コヨトル・リマークス

ナツメ

第1話 コヨトル・リマークス

 俺の実家は滋賀県の山奥にある。

 最寄りの無人駅からバスでたったの二停留所。でも所要時間はゆうに二十分を越える。

 バス停から先は、迎えが無いのであれば歩くしかないのだが、もちろん道路は風景にとけ込むように配慮されて舗装されているし、軽自動車ならば通れるほどに道幅も広い。道ばたには誰が植えているのか緑が生い茂り、イギリス風ってこんな事を言うのではないかという思う感じのガーデニングが広がっている。

 イギリスに行った事は無いけど。

「くそ……国土交通省とか、絶対この道把握してねえだろ。皇居周辺と違いすぎないか。ひどくないか」

 昨日の東京マラソンの為ににわか皇居ランナーと化していた俺は、ほんの少しの歪みですらあっという間に修繕されてしまう皇居周辺と木の根や雑草と同化して、舗装なのかただの平べったい石なのか判然としない足元に向かって悪態をついた。

「それにしても……荒れたな」

 ふっと息を吐いて上を見上げると、生い茂った木々の隙間から青空が見える。

 この道は小学生の頃、通学路として使っていた道だ。

 当時は今ほどに荒れてはおらず、舗装路は細いながらも歩くのに困るほどの凹凸は無かった気がする。中学に進学すると当時に家を出て、その間に実家自体が駅からほど近い集落に引っ越したので、この先へ入るのは実に八年ぶりだった。

 今もこの奥の集落には祖父母が暮らす家がある。

「じいさんばあさんじゃ、この道あぶないよな。誰かに送り迎えしてもらってんのかな」

 途中、獣道のような分岐を無視し、二十メートルほどのトンネルを抜けると、目の前には青い瓦が何とも古めかしい家屋が現れた。

 残念ながら空き家の様で、かつてここで暮らしていたこの村で唯一の同年代の友人は、京都で大学に通っていると聞く。家と家の間には東京では考えられないほどの長い距離が横たわっている。錆び付いた街灯を三本ほどやり過ごし、さらに同じくらい歩いたところには鶏小屋があった。

 ぼろぼろになったタオルが、意外にもちゃんと洗濯して干されている。

「じいちゃん! ばあちゃん! 帰ってきたよ! 帰ってきましたよ!」

 俺は、鶏小屋のすぐ隣に立つ、木造の古い家屋の扉を開いた。騒々しい音を立てて引き戸を開けながら、声を張り上げる。

 近所迷惑? 何処に近所の人が居るのか教えてほしい。

「おお。お帰り。間に合ったな」

 じいさんはステテコにシャツという、いかにもな格好で出迎えてくれた。

 奥の和室からあり得ない音量のテレビの音が聞こえるので、耳が悪くなったばあちゃんはそこに居るのだろう。

「一応明日は休みを取ったけど、明後日は仕事なんだよ。その……なんだっけ。なんとか様っていうお祭りは、今日一日で片付くんだよね」

「ああ。夕方から……そうだな二時間もあれば終わる。良い寿司取っておくから、頼むぞ」

 あの道をスクーターか何かで上ってきたら、シャリとネタはバラバラにならないのだろうかと思いながら、俺は荷物を降ろした。

 古い家屋独特の香りは、実はそんなに嫌いじゃない。

 生活の匂いというのだろうか、料理や畳、洗剤の匂いがしみ込んだ家は、どことなく落ち着く気がしたが、いっぱしの都会人を気取りたい俺としてはそこを認めるわけにはいかなかった。アロマとやらのほうがいいにおいに決まっている。くしゃみが出るのはそのうち直るはずだ。

 料理を仕事にしてからというもの、あまりきつい匂いのものは避けているが、それでも玄関先にアロマなんとかなんてものを置くと、ちょっと洒落た気分になるのだから、人間って、いや、俺って結構単純なんだなと思う。

