命日

秋月忍

第1話 夏の日

 虫の声がしている。開け放たれたガラス戸から、まだ暑い夏の日がさし込んできていた。

「あっつー」

 うだるような暑さに、隆は畳に寝そべったままうちわを仰いだ。夕刻になったのにもかかわらず、気温は一向に下がらない。

 隆は薄暗くなった部屋の時計をちらりと見た。

「いつになったら涼しくなるんだ?」

 わずかに生ぬるい風が、床を這うように入ってくるが、涼しくはなかった。

「たか、いるか?」

 半分開いていた玄関から、聞きなれた声がした。

「うん?あ、悟か。入れよ」

 ごろごろした身をおこしもせず、隆は応えた。

「じゃまするよ」

 遠慮する様子もなく、悟は袋をぶらさげて居間に入ってくると部屋の電気をつけた。

「差し入れ。飲むだろ?」

 言いながら袋に入っていた缶ビールを渡す。

「うぉ、気が利くね」

 隆は身を起こすと、受け取ったビールのふたを開け、目を細めた。

「珍しいな。節電、してるの?」

 悟が汗だくになっている隆を呆れたように見た。

「いや、エアコン、壊れた」

 苦々しく、隆は首を振った。

「しかも、電気屋が休みでな。」

「扇風機は?」

「ねえよ。今年は買おうと思ったんだけど、思った時には売り切れでね」

 どんなに温暖化問題を世間が叫ぼうと、去年までは寒いくらいにエアコンをかけていた隆である。扇風機を買おうと思っただけでも、進歩と言えば進歩だな、と悟は思った。

「確かに、今年は扇風機バカ売れしたみたいだし」

「まったくだ。扇風機でもあれば、マシなんだけどな」

 隆はぐったりしながら、温度計を指差した。

「見ろよ、部屋の中なのに、三十度を越えてやがる。もう夕方だぜ。日本はどうなっちまったんだろうな」

 外より気温は低いとはいえ、何もしなくても汗がにじんでくる。

「今日みたいな日は、熱中症で病院に運ばれるヤツ、続出したかもな」

 隆はうちわを仰ぎながら立ち上がると、隣の部屋を指差した。

「沙織に会いに来てくれたんだろ? 俺にかまわず、話をしていけや」

「ああ。そうする」

 悟はゆっくり立ち上がった。


 線香の煙が立ち上っていた。優しい香りが漂う薄暗い部屋の中で、仏間の灯が浮かび上がっている。飾られている写真たての中で、一人の女性が微笑み続けていた。彼女が時を止めて三年がたつ。長く、そして短い三年だった。悟は、じっと写真を見つめ続ける。

 結婚を約束した矢先のことだった。

「沙織が事故で死んだ」

 隆から掛かってきた電話。静かな、押し殺したようなくぐもった声。

 昨日のことのように、鮮明に思い出す。世間が騒然とした、電車の脱線事故。ひとごとのような大きなニュースが、自分の身近で起こるとは思っていなかった。死者は二十人にのぼったらしい。損害賠償問題で現在も時折、ニュースが流れている。社会的にも大きな事故であった。

あの日。いつもと同じように仕事に出かけた沙織は、事故に巻き込まれてそのまま命を落とした。外傷はほとんどなく、呼吸をしていないのが不思議なくらいであった。遺体の安置室で呆然と立っていた隆の姿を、悟は思い出した。両親を亡くしてから大切に守り育てていた妹を失った隆は、ぬけがらのようだった。学生時代から親友だった隆のあんなに生気のない顔を見たのは初めてだった。

 悟にとっても、あまりに突然で現実が受け入れられなかった。棺に入れられた沙織を見送りながらも、次の日には帰ってくるような、そんな気がしていた。

 あれから三年。彼女がいない生活に、やっと慣れてきた自分がいる。それでも、こうして仏壇の前に座り写真を見つめていると、愛おしさがこみあげてきた。暖かなからだを抱きしめ、あの優しい声をもう一度聞きたくてたまらなくなってくる。

