四章 小人の章
参った。
何に参ったかというと、もう、何もかもに。
「はあ」
ため息をしても一人。
いや、周囲にはヒトが満ちている。純人亜人を問わず、この広場には様々な種族が右往左往している。
周囲を建物と道路に囲まれ、木々と芝生の植えられた、大きな円形の広場。ちょうど十字を切るように石畳の歩道が敷かれており、中央では
彼を見る人は居ない。通り過ぎる人は一瞥もくれずにその横を歩いて行く。眺めているのは、こうやって石の椅子に座って呆けている私くらいのものだ。
かと言って、彼にチップをあげるほど、私のポケットは暖かくはない。確か、五元札が三枚くらい、だったっけ。そこいらのフードショップに入れば一瞬で消えてしまうだろう。
三日前だ。
三日前、私は職を失った。
そんなこと、
特にここ、「大連市」はそれが顕著なのだ。
西暦二千五十年代に於いて尚、差別の権化、排他の化身のような中国。
その
歴史的に、大連はとにかく国際的だったらしい。元は清の国だったが、ソビエトの管理下に置かれたり、日本人に奪われたり、なんやかんやで中国に返還されたりした。
いろいろと忙しかったらしいが、その甲斐あって大連は中国で一番美しい都市、なんて言われたりもしている。らしい。全部母から聞いたことなので、本当かどうかは知らない。
でも確かに、ここの美しさは、上海のあの華やかな美しさとはまた別の美しさだ。東欧の建築物が今なお残るこの地は、厳かな、一種独特の風情がある。私の生まれはロシアであるから、この風情はなんとも心地よい。
ここが中国でも異質とされるのはまさに
結果として、この国に於いて珍しい国際都市となったのだ。
まあ、上海なんかも最近は随分と国際化してきているけれど、やはり大連は特殊だ。あんなふうに、広場のど真ん中で日本人が大道芸をやるなんてことはあちらでは難しいだろう。
私が朝っぱらからこうやって呆としていられるのも、大連の歴史のおかげだ。ありがたいことである。
だけど、いつまでもこうしているわけにもいかない。なにせ、今の私は働く場所も、寝る場所も無いのだ。
十六歳の
「…………ない、よね」
若い女のドワーフといえば、水商売っていうのが一番手っ取り早いのだろうけど、それは嫌だ。
もう一度だけ深く溜息をつく。
まあ、とりあえず。
手当たり次第に、雇ってくれそうなお店を見て回ろう。
「わお」
広場から少し外れた路地。
美しく磨かれた硝子に張られた一枚の張り紙を、丹念に読む。
要
年齢不問。住み込みが可能で、英語が話せれば、尚良し。
まさに、求めていた条件そのものだ。
―――だが。
「
私のような薄汚いドワーフが働いて良いものだろうか。有名ブランドのチェーン店、と言うよりは、個人営業の質屋といった趣きの店構えだけど。
店名はKnott's Shop。古い木の建物で、お高くとまったお店、と言う感じはしない。
私達ドワーフの長所はとにかく器用なことだから、こういうお店がその技術を欲するのは自然なことだ。
でも、宝石店なんて、私にはそんな経験、全く無い。私が前に働いていたのは薄汚い下請け工場だ。なんの機械に使うんだかわからない小さなパーツを削ったり磨いたりするだけ。ただそれだけの単純作業。私に出来ることといえば、それだけだ。
「…………。
英語で言えば、
店の玄関に回って、曇りガラスのドアを開けた。
店のなかは狭かった。
ほんとうに狭い。
そして、その狭い店内の玄関のちょうど正面にレジがあった。
「なんだい、ひょろひょろのガキじゃあないか。見るだけならいいけどさ、くれぐれも、傷をつけるんじゃないよ」
流暢な中国語が響く。
レジにどっかり座っているのは、私と同じ女性のドワーフだった。
細い顔、細い目。茶色の長い髪は乱雑に後ろで一束に括られている。
そして、その表情はとにかく険しかった。これではお客さんも、おちおち商品を眺められないと思うのだけれど。
少なくとも私は、その女性から目を離せなかった。中国の純人なら、意に介さぬのだろうか。
