総てを残し 弓張り月となりて

 年明け、正月はゆっくりと過ごした。初詣では清陽の健康祈願を行い、家族写真を撮った。パーティーの時の格好でも撮りたい! と騒ぐ清陽の要望に応え、急遽写真屋を家に呼びつけたりもした。

 澄ました己れ達の写真は、様々な記念写真達が鎮座する、宗田家の暖炉の側に置かれた。豪奢な椅子に腰掛けた己れと、その肘掛けへ横向きに寄り掛かる清陽は、活動写真に出てきそうな写り映えであった。

 尚、すぐの試験では、結局一点負けた。壁に頭を打ち付けたくなるほど悔しかった。己れの些細な誤りが勝敗を分けたという事実が一層拍車をかける。心底嬉しそうにする己れの清陽は可憐であったが、それ以上に小憎らしかった。奴の鼻を摘んで憂さ晴らしをしたが、それ位は許して欲しい。

 寒さが愈々いよいよ厳しくなり、大雪に見舞われた。寮員総出で雪かきに勤しむ。

 通学に支障が無い程度まではどうにか道が復活したところで、休憩を取る。ぐっと全身を上に引っ張り伸びをすると、固まっていた筋肉が解れる心地がした。

「五月女。お前らまだ過剰に物を貰っているのか。」

 側で休憩をしていた寮長から話しかけられた。首元に襟巻きを巻き、鼻まで埋める姿は畑に立つ案山子を思い出させる。潰れた学帽と冬でも下駄を貫くのは蛮カラでとても粋だ。痩せっぽちの長身であるが、弓道部の主将を務めた猛者である。

「主に清陽が。律儀に返事やお返しをしているので、絶えんでしょうな。」

 年末の帰宅騒動で諸々を押し付けた後、大層騒ぎになったと聞いた。食い物は寮母さんへ、生活用品を寮長へと渡したのだが、何せ親衛隊から清陽への贈り物だ。手抜きの物など一つもない。上等か或いは心の篭った品々である。粒ぞろいと評判のフロイラインらが贈った物を、男しか居らぬが故のむさ苦しさと、度重なる試験の重圧とで鬱屈としている連中が奪い合わぬ訳がなかった。世はクリスマスであったというのに、フロイラインの気配も無ければ成る程納得の地獄絵図である。

「幾ら言っても、どうせ聞かんのだろう。」

「その通りで。食えるものなら良いのですが。」

 贈り物の扱いは難しい。使える物は使うが、飽和してしまって部屋が片付かぬ。かといって、贈られた物を他人へ譲るのも抵抗がある。しかし使わねば物が泣く。

 清陽は以前、なるべく一度は使ってそれから他人へ譲っていた。だが己れがそれを止めさせている。《清陽が使ったもの》 という新たな付加価値を見出す弩阿呆がいるからである。

「しかし、近々また片付けねばならんのです。大掃除をし損ねたので、また皆に譲る物が出てくるでしょうな。」

「年末みたいな、派手々々しく置いて行く事は金輪際止めてくれ。圧死するかと思ったワ。」

「肝に銘じておきましょう。」

 寮長が身につけている襟巻きの他に外套も、冬になる前に己れ達が押し付けたものだ。初めは譲る事に関して、施しのつもりなら帰れと厳しく断られたが、その気がない事を伝えてからは協力して頂けた。どうしても余ってしまい、かつ使えそうなものは家へ送っていると言っていた。助けとなっていると聞いたので、このやり方が今の所、最善策であると考えている。

 供給元の張本人は寮母さんと掃除をしているはずだ。身体を冷やすのは避ける事と主治医から言いつけられており、寮母さんはその辺りを理解してくれている。清陽自身もまた、家政に抵抗は無いらしい。

