天魔の風唄

琴あるむ

◆第1話◆

◆籠の鳥の少女

 そこは南向きに大きな窓の付いた、屋敷で一番いい部屋だった。


 海沿いの、この辺りで最も高い丘に立つ屋敷なので領地内がとても良く見える。

 農民が活動を始める今の時間帯は、水平線からすっかり浮かび上がった太陽が水面を美しく輝かせていた。

 小波が鱗模様に朝日を反射し、海全体が群青色の魚のようであった。


 部屋の主である少女は寝転んだまま外を眺め、片手で器用に窓を開ける。初春の柔らかなな風が頬を撫でた。

 その気持ちよさに桜色の唇が弧を描く。


「うん、いい。今日も綺麗」


 ベッドを窓に添うように配置してあるので、彼女の目覚めは朝日と共に始まる。

 少し伸びをして起き上がった彼女は、ドレッサーから木櫛を取り出し、長くたっぷりとした黒髪を梳いた。

 木櫛にはローズオイルを染み込ませてあるので、好き勝手はねていた髪はするすると梳いていくうちに薔薇の香りに包まれ、滑らかに纏まった。


 彼女の世話係が昨夜用意しておいてくれた淡い水色のドレスに着替え、ドレッサーの前で自分の姿を確認する。


 そこには、朝日を受けて輝く銀色の瞳を持つ快活な表情の少女が居た。


 銀盆に水を張り、青色の雫を落としたような、美しい瞳だ。冬の朝に浮かぶ月のような。


「うん、いいね。私も、今日もいい感じ」


 と言っても、そんな彼女の姿を目にする者は数えるほどしか居ない。

 ある〈不幸〉を持つ彼女がこの部屋から出してもらえることは滅多にないからだ。

 

 しかし彼女に開かないドアを眺める趣味はない。

 定位置であるベッドに腰掛ながら、さて、今日はどうやって抜け出そうかなと考える。


 出してもらえないからと大人しくしているような性格ではない。

 家族が自分を閉じ込める理由は理解しているし納得もしている。

 だからと言ってじっとしているいわれは無い。

 結局のところ、自分の〈不幸〉は人と会わなければ起こらないのだ。

 野山を散歩するぐらいはいいだろうと彼女は様々な方法で部屋から脱出をしている。


 玄関から飄々ひょうひょうと帰ってくる彼女を、家族も使用人もげっそりとした目で見る。


 何度脱走しても、窓に鍵をかけたり二十四時間監視を付けないことは家族なりの温情だったのだろう。

 それはありがたいと思っている。

  だから彼女も脱走するうえで物を壊したりはしないのだ。

……ロープ代わりに利用しているシーツを何枚も傷めていることだけは見逃して欲しい。


 父から送られた本や人形に囲まれながら「今日はどうしよっかなー、昨日通った道はもう誰か張ってるだろうし」と淑女らしからぬ仁王立ちで考えていると、扉からノックの音が聞こえてきた。