「あ、あのっ、あそこの張り紙を、読んだんです、けど……」
黙っていることに耐え切れず、とりあえず話してみることにした。
「あん? 張り紙?」
私が指差した先を追い、硝子を見る店主さん。
「ああ、あれか。冗談半分だったんだがねえ。まさかあんた、雇ってほしいっていうんじゃないだろうね」
じろり、と、店主の目が私を捉える。
「え、あ、あの、ご迷惑なら、いいんです、けど。その。お金も、家もない、ので……」
私がそう零すと、鋭かった目つきが少しだけ緩んだ。
「へえ、そうかい。あんた、幾つ?」
「じゅ、十六、です」
「十六ぅ? 親はどうした。学校は?」
店主さんの怪訝な声。
「父は誰だか知りませんし、母は、早くに病気で……。親戚も居ないから、働くしか、なくて」
つい、下を向いてしまう。こういう暗い話をひとに聴かせるのは、あまり好きではない。
「で、なんでこの国にいるんだい。あんた、訛り方からしてロシア生まれだろう」
「母が、こっちに連れてきたんです。その二年後に死んじゃいましたけど」
私がそう言うと、しばし、静寂が流れた。
かち、こち、と、時計の音が聞こえる。
「…………で、名前は」
つっけんどんな声が響いた。
「モ、モニカ、です。モニカ・バーベリ」
「あたしはケイトだ。こっちに来な。そんな服で店に立たれたんじゃあ、商売上がったりだよ」
ぴょこんと椅子から飛び降りて、レジの裏手へ手招くケイトさん。
「は、はいっ」
なんてことだろう。
奇跡みたいだ。
「モニカ、あんたの仕事は雑用からだ。住み込みだから、あたしが忙しいときとか、怠けたいときなんかには洗濯なんかもやってもらうけれど、そのうちアクセサリーのひとつやふたつ、作ってもらうからね。いいかい」
私よりちょっとだけ背の高いケイトさんは、綺麗な赤いエプロンを掛けて、背の高い椅子に座っている。私はそのすぐ目の前で、同じデザイン、同じ色のエプロンを掛けて、ケイトさんを見上げている。
「そ、それは、もちろん。でも、いいんですか、本当に、私で」
「あたしはね、こういう偶然の出会いってのが好きなのさ。それが理由じゃ駄目かい」
「い、いえ、ええと…………素敵だと、思います」
私がそう言うと、彼女は満足気に頷いた。
「そうだろう。じゃあ、とりあえず窓拭きからだね。ゆっくりでいいから、やってみな」
「はい」
ケイトさんにぺこりとお辞儀をして、足元のバケツと小さな梯子を窓へと運んだ。
「あんた、ここに来る前はどこに居たんだい」
梯子に足をかけ、ごそごそと窓拭きを始めると、ケイトさんがなにやらクリップボードの紙をめくりながら話しかけてきた。
「
左手で窓を拭きながら、こんなの、なんていうふうに、右手でマルを作ってジェスチャーをする。
「まあ、ドワーフの働き先なんていったら、そんなもんさね。なんだ、歳の割には案外まともな仕事だったんじゃないか」
「はい。潰れちゃいましたけど」
「成程、それでこんな街中まで出てきたってワケか」
窓の外に視線を送るケイトさん。外の通りは多くの人や車が往来しており、話し声やクラクションの音で満ちている。
「はい。広場には初めて来ましたけど、綺麗ですね」
「そうだねえ。あそこは昔っから変わらないね」
ぼうっとした目からは、なんだか哀愁のようなものが漂っている気がした。
「…………ケイトさんは、いつからこの国に?」
「ん、あんたと同じくらいの歳の頃だね。アメリカ出て、あっちゃこっちゃぶらぶらしてたら、ここに流れ着いちまった。あたしが今ここに居るのは、ただそれだけのことさ」
いつの間に取り出したのか、煙草をくわえていた。
「行き当たりばったりの人生だったけどさ、なんだかんだ、上手く行ってるんだ。思うに、あたしの勘が良かったんだろう。だからあんたを雇ったのも、まあ間違いじゃないだろうさ」
そう言うと、彼女はぴしっと煙草で私を指した。
「―――ケイトさんって、格好良いですね」
「ストリート育ちだからね」
煙草をくわえなおし、ふう、と煙を吐きながらケイトさんが言った。
「関係あるんですか」
「さあ、どうだか」