「もうじき、オサラバなのだなぁ。」

 寮長は三年生であり、名門大学への入学が推薦で決まっている。家が貧しく、家族からの期待を一身に背負っていると聞く。稼ぎに稼いで、母親に恩返しをすると言っていた。

「寮長は、次は何処へ住むのですか。」

「大学の寮だ。何、此処からそう遠くはない。」

「淋しくなりますなぁ。」

 照れ隠しなのか、無言で骨張った手で後頭部をガリガリと掻く。潰した学帽がその振動に合わせて動くのを見、何か動物を帽子の中で飼っているのではと思うほど揺れ幅は大きい。

「よし、俺の後は五月女に任せた!」

 細身であるが長身で締まった身体を思い切り使い、唐突に己れの背中を叩いた。衝撃に耐えられず、無理矢理吐き出された息が奇妙な音を立てて白く拡散していく。

「ぐッ! な、何をするのです!」

 つんのめって、数歩先の積み上げられた雪山へと飛び込むところであった。見かけに寄らず剛力であるのだから、力加減をして欲しい。

「俺の後継はお前にしようと思う!」

「寮長は学校からの指名でしょう。己れがなれるかは分かりませんよ。」

「俺が推薦を出した。」

「……初耳です。」

「今、初めて言ったからナ。」

 戯ける彼は、にんまりと笑う貌は山猫に似ていた。

 寮長は学年を問わず学校から指名される。寮長が次年度も在学する場合は、生徒からの支持を得て続投するかが決められる。現寮長の推薦がどれほどの効力を持つかは分からぬが、かといって無視をされることも無いだろう。

「清陽の世話を一番に考える己れに、そのような大役が務まるのでしょうか。」

「あのやんちゃな天使が都度起こす騒動に対処するなら、何かと役に立つと思うんだワ。」

 確かにそうかもしれない。春になれば後輩が入学してくる。先輩という立場に居る人間というのは、後輩から見れば憧れであり、規範であり、頼もしい存在だ。そんな清陽に憧れを抱かぬ者など居ないだろう。必ずや大莫迦先輩の様な奴が現れる筈だ。

「寮長が留年して頂けたら嬉しいのですが。」

「先輩がドッペるのを望むとは酷い奴。」

「貴方が推薦した男はこういう奴なのですよ。」

「成る程、俺よりはマシそうだワ。」

 だっはっは、と豪快に笑う姿は晴れ晴れとしている。蛮カラが似合う寮長はこの先、世から求められる人間となるに違いない。

「粗方、向こうも終わったか。」

「そう見えますね。」

「で、あればやる事は一つ。次期寮長候補五月女、お前に分かるか。」

「雪掻きを台無しにしない程度の雪合戦と予想します。」

「その通り! 総員、裏門へ集合させろ!」

 戦場と化す雪上は苛烈なものとなるだろう。清陽を参加させるのであれば立地が物を言うはずだ。ならば窓際からでも届く中庭に陣を敷き、奴に迎え撃たせれば良い。己れは思わずほくそ笑んだ。

 

 己れの狙い通り、神憑った的中率を魅せつけた清陽の雪球は、後に《女神の投擲》 と呼ばれた。


 ◆ ◆ ◆


 三月となり、春の気配を色濃く感じる。それと同時に這い寄るのは、進級試験である。己れ達二人は進級に心配は無いが、結果が二年生の組分けに反映されるため、手を抜く訳にはいかぬ。

「クラス分け、かぁ。」

 清陽は己れに爪を切られながら、ぼんやりと呟いた。互いに少々、髪や衣類が乱れているが、己れは上機嫌であった。

 父様に頼んでいたネイルクリッパーを入手し、これからは自分で切ると清陽は喚いた。だがこの己れが、楽しみの一つになった習慣を手放す気は無かったので、ヒョイと取り上げた。それからは切る切らぬの押し問答を繰り広げ、戯れ合う程度の取っ組み合いの末、今に至る。