 朝食の時間にしては早い。

 怪訝に思いながらも澄ました声で「はい」と応えると、聞こえてきたのは父親のアルフレドの声だった。

  彼から娘に声をかけるのは、約ひと月ぶりのことである。


「キャロ、入ってもいいかな」


 珍しいこともあったものだ。

 声をかけてきたうえに、彼女の名前まで呼ぶだなんて。


 キャロは目を丸くして「どうぞ」と答えた。


 鈍い音で鍵が開けられ、入って来たのはアルフレドとキャロの世話係であるグラーシャだった。


「お父様が私の部屋にいらっしゃるなんて、珍しいですね」


 嫌味のつもりは一切なく本心からそう言えば、アルフレドは気まずそうに視線を彷徨さまよわせた。


「旦那様」


 一歩後ろに立っていたグラーシャが低い声でアルフレドを睨む。

 御歳六十でメイド長でもあるグラーシャはアルフレドが赤子の頃からの使用人で、もしかせずとも屋敷の裏の最高権力者である。


 育ての親代わりであった彼女に背中を押され、アルフレドは決心したように顔を上げた。


 彼の見事な金髪と青い瞳がキャロに向けられる。

 朝日に輝く金色の眩しさに目を細めた。


 いいなぁ、と。


 その色は、ショーヴル家の者だという証しだった。

 間違いなくアルフレドとその妻の間に生まれたキャロには持ち得なかった、あさひのいろだ。


「どうだね」


 突然何かを訪ねられるが何を意図しているのかが分からない。

 それでも折角の家族の会話なのだから、必死にアルフレドの言葉の意味を考えた。


「あ、ええと。……えっと、何がです? 調子は、まぁ、毎日見ての通り良いですけど」


 見ての通り。それは、部屋から抜け出したキャロが毎日のように玄関から帰ってきていることを指す。

 考えたうえで出たのは、ともすれば嫌味としか取れない答えだった。

 ヒクッと歪んだ父の表情にキャロは自分の失敗を悟る。


「本も人形もお父様がたくさん届けてくださるので、さほど退屈はしてません。ただ、もうちょっと動きやすい服があればいいんですけど」


 とこれまた正直に言ってしまい口を閉じる。

 部屋に軟禁されている年頃の令嬢が動きやすい服を求める理由は何だ。

 脱走以外のものはないだろう。


 お互いの間に気まずい沈黙が流れたところへ、グラーシャがひとつ咳払いをした。


「旦那様」


 そしてもう一度、先ほどよりも低い声を出した。


 アルフレドは何度か瞬きをし、そしてとうとう意を決したように真っ直ぐキャロの目を見た。


 キャロは、お、と瞬きする。

 こんなにはっきりとした視線を向けられるのは初めてのことだったからだ。


「お前が嫁に行く先が決まった。明日の朝までに荷物をまとめさせるから、心の準備をしておきなさい」


 一応かろうじて被っていた猫を取っ払い、思わず「は?」と声が出る。


 嫁。嫁って。っていうか明日?


 頭が混乱してまともにものを考えられない。

 どういうことだ。


「そんな、急に言われても」


 何故急に。相手は。一体どこの、――私はこの家から出てもいいのか。


 聞きたい事はたくさんあったが何ひとつ問うことも出来ずに突っ立っていると、父親はそっと目を反らしてキャロに背を向ける。


「何も急な話ではない。お前はもう十八だ。嫁に出るには少し遅いぐらいだろう。……グラーシャ、後は頼んだよ」


 そういい残し、逃げるように部屋から出て行く。


 そして残ったグラーシャの顔を、キャロはからっぽの瞳で見た。

 グラーシャは、一重瞼の澄ました目とおちょぼ口が相まって、初対面ではとてもじゃないが良い印象を得られない顔つきの女中である。

 彼女の高い鷲鼻わしばなが膨らみ、何度も叱られてきた経験則から深く鼻息を吸ったのだと分かった。


「お嬢様。ご安心ください。お相手方のお屋敷は馬車で半日ほどのところです。まずは婚約ということらしいのですが、通うには少々遠いうえに、お嬢様に直接お屋敷に住むというのがあちら様が提示された婚約するうえでの条件でした。そしてお嬢様の判断で結婚を拒否することも出来るそうです。ご安心ください、これまで婚約者だったお嬢様方は皆様ご結婚を拒み、ちゃんとご実家にお帰りになったと聞いておりますので嘘ではないようです。それにしてもそんなに拒まれるだなんて絶対にうさんくさいですわ」


 怒涛の勢いでそれらを言い切り、次はフンスと鼻息を吐いた。

 というか、二度の「ご安心ください」の後に「うさんくさい」と言われて安心出来るほど馬鹿でも器用でもない。


 無茶なことを言うグラーシャに曖昧な笑みを向ければ、彼女の下唇が小さく震えた。

 とたんに下瞼に水が溜まり、表面張力を超えた涙が頬を滑り落ちた。


「……キャロディナ様!」


 キャロの正式な名前を叫びながら抱きしめてきたグラーシャに「おぅ!?」と女性らしからぬ声を出す。

 多分だが彼女のおでこがみぞおちに入った。気がする。


 突然のグラーシャの行為に、キャロは全力でもがいた。

 駄目だ、自分に触れては。

 キャロはグラーシャが好きだ。大好きだ。

 だからこそグラーシャに触れて欲しくないのだ。

――だって自分は〈不幸〉を持っているのだから。


「グ、グラーシャ、だめ……!」


 しかしグラーシャは「最後くらい思う存分抱かせてください」と物凄い剣幕で言い放つ。

 呼吸が苦しくなるほど力強く抱きしめられ、諦めたキャロはおずおずと全身に入れていた力を緩めた。

 どうせもう触れてしまったのだ。

 それならキャロだって、最後まで彼女に触れていたい。


 そっとグラーシャの肩へ手を置けば、何度もキャロの名前を呼びながらおいおいと泣かれた。


「グラーシャは、グラーシャはとても心配でございます! まだお嬢様には女性の『じ』の字も教えられてないのに! 明るくいつでも笑顔であられるのは良い事ですが、突拍子ないしがさつだししとやかさの欠片もなくて犬みたいに好奇心旺盛で!」