煙草をくわえたまま、ケイトさんは手元のクリップボードに目を戻した。
それを見て、私も窓拭きを再開した。
窓拭きと言っても、硝子は全然汚れていないので、なんだかやりがいというものがない。どの窓もぴかぴかに磨かれている。流石はジュエリーショップだ。
ショウウィンドウも同様である。一点の曇りもない硝子の中に、きらびやかなアクセサリーが並んでいる。
「気になるかい」
「へ」
気が付くと、私はそのショウウィンドウをぼうっと眺めていた。
「す、すみません」
「いいんだいいんだ。窓拭きなんて別に急いでやるようなことでもないし、あんたぐらいの歳の女なら、こういうもんに興味が無いほうがおかしいからね」
そう言って、ケイトさんはショウウィンドウの一つを開けて、中にある銀のブレスレットを取り出した。
薄く細長いプレートに、細いチェーンがついている。どちらも光沢の強い銀色で、プレートの真ん中には、アクセントにちいさなエメラルドがひとつ。
「ここにあるのはね、ほとんどあたしの手作りなんだ。幾つか買い取ったやつも紛れてるがね」
「そ、そうなんですか?」
そう言われて他のショウウィンドウも見てみると、なんだか統一感がある気がした。
とにかく、デザインがシンプルなのだ。細かい彫刻や複雑な構造は一切なし。金属を削り、宝石を嵌める、ただそれだけの、質実剛健なアクセサリーたち。
ほんとうにただそれだけなのに、私の目にはとても美しく見えた。
「ドワーフのくせに変なことを言うようだけど、あたしは細かいことが嫌いでね。他人が作った細かい彫刻を見るのは悪くないんだが、自分ではやりたくないんだ。面倒くさいってのもあるけど、個人的な信念のほうが大きいね」
手に取ったブレスレットを眺めたまま、独り言のように語るケイトさん。
「信念、ですか」
「そう。なんて言ったらいいかな……、あー、あたしん中のアクセサリーのイメージってのは、こういうシンプルなものなんだよ。なんでそうなのかは知らないけど、とにかくあたしにとっては、
そう言い切って、彼女はブレスレットをショウウィンドウに戻した。
「あんたはどうだい。あんたにとっての
急に問われて、答えに詰まってしまった。
「え、ええと……」
ショウウィンドウをきょろきょろしてみると、ひとつ、目に留まるものがあった。
「あれ、です」
お店の入り口にほど近いショウウィンドウを指差す。
「うん?」
ぴょこんと椅子の上に立ち上がるケイトさん。
「―――ああ。なるほど、あたしとは反対だね」
私が指差したのは、ひどく緻密で複雑な彫刻が施された、金の指輪だった。
窓拭きが終わったあたりで、ちょうどお昼になった。
レジの裏にある台所に移動すると、ケイトさんが「任せとけ」なんて言いながら、手早くうどんを作ってくれた。食器を洗うのが面倒なので、ひとつの鍋をふたりで囲む。
こうやって誰かと話しながらお昼を過ごすのは久々だった。
「モニカは料理、出来るのかい」
鍋の中のうどんを平らげると、ケイトさんが尋ねてきた。
「簡単なものなら、なんとか。味は保証できませんが」
ケイトさんのうどんは豪快な味付けでありながらそれでいて奥深い、不思議な味わいだった。無論、良い意味で。
「へえ、例えば何が作れる?」
「…………
「あー……」
番茄炒蛋は、スクランブルエッグにトマトを突っ込んだだけの、野菜炒めよりも簡単な家庭料理だ。料理と言って良いのか怪しいくらい簡単なので、あんなふうにケイトさんが申し訳無さそうな顔をするのも道理なのである。
と、お店の扉が開く音がした。
「あれ、お客さんですかね」
「だろうね」
立ち上がり、ぱんぱんとエプロンを叩いてから足早にお店に戻るケイトさん。私もわたわたとその後を追いかけた。
「らっしゃーい」
「いらっしゃいませ」
お客さんは、スーツを着た色白の純人だった。
純人は背が高い。ケイトさんふたり分くらいの背丈の彼は、お辞儀をしてから話し始めた。
「あの、ここはオーダーメイドも受け付けてるって聞いたんですが」