「二年生からどの道、別のクラスになってしまうね。」

「幾つかの授業では同じになる。そう気を落とすな。」

 ぱちん、と軽快な音が鳴るのは中々楽しい。軽い力で切ることが出来、かつ怪我の心配もぐんと減る代物だ。難点があるとすれば、一つだけ。

「ふむ。確かに便利で楽に切れるが、喰切と比べると切れ味は今一つだな。」

 ヤスリが必要なほどでは無いにしろ、何となく引っかかりを感じる。凹凸のある断面を指の腹で確かめ、刃物はやはり日本で作られた物が一等良いと気付かされる。

「僕は整えば何だって良いし、良い加減この習慣を絶ちたいのだけれど。」

 猫が撫でられるのを嫌う時みたいな素振りで手を引き抜いていった。と思いきや厭々ながらも、もう片方の手を差し出す辺り、己れの清陽はお人好しで愛らしい奴であると実感する。

「己れとしては、ヘイゼルは何が気に入らんのかさっぱり分からんな。」

「僕にしてみれば、シリカが何を気に入ってしまったのかさっぱり分からないよ。」

 軽口を叩きながら、爪切りを終えた。半ば呆れ、苦笑いしながら清陽は切りたての爪を眺めた。やや油断している清陽を抱き寄せ、額に手を添える。一瞬瞳を見開いたが、すぐに目を閉じ己れの掌を受け入れた。

「微熱、ほどでもないか。」

「ほんのちょっと怠いくらいさ。」

「今日の診察できちんと見てもらえ。呉々くれぐれも無理はするなよ。」

 分かっているとも、と笑う清陽は何故か沈丁花を想起させた。五月女の別荘に赴いた時に香らせていた金木犀のコロンとは違う、やや骨に染みる様な匂いだ。清陽に聞いたが特に何もつけていないという。

 正体不明の強い芳香の気配に一抹の不安を感じ、己れのヘイゼルの額へ口付ける。

 擽ったそうにする清陽は、己れの頬へと接吻する。

「負けないからね。可愛い僕のシリカ。」

「今度こそ泣きを見せてやるからな。愛しい己れのヘイゼル。」

 部屋から出れば、互いに好敵手の貌付きとなった。


 ◆ ◆ ◆


「終わった!」

 進級試験を以って、一年生としての授業は修了した。色んな意味と念が込められた声が各教室から雄叫びとなって上がる。

「また採点が楽しみだね、僕のシリカ。」

「体調不良は言い訳にはならないからな、己れのヘイゼル。」

 五十音順の席なので、前後に座る己れ達は互いに挑発し合う。手応えはあったが、それは己れの清陽も同じ事だろう。如何に誤りを減らすかで鎬を削る感覚は非常に研ぎ澄まされる。

 項垂れる者、放心状態にある者、解放感に浸る者と様々であった。早速街へ繰りだそうとする生徒を、先生が拳骨で呼び止め、閉会式を執り行う。騒々しい此のクラスとも、今日でお別れになると思うと淋しさを感じるものだ。

 

 成績表を受け取り(己れ達は当然全て良であった) 荷物をまとめ帰路につこうと教室を後にした。来月からはひとつ下の階になる。信奉者が纏わり付く距離が短くなるので、通学しやすくなるだろう。怒涛の一年間であった。だがこれからは己れ達は先輩と呼ばれる立場となり、後輩が入学してくる。

「僕らも、とうとう二年生か。楽しみだね、五月女寮長。」

「誂うな、まだ本決定では無いのだからな。」

 己れが次期寮長に指名されるのは、ほぼ確定していた。それもこれも、己れの清陽が持つ絶大な魅力の為なのだ。今後どういった騒ぎを引き起こすか分かったものではない。素早い対応と鎮静化を図るなら、確かに己れがこの立場につくのが妥当であるし、指名されても可笑しくはない程度の実績を残した自負もある。

