第1章 2

 まるで、薄い透明な膜か何かで自分が覆われていて、それでもって周りからは全然感知されていなくて、ほかの人たちのことをただ傍観しているような、そんな錯覚が時々起こる。たとえば今とか。それがなんで起こるのかというのは、いまだによく分かっていないけれど、この放課後という時間が、その原因なんじゃないかと勝手に思っている。放課後は一人一人の別々な人生が交錯する時間だと思う。

 当番制の掃除をしている者、教室に数人で固まって駄弁っている者、先生に勉強を聞きに行く者、部活に向かうために早々と勉強道具を仕舞って教室を出ていく者……エトセトラ。

 放課後、特に何の部活にも所属していないわたしは、がやがやと騒がしいノイズが飛び交う教室で暇を持て余すのも趣味じゃないので、おもむろに教科書やノートの類をカバンにしまい、そそくさと帰宅の準備をし、乱暴に鞄を掴んだ。

 学校を出ると、小雨が降っていた。気にしなければなんともない程度の雨。でも念のため天気予報を確認してみることにする。校門を出てすぐに立ち止まったわたしは、右手でポケットをまさぐり、スマホを取り出す。スマホを触っているのを先生に見つかると面倒なので、すっと柱の陰に隠れる。そうして調べごとも約二十秒。私の手中にあるスマホのディスプレイには降水確率七十パーセントという数字が記されている。七十パーセントと言われるとなんだかこれから雨が強くなりそうな気がする。いやまあ小雨だろうが、既に降っている時点でこの時間の降水確率は百パーセントに間違いないのだが。わたしはスマホを鞄に仕舞うと、一度教室に戻る。

 教室の入口、その脇に傘立てがある。わたしが普段、万が一に備えて行なっている置き傘だ。コンビニで売っている普通のビニール傘。ただ、間違われたり盗まれたりということもあるので、把手の部分に輪ゴムを巻きつけてある。そいつを手に取ると、再び学校の外へ出る。ビニール傘をさして歩き出す。

 しとしと、と言うにはもっと大粒である必要があるけれど、雨の量自体は決して少ないわけではない。雨粒が小さいので、まるで霧みたいに見えるだけだ。滝なんていうのを生で見たことはないが、滝壺の周辺は、きっとこんな感じなんではないかというくらいに細かい雨粒。わたしと同級生くらいの男子なら、「マイナスイオンだー!」とか言って叫びだしそうである。

 そんなくだらないことを考えながら帰宅の途につく。わたしは霧のような小雨の中、とくに何にも邪魔されることなく、スムーズに駅へと行き着き、定期券を使って改札を通る。ルルルルルルルル、と電車のシンプルな発車ベルが鳴り響く。ここからなら、走れば間に合うかもしれない。わたしは濡れそぼったビニール傘をなおざりに引っ提げたまま、セーラー服が乱れるのも気にせず電車の扉に駆け込んだ。


 自宅の最寄駅で降りて、改札から東口のロータリーを覗くと、さっきとは全く違う雨の様相を呈していた。いや全く、というのは少し違うかもしれないけれど。雨量はそのままで、雨粒の大きさだけを大きくした感じ。たったそれだけの違いなのに、五感で感じるこの感覚はまるで別物だった。略して「感感感は別物」みたいな。……なにを言っているんだろう、わたしは。つまらない。

 電車の中ではしっかりとまとめていたビニール傘を開いて外に出る。傘を打つ雨音が激しい。車軸を流すような、なんていう形容はこんな時にこそ使うに違いない。そんな激しい雨音を聞くともなく聞きながら、私はただ、一方通行という名のとおり狭い路地の路側帯を別段なにがしかの感慨を持つこともなく、地面に跳ね返った水に、ソックスの踝よりももっと上の方にある校章の刺繍を濡らしながら歩いていた。傘から垂れた涓滴が右肩から提げている紺色のスクールバッグを濡らし、その紙魚がじわじわと広がっていく。

 今日、国語の授業中に先生が紹介していた文章を思い出す。野矢茂樹さんという哲学者の書いた、『哲学の謎』という文章だ。


「生物が絶滅しても夕焼けは赤いか。

地球上からいっさいの生物が絶滅したとするね。

――いきなり、何さ。

その時、それでも夕焼けはなお赤いだろうか。

――何か不気味な色に変わるとでも?

