絢爛たるブランディを含む


 燃えるような赤い秋が過ぎて、白く引き締まる冬へ。吐いた息さえも象られる季節がやって来た。世話になった人達へ認めた年賀状を、そろそろ出さねばならぬ。

 応援団員としての役割を果たしてから、月日が経つのが早かった。体育祭を含めた出来事全て、昨日の様の事に思い出せる。それだけ密度の濃い日々であったし、当日は血が滾る出来事の連続であった。

 最も胸が熱くなったのは、意外にも大莫迦先輩の男気であった。白組の鳳先輩は、紅組の己れ達――当然、主には清陽だったが――へ、盛大なエールを送ってくれた。副団長が一般生徒や後輩の団員へエールを送るなど、異例中の異例である。それは一年生である己れ達でも十分過ぎるほど分かる事だ。己れ達への声援を送るために、一体どれだけの準備をし、何人に頭を下げたのだろう。間違いなく団長や役員だけではないはずだ。清陽が復学する際にも、神聖なる校旗を校外へ持ち出していた事に大層驚かされたというのに!

 この時ばかりは、清陽を想う気持ちの強さと純粋さに、己れですら目頭に熱が集まった。清陽に至っては、両手で貌を覆い泪していた。


 体育祭を終え、次第に落ち着きを取り戻していく教室の中に、己れの清陽が着席している姿を見ては、心底復学して良かったと思えた。

 危険ばかりが潜む生活へ、送り戻して良かったのだろうか。不意に過る考えは頭を擡げ、心の片隅に僅かな埃として散らかり、後ろめたさを感じさせていた。だが晴れやかに微笑む清陽の姿に、それは霧散した。同時に、己れのヘイゼルが普通の生活に拘る意味が心で理解出来た瞬間でもある。清陽の思想や尊厳には傷を付けるわけにはいかない。それらを優先して初めて、人は生きる事が出来ると知れた事は、どの様な哲学書を紐解くよりも価値がある。

「珪。期末試験、また勝負するかい?」

「当然だ。年明け直ぐの勝負は心躍るな。」

 終業式を終え、帰路につく。街中は年末の空気が漂っている。道中で貰った親衛隊からの差し入れを、己れと清陽半分ずつ抱えていたが、なかなかの大荷物となっていた。

 帰室し、一息吐く。

「食べ物は皆で分けても罰は当たらないよね。」

「その辺りは寮母さんと寮長へ押し付けて、上手くやって貰おう。」

 抱えていたのはクリスマスプレゼントである。終業式であった今日、今年最後に合う日だからと、彼女らから渡された物であった。本や栞に始まり、帽子、洋シャツ、蝶タイ、革手袋、セーター、和菓子、洋菓子、それから一括りにされた手紙。なるべく嵩張らない物を選んでいる辺り、訓練された親衛隊の気遣いを感じた。

 相変わらず部屋の郵便受けは満杯でこれ以上は入らない。それを見越して手紙の束を手渡ししたのだろうと推測すると、彼女らの中でも熾烈な戦いがある事が見て取れる。

 フロイラインからの品々に、とある二人をどうしても思い出してしまう。贈り物に余念が無い、身近な二人を。

「父様と母様、今年は特に力を入れる気がしているのだが、どう思う。」

「あの二人からしてみれば、厳選に厳選を重ねた品々だけなのだろうけど……。」

 美しく包装されたプレゼントは当然、嬉しく思う。だが、何事にも限度という物がある。うず高く煌びやかな山が築き上げられる様を想像してか、清陽はげんなりした表情を浮かべ、気を紛らわす様に郵便受けの中身を一気に引き抜いた。手分けして宛名を確認し合い、仕分ける作業は最早手慣れたものだ。

 清陽宛の手紙のみを入れた木箱は既に全容量の八割を超えた。唐突に山羊の群れがやって来たとしても、持て成す事が出来るだろう。

「読むのは問題無いのだけど、返事が追いつかないなぁ。」

「大層持てる様で羨ましいぞ、己れのヘイゼル。」

「君はもう少しメッチェン達へ返事をしたらどうだい、僕のシリカ。」

 清陽の長い脚が組換えられ、腰掛けたベッドはギシリと鳴った。不機嫌になったとも取れるような音に少し可笑しくなる。

 己れ自身筆不精という程では無いが、殆ど貌も名前も覚えて居らぬ相手に何を書けば良いのかとんと思いつかぬ。「その内な。」と適当に返事をし、己れは清陽の隣へ寝そべった。

 ふと、気になる物が目に入った。ベッドと壁の隙間に白い何かが落ちている。長方形の紙であったので、愛を歌う文の一つだろうと思えた。拾い上げ宛名を見れば、凡およそフロイラインが書いたとは思えぬ達筆な英語であった。

「何か、落ちていたぞ。」

 触って分かる程、一際上質な紙で出来た封筒。それだけで恋文ではない事は明らかだった。恐らく何かの案内なのだろう。形式ばった英単語の表現が一瞬目に入った。その封筒を見るや否や、清陽は血の気が引く様な、悪事が明るみになった様な貌をした。

 手に持っていた手紙を全て離し、その封筒を開く。勢い良く黙読していったかと思うと、額に掌を当てて呻き出した。

「僕のシリカ。怒らないで聞いてくれる?」

「碌でもない事なら許さん。」

 ベッドの上で正座する清陽。髪を伸ばし始めた奴の貌色は、その明るいキャラメル色でも誤魔化せぬほど青い。寝転がったまま様子を窺うことにした。

「碌でもない訳では無い、と思う。

 帝国ホテルで行われる、クリスマスパーティーの招待状なんだ、それ。」

 歯切れの悪い言葉が続く。帝国ホテルでのクリスマスパーティーは、幼い頃に清陽の父様に連れられて一度行った事がある。当時は従業員向けの催しだったが、最近一般客向けにも行う様になったらしい。