 不意に、強い沈丁花の香りがする。この辺りには植えられていない。心当たりの方へ振り返れば、清陽が上履きを整えようとしているところであった。

「……あれ?」

 半靴を取り出そうと下駄箱の前へ立った清陽が、足をふらつかせた。膝に力が入らないのか身体を棚に預けてしがみつく。

「己れの清陽、大丈夫か。」

「ありがとう、僕の珪。変だな、……力が、入ら無、い……。」

 慌てて支えてやったが、力がずるずると抜けていく。清陽自身も何が起きているのか分からず、戸惑いを隠せない表情をしている。僅かな間で目の焦点がずれ、花の様な唇さえも力が抜け、貌は青褪めていく。その様は急激に萎む朝顔に似ていた。

「おい、しっかりしろ!」

「嗚呼、嗚呼……! シリカ、どうしよう……!」

 身体を揺すれば、鈍い光に食われていく瞳がこちらを向く。その色の失くし方は尋常ではない。清陽の瞳の一つ奥に磨り硝子が挟み込まれている。

 歯の奥がガチガチと鳴るほどの寒気が襲い掛かる。

「ヘイゼル!」

 強く呼びかけたが、とうとう自力で立てなくなった。大きく傾く清陽の身体を抱き留める。無防備に晒された喉がゾッとするほど青白い。

「嗚呼。僕、……僕の、身体が……。」

 うわ言さえも徐々に口元から消え、遂には清陽は気を失った。

「先生! 先生方! 宗田家に連絡を! おい、君。荷物を後で寮に頼む!」

 周囲のどよめきが次第に大きくなる。近くに居た生徒へ荷物を押し付け、清陽を背中に担ぎ走り出す。だらりとした清陽の腕が、糸の切れた人形の如く己れの肩から胸へと掛かった。

「清陽様!」

「嗚呼、そんな……! ヘイゼル様!」

「来るな!」

 強い声音で制止すれば、親衛隊らは石の如く固まった。狭くなった花道を搔い潜り一路医者の元へ。いつもの花道は不安と動揺で泪が零れそうである。一番近くにいたフロイラインに「必ず連絡する。」と一言残すのが精一杯であった。


 何故、何故!

 そればかりが頭の中を埋め尽くす。こんな事はあってはならぬ。約束をしたばかりなのだ。己れの一生を掛けて、如何に愛しているかを教えてやると!

 病は鳴りを潜めているだけで、常に背後に居る。分かっていた事だ。忘れていたわけではない。

 

 ――……だからといって!


「助けてくれ! 先生、助けて下さい!」

 血を吐く思いで叫ぶ。

 初めて清陽を担ぎ込んだ時と同じく、己れの目の前には星々が烈しくぶつかり合っていた。


 ◆ ◆ ◆


 急性に転じてから一週間。

 己れは清陽の病室で寝泊まりしていた。

 辛そうにする清陽の身体を摩り、落ち着いたら安静にさせた。起きている時はなるべく話をし、寝付くまで側に腰掛け本を読んだりもした。眠りの深さは不規則で、上手く休めているとは思えぬ程、清陽の身体は衰弱していった。

 見るからに体力を無くしていく清陽に、己れは恐れを抱く。

 清陽はいつだって未来の話をしていたのだ。明日は何それをしたいだとか、何処そこへ行きたいだとか、他愛のない未来の話だ。だが、それを口にしなくなった。そして己れも自然と、話すことは昔の話ばかりになっていた。

 海辺の砂が両手から溢れ落ちていく感覚に似た焦りが、己れの中に充満する。吐き気と目眩を引き起こしたが、そんな物には構っていられなかった。


 春めいてきたというのに、その日の夜は随分冷え込んだ。季節外れの雪でも降るのだろうか。シンとした夜に、桜の蕾が膨らみかけている。ついこの間まで、清陽の唇もああいった形だった。

「僕の、珪。」

微かな声。僅かな空気の振動を己れは聞き逃さなかった。

「どうした、己れの清陽。」

 ランプのぼんやりとした灯りに浮かぶのは、翳りゆく麗人。伸ばされたのは痩せてしまった腕。己れの方に、エスコートを求めるような手つきで左手を差し出した。

「爪を、切ってくれないか。」

 思いもしない頼み事に間が空いた。今までは己れが切るたびに文句を言っていたと言うのに。しかもこんなに夜中に爪を切るなど、親の死に目になんとやら、という言葉知らぬのか。