いや、見る者がいなくとも夕焼けは色を持つか、ということ。

――もちろん、何か色を持つだろうね。例えば、核戦争の後、見られることもなく西の空が奇妙な色に染まるとか。だけど、突然どうして?

漠然とした言い方で申し訳ないけど、例えば見ることと見られた対象ないし世界ということで、どうもなんだか釈然としない気分がある。今、西日に照らされた雲を見ていて、以前少し考えていたことを君と考えてみたくなったんだ。君は見る者がいなくとも夕焼けは何か色を持つだろうと言ったね、でも、私は持たないと思う。

――どうして。

もし、青と黄の系統しか感知しない生物だけが生き残ったらどうなる?

――そうしたら、なんだ、何色になるんだ?暗い緑に染まるのかな。

その時、夕焼けの色は暗い緑だ、と。

――そうなるね。

その生物も死滅したら?

――そうなったら……。そうか。その時、夕焼けの色も「死滅」しちゃうか。もう夕焼けは何色でもなくなる。

色は対象そのものの性質ではなく、むしろ、対象とそれを見る者との合作とも言うべきではないか。それゆえ、見る者がいなくなったならば、物は色を失う。世界は本来、無色なのであり、色とは自分の視野に現れる性質にほかならない。そう思わないか?」

 

 確かに不思議な話ではある。しかし、まだまだ中学生のわたしにとって、その話はなかなか実感の湧かない机上の空論にしか思えなかった。

 一陣の風に煽られ、傘が持っていかれる。刹那の間に傘が変形し、原形を留めなくなった。風上に向けていれば、そうなることはなかったのかもしれないけれど、つい油断すると傘が傘としての機能を果たさない状態になってしまうこともよくある。そして、今、わたしの手に握られている傘はもう修復不能に違いない。わたしはただボーッとしながら、風の赴くままに握っていた傘を手放す。それは、ビルとビルの間に飛んでゆき、壁面の突起物に引っかかった。

 雨風をしのげるものが無くなったわたしは、吹き荒ぶ大雨に目を細めながら、立ち向かうことになった。ついさっきまではちょっと歩きにくくて濡れるのは嫌だな乾かすの面倒だな程度にしか思っていなかったが、雨除けがないだけで、唐突に戦へ駆り出されたかというくらい険しい道のりになった。わたしは気付く。

 傘は偉大だ。

 それはさておき、そんなふうに濡れるのは存外不快でもない。何かに蹂躙されたり、弄ばれたりっていうのは、むしろわたしにとって心地いい。海水浴なんかに行っても、できるだけ沖合に行って、何もせずにプカプカ浮かびながら、ただ流れに身を任せているのが好きなくらい。わたしのする死の妄想も、これと同じ種類のものだ。まだ中学生なので、もちろん酒なんて飲んだことはないけれど、酔う、というのはこれに似た感じなのかな、なんて思ったりする。こういう、ボーっとするようなうっとりするような感覚。陶酔、といえば一番近いかしらん。

 ずぶ濡れになりながら家に帰り着くと、そこでやっと思考が冷静になる。玄関をくぐり、返事のこないのを知っていながら、蚊の鳴くようなか細い声で、「ただいま」といった。我が家は母子家庭で二人暮らしだ。父親は生まれてから今まで、その姿を見たことがない。母親はまだ仕事から帰ってくる時間ではない。

 わたしは自身の体を見下ろす。嫌というくらいに肌に張り付いたセーラー服は、体のラインやら下着の形やらがはっきりとわかるくらいに透けていて、すれ違う人が少なくてよかったと思った。玄関で靴と靴下を脱いだあと、そのままセーラー服とスカートも脱ぎ、下着一枚になり、それまで身につけていたものは、全部まとめて洗濯機に入れた。

 わたしは自分の部屋に入ると、下着姿のままでカバンからスマホを取り出す。LINEの通知が一通来ていた。恋人からだ。五歳ほど年上の。

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