「懐かしいな。前に行ったのは随分子供の頃であったか。」

「僕たちも、もう大きくなったし。父様や母様も行くから、一緒にどうかって。」

「良いのではないか。何故それで己れが怒ると?」

 煌びやかな装飾品にデコレイションケーキは見ていて楽しい物だ。着飾った人々が浮かれ歩き、ハイカラ層が一際張り切る。華やかで活気ある景色は好ましい。百貨店の装飾は今年も美しく展示されていることだろう。

「それ、明日なんだ。」

「はっ?」

 脳内に広がっていたクリスマス仕様の街並みは崩れ去った。

「明日なんだよ! どうしよう!」

 思わず飛び起きた。今すぐにでも自宅に戻らねばならぬ、という使命感が埋め尽くしていく。

 幸いにも程近い為、馬車鉄道でどうにかなる距離だ。だが既に日が沈みかけており、そろそろ運行が無くなってしまう。となると路面電車を使わねばならないが、降りた先で乗り継げる物があるか不明であった。人力車を呼び立てても、真夜中の到着になる事は十分にあり得る。

 その上、明々後日の昼に帰省する予定で既に帰宅届を出している。それを変更する手間はやや煩雑であり、この時間から受け付けて貰えるかと言えば微妙なところだ。

 何より、清陽の両親が恐らく膨大に用意した選択肢を一日もなく選び取る気苦労が胸を掠め、目眩がする思いがした。

「どうしよう、シリカ。どうしよう!」

「莫迦者、何故忘れていたのだ!帰るぞ、今すぐに!」

 大慌てで荷物を纏め始める。必要な物だけ持ち、最悪後で取りに帰ってくれば良い。年賀状の束と、貴重品、招待状、やや厚手の防寒具を携え、制服のまま部屋を飛び出した。寮長に諸々を押し付け、寮母さんに事情を伝えたら、やはりそれぞれに怒られた。

 喧しい文句も、ごもっともなご高説ももっときちんと受け止めるべきだと分かって入るが耳を通り過ぎていく。

「嗚呼、御免よ、本当に御免! 愛しているよ、寮長!」

「スマンです、寮母さん! また帰ってくるかもしれませんが、良いお年を!」

 半靴を踏み鳴らして寮から飛び出す。

 日が落ち、夕焼けの冬の空は硝子のような色であった。吐けば白く曇り、そのまま霜となって落ちてきそうだ。


 ◆ ◆ ◆


 宗田家に到着したのは結局夜中になってしまった。

 礼儀を失した時間の帰宅であったが、もしかしたら帰ってくるかもしれないと、母様が待っていて下さった。どうにか今日中に帰宅でき安堵の息を吐く。

「もし私が起きていなかったら、一体どうするおつもりだったのです。」

「仰る通りで、返す言葉も無いです。」

「御免なさい、母様!」

 母様は呆れた表情で小さな溜息を一つ吐いたが、只管に頭を下げる己れ達二人の姿を見て、柔らかく笑った。その笑顔を見た途端、膝から急激に力が抜けていく。

「どうにかなって、本当によかった……。」

 広間のソファーに腰掛け、そのまま深く沈み込んだ。すると母様は大判のストールを己れ達の肩に掛け、ホットミルクを用意してくれた。

「珪、冷えたでしょう。お飲みなさい。」

 日本人よりも綺麗な発音の、流暢な日本語。穏やかな声で発せられる柔らかな言葉は、どの子守唄よりも安心できる不思議な響きを持っている。

 己れも清陽も母様の声や、歌が大好きであった。心地の良い夢の中に似た温かさに包まれる。

「今日はもう遅いから、シャワーを浴びて明日に備えなさい。

 肌荒れしない様に、クリームを塗るのですよ。」

「はい、お休みなさい母様。」

「また明日。早く起きます。」

「明日は学校の話を、色々とお聞かせ下さいね。楽しみにしてますから。」

 ほんのりとした手持ちランプの明かりは、廊下の角からやがて消えていった。


 嗚呼、帰ってきたのだ。


 ホッとする優しい甘さが、身体の内側へ染みていった。


 ◆ ◆ ◆


 翌朝は早く起床した。久しぶりの一家揃っての朝食であったが、上野の美容室へと赴く事になっている。己れは最近散髪したばかりなので、香油で整えるだけで良いのだが、清陽の髪は手入れに時間を掛けるという。当の本人も髪を伸ばし始めたのもあり、綺麗にしておきたいらしい。衣装をあわせながら髪型を決める予定らしいので、長く掛かるだろう。

 己れ達は荷物は殆ど持たず、馬車へと乗り込む。

 馬車の中では様々な話をした。体育祭に始まり、写生大会での追いかけっこ、日頃の学校生活、先生の様子や寮での過ごし方。話せば話すほど、如何に己れ達は共に過ごしているかが良く分かる。父様も母様も興味深そうに耳を傾け、清陽を復学させて良かったと微笑んだ。


「じゃあ、僕のシリカ。また後で。」

「一層美しくなった姿を楽しみにしているぞ。己れのヘイゼル。」

 先に整髪が終わった己れは人力車を呼び止め、父様と共に店を何軒か回った。衣服以外に装飾品を取り寄せたらしい。主に清陽用だろうと予想出来た。

「よし、これで全部だな。それでは洋菓子でも食べに行こうか。」

 何とも魅了的な言葉が耳に入る。清陽ではない、普通の学友からの誘いであれば十中八九断る誘いだ。だが相手は清陽の父様で、己れが甘味を好むのを良く知っている。男としての矜持云々は消し飛び、心の中の天秤がぐらりと傾いた。