 そこまで思い至り、清陽の考えが見えてしまった。弾かれる様に貌をあげて奴の表情を見れば、諦めとは違う何もかも受け止めた様な瞳が朧気に揺らめいている――。

「お前、莫迦者! そんな、縁起でもない!」

 支離滅裂になりそうな叫びは喉につかえ殆ど出てこなかった。焦燥を隠すことが出来ぬ。

「僕の、珪。」

 窘められる様な声音。底の見えない瞳の色に、己れの唇は戦慄いた。

「お願いだよ、僕のシリカ。……ちゃんと、しておきたいんだ。」

 足元から、立っている世界が崩れていく。茫然とするが、他ならぬ清陽の頼みを断れる訳が無い。

 刹那、満たしている焦りは、無力感と呼ばれる物であると理解した。


 ぱちん。

 指が随分と細く感じる。高々一週間で、人というのはここまで精気が抜けてしまうのか。


 ぱちん。

 骨ばってしまい、かの白魚は干上がってしまったが、翳のある美しさは益々栄えている。


 ぱちん。

 白い弓張り月が清陽から離れていく。試験日の朝に切った物と同じ筈であるのに、切られた爪は乾いていて割れてしまいそうだ。 


 ぱちん。

 照らしているのは月明り。弦月であるというのに、厭に明るい青白い光が己れ達に降り注ぐ。


 ピアスを開けあった、あの日の月は何色だっただろうか。

 清陽との特別な日の一つであるのに、もう思い出せぬ事がある。

「……シリカ。」

 己れのヘイゼルから離れた繊月せんげつが、遠い空の月に搦め取られていく。その指先から、己れのヘイゼルは遠くへ消えてしまうのか。

 かなぐり捨てて初めて拾えるものならば、己れの何もかもと引き換えに、清陽の総てを掴み取るというのに!


 ――……厭だ、逝くな。


「……ッ! ヘイ、ゼル……。」

 その思いは言葉にならない。言ってはならない。もっと他に言いたい事や文句もある。囁き足りぬ愛の言葉、気の利いた洒脱でハイカラな素振りだって必要だ。それなのに、綯い交ぜになった物が渦巻くばかりで、溢れるのは嗚咽しかない。

「大丈夫だよ、僕のシリカ。」

 堪らず清陽を抱き締める。カラカラと軽い音を立て、爪切りが床に転がった。別荘で落とした喰切の音はもっと重厚だった。同じものであるというのに何という頼りない音なのだろう。

 見かねた清陽が、己れの頭を撫でる。喉の奥、胸の奥で冷たい鉛が押し込まれ、言葉はおろか息すら儘ならぬ。引き攣った声や息は嗚咽でもない。まるで狂った烏が鳴くようだ。

「きっと君にとって、良い様になる。」

 言葉を上手く発せられない代わりに、腕に込める力を込める。

 お前が居ない世界は色など褪せ往くに決まっている。烏が白に染まらぬ。廃水が共に見た青い海にならぬのと同じだ。

 そう告げてやりたいのに息をつく暇もなく泪が溢れる。己れの背を摩る腕に、力は無い。

「清陽……! 己れの、清陽ッ……!」

 己れのヘイゼルが氷の如く溶けていく。月に奪われ萎んでいく。そう錯覚してからは、涙袋の堤防は決壊してしまった。あまりにも、子供が泣く様だったせいか、清陽が少し笑う。己れの頬に両手を添え、額をくっつけあった。