「ばあさんが着物を用意してる」

「着物!? なにそれ!?」

「ああ、いや……和服じゃないよ。なんだ、シャツとズボンだ。襟が無いといかんのでな」

「ああ……そういう」

「そんな感じだ」

 じいさんはそう適当に話を濁し、俺を奥へと連れて行った。





「じゃあ、行ってくる」

「おう。酒も用意してるからな。念のためライトは持ったか?」

「うん」

 じいさんの若いときのものだろうか、ちょっと時代遅れのシャツとスーツにセットされているパンツのようなものを着せられ、大きめのカーディガンを来て俺は家を出た。

 正直寒い。コートを着てくれば良かったと思ったが、コートを渡されなかったという事は衣装じゃないのかもしれない。

「さっさと行って、さっさと終わらそ」

 俺は早足で集落の奥へと向かっていった。

 集落には五件か六件の家が残っており、どこも老人ばかりが住んでいるのだが、集落の一番奥には一件だけ商店がある。この商店はいわゆる何でも屋で、菓子から本から電球、郵便、まあ、とりあえずこの集落で必要なものをギリギリで備えている店だった。

 店には十歳くらい年上のお姉さんが居た気がするが、今はどうしているのだろうと通りすがりに店を覗いた。

「……あれ?」

 そこには、すらりと背の高い、それこそ三十くらいの男がいた。俺と目が合うとにこりと笑って扉を開ける。

「いらっしゃい。なにか要り用かな」

「あ、いや……ちょっと、あの、あとで寄ります」

「ふふ。そう? そりゃ良かった。今日はまだお客さんが一人も居なくて、退屈してたんだよ。帳簿も書く事がないと一日が長くて。佐紀も居ないし」

「さき、さん?」

「そう、僕のお嫁さん。……あれ、僕がお婿さんって行った方が良いかな」

 俺はまじまじと男を見た。あのお姉さんの旦那さんとやらなのだろう。

 だいぶ控えめに表現しても、外見は整っている。柔和な表情も女性受けしそうだ。着ているものは集落独特の地味さがあるものの、それですら気品を感じるのだから、見た目ってヒドいと思う。

「……ん? ああ、もしかして君は、コヨトル……様のところに行くのかな」

 男が首を傾げると、さらりと明るい色の髪が揺れる。

「はい。なんか……俺の番だから、って言われて」

「古賀んとこか。もう、そんなに経ったのか。……気をつけて行っておいで」

 一瞬、目の前の男が懐かしむような目を集落の方へと向けた。しかも、急に「古賀」と名字を呼び捨てにされた事も気にかかる。男の雰囲気はあくまでも柔和なままであったので、特に気分を害したわけではないが、何か不思議な気持ちが胸を閉めた。

 商店を過ぎれば、あとはもう山に入る道があるだけだ。それも商店の裏側の駐車場から、獣道を入る。子供の遊び場ではあったが、今になって思えば、よくもまあこんな山奥で、さらに山に入ろうとおもったものだと、かつての自分に呆れの息が漏れた。

「この奥に、こいつを持ってけば良いっていってたな」

 ポケットには小さな小箱が入っていた。継ぎ目の無い木の固まりの様で、その実じっと見ると薄い線があるのでおそらく箱なのだろう。

 開けた場所に出ると、俺は小箱を地面に置いた。

「コヨトル様。お返しします。今までありがとうございました」

 じいさんに教えられたその台詞は、何となく気恥ずかしいというか、聞いてる人も居ないのに口に出すのはためらわれるというか。そんな気持ちからか、台詞は早口でやけに小さな声になった。