「良いのですか?」

「マイスポーズ達はまだまだ時間が掛かるだろうし、偶には良いだろう。」

 人差し指を口元に立て、子供っぽく笑う。清陽が見せる表情に似ており、心臓が小さく跳ねた。

「風月堂も美味いが、食べて行ける所が良いな。」

 清陽の父様は、商売柄もあってか何処へ行っても其の土地に詳しい。前髪を掻き上げる姿は様になっている。背が高く姿勢が良いこの人は、己には一切ない魅力に溢れる御仁だ。清陽や母様とも違う、外国の風を感じる。己れの憧れの人でもある。

 ふと、バターとメリケン粉がこんがり焼ける様な、甘い匂いが漂ってきた。

「良い香り……。」

「恐らくビスケットだな。」

 ビスケットは好物の一つだ。己れの母と清陽の母様が、気まぐれに焼いていたこともある。最近めっきり食べていなかった事を思い出し、思わず喉が鳴った。

「あのカフェーか。行ってみよう。」

 洋食屋などには連れられたことはあったが、カフェーへ入った事は無かった。父様の後をついて、落ち着きなく店へ入る。

 真っ先に目を引いたのは立派な柱時計。洋風のランプに、猫足に似た脚がついた洒落た本棚はどれも重厚な光を放っている。正装した給仕が恭しく運んできた珈琲を味わう人々からは、心が満ち足りていく様子が感じられた。周りは若き画家と文筆家らしき客がおり、議論に花を咲かせている。聞きかじった程度であるが、カントについて論じているのだけは分かった。

 慣れた様子で父様は給仕を呼びつけた。父様に倣って珈琲を頼む。追加でコニャックとチョコレイト、二人分のビスケットを注文し、己れは辺りを観察する。ステンドグラス風の硝子窓は日の光を受けて鮮やかな影を落として居る。給仕は純白の上着に黒ズボンを身につけ、テキパキと働く姿は見ていて気持ちが良い。白大理石のテーブルにパリー風の曲木椅子。時折香ってくる、ドーナツの香りに腹が鳴りそうになった。

 給仕が待ちに待った洋菓子達を運んできた。小さく会釈をし受け取り、ビスケットと対面する。己れ好みの甘い味だろうそれを、清陽の居ない所で食すという事に、何故か後ろめたさがピタリと貼り付く。ジッとビスケットと睨み合う己れを見て、父様は首を傾げた。

「おや、食べないのかい?」

「……己れ一人で食べるのが、何だか勿体無くて。」

 鼻腔を擽る香りだけで、美味いのが分かる。清陽もしばらく食べていないはずだ。父様とこっそり食べるのも楽しいが、同時に清陽も一緒に居る時にと考えてしまう。

「それなら、清陽を連れてまた来ると良い。逢引には下見が必要なのさ。」

 貌に火が灯った。清陽と逢引など、まさか父様には御見通しだったのか! と考えたが文脈からして「清陽と共に下見をすると良い」という意味だろう。勘違いした事に余計に赤面する。

「珪は、初心なのだなぁ。」

 一人で真っ赤になったのを見て、父様は己れがフロイラインに不慣れであると思ったらしい。

「かっ、揶揄わんで下さい!」

「嗚呼、スマン。怒らせたかった訳ではないんだ。お前の父を……菱りょうを思い出してね。」

 父様はそう言って、珈琲に口をつけた。珈琲にコニャックを入れ、ゆったりとした動作で飲む姿は大人らしく格好が良い。

「父は、己れ位の頃、どんな様子だったのですか?」

 己れの父と母は、己れが六つの頃に亡くなった。強いショックからか、己れはその前後の記憶が曖昧だ。両親の死に貌も覚えてなければ、死因さえも記憶に無い。清陽の母様から、外出先で土砂崩れに巻き込まれたと聞いている。己れはその時、宗田家に預けられていたため、無事であったとも。

「その頃から中々堅物だったよ。そして恐ろしく頭が良かった。でもお洒落と甘い物が好きでね、良く銀座へ赴いたものさ。」

 目尻を柔らげ、懐かしむ瞳は温かく優しい。優秀な父様が「恐ろしく頭が良い」と評するのだから、己れの父は天才的な人間だったのだろうか。

 父の話を聞きながら、己れも珈琲とコニャックの組み合わせに挑戦してみたが、苦くて飲めたものではなかった。無言でチョコレイトを足す。

「ふふっ、その飲み方も菱が好んでしていたよ。やはり、親子なんだな。」

 己れは嬉しくなった。清陽の父様が、己れの父を覚えてくれているおかげで、父が側に在り続ける事が出来る。そして己れを通して父を見る父様の表情は、清陽が己れへ向けるものに良く似ていた。己れの父と清陽の父様も、深く結びついた友人同士であったのだろう。もし己れの父が生きていたら、きっと、もしかしたら。


 焼きたての香ばしいビスケットは、優しい思い出その物の味であった。


◆ ◆ ◆


 宗田家へ一足先に戻り、父様に相談しながら服選びに勤しむ。選んで貰ったほうが手っ取り早いが、己れの父であれば自ら見立てるだろう。背広を数着並べて洋シャツとタイを組み合わせる。