顔つきからして中国人ではないが、話しているのは流暢な中国語だった。
「ああ、やってるよ。何を作って欲しい?」
「これを、指輪にして欲しいんです」
そう言って彼がポケットから取り出したのは、くすんだ金のバングルだった。
「ふうん、また随分と古いね」
「ええ、私の母の形見でして。これを、恋人へ贈る指輪にしてもらえないかと」
「おやまあ、いまどきロマンチックなことをするもんだね。いいだろう、デザインなんかはこっちで決めていいのかい」
ケイトさんがそういうと、彼は難しげな表情を浮かべた。
「ええ、ある程度は決めて頂きたいんですが……なんというか、彼女はとても豪華なものが好きなのです。中世ヨーロッパの装飾品とか。ですから、何かレリーフを彫り込んで頂けたら、と」
「レリーフか」
ケイトさんが顔をしかめた。顔にそのまま「面倒くさい」と書いてある。
「ああ。ちょうど、こんなふうにしていただけると嬉しいです」
ショウウィンドウを指差して、彼が言った。
それはちょうど、私の目に留まった金の指輪だった。
ケイトさんはなんだかんだで、頼まれたら嫌とはいえないひとらしい。結局、彼の依頼を受けることになった。
完成したデザイン画を見て、彼は納得したように頷いた。
「よし。まあ、ひと月もあれば完成するだろう」
「ええ、急がなくて大丈夫です。では、お願いしますね」
最後まで礼儀正しく、純人のお客さんは帰っていった。
「ありがとうございましたー」
去り際に私がそう言うと、彼は律儀に会釈した。
扉が閉まる。
視線をケイトさんに戻すと、案の定、鬱陶しげな表情でデザイン画を眺めていた。
「むう……」
机にデザイン画とバングルを並べ、腕を組み思案するケイトさん。
私はなんと言ったらいいかわからなかったので、とりあえずショウウィンドウの硝子を拭いて回ることにした。
ショウウィンドウは窓よりもぴかぴかだ。やっぱり、やりがいがない。
きゅっきゅっと、小さな音がお店を満たす。
十分くらいそうしていると。
「…………モニカ」
ひどく暗い、ケイトさんの声がした。
「は、はい」
「これ、あんたがやらないか」
そう言ってケイトさんは、バングルを持ち上げた。
「え、いや、だって、そんなこと、やったことないですよ、私」
「あんただってドワーフの端くれだろう。作り方は私が教えてやる。なあに、工場で
言うだけ言って、ケイトさんは店の裏に引っ込んでしまった。問答無用らしい。
「…………」
仕方ないので、ケイトさんの後を追いかけることにした。
お店の二階は作業場になっていた。
木の壁に、ずらりとハンマーやタガネや銀材やらが掛けられている。
「金属の加工は初めてじゃないんだろう?」
「ええ、まあ。鋳造とか鍛造とか、彫り込みなんかもやらされてました」
「それだけ出来れば大丈夫だ。さあ、とりあえずは練習からだね。ほら、そこに座りな」
暗い部屋の隅っこに、散らかった大きな机と、ちょこんと置かれた小さな椅子があった。そこに座り、何やら棚をごそごそしているケイトさんを待つ。
「まずはあんたがどれくらい金属を扱えるか見させてもらうよ。これ、好きにしていいから、指輪にしてみな」
「はあ」
手渡されたのは幅五ミリほどの、細長く、薄い銀のプレートだった。
「あたしは店番してるから、とりあえず輪っかにしてごらん。二時間したら戻ってくるよ。道具は好きなもんを好きなだけ使ってくれ。質問があったり完成したら、いつでも下に降りてきていいからね」
それじゃ、と言って、ケイトさんはお店に戻っていってしまった。
なんとも強引なひとである。私の意見など聞く素振りすら無い。
「ま、いいや」
指輪作りも部品作りも結局は同じことだ。金属を叩いて伸ばして削るだけ。
デザイン画をもう一度見てみる。
あの純人のお客さんと話して決まったのは、月桂樹の
バングルには幾つか小さなダイヤが嵌め込んであるが、どれも細かい傷がついている。なので、出来るだけ状態の良い物を選ぶらしい。
「よし」
とりあえずは、銀材を指輪の形にすることからはじめよう。
ぎゅりりり。
