第10話 8月23日(後編)
麻衣夏の否定の言葉は冷たかった。
それに刺激され、彼の頭の中では新たな経路で記憶がリンクされていく。
「違う?」
遮断されかけた記憶のリンクは、別経由で過去を辿っていた。
「あなたはカレン姉さんの顔は知らない。見てないでしょ。いいえ、見られなかったものね」
見てはいない。そう、カレンの顔を思い出す必要がないことに気がついた。
それは、霞がうっすらと消えていく感じだ。
うつぶせで倒れている少女の姿が思い浮かぶ。たしかに顔は見えなかった。
そして、それがどんな意味を持つかを知ることになる。
「そうだ。あれは事故だった」
当時の記憶が数刻分巻き戻された。
それはこんな光景だった。
父親が爽平に目隠しをする。そして、その身体をゆっくりと回した。もちろん回されるのは爽平自身。
「そうね。あなたは夢中だったから」
麻衣夏の声に導かれ、母親の笑い声が思い浮かぶ。
足下がよろよろとおぼつかない。パンパンと手拍子が鳴る。
これはその当時の爽平の記憶だ。
「西瓜割りか。そうだな思い出してきたよ」
手には金属バットの感触。
『もう少し右』『もう少し前』そんな声が聞こえてくるようだ。
「近くで遊んでた姉は、風で流されてしまったビーチボールを追ってたの。風が強かったから必死になって走ってたわ」
麻衣夏の補足の後、回想される記憶。
波の音、そして両親の声。『爽平、そこよ』『そこだ、たたき割れ!』
「ああ、僕は本当に夢中だったんだな」
振り上げたバットを思い切り叩きつける。
「姉はタイミングが悪く、ちょうどその横で倒れ込んでしまった」
悲鳴があがる。『爽平ダメだ!』『やめなさい!』
手に伝わる鈍い感触。無我夢中で叩いて、途中で後ろから抱きかかえられるように止められる。
「誰かが俺を止めていた。だから、何が起こったのか知りたくて目隠しを外したんだ」
目の前には血だらけになった少女。視界が晴れても彼は目の前の出来事を理解できなかった。
「大騒ぎになったわ。みんな姉の周りを囲んで応急処置みたいな事をしたのかもしれない。けど……姉はあきらかに死んでいた」
そんな中で一人呆然と砂浜に膝をつく爽平。
「痛!」
突然の頭痛が爽平を襲う。両手で頭を抑えながら、現実の彼もその場で膝をついた。
「痛いでしょうね」
上の方から憐れむような麻衣夏の声が聞こえてくる。
「……」
頭痛は治まらない。それどころか、どんどん痛みを増していく。
「それで話は終わりじゃないの。続きがあるけど、今のあなたに受け入れられるのかしら?」
(続き?)
「どうして姉を殺した爽平は民事的にもその罪を問われなかったか?」
記憶の中の砂浜で、呆然としている爽平の目の前に現れる少女。
「なぜ二つの家族は、その事実を忘れることに懸命となったのか?」
幼い彼女の手には爽平が持っていた血だらけのバットが握られている。その瞳は露骨に怒りを彼へと向けていた。
「そして、爽平が記憶をなくした直接の原因はなに?」
彼の側頭部への重い衝撃。
「……そうだったのか」
それを行ったのは幼い頃の麻衣夏なのだ。
それですべての記憶が繋がっていく。
「痛!」
金属バットによる重い打撃は手加減などなかった。彼女は本当に殺意を抱いていたのだから。
「思い出せそう?」
『お姉ちゃんを返せ!』
現実の麻衣夏の声と昔の幼い麻衣夏の声が重なる。
爽平は諦めたように少女の怒りを受け止めた。
「そうか……俺は麻衣夏に殺されかけたんだ」
ああ、あの時記憶に刻まれた少女は麻衣夏だったのか。彼女と初めて会った時に感じた既視感は幻ではなかった。爽平はすべてを悟る。
「殺せなかったけどね……」
麻衣夏は寂しそうにそう呟いた。
あの時爽平は、麻衣夏が手にした金属バットで殴られ、重傷を負い、そして記憶を失った。カレンを誤って殺したとしても十才の子供のことだから罪は問われない。そして、事故とはいえ自分の娘が殺されたとしても、その妹が相手の子供を殺そうとして大けがを負わせたのだから、相手の子供に対しても両親に対しても距離を置きたがるだろう。
そして、お互いの家族は不幸な過去の出来事を忘れることに懸命となるのだ。
爽平は一時期、叔父の家に預けられていたことを思い出した。中学から全寮制の学校に入ったために、ほんとうにわずかな期間ではあった。
記憶を失った爽平のために、両親はすべてを白紙にするつもりだったのだろう。
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