「君にはもっと、僕を連れ去る権利が必要みたいだね。」

 力なく笑う唇は乾いてしまっている。罅ひび割れそうな唇から、蕾の面影は消えかかっている。

「僕は、頭の天辺から、足の爪先まで、君のヘイゼルなのだから。」

 そんなに泣かれてしまうと、困ってしまうよ。

 殆ど息だけで囁かれた言葉。木漏れ日に揺れた一葉の揺らぎ。己れとの唇に距離は一寸も無い。

 どちらともなく、静かに、緩やかに口付けた。ゆっくりと啄ばみ、互いの唇を舐める。

 慈しみ、確かめ合い、二人の想いが確かに交わり合う。


 こんな事が、あって良いのか。


 お前との未来を信じ、血よりも更に濃い、家という繋がりを信じ、共に居続けるために踏み込まなかったというのに。

 お前を失くす事で初めて得られる関係を、更にそこへ幸福を見出すなど、あって良いのか――!

 泪と乱れた息のせいで上手く呼吸が出来ぬ。清陽の瞳からも、硝子の粒が溢れ頬を伝って落ちていく。

「僕の、シリカ。愛しているよ。僕の友、僕の兄弟。

 ……それから、僕の、一番愛しい、僕のシリカ。」

「嗚呼、嗚呼。己れもだ。勿論、愛している。

 誰よりもお前を、友として、兄弟として、己れのヘイゼルとして、お前を一等愛している。」

 指を絡め、清陽の泪を唇で掬う。触れ合うだけの接吻を何度も繰り返し、額にかかった髪にも口付けた。

「幸せ者だな、僕は。」

 ランプが明滅し、やがて消え入るような、僅かな灯火が揺れている。榛色の、宝石の瞳は今にも緞帳が降りてしまいそうだ。

「……お休みなさい、僕のシリカ。」

「ゆっくりお休み、己れのヘイゼル。……良い夢を。」

 あの日の鼈甲色が永遠に閉ざされてしまうと、覚悟は決める。微かに漏れ始めた寝息を聞きながら、己れは清陽を見つめた。


 己れの呼気に、微かな終いの匂いが混ざっている。愈々目が離せない。


 ◆ ◆ ◆


 清陽はその日から、急激に弱っていった。

 もう何日も持たぬと誰しもが思い、様々な人間が清陽の病室へと訪れた。己れは席を外すこともなく、彼らに淡々と現状を伝えた。見舞いへ来た全員が泪し、苦悶の表情になる様子から、清陽は愛された人間であったと改めて認識させられる。

 鳳先輩は言葉なく大粒の泪を落とし、己れの肩を叩いて出て行った。

 任せた、と。

 当の清陽は殆ど眠ったままだ。口付けを交わした晩から会話をしていない。不規則に目覚めては己れを見、ふと微笑んでまた眠りにつく。夢見心地な寝惚けた時と同じ貌であった。その度に己れは、指先や手の甲に接吻し、微笑みかけた。