金属と金属が摩擦する音と、その振動が、今の私の感覚の全てだった。
ぎゅるるるる。
ぎゃりりりりり。
「おうい、どうだい」
「わ」
突然、背後から声がした。危うく手に持っていたリューターを落とすところであった。
「おどかさないでくださいよ、ケイトさん。危ないです」
むっとした顔で私がそう言うと、ケイトさんもむっとした顔をした。
「ギリギリまで気付かなかったのはあんたの方だろう。集中力が高いのは良いけど、ちったあ周りにも気を配っておくれ」
「そ、そうだったんです、か。すみません……」
「いいさ。で、どんな具合だ。指輪にはなったかい」
「ええ、たぶん……」
なにせ初めて作ったものなので、良く出来ているかどうかすらわからない。
「なんだ、苦戦したのかい。見せてごらん」
「はい、どうぞ」
すっと差し出されたケイトさんの手に、さっきまでリューターを当てていた銀材を手渡す。
「……………………」
ケイトさんはそれを目の高さまで持ち上げて、眉を寄せている。
「その、こんなに細かい作業は初めてだったので、荒い、です、よね……」
どこからどう見ても渋い表情を浮かべるケイトさんに、苦し紛れの弁解をした。言い訳にすらならないというのに。
「え? あ、ああ、確かに荒い、けど……」
言いよどみながら、やっぱり渋い顔をするケイトさん。
「あの、どこが悪いでしょうか。経験がないので、それもわからなくて」
私の言葉に、ケイトさんは返事を返さない。指輪を色んな角度に変えながら眺めているだけだった。
机の上から小さなペンライトを拾い上げ、しげしげと観察している。あれは……そう、職人の目、というやつだ。
「―――あたしが材料を渡すとき、なんて言ったか憶えてるかい」
指輪を見つめながら、唐突にケイトさんが言った。
「え、ええと……指輪を作れ、と」
「そうだ。あんたは、あの銀材を指輪の形に曲げるだけで良かったんだ。それなのに、月桂樹のレリーフまで、この短時間でやっちまうとはね。あとはちょいちょいっと磨けば、これ、商品になるよ。あたしが保証する」
「へ」
あんなのが、売り物に?
「そ、そんな。だって、まだ二時間しか経っていないんでしょう。そんな急ごしらえのものが売れるわけ……」
「ばか、時計を見なよ。あたしは居眠りしちゃってたんだ」
「時計…………あ」
右手の壁に、小さな掛け時計があった。
時間は、七時……?
「あんたが作業をはじめたのが昼過ぎだから、ちょうど六時間だね。あんたはこの半日、脇目もふらず、ずっとリューターでゴリゴリやってたわけだ」
「あ……」
そう言われると、確かにお腹が空いているし、ちょっとお手洗いにも行きたい。手は汗と金属の
「うん、あんたを雇ったのはやっぱり正解だったね。こりゃあ思わぬ収穫だ。わははは」
ケイトさんが渋かった顔を一転させた。満開の笑顔を浮かべ、背中をばんばんと叩いてくる。
「い、いた、いたいです、ケイトさん」
彼女は構わず、今度は私の頭をぐわんぐわん揺らしている。
「いやあ、いい出会いだ。うん、うん、これだから人生ってのは楽しいんだ。この指輪は記念に飾っておこう。細かい技術はこれから教えてやるから、あの純人の指輪、あんたが仕上げるんだよ。いいね」
「は、はいっ」
晩ごはんはケイトさんの作った水餃子と、私の作った番茄炒蛋だった。
「なんだぁ、旨いじゃないか」
私の料理を食べて、ケイトさんが開口一番に素っ頓狂な声を上げた。
「母直伝のレシピです。卵の下味がミソですね」
「ふむふむ。あとで教えてもらおうかな」
「ええ、いいですよ」
ケイトさんの水餃子も美味しかった。箸が止まらない。
「ところでモニカ。中国語が上手だけど、どこかで勉強したのかい?」
トマトを箸でつまんで、ケイトさんが問いかけてきた。
「母に、ちょっとだけ教えてもらいました。あとは慣れですね」
ははは、と笑うと、彼女も笑みをこぼした。
「そうだね、そんなもんだね、言葉なんて」
ひとしきり笑った後、ケイトさんの携帯電話が音を立てた。
「なんだ?」
