君と花を愛でながら
雑音
チョコとパンジー1
前面がガラス張りのその店は、緩やかな傾斜のバス通りから店内の様子が良く見えた。ウッド調の内装、入口から左側はたくさんの花で無数の色が溢れ返り、右側のカフェスペースは通りの並木が程よく日差しを和らげて、内装と同じく無垢材のテーブルとイスが並べられている。
高校三年生の時、志望大学のオープンキャンパスに向かう途中で、私はそのカフェに目が釘付けになった。
大学までは、バスがある。けれど歩けないほどでもなく、少し早めに家を出たための時間潰しにと徒歩で向かっていた。
「あ、明日がオープンかぁ」
扉に貼られた張り紙を見て、肩を落とした。ガラスを通して見える店内の様子は、左側がカフェの装飾というには余りに花に溢れている。
不思議に思ってもう一度張り紙に視線を戻すと、明日の日付にOPENの文字。そして、『花屋カフェflower parc』と書かれていた。
―――あ、こっちはお花屋さんなんだ。
出入り口の左側がきっと、花屋としてのスペースなんだろう。花は種類ごとに分けて入れられ花の名前と値段が書かれたポップが貼られていた。よく見ると、まだ何も置かれていない空いたスペースもある。
きっと開店当日の明日にはそのスペースも花で埋められる。右側のカフェスペースとは中央のレジのあるスペースで分けられているが、遮るものは少ない。あのテーブル席から、この花で溢れたスペースはきっとよく見えるだろう。
―――こんなにたくさんの花を見ながら、お茶を飲めるなんて。
元から花が大好きな私は想像しただけで胸が躍って、明日のオープンにもう一度来てみようか、なんて。その時の私は、考えていた。
「結局、そのオープンの日には来なかったんですけどね」
「へえ。それはなんで?」
「大学に受かったら、来ようと思って! 願掛けのつもりだったんです」
店内には、静かにクラシックのBGMが流れている。私がこの店に一目ぼれしたのはもう一年以上前の話で、その時の感動を思い出しながらついうっとりと熱弁してしまっていた。
相槌を打ってくれている厨房スタッフの片山さんは、白い制服姿で客用スツールに腰かけている。私はカウンターの中で、プラスチックの平たい番重からケーキをガラスのショーケースに移していた。
「あ、じゃあ綾ちゃんって大学生? てっきりフリーターだと」
「……フリーターですよう。そこは聞かないでくださいよ」
あんまり古傷を抉らないで欲しい。試験に落っこちた時の衝撃を思い出して、私はつい唇を尖らせてしまった。バイトを始めたきっかけを尋ねられると、どうしてもその時のことを話すことになる。
「おお、悪い。しかし気にするな、俺も落ちた」
「えっ、そうなんですか。けど片山さんはすごいじゃないですか」
けらけら笑って言う片山さんは、近くの商店街のケーキ屋さんの息子さんだ。このカフェではその店からケーキを卸してもらっていて、片山さんが朝出勤してくる時に一緒にケーキを運んで来てくれる。
「パティシエの修行中なんでしょう?」
「んー……まあ。家庭環境から、そんな流れにね」
そう言った片山さんは少し複雑な表情をしていた。「そうなんですか」と首を傾げて曖昧に返事をしたけど、なんとなくその複雑な感情には私も覚えがあり、ちくりと胸を刺した。
周囲の環境に、なんとなく流される。私の大学の志望動機が、それそのものだった。
だけど。
「でも、やっぱり片山さんはすごいと思います」
私は入試に失敗したあとも、何をするでもなくただ時間を消費しただけだったから。このカフェに、再び訪れることになるまでは。
会話が途切れてなんとなく黙り込んだまま、私は再び手の中のトングに集中した。番重から、ひとつひとつケーキを移す。
それほど難しくない単純作業だけど、ケーキを壊さないようにと思うとつい手がぷるぷると震えてしまう。
「貸して」
すぐ近くで声がして、少し驚いた。顔を上げると、さっきまでスツールに座っていたはずの片山さんが真後ろに立っていて、私の手元を覗き込んでいて。
「びくびくしながらやるから、余計に危なっかしいんだよ。別に一個くらい落っことしたって誰も怒らないから」
そう言いながら、私の手からトングを抜き取ると、私の倍以上の速さであっという間にケーキを移し終えてしまった。
「すみません。どんくさくって」
たったあれだけの作業で手間取ってしまって、きっと呆れられた。恥ずかしくて顔が熱くなるのを感じながら俯いていると、くすくすと笑い声が上から落ちてくる。