「よし。帰ろう。……二時間もかかんねえよ。何にかかるって思ったんだろ、じいさん」

「そりゃ、これを返すか返さんかを決めるのに、だいたいそんなもんだと思ったんだろうな」

 不意に聞こえた声に、思わず振りむいた。

「は?……え? あの、さっきから居た?」

 目の前には同年代と思われる女性が立っていた。細身のジーンズと大きめのセーターを着ている。肩を越す位の髪が、風にあおられて、落ち葉とともに軽く舞った。

 彼女は木箱を拾うと、いとおしむようにその表面を撫でた。

「これが何か知ってるか?」

 彼女はこちらの質問には答えずに、そう言った。

「え? あ、ああ。なんか俺が生まれたときにもらったお守り?」

「お守り、ね。確かに守りもするが」

 彼女はそういってするりと歩を進め、俺の目の前に立った。ぐっと上半身を寄せてくる。その襟ぐりに視線が行きそうになるのを堪え、俺は彼女の目を見た。

 夜空のような、深い碧を宿したような黒い目。

 その目がいたずらに成功したかのように、緩く弧を描く。

「呪いもするぞ?」

 笑みとは相反するように紡がれた言葉に、思わず硬直する。

「古賀の家はいつもそう。この特殊な日に子が生まれるのよ。こうなると我々にゃなす術が無い。この日は、我々とてこの森から出られんからな」

「あの、一体……何を」

「我らはコヨトル。この村に住まう四つ足の生き物よ。子が生まれれば守りも擦るし、我らが望めば子をも取る存在。神ではないが、そう呼ぶ者も多い」

 くるりと舞うように体を離し、彼女は落ち葉を踏みながら楽しげに歩き回った。

「えと。もう、いいかな」

 こんな人がいたとは思わなかったが、あまりかかわり合いになりたくない。確かに外見はかわいらしいが、なんと言うか、妄想に生きてらっしゃる。

「此度の古賀の子は、この箱は要らぬのかな」

「はあ、とりあえず二十歳までのお守りなんですよね。俺、今日で二十歳なんでもう良いです」

「そうかそうか。では、今日で」







「死ぬ」






「という事だな。なかなかの決断」

 立ち去りかけた足が思わず止まった。不吉な単語が耳に残る。

「あの、妙な事を言わないでもらえます?」

「妙ではない。おぬしが生まれたのは二十年前の今日。閏の日。私はコヨトルの長だが、この日だけは門をくぐれぬ。この日だけは仕事ができぬ。閏の語源を知っておるか。閏はこう、門に王と書くだろう。これはな、この日だけは王は門の内側に引きこもって仕事をしないという意味なのだ。それがどうだ、あの日、お前の祖母はここへ来た。ここへ、動かぬおぬしを抱えてやってきた」

 俺は、思わず目の前の女性を見つめていた。

「まだ生まれたてのおぬしは、赤黒く、それでいて生気のない色をしておった。半分、こう……目を開いてな。口を開けているがそれだけで、死産……だったのだろう」

 俺が何か言いかけるのを手のひらで制し、彼女はさらに続けた。

「この村のものたちは、私の子も同然。おぬしの母はおぬしが死産であった事を知らぬままであったらしいが、何しろ祖母がここへきた。自分の命の残りの分だけで構わぬので、この子に与えてはくれぬかと。だが、あいにくの閏。この地のコヨトルは何もできん。そこで、こうしたのだ」