机の上のそれを拾い上げ、画面を見るケイトさん。
「ん? …………はあ?」
「どうかしました?」
拾い上げた携帯の画面を見つめて、何故かヘンな顔をしている。
「ニュース速報だよ。シャオロンだってさ」
「シャオ………なんです?」
水餃子を口に運びながら、ケイトさんに問いかける。
「ほら、あの、ドラゴンの。ダブリンでやってるらしい」
「ああ、しゃおろんって、
「事が事だからね。降りてくるのも、まあ、不思議じゃあないだろう」
ケイトさんはそう言うけれど、私はいまいちピンとこない。
「ダブリンって、アイルランドですよね? 何かあったんですか?」
私がそう言うと、ケイトさんは目をぱちくりさせた。
「なんだ、知らないのかい。フェアリーがゴブリン引き連れて、トリニィカレッジを爆破したんだ。テロだよ、テロ」
「とりにてぃ?」
首を傾げる。はて。どこかしらん。
そんな私を見て、ケイトさんはこれ見よがしにため息を付いた。
「まったく……。ほら、あのすっげー図書館の」
「ええと、あー……。なんか、ありましたね、そんなの」
いつだったか、テレビ番組で見たような気がする。世界一美しい図書館、だったっけ。
「……あんた、ほんとに世間には疎いんだねえ。まあ、それも仕方ないか。あたしらには、関係ないことだからね」
そう言いながら、ケイトさんはテレビのスイッチを入れた。ニュース番組にチャンネルを切り替えると、ちょうど上空から龍の姿を映し出しているところだった。
「わあ、ほんとにドラゴンだ。すごーい」
画面の中では、大きな芝生の広場に、大きな青い龍が横たわっている。
「ああ、あたしもこうやって見るのは初めてだ。でっかいねえ」
カメラが龍の頭にズームインする。どうやら、文字通り目と鼻の先に立つヒトと会話しているようだった。距離が遠いからか、何を話しているかまではわからない。
蛇のような、ワニのようないかつい頭部。鼻のあたりからは、二本の長い髭が伸びている。小さくとも鋭い眼光、今にも火炎を吐き出しそうな大きな口。中国の伝承に残る、龍そのものだった。
突然、その龍が大きな声を上げた。
『―――この一件に関して、竜種として言うことは何も無い。が、事が事だ。あわや人類史の分岐点となるところであった』
カメラが更に近寄る。
『それ故、此度の降龍を行ったのだ。我ら竜種は人類とともに在る。その事を、我らと貴公らに再確認させるためである』
龍らしい、威厳に満ちた声が響く。ただ話すだけで、大地を震わせているようだった。
『では、次の降龍までしばしの別れである。我らはいつでも、貴公らを見守っている。よしなに』
そう告げると、青い龍は天を見上げた。ふわりと体が浮き上がり、ヘリコプターの脇を通って、するすると大空へ戻っていく。
「ドラゴンか。いやはや、凄いもんだ」
テレビはダブリンの中継から、スタジオへと切り替わった。ニュースキャスターや専門家達が、興奮した様子で議論を始めている。
「ま、そんなことより目先の仕事だね。他の依頼も受けてるから、そっちも手伝ってもらうよ、モニカ」
番茄炒蛋をかきこみながら、ケイトさんが話しかけてきた。
「いいんですか?」
水餃子をもぐもぐやりながら、それに答える。
「今日のであんたの集中力と技術力は見させてもらったからね。ハナ丸付けたっていいぐらいだ。文句なしだよ」
次の水餃子へと伸ばしていた箸が、止まる。
「あんたの長所はなんといっても集中力だ。それから、とにかく仕事が早い。まだまだ荒削りだが、そこはそれ、あたしがしばらくカバーしてやるさ」
何か言いたい。
「久々に、ドワーフらしいドワーフと会った気がするよ、うん」
けれど、なんて言ったらいいか、わからない。
「―――――ほんとうに、ばかだね。こういうときは、笑ってりゃあ良いんだ」
呆れたように、嬉しそうに、ケイトさんはそう言った。
「は……はいっ」
それにつられて、私もやっと、笑うことができた。
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