずかな隙間から光を招き入れ、窓の外が晴天であることを少女に知らせている。開かれるのを今か今かと待つそれは、未来への扉のようだった——


 少女の名は有希。内気で人前に出るのが苦手であることを除けば、高校に入学したばかりの普通の女の子だ。

有希に、おはようを言う相手はいない。目玉焼きとトーストで簡単に朝食をすませ、顔を洗う。洗面所では、あまり鏡を見なかった。鏡の中の自分と目を合わせると、決心が鈍ってしまう気がしたからだ。有希は蛇口から出る水を顔に浴びせ、柔らかいタオルで滴と一緒に臆病な心もぬぐった。


 ショートボブから飛びはねた毛束を手のひらで撫でながら、再び寝室へ。着ていく服はもう決めてあった。昨日の夜から壁にかけていた、お気に入りの白いワンピースをとる。それを頭からかぶって背筋を伸ばすと、ストンと落ちて、膝が隠れる高さまで細い体を覆った。

 身なりにさほど頓着がない有希は、いつも10分程度で身支度をすませてしまう。小振りで紐の長いバッグを肩から斜めにかけ、最後にもう一度中身を確認する。印鑑、保険証、学生証。頼もしいそれらに背中を押された有希は、綺麗な石が散りばめられたサンダルのかかとをパチンと止めて家を出た。


 有希が向かう先は市立図書館。本が好きな有希は、この街に来てからずっと図書館が気になっていた。しかし、建物の中に入る勇気がなく、いつも外から眺めるだけだった。

入り口に近づくにつれ、地面に粘りけがあるように足が重くなる。いつもならここで引き返してしまうが、今日は違った。胸の上に両手を重ねて小さく息を飲むと、有希は図書館に入った。


 つま先を見ながら受付カウンターの前を足早に通り抜ける。何人かとすれ違い空間が広がるのを感じ、有希は顔をあげた。

(広い……)

そこはまるで本の森だった。茶色の棚が美しく並び、そのすべてに正しく分類された葉が繁っている。涼しげな眼鏡の奥で、上下のまぶたが円をつくった。有希は、瞳を輝かせながら夢中で森を探索した。


 しばらく徘徊したのち、『海外SF小説』と書かれた棚で足をとめた。著者別にアルファベット順で並べられていて、AからZまでゆうに20メートルはある。

(ス……S……)

目線を上下させながら棚の中央あたりまで進んでいくと、有希の頭の少し上——かかとを上げれば理想のキスが出来そうな高さに、目当ての著者名はあった。有希はその中の一冊をゆっくり手に取ると、座ることも忘れて読みふけった。


————(あっ!)

 読書に没頭している間に、ずいぶんと時間が経っていたようだ。オレンジ色に染まる窓に気付いて、慌てて時計を探す有希。壁に掛けられた装飾のない時計は、そっけなく閉館15分前を指していた。

 分厚いハードカバーはまだ半分以上ページを残している。本の表紙をしばらく見つめた後、静かに目を閉じ——有希は、その本を借りることを決意した。


 貸出しカウンターは閉館ギリギリで腰をあげた人々が列をなし、3人の図書館員たちがカウンター内を走り回っていた。その中で年長と思われる男性職員が、わずかな気配を感じて横目をやった。その目は<貸出しカードをお持ちでない方はこちら>と表示された誰もいないカウンター付近で、本を抱えてうつむく有希をとらえた。

カウンターからだいぶ離れた場所で、近づいてくる様子も声をかけてくる様子もなく、ただうつむいて突っ立っているだけの、見るからに気が弱そうな少女。

職員は視線を戻し、さも忙しいと言いたげに、それまで以上に大きな声で目の前の利用者に対応した。


 自分が無視されていることに、繊細な有希はすぐに感づいた。不安と緊張ではりつめていた有希の心に、悲しみが広がっていく。視界に白い膜がかかり、耳が塞がれる感覚に襲われる。胸の前で抱えているモノが何であったかもわからなくなる。しかし、心が折れる一歩手前で有希はもちこたえた。

(絶対に……この本を借りたい……)

有希はぎゅっと本を抱きよせ、顔を上げた。強い決意により、白くかすんでいた有希の視界がゆっくり晴れていく。すると、視野の端、図書館の出口辺りに人影を写し込んだ。

 まだ視界がぼやけたまま首を向けると、そこには、壁にもたれかかっている一人の少年がいた。ラフな服装で、足元にはスポーツバッグ。薄く日焼けした顔は有希に向けられていたから、ふたりの視線はまともにぶつかった。