 己れはほぼ不眠で清陽の手を握ったまま、その貌を眺め続けていた。

 皆、己れ達の間柄を分かっていてか、清陽の両親さえ己れを止めなかった。


 口付けを交わした晩から三日目の夜。

 清陽が死んだ。

 最期に微笑んだ淡褐色の瞳は、泪に濡れていた。


 己れヘイゼル、良い夢は見れたか。

 時折見ていた己れの貌は、ちゃんと笑っていたか。

 お前の好きな、オニキスの瞳は見えていたか。

 そこに載せた、お前への愛は読み取れたか。


 繋いだ手は徐々に冷たく、硬くなっていくだろう。榛色の瞳も、華やかな手脚も、翳のある美しき麗人は還ってしまうのだろう。

 そうだ、きっちり焼いてやらねば。赤く燃える秋の日に、己れは確かにそう言ったのだから。

「珪。」

「……はい。」

 何もかもが抜け落ちた声であった。父様を見ず、清陽の髪を梳く。猫の様に柔らかな感触を忘れぬ様に、丁寧に触れる。陶器に似た白い肌はやがて腐敗するとは思えぬ色だ。

「大事な話だ。良く聞きなさい。」

 手を清陽から離され、強く握られた。身体ごと父様の方へ向けられる。父様も寝ずに見守っていた為、隈が出来ていた。泪を流した後なのだろう。白目が赤く滲んでいる。

「……清陽は、検体に出される。」

 思いもよらぬ言葉に目を見開いた。

 検体。

 何故、病を調べきるという事か。清陽が罹った病は例が少なく、研究も進んでいない。確かに恰好の研究対象だ。己れは血の気が引く思いをしたが、それはすぐに覆された。

「良いかい、珪。清陽は、君の後学の為に検体を志望した。君を同席させることを条件に、検体になると遺書を残したんだ。」

 後で読むといい、と懐から取り出した紙を広げた。紙面を走るインクは紛う事なき清陽の字であった。丸みがあり、細く丁寧な文字は清陽の律儀な性格が表れていた。

「清陽はそんな事、一言も。」

「……只では死にたくない、と喚かれたのだ。まるで幼子の様に。」

 その時を思い出したのか、父様は力の抜けた笑いを漏らす。

「只の癇癪なら幾らでも宥められたんだがね。理詰めで客観的にも、将来的にも役に立つと言って、その後で感情を爆発させるものだから。

 ……この莫迦息子は、本当にどうしようも無い。」

 物言わぬ清陽へ慈しむ眼差を向ける父様の瞳に、膜が張る。だが直ぐに咳払いを一つして、表情を引き締めた。

「お前は歩かなければいけない。

 良いかい珪。お前は清陽の身体を使って、清陽の魂を使って、未来で多くの人を救いなさい。」

 父様の言葉は雷となって己れの心に落ち、視界を切り裂いた。


 ――君にはもっと、僕を連れ去る権利が必要みたいだね。


 同時に清陽の言葉が蘇る。

 そうか、そういう事か。

 己れが医師となる将来の為に、医学の発展という壮大な献身という名目で、己れに何もかもを寄越すというのか!

 髪も、瞳も、骨も、肉も、魂さえ! 何という男なのだ、己れのヘイゼル!

「は、はは……! 莫迦者。清陽、お前、お前という奴は! 一体いつからそんな事を考えていたのだ!」

 最期の最期まで己れを喜ばそうとする、己れのヘイゼル!

 己れはたった今、全てを失った! お前の全てを手に入れた変わりに、お前に何もかもを奪われた!

 だってそうだろう。終末で結ばれ、一番奥底へしまいこんだ心を奪われ、更には丸ごとお前自身を贈られたのだから!

 高笑いが止まらない。清陽を総て、清陽の総てを連れ去る事が出来るだなんて!

「珪、しっかりしなさい!」

 両肩を掴まれ、揺さぶられた。大きな手は記憶の中に微かに残る、己れの父にも似ている。急激に込み上げる郷愁に胸が締め付けられる思いがした。

 清陽の父様は、己れの父が死んだ時、一体何をどう思ったのだろうか。

「病院には話を付けてある。明日にも関係者達がやってくる。今日はゆっくり休みなさい。碌に寝ていないだろう。」

 この声は清陽に似ている。いや逆か。清陽が父様に似ているのだ。柔らかで、己れに向ける感情は、常に己れの事を思っている。

「嗚呼、楽しみです。清陽が、己れの清陽が、己れの為に……。まるで、総ての人生を捧げられた様な……壮大なプレゼントの様です。」

 父様が息を呑むのが分かった。恐らく己れは最早、狂人といって良いだろう。最愛の兄弟で最愛の親友を喪ったというのに、うっとりとした表情で亡骸に触れ、しかも今生一番の幸福に居るのだから!


 ――……どうだい、上手くいっただろう。


 清陽に自慢気な笑みが浮かんでいる。

 疲労と清陽を亡くしたショックによる幻影だと分かっていても、その手をとって踊り出したい気分だ。

 清陽に手を伸ばせば、そのまま手を引かれる様に真っ暗闇へと落ちていく。


 墜落感の中で微かな死の味を思い出し、己れの唇をペロリと舐めた。

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