「犬みたいってちょっと」


「世の男性型が少し話せば殆どの方がお嬢様の非常識さに嫌気が差すでしょう!」 


「それは私もそうだろうなーと思うけどそこまで言うか」


「それでもお嬢様はとてもお優しい方です。滅多に居ないぐらい真っ直ぐで純粋な心根を持つ方です。――ああ、お可哀想なキャロディナ様。グラーシャはとても寂しゅうございます……!」


 意地悪な顔のグラーシャだが、屋敷内で誰よりもキャロを大事にしてくれている。

 家族すら避ける自分をしっかりと見据えて叱ってくれるのはグラーシャだけだった。

 キャロにとっての理想の母は、母親ではなくグラーシャだった。

 実際、キャロを育ててくれたのはグラーシャだ。


「きっとまともな男性は誰もキャロ様の素晴らしさに気付けませんわ! 新しい旦那様が変人か奇人か狂人でもない限り! ああでも婚約者が何度も変わるぐらいだしきっと変人か奇人か狂人だわ! まともな旦那に避けられるのと妙きちりんな男に愛されるのはどちらが幸せなのでしょう! アル坊ちゃまも酷いわよ、物心付いた時から監禁していた娘に向かって政略結婚を持ちかけるなんて。家のために結びたい縁だとしても、もっとお嬢様に愛を与えるべきだったのに、いつのまにあんな子になったのかしら、ああ嘆かわしい」


 言っていることはかなり酷いが、キャロがこんなにも真っ直ぐに育ったのは彼女の存在がとても大きい。

 誰もが忌み嫌い、遠巻きにしていたキャロに溢れるほどの愛情を注いでくれたのだから。


「ありがとう、グラーシャ。私も寂しいわ。でも、可哀想なことなんて何にもないのよ」


 ズズとはなをすすりグラーシャがこちらを見上げる。

 水色のドレスが涙と鼻水で濡れていた。


「だって簡単よ。私が彼を愛すればいいの」


 相手がどんな人なのか(というかどの種類の変人なのか)気にならないわけではない。

 一生を供にするかもしれないのだ。

 一緒になるならば、いい人が良いに決まっている。


 だが人生そう上手く行くわけではない。

 それは〈不幸〉を持つキャロは身にしみて分かっていることだった。


 政略結婚だというのに何度も婚約を破棄されているということは確実に一般的ないい人ではないのだろう。

 いや、もしかすると歳がすごく離れているのかもしれない。

 見目が醜いのかもしれない。

 人間性が壊滅的に悪いのかもしれない。


 だとしても。


「私ね、決めてたの。もしこの部屋を、この屋敷を出て誰かと結婚できるなら、その人のことを全力で愛そうって。どんな人だとしても。誰かに笑顔で愛されて、それを無碍に出来る人ってきっと居ないと思うの」


 グラーシャの瞳が悲痛の色を帯びる。

 その茶色が、そんな甘いことある訳がないと語っていて、キャロは苦笑した。


「ね、何も言わないで。そう信じさせて。私、彼を愛するわ」


 きっぱりと言い切った彼女の瞳に偽りはない。


 ずっと決めていたことだ。ずっと信じてきたことだ。

 少なくとも、この屋敷ではそうだった。

 どんな境遇の中であっても笑っている彼女に危害を加える者は居なかった。


「私、お嫁に行くわ。グラーシャ、ショーヴル家の事を頼むわね」


 言うと、彼女は立ち上がり、そっと礼をした。


 上げられた目はまだ赤かったが、その表情はいつもの彼女のものだった。

 ショーヴル男爵家のメイド頭の顔だ。


「はい、お任せくださいお嬢様。あたくしが生きている内は旦那様に変なことはさせませんとも」


 彼女らしい応えに満足して微笑む。


 最後に。本当に最後なのだから、一度だけ。

 キャロはグラーシャに向けて震える両手を上げる。

 するとグラーシャはまた大粒の涙を浮かべて、微笑んだ。


「キャロディナ様から触れようとしてくださるなんて、初めてですね。……メイド冥利に尽きますわ」


 キャロはたまらずグラーシャに抱きつき、とても豊満とは言いがたい胸に顔をうずめた。


「迷惑いっぱいかけてごめんね。ぐらあしゃ。今までありがとう。大好きよ。さようなら」


 先ほど付けられた水分を、今度はグラーシャの胸に付け返す。


「あたくしもですよ。キャロディナ様以上に可愛い子は、これまでもこれまでもきっと現れません。さようなら、あたくしの小さなご主人様」


 それが、この部屋で二人が交わした最期の言葉であった。

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