 弾かれたように顔を伏せ、床に視線を戻す有希。見知らぬ少年に一部始終見られていた恥ずかしさに、有希はこの場から逃げ出したくなった。

(本を戻して帰ろう——)

有希が本を借りることを諦め、出口と反対に歩きだそうとした、その時。

「すみません——」

 後ろからだった。落ち着いた、よく通る声。有希は、二歩目を出す代わりに振り返った。


 それは、有希へ向けた言葉ではなかった。声の主はさっきの少年。少年は一点を見据えたまま、こう続けた。

「貸出カードを作りたいんですが」

 とがめる様な鋭い視線の先で、さっきの男性職員が顔をこわばらせていた。少年に対し、職員は思いのほか丁寧な返事を返した。どうやら、定刻にタイムカードを切るのを諦めたようだった。

 有希は顔をあげることが出来なかった。でも、どうにか感謝の意を示そうと、体だけは少年の方に向けていた。少年には、それで十分伝わった。


 少年はカウンターの前に進み出て書類を準備している職員を待つ。職員は持ってきた数枚の紙をそれぞれ説明し、「あちらでご記入お願いします」と、向かいの壁にある机を手のひらで指した。少年は肩にかけていたスポーツバッグを机のそばにおろし、ついてきた有希に隣のソファで休むよう促した。

 そして、机の上で文面に軽く目を通すと、有希に保険証を持ってきているか尋ねた。有希はうなずいて、ひざに乗せたバッグに手を入れる。印鑑や身分を証明できる類いの物など、図書館カードを作るために必要そうな物は思いつく限りバッグに入れ、昨夜から何度も確認していた。少年は有希から受け取った保険証と記入用紙を並べて置き、交互に首を向けながら空欄を埋めていった。


 有希は、少年を観察する機会を得た。体をそっと後ろにずらして、ソファの背にもたれて小さく伸びをする。そして、ななめ下から少年を凝視した。気付かれないように、自然に。

(たぶん高校生……)

(1年生? ……大人っぽいから2年生かも。)

(髪は短くて好き。)

(目は、さっきはちょっと怖い気がしたけど今は優しい……あ、まつげ長——)

 顔にまとわりつくような視線を感じた少年が振り向くと、有希は慌てて目を伏せた。少年は不思議そうな表情を浮かべたが、気のせいと思ったらしく、何も言わずに作業に戻った。

 再びペンが走る音を確認し、有希も観察に戻る。

(細いけど、意外と筋肉ありそう……)

(運動部かな……サッカー部って感じ……)

(————!)

 その時、少年のスポーツバッグが学校指定のものだと気付いた。そして、その学校は有希が通っている北高——

 少年は有希にここで待つように言い、書き終わった用紙と保険証をもってカウンターへ向かった。


 カウンターでカードができるのを待つ少年を、有希はじっと見つめていた。

 少年が現れてから、世界が裏返しになったような気がした。高鳴る鼓動が呼吸をしている事を思い出させる。止まっている感覚しか知らなかった時間が流れ過ぎていく。そして、もうすぐ終わってしまう——

同じ学校。ひょっとしたら、また会えるかもしれない。しかし、有希には、予知にも似た確信があった。次に会った時、あの人は今日の事を覚えていない、と。あの人の世界から、わたしはいなくなるのだ、と。そう、まるで最初からいなかったように。

でも、平気。最初から、わたしは独りだから。

最初から、わたしの世界には誰もいない。最初から、誰の世界にもわたしはいない。最初から……この世界に、わたしはいないのだから——

 少年が戻ってくる。有希は床に視線を落としたまま、力なく立ち上がった。差し出された図書館カードと本。有希は、スカートの裾を握りしめていた指をゆっくり開いて、それを受け取った。もう二度と、この少年に会えないことを承知のうえで。

 役目を果たした少年は、無言でスポーツバッグを拾い上げて肩にかけ、有希に背を向けて歩き出す。

「あの……」

 うっかりしていたら聞き逃してしまいそうな有希のか細い声が、少年の足をとめた。

「ありがとう……」

 ワタシヲミツケテクレテ——

 少年は、横顔で「どういたしまして」とだけ言った。少年の姿が見えなくなっても、職員に急き立てられるまで、有希はその場から動かなかった。

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