 彼女は木箱を撫でた。

「私の命を預ける事にした。二十年。もう一度これを返しにくるのならよし。返しにこないというのならば、祖母の命を貰い受けると約束した。

 どうだ、二十年も生きたのだ。満足だろう?」

「まさか、そんな」

「信じずともよい。このまま帰ればそれまで。まあ、道をでたあたりでくたばるな」

「バカな」

「試せば良い」

 彼女は楽しげに言って、木箱をもって山の奥の方へと足を向けた。

「いや、ちょっと、ちょっとまって。気持ちの悪い事ばかり言ってさ、俺帰んなきゃなんないんだけど」

「帰れば良い。商店の猿が気付いて埋めてくれるだろう」

「いや、埋められても、それに猿ってなに。じゃなくて、撤回してよ。気持ち悪いから」

「……嘘は言っておらん。二十年も私の命で生きたのだ。他に何を望む?」

 彼女は本当に分からないと言った表情で、首を傾げた。

「わ、分かった。じゃあ、入り口まで来て、一緒に来て」

「なんだ、おぬし方向音痴か……情けない。一本道で迷うなど、佐紀以上だな」

「さきさん? さきさんもここにって……いいや。とりあえず」

 俺は彼女の手を引いて道の入り口までやってきた。

 とりあえず、気味の悪い話は置いておいて、そっと足を出し、道の外へと片足をつける。



 その瞬間だった。

 一気に血の気が下がり、体中から力が抜けるような気がした。

 事実俺の膝は折れ曲がって、体重を道側に残していたせいか俺は獣道に倒れ込むように尻餅をついた。

 足が向こう側を離れたとたん、血の気は戻ってくる。

「……え? マジなの」

「マジだと言うておる」

 尻餅をついたまま見上げると、得意げな彼女の顔を見上げる事になった。

「どうしたら、いいの?」

「どうしたらというのは、どういう事だ?」

「もちろん、死にたくないんですけど」

 情けなくそういうと、彼女は「ふむ」と呟いてからしゃがみ込んだ。俺と丁度同じくらいの目線で、にこりと微笑む。こんなときになんだが、本当にかわいらしい。

「死にたくないのか。そうか。ならばこれを貸してやっても良い。私は人が好きだからな」

「え、木箱持ってれば、大丈夫なの?」

「持っておらずとも、これがこの森に無ければお前が死ぬ事は無い。ほれ」

 そういって、彼女は木箱を俺の方へと差し出した。そろりそろりと受け取る。

 覚悟を決めて足を出したが、今度は道をでても何も変わる事は無かった。

 道の外から内側を見ると、彼女がにこりと微笑んだ。

「気が向いたら返しにこい。私はずっとここにおる」

「ずっと?」

「ああ。それが無いと動けんのでな」

 そういって細い指が示したのは、俺の手だった。



 


「私の命を預ける事にした」





「え?」

 この手のひらにあるのは、彼女の命。

「まあ、あと何年生きるか分からんが、そのときまではおぬしの命も安泰よ。たまに戻ってきて、そうだな、どこかにあるという海の絵だか写真だかでも見せてくれたら嬉しいがな」

「あと、何年……?」

「外に出られないと、腹が減るからな……情けないが我慢してくれ」

 そういって笑うと、彼女はきびすを返した。





「あと何年生きるか分からん」




「どこかにあるという海」




「腹が減る」




 彼女は髪を揺らしながら道を上っていく。

 俺は、思わず




「待って」




 駆け上ったせいか、息が落ち着かない。それでも、なんとか彼女の手をつかみそういった。

「……どうした」

 何を言おうとしているのかは分からない。

 自分でもよく分からない。

「箱は命……これが外にあれば、これが無ければ外に……これは」

 何か手があるのではないだろうか。

 何か、彼女が自由になって、俺が生きる術が。

 そう思って彼女を見ると、彼女は静かにこちらを見ていた。俺の言葉を待っているようだった。

「い」

「い?」

 首を傾げる姿もかわいらしい。

「一緒に、行こう」

 正直、何を言ってるのかと心は心でツッコミを重ねている。この訳の分からない存在と、何処へ以降というのか。そもそも、四つ足とか言ってなかっただろうか。

 でも

「一緒に、外に出よう。それなら」

 俺がそういうと、彼女は同じ台詞を呟いた。

 ゆるゆるとほほが緩み、やがて満面の笑みを浮かべる。

「でたら、食い殺すとかはなしね」

「しないしない。いっただろう、私は人が好きだと。いや、私たちは、かな」

「あ、何だっけ、閏はダメなんだっけ?」

 彼女の手を握ったまま、俺が訪ねると、彼女は小さく首を振った。

「いや。おおーい。私はここを離れるぞ。この者の嫁になる。誰か長を代わってくれ」

 彼女がやけに通る声でそういうと、どこかと奥の方から遠吠えのようなものが聞こえた。

「承認された。さあ、行こう……古賀の……」

「嫁? え? 俺の嫁さんに、なるの!?」

「そういう事なのだろう? ならば故郷を離れるも仕方あるまい。嫁入りとはそういう事」

「え。まって……決断の方向がズレて」



 俺は彼女に手を引かれて山をでた。

 陽はすっかり落ちていて、街灯が細々と灯っている。駐車場をでたところで、さっきの男と、隣には女性が立っていた。

「お帰り。……あれ、お前も来れたのか。選んでもらえたようで何より」

 男は俺に対するよりも親しげに、彼女に対して小さく笑った。

「おかげさまで、猿の世話にならずに済んだよ」

「まあ、豚を埋めるのは骨が折れそうだったから、良かったよ」

 二人の間にはどことなく親密な空気があった。

 戸惑っていると、さきさんだろう女性が笑いながら話しかけてくる。

「兄妹、なんですって」

 思わず、じっと女性の顔を見てしまった。

「私は、事故で死にかけてね。僕を選んでくれるならっていうから、こんなイケメン喜んでってかっさらっちゃった」

 へへと笑う彼女は、とても幸せそうだった。









 コヨトル様を知っているか。

 それは願いを叶えてくれる、人間好きの四つ足の。

 コヨトル様を知っているか。

 それは人間好きの四つ足の。

 コヨトル様を知っているか。

 約束好きの四つ足の。

 コヨトル様を知っているか。

 あの、人好きの。

 コヨトル様は、






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コヨトル・リマークス ナツメ @natsumeakira

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