「仕方ないよ、まだ一週間だし……何より、教えてくれるはずのマスターがアレだしね」
「はあ……」
笑ってくれたことに少しホッとしたのと、『アレ』と含みを持たせた言い方に私もつい苦笑いを浮かべてしまう。確かに……とカウンター奥の階段に目をやる。階段が続く二階は住居スペースになっているらしい。
このカフェのマスターである一瀬さんはそこで暮らしていて開店の十分程前に降りてくる。
「教えるとかほんと向いてないよな、あの人」
「いえ……そんなことは。私が気が利かないだけで」
一応、マスターの顔を立ててそう言ったけど、零れる苦笑いは隠せない。確かに、あの人は教えるつもりがないのか、もしくは「見て覚えろ」とスパルタ系の人なのかと思ってしまうほど、バイト初日からほったらかしだった。
見兼ねた片山さんが厨房から出てきて指示を出してくれるまで、私はおろおろとマスターから数歩離れた距離を保ってついて回るだけだった。
『わかんないこととか、何したらいいか、とか、ちゃんと口に出して聞けばいいよ。男ばっかで聞きづらいかもしれないけど』
片山さんがそう私に声を掛けてくれて、そのことで漸く気付いてくれたらしい。
『じゃあ、伸也君。三森さんに仕事を教えてあげてください』
きっとその瞬間まで、『教える』という事項はマスターの頭の中になかったんだと思う。
「じゃあ、って。バイト初日の子が居たら普通、何からしてもらおうかくらい考えとくもんだよな」
「あはは。研修資料とか指導カリキュラムとか、そういうのはないんでしょうか?」
「ないない。そんなんあったら前のバイトの子も辞めてない」
初日のことを思い出して二人で含み笑いをしていると、階段から足音が聞こえて二人同時に肩を竦めた。
「おはようございます、伸也君、三森さん」
「おはようございます、マスター」
白いシャツの男性が階段を降りてくるのが見えて、私はぺこりと九十度のお辞儀をする。比べて、片山さんは「っす」とか語尾だけが聞こえた挨拶にもならない音を発しただけでするりと厨房に入っていった。
マスターと二人取り残されて、一瞬の沈黙に私は忙しなく思考回路を働かせる。なぜだか彼は私の方をじっと見下ろしていて、それが余計に私を焦らせていると、わかってはいただけないのだろうか。
「えーっと」
バイトを始めて一週間、できることは少なくても、開店前の流れくらいは掴んでいる。入口周辺の掃き掃除はしたし、後は。
「あ! テーブルチェック、してきます!」
「はい、よろしくお願いします」
ダスターを掴んでもう一度お辞儀をすると、私はテーブル席の方へと、逃げた。片山さんは優しいし話しやすいのだけど、マスターは少し、怖い。別に怒られたわけでもないのだけど……無表情なことが多くて感情が見えないから。
テーブル席をダスターで拭いて、シュガーポットの中身と紙ナプキンを確認する。少なければ、後で補充するためテーブル席を覚えておく。といってもそれほどたくさんテーブルがあるわけじゃないから、簡単だけど。
全テーブルを回って腕時計を見ると、ちょうど開店時刻の九時を指していた。私はカウンターに視線を向ける。
「マスター、お店開けていいですか?」
「はい、お願いします」
客席に面したカウンターがあり、マスターはその中でカップを一つ一つ湯を張った平たい鍋に浸している。更に内側には厨房と対面しているカウンターがあり、そこからひょっこりと片山さんも顔を出した。
「慌てて開けても、客なんてそうそう来ないけどねー」
「ちょっ、そんな」
「無駄口叩いてないで、早く仕込みしてくださいね」
「へーい」
揶揄するような口調の片山さんに、マスターは慣れているのか淡々と言い返す。たった一週間だけど、二人のそんな空気に最初は戸惑ったけれどもう慣れた。
マスターはノンフレームの眼鏡をかけた、涼やかな目元が印象的な美人さん。片山さんはモデルさんみたいに整った顔立ちだけど雰囲気が兎に角チャラい。けど、多分、案外気遣い屋さんで優しい。
そして、まったく見栄えもしない私。このカフェの従業員は、この三人だけだ。
―――あの二人が、カウンター内で揃って立ってれば十分客寄せになりそうなのになあ。
そんなことを思いながら、店の入り口を開け表のプレートを『close』から『open』にひっくり返す。
憧れた、あんなに華やかに見えた『flowerparc』(フラワーパルク)はすっかり寂れたお店になっていた。
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