「グレーのラウンジスーツであれば、同色のチョッキに落ち着いた紫の、細身のタイが良いかと思うのですが、如何でしょう。」

「良い。ただ、クリスマスパーティーであるから、もう少し華やかさを持たせても良いだろう。」

 調和というものは難しい。一つ要素を変えるだけでガラリと印象が変わる。

「アスコットタイにしてみようか。その紫色のをこちらに。」

 襟元に置いてみると、華やかさはあるが重鈍な印象が拭えない。どこかに隙間になる色があればと思い至り、グレーのチョッキへ目を付ける。

「……チョッキの色を、もう少し白っぽい物に変えたら面白いでしょうか。」

「中々前衛的な事を言うね。やってみようか。」

 程よい光沢のある薄灰の物を父様がクローゼットから取り出す。派手すぎず、地味すぎないその一品は、タイを上手く引き立てている。

 ふむ、と父様が考える姿を見、及第点に届く手応えを感じた。

「一度これで着てみなさい。ポケットチーフとカフスは私が選ぼう。」

「分かりました。着替えてきます。」

 隣の部屋へと移動し、迷うことなく身に付けていく。

 一人でタイを付けられるようになったのは、五月女の別荘へ赴いた時だ。背広を着る度に清陽にタイを結んでもらうのも悪くは無かったのだが、気恥ずかしさを感じて清陽から教わった。毎日結んであげるのに、と散々に誂われたが最後の方は最早意地で振り切った。

「ふむ。まぁ、己れなら良くてこんなものだろう。」

 姿見に映る姿は浮かれきっている。上着とチョッキの色を変えたのは正解だったかもしれない。色の取り合わせは派手では無いが、ハイカラな男児には見えそうだ。

 元の部屋へと戻ると、父様の表情がパッと明るくなった。

「良いじゃないか! 今日はそれで行こう。」

「皆の隣に並んでも、変では無いですか?」

「全く問題無いさ! 嗚呼、会場へ行くのが楽しみだ。」

 父様の瞳の輝きからして嘘では無い様だ。安堵感と達成感で胸が水面を揺蕩う木の葉の様に浮ついてしまう。

 頬を軽く叩いた。


「父様、シリカ! 只今戻りました!」

 程なくして清陽が戻ってきた。清陽は衣類を含め、全て美容室で整えたはずだ。奴の跳ね飛びそうな声音だった。母様の趣味で婦人の様な格好にさせられたらどうしよう、と昨日寝る前に不安がっていたが、明るい声からしてどうやらそれは無かったらしい。「余りはしゃいではいけませんよ。」と窘める母様の声がしたが、母様自身も上機嫌である事がすぐに分かった。階段を駆け上がる音が聞こえてくる。

「うわぁ、見違えたね! 流石は僕のシリカだ!」

 現れた清陽の姿に言葉を無くした。

 黒のラウンジスーツ、純白のクラヴァット、発色が良い鮮やかな金糸雀かなりあ色の、斜め縞が入ったチョッキが差し色となり、清陽が光り輝く様だった。ポケットチーフは黄蘗きはだ色で質の良さが窺い知れる。

「どう? 我ながら中々、上出来だと思うのだけれど。メッチェンの格好にされなくて、ホッとしてるのが一番だけどね!」

 くるりと一回転して半履を鳴らす。いや、ドレスシューズというべきか。光沢を放つ足元は、歩くだけで星が出そうだ。

 伸ばしていただけの猫に似た柔らかな髪も充分に魅力的であったが、整えられたは髪型はヘイゼルに非常に似合っていた。貌周りに柔らかく掛かるようにカールし、後ろ髪は低い位置でひとつに纏められている。赤いリボンを髪と共に揺らす姿は、何処かの貴族以上に高貴な存在に見えた。

「僕のシリカ、惚けてないで何か言ってくれよ。」

 苦笑いをされて初めて、己れは一言も発していなかった事に気がついた。細やかに整えられた目の前の己れの清陽は、大袈裟ではなく天の御使と言われたとしても疑う事はない。

「嗚呼……いや、スマン。……本当に、驚いた。」

 思わず手を伸ばし、己の清陽の頬に触れる。うっとりとその姿を眺め、榛色の瞳を覗き込む。

「綺麗だ、とても……。」

 淡褐色がより一層澄んでいる様に感じる。どんな言葉で表現したとしても、己れが感じている感動の半分も言い表せないだろう。思わず感嘆の息を吐いて、美しい、と小さく呟いた。

「……僕のシリカ。そこまで熱烈に見つめられると、その。本気で照れてしまうよ。」

 目を伏せて小さく笑う清陽は己れの手にそっと触れ、静かに解いていった。

「清陽、私にも良く見せてくれ。」

「父様! どうかな、変じゃない?」

「とっても見違えたな。流石は私のマイスポーズの見立て!」

「もう、偶には僕を褒めてくれたって良いじゃない。」

 そう言いながら手の甲にキスを落とす父様と、満更でもなさそうな清陽の姿に心が温まる。ほんの少しの寂寥感と、羨望は胸の片隅に丁寧に追いやった。分かっていることではあるが、この親子は本当の意味で、素敵な家族同士であるのだと実感する。

 一頻り褒めちぎった後、父様と母様も準備があるからと階下へと行ってしまった。己れ達は清陽の部屋へと向かい、父様と己れで運んできた装飾品の箱を紐解いていった。中身は己れと清陽二人で分けるようにとカードが添えられていた。

