◆それだけで全てが始まった(1)
よほど彼の怒りに触れたのだろうか。
森へ入って半刻経つが、最初に「お前が疲れたら引き返すぞ」と言われて以来、一言も口を聞かぬまま黙々と歩き続けるカイゲツをそっと窺った。
そこにあるのは無表情で、キャロディナは自分の観察不足に歯噛みした。
慣れてきた気では居たが、彼が一度感情を閉ざしてしまえば手の打ちようがない。
普段からちゃんと見ておけば分かったかもしれないのに、と思ったところで後の祭りである。
困っているのはそれだけではなくて、さっさと進むカイゲツの後を追わねばならいことに難儀していた。
ちゃっかりと身軽な服に着替えていたので森を進むことに問題はないが、それでもカイゲツのようにはいかない。
森を進むに適しているとは思えない革靴で、丘を行くようにスタスタと歩くのだ。
森は暗くて深い。
小鳥の鳴く梢は遥か高く。
キャロディナの耳に届くのは、自分の荒い息と、小石と土を踏みしめ進む二人分の足音のみだ。
正直、とても気まずい。
自分は一体何をしでかしたのだろうと思い返してみるが、心当たりが多すぎて……というよりも、たったいま向かっているところが正に心当たりの本命であることを思い出す。
(まぁ、怒らないわけが……ないのよね……)
なんたって、彼が最も触れられたくない部分を無遠慮に触れ回っているのだ。
もう一度、前を行くカイゲツの背中を見る。
そこには先日確かにあったはずの気遣いはまるで無く、キャロディナは目頭を熱くした。
嫌われる覚悟など、もうとっくに出来ていたのに。
覚悟をする事と嫌われることが悲しい事とでは、どうやら心のあり方が違うらしい。
キャロディナは汗と共に一粒だけ涙を流した。
大丈夫だ、気付かれることはない。
洟を啜らなければただの汗にしか見えないだろう。
それに、今日のカイゲツはきっと振り向いてもくれない。
キャロディナはスゥと息を吸った。
この森は深くで暗くて黒いが、空気がとても澄んでいる。
大丈夫。
平静は得意だ。
感情を押し込めることこそがキャロディナの日常だった。
ファルクネスの屋敷に来てから涙腺が少し緩んだ気がする。
涙は悲しいだけではなく、後から頭痛を連れてくるのであまり好きではない。
キャロディナはカイゲツどころか草木にすら気取られないように浅く呼吸をする。
そうしているうちに頭に酸素が回り、顔に集まった熱が分散された。
「ねぇ! あとどれ位かかるの?」
思いのほか先を進んでいたカイゲツに大きな声で問いかければ、こちらを振り返ることなく答えが返ってきた。
「祖母の小屋辺りで半分くらいの距離になる。疲れたのなら早めに言え。時間が無駄になる」
わざとそうしているようなぶっきらぼうな声に、悲しいどころか少し腹が立ってくる。
「何よ、もう……!」
恐らくいや絶対自分が何か仕出かしたのだろうが、多分間違いなく原因は自分にあるのだろうが、理由が分からなければ謝ることすら出来ないのに。
「言いたいことがあるならはっきり言って欲しいものだわ。昨日まではあんなに優しかったのに……」
キャロディナは聴こえないように小さい声でぼそぼそと呟いた。
今日のカイゲツは少しおかしい。
不機嫌なのはいつものことだが、それでもキャロディナを置いて行くだとか「疲れたら引き返す」と言ったりだとか、意地悪をするような男ではないのだ。
彼は最初からずっと世話焼きで親切で、優しかった。
――先ほどからこちらを見てすらくれないけれど。
ふと、カイゲツの足音が止んだ。
キャロディナは反射のようにパッと顔を上げる。
しかしそこにはもうすっかり見飽きてしまった背中しかなく、ぐっと目を瞑る。
「言いたいことなど何もない。どうでもいい。お前にも、二度と優しくするまい」
それを聞いたキャロディナはもう一度カイゲツの背中を見上げた。
届いた声は頑だったが、ほんの少し震えていたように思える。
この言葉は彼の本音だが、本音ではないのだと直感した。
そうだ、最初からそうだった。
彼は最初から怖がっていた。
話すことを。
深く関わることを。
何かを好きになることを。
気付いてしまえば一瞬だ、キャロディナの口角がゆっくりと上がる。
彼のために出来ることをしよう。
してもいいんだと思えたから。
だって、カイゲツはこんなにも救われたがっている。
今度は全身を使って深く呼吸をした。
「私、ここへ来てすごく優しくしてもらったから、それを返そうと思うの。カイゲツの人生で一番の優しさをあげたい。ううん、あげるの」
もらったのは優しさだけではない。
こう言いたい思った気持ちも言えた勇気も、くれたのはカイゲツだ。
彼だけではないが、彼が居なければもらえないものだった。
「…………好きにしろ。お前が何をしようと俺には関係ない」
言うなりまた進み出したカイゲツに思わず苦笑する。
彼の言葉はやはり冷たいものだったが、キャロディナは「ええ」とだけ頷きその背中を追った。
* * *
目的地に着いたのはそれから数刻後、太陽も真上を通りすぎ少し傾いた時間だ。
「ここだ」
風景に気を使えないほどへとへとになっていたので、カイゲツに声をかけられてはっと視界をクリアにする。
そこには、数人ほど入ればいっぱいになってしまうようなこじんまりとした洞窟がぽっかりと口を開けていた。
入り口の壁は尖ったものでガリガリと削った跡があり、人工的に造られた物だということがわかる。
正に、魔王を閉じ込める為だけに造ったのだろう。
真っ黒な森に、更に光の差さない洞窟を。
今にも力が抜けそうになる足を踏ん張らせてゆっくりと洞窟に近づく。
カイゲツは何も言わず、キャロディナの行動を眺めている。
洞窟の中からピュウと軽やかな風が吹いた。
どこかと繋がっているのだろうか?