「ずっとそばにいるって、いってくれたじゃないか……。」

 プロポーズに目を丸くして微笑んだ顔が蘇る。誰よりも幸せだった、あの日々。

 記憶は残酷だ、と悟は思った。鮮明であればあるほど、想い出が胸を引き裂く。

 何年たてば忘れることができるのだろう。忘れたくて。忘れたくなくて。悟はどちらを望んでいるのか、自分でもわからず、静かに偲び泣いた。


「終わったか?」

 しばらくして、悟は隆の声で我に返った。

 想い出から現実に戻ってくると、居間には食事が用意されていた。外はすっかり日がくれて、部屋の明かりが外をぼんやり照らしている。

「まあ、飲めや」

 隆はビールを悟に渡した。用意してあったのだろう、コンビニで買ったと思われる惣菜がならんでいた。

「暑い中、ありがとうよ」

 静かに微笑みながら、隆はそう言った。

「あの日も、暑かったな。」

 ビールを開けながら、悟はそう呟いた。

 隆は応えず、首を振った。

「なあ、悟。」

 どこか遠くを見るように、隆は口を開いた。

「お前、来年は来なくていいぞ」

 目を丸くする悟に、隆はなだめるように笑いかけた。

「もう三年だ。生きている人間をいつまでも縛り続けるわけにいかないことくらい、あいつだってわかっているさ」

「俺は……。」

「お前の妹への気持ちは兄として嬉しい。でも、お前たちは夫婦だったわけでもない。いつまでも過去の思い出で縛られているお前を見るのは、友人としてマズイと思うんだ」

 隆は真剣だった。

「お前は、いいやつだ。妹にはもったいないくらいだと思っていた。お前たちが付き合い始めて、そして結婚するって聞いたとき、本当に嬉しかったよ」

 ちびりちびりと、ビールを飲みながら隆はそう言って、静かに笑った。

「でもあいつは逝っちまった。変われるものなら俺が変わりたかったけど、そういう訳にもいかん。」

 悟は黙っていた。親友が血を吐くような想いで言葉を絞り出していることを理解した。

「お前にはお前の人生がある。妹のために、それを棒に振ることはない。もう新しい恋をしてもいい頃だ。」

「俺に沙織を忘れろ、と言うのか」

 隆の気持ちは理解できた。それでも、悟はそう言わずにはいられなかった。

 隆は目を伏せ、大きく息をした。

「そうだ。」

 悟はまっすぐに隆を見た。

「本気なんだな」

「当たり前だ。冗談でこんなこと、言うかよ」「お前の言いたいことは分かった。」

 悟はそう言うと、小さく首を振った。

「努力はする。でも、だからと言って、ここに来るなとは言わないでくれ。沙織はいなくても、ここにはお前がいる。まさか友情まで捨てろとは言わないだろ?」

 悟の言葉に、隆は泣き笑いのような表情を浮かべた。悟の言葉をどう受け止めるべきか自分でもわかっていないようだった。

「お前とは沙織と会う前からの付き合いで、沙織のこととは別の話だ」

 悟の言葉に、隆はふう、と息をはいた。

「そうだな。そのとおりだ」

 どこかほっとしたような顔だった。

「ありがとうよ」

 それだけ言うと、隆はビールを飲み干した。


「これでよかったのかな?沙織……。」

 悟が帰った後、隆は仏壇の前に座り込んだ。

 部屋の明かりは消えたままで、仏壇の灯だけがぼんやりとしている。ようやく涼しくなり始めた夜風が、部屋に流れてきた。

 結局、悟にごまかされた気がしなくもない。

そして、そのことにどこかほっとしている自分がいることを隆は知っていた。

 兄としては、妹を忘れてほしくなどない。それでも、友として、ずっとこのままではいけないと思う。否、それ以上に、ある日突然、悟が妹を忘れる日がやってくるのを知ることが怖かったのかもしれない。

「沙織のことは、兄ちゃんが死ぬまで覚えているから。それでいいよな?」

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命日 秋月忍 @kotatumuri-akituki

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