「そのピン、良いね。何の花だろう。」

「よく分からんが、気に入った。」

 手にとったのは、花のブローチであった。中央から膨らみを持ち放射状に広がった花糸とそれを囲う薄紫の花弁。品のある雰囲気に惹かれ、胸元へと取り付ける。

「清陽のも良いな。」

 清陽の左胸元にはピンブローチが品よく鎮座していた。色形は竜胆の花に似ている。黄系統の中で一輪咲く紫は全体の調和を上手くとる要石になっていた。

「後日交換しないかい? 僕よりも君の方が合うと思うんだよね。」

「確かに、この花のブローチはお前の方が合いそうだ。」

 従者が忙しなく動き回る声や足音が聞こえてくる。そろそろ準備が整うのだろう。

「父様も母様も、綺麗になるんだろうな。」

「約束を交わした人マイスポーズ、と呼び合う二人だからな。」

 あの二人の子供として、清陽の兄弟として、更には五月女家の名を赦され、肩を並べられるという事は、何と幸福なことであろう。


 ◆ ◆ ◆


 会場に降り立った瞬間から、周囲は己れ達一家に熱のある視線を寄越した。中でもやはり、清陽は注目を強く集める。

「まぁ、天使が居るわ。」

「まだ話しかけては駄目よ。御紹介があってからでないと。」

 響めく奥方らの言葉に棘はない。この様なパーティーに出席する層に、西洋人を排斥する人は少ない。寧ろ、この一家で浮くのは己れの方だ。

「奥様も随分お美しい……。」

「旦那様も立派なこと!」

「何と、凛々しい殿方なのでしょう。」

 己れについて、何か悪い事を言われていないかを耳そばだてる。完璧と言っても差し支えない宗田家の汚点になることだけは避けたいものだ。受付を済ませるだけで、此のさざめきである。開会したら一体どうなるのだろう。

 背筋を伸ばし、無理がない程度に澄まして歩く。父様が己れ達を此処へ連れてきたという事は、宗田家の息子として清陽を紹介する目的もあるはずだ。己れはその兄弟或いは友人として相応しい振る舞いをせねばならぬ。

「すごいね。皆、僕たち一家を見てる。」

 こっそりと耳打ちする清陽は誇らしそうだった。家族らへ羨望の眼差しを向けられたら気分が良いものだ。誰にも気づかれない様、死角になった位置で清陽の小指へ触れる。手遊びの要領で己れ小指を絡め、ひっそりと耳打ちし返した。

「宗田家は美男美女で成り立っているからな。」

 狐につままれた様な貌をされた。暫く置いてから、言外に含めた意味を理解したらしい。美人が眉を顰め険しい表情となるのはやはり迫力が違う。

「君も僕らの家族であるし、良い加減、君も見目が良いと自覚しておくれよ。」

「日本人を煮詰めて圧縮した様な、平凡な己れに何を言う。」

「嗚呼、それでこそ僕のシリカだ。」

 やれやれ、と何もかも諦めた笑顔で首を振る姿に周囲は更に騒ついた。憂い多そうな麗人が存外柔らかい笑みを浮かべるだけで、人々はその差異に驚き、心を撃ち抜かれる。そしてそういう輩は少しでもお近づきになろうと考えるものだ。

「シャンとしろ、ヘイゼル。そうでなければ己れは、お前に付き従う騎士の様に振る舞うぞ。」

「へぇ、それは楽しそうだ。僕も君の騎士として振る舞おうか。」

 目を細め優雅に笑う清陽からは、一瞬感じられた隙が跡形もなく霧散した。氷の柱を首へ突き立てるような冴え冴えしい美貌を目の当たりにし、背中がぞくりとする。

「そうであるなら、余り己れを呆れさせてくれるなよ。」

 騎士というものは概念でしか知らぬが、それらしく見える表情を作り、前髪を掻き上げる。周りの視線は相変わらず清陽に固定されていたが、声を掛け難くする事は出来ただろう。

 子供の頃に一度来たことがあったとはいえ、あの頃とは違う。己れ達は成長し、大人として扱われる頃合いになってきたのだ。

 将来も今と変わらず、清陽の隣に立つのであれば、こういった場でも臆さずいられるようにならなければ。

 煌びやかな飾り付け、華々しい人々に西洋式の立食パーティー。

 新鮮さと緊張感に心が躍る。


 ◆ ◆ ◆


 一息つけたのは、一通りの紹介が終わってからであった。壁側に立ち、来客者を眺めながら食事を摂る。

「凄い方々ばかりだったねぇ。」

「これが社交界、という物なのだろう。」

 一般客向け、とは銘打っているが要は従業員でないだけで、招待されているのは今の日本を背負う人間ばかりだ。己れ達は父様達の後ろについて回るだけで精一杯であった。学校での話を少々しただけで、正直疲労を感じていた。

「父様も母様も、尊敬するな。あれだけの人の名前と貌を覚えて、どんな話も出来てしまうのだから。」

「おまけに、呑み続けて居るしな。」

 清陽はフラウにも多く話しかけられていた。大抵は英語で話しかけられ、英語で返事をし、その後日本語で自己紹介をするものだから多くの人は面食らっていた。

「まぁ、お前もすぐあんな風になるさ。」

「シリカが横に居てくれたら心強いけど。」

 これからこういった場へ赴く事が多くなるに違いない。少しずつ二人で慣れていけば、問題無い話だ。

「憂鬱ではあるが、きっと見合いの話も来るだろう。」

 これだけ見目麗しい男が、勢いのある宗田家の嫡男となれば目をつける輩は多いだろう。相応しい家柄かどうかを見極める目は父様にも母様にもあるので、妙な家の令嬢がやってくることは無いだろうが、それでも己れの清陽が狙われているのは面白く無い。だがこればかりは仕方無いと言い聞かせた。