後ろに立つカイゲツが「風……?」と怪訝な声を出した。
同時に、古い鉄の臭いが鼻をついた。
使わないまま何年も放置した錠前のような重い臭いだ。
風は次から次へと止むことがなく吹いてくる。
臭いは気になるが、洞窟の冷たさを伴ったそれは歩き疲れたキャロディナの首元を心地よく通り過ぎる。
奥へ進もうとしたところで、カイゲツに肩を掴まれた。
「今日は止めておけ。様子がおかしい。ここは過去に我々が掘ったただの穴だ。繋がっているわけでもないのに奥から風が吹くなどありえない」
いつも以上の堅い声だったが、キャロディナはふると首を振る。
「でも、この風から嫌な感じはしないわ」
それどころか、キャロディナにはむしろ受け入れられているような気がするのだ。
退く理由にはならない。
カイゲツの手をそっと外して奥へ進む。
口が大きいわりに意外と狭い。
五、六歩も歩けばすぐに会うことが出来た。
闇の中に並んで光る二つの玉がこちらを向いていて、生物の本能としてそれは眼光なのだと理解した。
夢の中で見たものと同じ無色の瞳。
キャロディナは自分の両手を握り締めた。
カタカタ聞こえたかと思うと、突然後ろからパッと照らされた。
カイゲツがカンテラに火を点けたようだ。
そして見えた全体図に、キャロディナの瞳孔が開いた。
大きな黒い狼だ。
夢の中と同じく丸まった姿勢で、顔だけしっかりと上げてこちらを見据えている。
夢と違うのは、その身体に巻きつけられた太い鎖たちの存在か。
錆びてはいるが、容易に千切れそうにもない強固な鎖が、狼の全身に幾重にも巻きつけられている。
臭いの元はこれだろう。
今は丸まっているが、立てばとても大きいことをキャロディナは知っていた。
魔王は微動だにせずこちらを見据えている。
「起きているのか」
気配だけで、カイゲツの気がこれ以上なく張り詰めていることが分かる。
声も少し震えていて、もしかすると恐れているのかもしれないなと思った。
何を恐れる必要があるのかキャロディナには分からない。
狼の瞳には何かを疎んだり害そうという悪意など何もないのに。
「頼むから、それ以上は近づいてくれるなよ」
隣に並んだカイゲツに釘を刺されるがキャロディナの耳には入って来なかった。
ふらりと自分の心に促されるまま進み出せば、カイゲツがキャロディナの右手首を掴んだ。
握っていた両手が解け、そのまま彼の方へ引かれる。
掴まれた手首が熱い。
他人の体温にはまだ慣れない。そういえば蝙蝠はどこへ行ったのだろう。
数日観察して分かったのだが、どうやら蝙蝠は四六時中キャロディナに引っ付いているわけではないようだ。
恐らくどこか散歩にでも行ったのだろうと心の片隅で納得する。
「カイゲツ。手を。手を握っていて欲しいの」
狼からは視線を外さずに伝える。カイゲツは戸惑ったように手首を握る力を弱めた。
「お願い。あの子は怖くないけれど、少しだけ怖いことをするから」
何をするつもりだ、とは聞かれない。
「……手を握っていて欲しいの」
重ねて願えば、カイゲツの手が手首からそろそろと下りて来て、キャロディナの手を握った。
そのまま固く握られる前にキャロディナは手を解き、人差し指と中指を彼の指に絡めて握りなおす。
カイゲツが息を飲む音にギュッと目を閉じて、そして見開いた。
足を進める。
遅れて歩くカイゲツを連れて、狼の前で立ち止まる。
それだけだ。
それだけで全てが始まった。
魔王から風が吹く。
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