「僕は、僕のシリカと一緒に居たいな。」

「それは己れも同感だ。宗田家と五月女家は、ずっと共にあれば良いと、己れは思う。」

 身体で死角を作り、清陽の手を取る。手遊びはせずに繋ぐだけだ。騒めく会場を眺めながら、運ばれて来たスムージーを楽しむ。

 とん、と肩に重みが載った。振り返れば、清陽が己れの肩に額を寄せ、力無くしなだれている。

「清陽……?」

 反応が鈍い。貌が心なしか赤い気がする。もしや、と思い腰に腕を回し支えてやった。

「お前、呑んでいるのか。」

「ん。……勧められた物を、少しだけ。」

 考えたくはないが、何処ぞの不届き者が邪な思惑で清陽に酒を勧めたのではないか。

「何処か休める部屋があるか、聞いてみよう。待っていろ。」

 ボーイを捕まえ事情を話せば、一室用意してくれるという。手短に礼を述べ、変わらず各御仁と談笑する父様の所へ駆け寄った。

「父様。」

 小声で話しかけたがすぐに気がついてもらえた。己れの様子から、何か起きたと察してもらえた様だ。

「清陽を少し、別室で休ませます。」

 簡素に要件を伝えると、父様の貌色が一気に曇っていく。

「どうした、具合が良くないのか?」

「いえ、どうも酒を勧められた様で。休ませるのは念の為、といったところです。」

 暫し何かを考え、父様は直ぐに貌を上げた。

「もし帰るのが難しそうであれば、そのまま泊まって行きなさい。私が話しておく。」

「有難うございます。」

 父様は一つ頷いて、直ぐにその場から離れて行った。己れは急いで清陽が待つ、部屋の隅へと戻った。

「清陽!」

「ん……。嗚呼、シリカ。」

 壁にもたれ掛かり、貌を伏せていた。周りには話しかける機会を窺う人々が大勢居る。長居するのは得策ではないと肌で感じ取った。

「待たせてすまない、行こう。」

 何より、弱った清陽の姿を大衆の目に晒し続けるのは己れが我慢ならない。速やかに会場を後にした。


 ◆ ◆ ◆


「疲れが出たのだろう。泊まっても良いそうだから、ゆっくり休め。」

 通された部屋は、ホテルの中でも上等な所であった。広々としたベッドは二人で寝転がったとしても落ちる事は無さそうだ。一先ず、アールヌーボーデザインの洒落た椅子に腰掛けさせる。力無く背を預けている辺り、本格的に酔っているのかもしれない。

 そういう事であれば、水を多めに飲ませたほうが良いだろう。楽な格好をさせて休ませるほうが良いし、暖かくして寝かさねば。

 あれこれと思案していると、清陽が己れの背広の裾を摘んだ。

「御免よ、珪。」

 そう呟いたかと思うと、悪戯が成功した悪餓鬼の貌でにんまりと笑う。

「嘘なんだ!」

「はっ?」

 勢いよく立ち上がったかと思うと、そのまま慣性を利用して抱きついてきた。急な事で踏ん張りが効かず、何歩か後ずさりして受け止める。

「今の君と、二人きりになりたくて。」

 眉をハの字に寄せて言った台詞は大層可愛らしいものであったが、己れは安堵と呆れのから大きく息を吐いた。

「全く、そう言えば良い物を……。」

「あの場から上手く離れられる方法が、これしか思いつかなかったんだ。」

「父様や母様に心配を掛けさせるな。」

 脱力したって文句は言われまい。ぐったりと先ほどの椅子に腰掛けた。すわ大事かと思いきや只の仮病であったのだから、父様や母様へは却って伝えない方が良い気がしてきた。

「ところで、僕の珪。」

「何だ、己れの清陽。まだ何かあるのか?」

 手で額を押さえていた所に、何か企みを持つ清陽が楽しそうに笑う。間違いなく、碌でもない事だ。

「少し背伸びしたい気分なのだけど、付き合ってくれないかな。」

 何本か酒瓶が並べられている棚から、いつの間にか清陽が一つ拝借していた。父様が好みそうな、黄金色の中身がとぷとぷと音を立てる。

「酒は呑んだ事が無いのだが。」

 今度こそ眩暈がしそうな己れには一切構わず「だからこそさ。」と清陽は栓を抜いた。


 酒は、美味いと思った。舌が焼けそうな濃い味は嫌いではない。喉を通過する熱も、身体が燃える様なのも興味深い。

 アルマニャック・ド・モンタールと書かれたラベル。趣きのある色合いをした液体が、ブランデーグラスへ足されていく。

「何か、甘いものが欲しくなるな。」

「ナッツとチョコレイトならあるみたいだ。」

 サイドテーブルをベッドの側へ寄せた。行儀は悪いが、清陽との二人だけの秘密を新たに作り出している感覚は病みつきになりそうだ。

「己れ達の所に、サンタクロースは来ないだろうな。」

「間違いなく、良い子にはして居ないものね。」

 密やかに笑い合う。窓の外はとっくに暗くなっており、霜花が咲いている。月さえも凍えそうなほど冷え込んでいるらしい。

「それでも、良いさ。飛び切り綺麗で、大好きな珪が側に居るんだもの。」

「綺麗というのは、お前の様な奴の事を指す言葉だ。今の己れのヘイゼルを独占しては、何か罰が下りそうだな。」

 己れの言葉を聞くや否や、清陽は盛大な溜息を吐いた。

「君は、本当に、全く分かってない!」

 芝居掛かった動作にいつもの三文劇場でも展開するのだろうと思った。だが、こちらを向いた清陽の目の力に、違和感を感じ取る。

「いい加減、分かって欲しいんだけどな。」

 声はいつもの調子であったが、その表情は怒りを含んでいた。指で顎を掬い、忿懣の情を隠す事なく己れへ向ける。

「ヘイゼル、一体何を。」

「少し黙って。」

 有無を言わさぬ声音に、やや怯む。頬に触れていた手は、普段と変わらず揺れるピアスへと伸びていった。ほんの指先でなぞられただけだと言うのに、肩が大袈裟に揺れる。

「ッ……! 止、めろ。」

「どうして? お互い、良くやる事じゃない。」

 弄る指の動きが大きくなっていく。妙な感覚が耳全体に広がり、思わず清陽の手を勢い良く払った。

「……ッ何か、変だ。」

「酔いが回ってるんじゃないかな。綺麗で可愛いよ、僕のシリカ。」

 妖艶に笑う清陽は、普段の清廉な様子でもなければ、会場にいた時の騎士の貌でもない。肩を掴まれたかと思うと、乱暴に押し倒される。絢爛なベッドへと沈められ、装飾の美しい天井が視界に広がった。雲の様な形をした乳白硝子から漏れ出でる、朧げな橙色が清陽を妖しく照らす。

 逆光になった清陽の瞳が鮮烈に輝き、舌舐めずりしながらクラヴァットを解く姿は目の毒であった。寒気に似た甘い波が身体中へ津波の様に広がる。

「止めろ、何を……! 」

「いつもみたいに、肌に触れさせてよ。」

 態とらしく、耳元で囁く。吐息をたっぷりと含んだ声は濡れ、ピアスごと口に含まれた。

「ンッ、……!」

「それにしても、酒に弱いだなんて意外だったなぁ。」

 抵抗しようにも、馬乗りになったほぼ同じ体格の人間を跳ね除けるのに、アルコールに浸された身体では満足に力も入らない。這い上がる刺激のせいでとんでも無い声が出そうになる。

「お前、酔っているのか!」

「あの二人の子供だよ? 弱い筈が無い。」

 無駄の無い動作でアスコットタイを緩められ、呆気なく己れの首元は肌蹴てしまった。慌てて洋シャツの襟をかき集めたが、その隙にサスペンダーを外される。するりと忍び込んできたヘイゼルの手は、己れと同じく酒を含んでいるはずなのに冷たく感じた。

「莫迦者、止めろと言うのに!」

「熱い……。身体が、燃えているみたい。」

 温度の差異がより肌を敏感にさせる。骨ばっている皮の薄い部分を柔らかく愛撫され、己れは息を詰まらせた。

 昂ぶる熱が身体中を駆け巡り、腰を浮かされる。

「それ以上は、清陽……ッ。」

「珪……。」

 熱っぽい視線、しどけなく開いた唇、其処から覗く赤い舌。

 己れの上に跨った清陽は、魅せつける様に釦という釦を外していく。

「僕に、触れて。」

 チョッキと洋シャツ、スーツの前を寛げて滑らかな陶器の肌を覗かせる。甘橙の電燈に、背広の黒と黄色が合わさって蜂蜜を被ったようにも見え、強烈な色香に溺れそうになる。

 己れの息はいつの間にか、まるで獣の如く荒くなっていた。背徳的で退廃的な誘いは舌が火傷を負うかと思うくらいに甘美すぎた。思考が焼けていく感覚を味わいながら、導かれるままに肌へ手を伸ばす。

「ふふっ、いい子だね、僕のシリカ……。」

 覆いかぶさる清陽の背に腕を回し、首筋を食み、貪る。短く喘ぐ清陽の声にますます視界が狭くなっていく。肌を弄る手を捕まえ、その手首を舐り歯を立てた。

「あッ……。」

 乱れた呼吸に混ざって、淫らで甘い声が漏れる。

 最後の一つが焼き切れた。

 身体を反転させ、清陽を組み敷いた。肩で酸素を取り込まなければ、何もかもを放り出して食い尽くしてしまいそうだ。

「己れの、己れのヘイゼル――!」

 低く掠れた声が言葉になっていたかは分からぬ。赦すと言いたげな笑みに、自らの歯列を舐めた。清陽を傷付けたいわけではないのに、血が噴き出るほど強く喰らいつきたくなる衝動い見舞われる。交差させるように縫い止めた清陽の手は何も抵抗しなかった。例え己れが爪を一枚ずつ剥がしたとしても、恍惚として受け入れそうだ。

 抱き竦め、足を絡めあい、肌を密着させる。触れたところから一つに溶けていく錯覚に陥る。至近距離で視線がぶつかり合えば、嚙みつきたくなるほど興奮してしまう。互いの吐息だけで呼吸出来そうな距離で、己れの唇にヘイゼルの意識がはっきりと向くのが分かった。

 両頬を優しく包まれ、形の良い唇が、己れの名を呼んだ。

 刹那、光が弾ける様に意識が急浮上する。最も超えてはならぬ一線が千切れそうになっている現実に引き戻された。

 咄嗟に清陽の口を塞ぐ。

「――……駄目だ。」

 火が弱り、消えていく。

 己れは身体を清陽から無理矢理離し、自らの頬を強く叩く。眠気に似た靄は少々晴れた。次いで猛烈な渇きも徐々に薄らいでいく。

 深呼吸をして、身体を起こした清陽へと向き合った。

「己れの清陽。分かってくれ。己れはお前を欲しているが、それだけは駄目だ。」

「どうして。」

 清陽の声が震えている。怒りとも戸惑いとも取れる微妙な揺れ幅に心が痛む。

「此処への口付けや、それ以上の触れ合いは、親友でも兄弟でもない間柄がするものだ。」

「どうして。何故! 僕に寄越す視線だって、僕に触れる時だって、それらどれにも当てはまらないじゃないか!」

 分かりきっていた事だ。己れ達二人の距離感は、普遍的な言葉や尺度では測れぬ。

 強固に結びついている分、脆さは卵の殻の上を歩く事とも同義だった。ダイヤモンドの構造とも同様と言える。己れ達二人は余りにも、近い距離で歩み続けてきたのだから。

「お前は宗田。己れは五月女。」

 その言葉は、己れ達二人の境界を象る一つだった。それがあるからこそ、今の今までこの距離を保てたと言っても良い。

「いずれは妻を娶る。お前は家業を継ぐのが夢だろう。己れは己れで、医者になる夢がある。」

 その夢の為に、辿る道筋は変わってくるはずだ。直近の分岐点としては、来年度からはそれぞれ医学と商学で取る科目が変わることだ。

 それでも、己れは同じ道を歩む事はなくとも、隣に並ぶ事は出来ると信じている。

「だからこそ、己れはお前と共に居たいと強く願っている。……総てを叶える立場を取るなら、ここから先へは進まない方が良い。」

「分かっているさ、……分かっているとも。」

 シーツを強く握りしめる手が白く浮び、激情に耐えている。小さく、だが確かに発した言葉は清陽自らへ言い聞かせる様だった。

「だけど、だけど暫くは。せめて今この瞬間は、僕だけのシリカで居てくれよ。」

 ヘイゼルの星の如き瞳に、溢れんばかりの泪がたまり、やがて勢い良く零れ落ちた。宝石に似た輝きを放ち、敢え無く消えていく。泪は大粒で次から次へと流れ往き、かの紺碧の空を思い出させた。

「身体の調子は良い。症状も軽微さ。でも、前にも言っただろう。

 僕の与り知らぬ所で、僕が普段通りから外れていく気がすると。」

 ベッドの上で膝立ちになり、己れの貌を両手で掬う。幾千の星々は己れの頬にも墜ち、熱を帯びた波が広がる。

「なぁ、僕のシリカ。今日の僕は、どう見える?

 君の好きな、君のヘイゼルを保っているかい? それとも黒ずんだ病人独特の、翳りが見えるかい?」

 そこまで聞いて己れは清陽を強く抱き寄せる。あんなにも――花火の夜からその都度――肌に触れたがったのは、己れを通してそれを確かめていたという事だ。半年に満たない期間だったとしても、その間一体どれほどの不安で潰されそうになっていたのだろうか。

 やがて、清陽は腕の中で泣きじゃくり始めた。

「そんな事を、考えていたのか。」

 腕に込める力が強くなる。己れの想いが正しく伝わってない事にもどかしさを覚え、其れを上手く言い表して居なかった己れの怠慢に歯軋りする。

「よく聞け、己れの清陽。いつだって、己れのヘイゼルは美しい。

 春風に吹かれるお前も、汗だくになるお前も。

 海辺でずぶ濡れになり、砂まみれになり、或いは落ち葉の山に埋まったとしても。

 婦人に見紛う格好や、気品溢れる貴族の様に着飾ったとしても。

 例え病に伏せようが、将来しわくちゃの爺になろうが、お前がお前であるだけで、美しい。」

「シリカ……。」

 己れは見目だけに惹かれたわけではない。清陽が女だったら、など思ったことも無い。もし女子であったなら、取っ組み合いの喧嘩は出来ぬ。学問も教養も、男女の差異があっては今のような切磋琢磨は出来ぬ。清陽が、清陽だからこそ。

「愛していると言っただろう。ずっと共に居たいと言っただろう。

 ……つまりは、そういう事だ。」

 泪を舌先で拭い、次いで目蓋へ接吻を落とす。夏に咲いた鼈甲色の花火と同じ瞳に己れの視線を注ぐ。溢れ出る泪は滾々と湧きいずる泉を彷彿とさせた。

「己れの魂が、何か別な物を求めてやまないのだ。

 お前の頭の天辺から足の爪先まで、何もかも総て攫ったとしても、物足りない程に。」

 お前はどうなんだ、己れヘイゼル。

 眼と眼で問いかけを続けた。

 清陽は泪を切り落とす様に瞬きを繰り返す。縁取る長い睫毛は濡れ粗ぼり、束になった影を落とす。

 音が鳴るかと思うくらい大きく瞬いた次の瞬間、唐突に悪戯を思い付いた貌付きになった。

「隙ありっ!」

「なッ――!」

 急接近した清陽の唇に、己れは思わず目を閉じた。だが、その柔らかい感覚は口元には無い。代わりに鼻先を軽く吸われた。

「は……?」

「ふふっ、どうしたの。随分静かになったね?」

 してやったり、と言いたげな表情がこちらを覗き込んだ。このやり取りには覚えがある。まさか、根に持っていたのだろうか。

「別荘でやられた、仕返し。」

 ひょいと出した舌が小憎らしい。こいつめ、と筋の通った鼻梁を摘んだ。鈴が転がる笑い声に、心が軽くなる。

 乱れた衣服のまま、額を合わせ合う。指を絡め合い、睫毛が触れ合う距離で見つめれば、淡褐色の瞳に己れの黒い眼が溶け合っていく。

「君って奴は、僕の事をどれほど好きなの。」

「知らなかったのか? ならば、一生をかけて教えてやる。」

 まだ乾いていない瞳を慈しむ。泪に濡れた榛色は、硝子電燈と相俟ってオーナメントのごとく艶やかであった。

「愛しているよ、僕の親友。僕の兄弟。僕の愛しい人。僕のシリカ。」

「愛している、己れの親友。己れの兄弟。己れの愛しい人。己れのヘイゼル。」

 これから、上手く生きていけば長い時間があるのだ。今日のことを振り返って、懐かしむこともあるだろう。

「そうだ。良い雰囲気のカフェーを見つけたのだ。明日一緒に行こう、己れのヘイゼル。」

「そいつは素敵だ! 期待しているよ、僕のシリカ。」


 今日という日を、バターが焼けた香りと共に思い出せる頃がやってくる、其の日まで。

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